参政権とジェンダー

掲載:2023-09-15 執筆:姫岡とし子

18世紀ドイツ

テオドール・ゴットリープ・フォン・ヒッペル(1741~96年)
(出典)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Theodor_Gottlieb_von_Hippel_d._%C3%84..JPG

『女性の市民的改善について』(1792年)

フルテキストがデジタル化されている。

https://www.deutschestextarchiv.de/book/show/hippel_weiber_1792

女性参政権運動(アメリカ)

アメリカ国務省「女性実力者の系譜」(日本語訳あり) https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3291/

女性参政権運動(イギリス)

ジョン・スチュアート・ミル(1806~73年)とハリエット・テイラー・ミル(1807~58年)

ジョン・スチュアート・ミル(1806~73年)

ジョンは1831年にハリエットと出会う。1833年、ハリエットは末娘のヘレン(1831~ 1907年)を連れて夫と別居し、週末にミルが彼女を訪問するライフスタイルをとった。ハリエットの夫の死後、1851年にミルとジョンは結婚した。

ハリエット・テイラー(1807~58年)

ハリエットは、18歳の時、最初の夫と結婚し、3人の子を得た。1831年、女性の権利に関心を持っていた妻ハリエットのために、夫がジョン・S・ミルを自宅に招き、二人は出会う。この頃から、ハリエットは女性の権利に関する文章を書き始め、1833年には3人目の子(娘のヘレン・テイラー)を連れて家を出て、夫と別居した。ハリエットは、ミルの著作のすべてに目を通し、意見を言ったという。ハリエット自身の名で公表された著作は少ないが、ハリエットの死後、ミルが彼女の著作をまとめた。ヘレン・テイラー(1831~1907年)は、母の死後、ミルを支え、フェミニストとして活躍した。

 

ミル『女性の解放』(ハリエット・テイラーに強く影響を受けた)(出典)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Subjection_of_Women.jpg
ミルと養女ヘレン・テイラー
J/・S・ミルと養女のヘレン・テイラー(ハリエットの娘)
(出典)https://en.wikipedia.org/wiki/File:J_S_Mill_and_H_Taylor.jpg
ミル『女性の解放』
女性の解放 (岩波文庫 白 116-7) 文庫 – 1957/3/25

J.S.ミル (著), 大内 兵衛 (翻訳), 大内 節子 (翻訳)
ミル「女性の解放」を読む (岩波セミナーブックス 9) 単行本 – 1984/8/9

水田 珠枝 (著)
女性解放思想の歩み (岩波新書) 新書 – 1973/9/20

水田 珠枝 (著)

サフラジェット

女性参政権運動家は、一般に「サフラジスト」(Suffragist)と呼ぶが、「サフラジェット」(suffragette)は、とくにパンクハースト母娘(エメリンとクリスタベル)に率いられた「女性政治社会連合」(Women's Social and Political Union= WSPU)の活動家を指す。WSPUのメンバーは、かなり攻撃的で過激な抗議運動を展開したため、長く評価は低かったが、。今は、当時も長く使った。パンクハースト母娘は、かなり過激な抵抗運動を展開し、収監されるとハンガー・ストライキなどを行った。

サフラジェットの一人であるエミリー・W・デイヴィソン(1872~1913年)は、1913年6月4日のエプソムダービーでジョージ5世の馬であるアンマーの前に飛び出て重傷を負い、4日後に亡くなった。葬儀は1913年6月14日に女性政治社会連合)によって行われた。数千人のサフラジェットがに付き添い、数万人がロンドンの通りに並んだという。

1913年4月、「健康悪化による囚人の一時釈放法」(Prisoners (Temporary Discharge for Ill Health) Act 1913)、いわゆる「猫とネズミ法」(Cat and Mouse Act)を通過させた。この法によりサフラジェットは健康状態が悪化すると一時的に釈放され、健康が回復すると刑期終了まで収監されることになった。

第一次世界大戦が始まった結果、サフラジェット運動は女性参政権運動からいったん離れ、戦争協力に力を注ぐようになった。エメリン・パンクハーストが全ての戦闘的な女性参政権運動を終了させた直後の1914年8月、イギリス政府は女性参政権運動で収監されていた全囚人に恩赦を言い渡した。サフラジェットが戦争協力の姿勢をとったため、世論は1918年の部分的な女性参政権導入に好意的になったが、サフラジェットの運動は分裂した。エメリンの次女シルビアは戦争協力を否定して、WSPUを脱退した。

アニー・ケネディとリスタベル・パンクハースト
(出典)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Annie_Kenney_and_Christabel_Pankhurst.jpg
1914年のWSPUのポスター「猫とねずみ法」を批判している
(出典)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Cat_and_Mouse_Act_Poster_-_1914.jpg

パンクハースト母娘

エメリン・パンクハースト(1858~1928年)は、イギリスの代表的な女性参政権運動家で、1903年に「女性政治社会連合」を設立した。

クリスタベル・パンクハースト(1880~1958年)は、「女性政治社会連合」の中心的人物のひとりとして活躍し、過激な行動を行った。

シルビア・パンクハースト(1882~1960年)は、母や姉と対立し、「女性政治社会連合」が第一次大戦を支持することを批判した。1914年にシルビアは「女性政治社会連合」を脱退した。

エメリン・パンクハースト
(出典)https://en.wikipedia.org/wiki/File:Emmeline_Pankhurst,seated(1913).jpg
エメリン・パンクハーストは、バッキンガム宮殿の外で国王ジョージ5世に請願しようとして逮捕された(1914年)
(出典)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mrs_Emmeline_Pankhurst,_Leader_of_the_Women%27s_Suffragette_movement,_is_arrested_outside_Buckingham_Palace_while_trying_to_present_a_petition_to_King_George_V_in_May_1914._Q81486.jpg
パンクハースト母娘:エメリン(左)と長女クリスタベル(中央)と次女シルビア(右)(1911年)
(出典)https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Britain_Before_the_First_World_War_Q81490.jpg

参考文献

アメリカ・ジェンダー史研究入門 単行本 – 2010/3/1

有賀 夏紀 (編集), 小桧山 ルイ (編集)
イギリス女性参政権運動とプロパガンダ: エドワード朝の視覚的表象と女性像 単行本 – 2017/1/30

佐藤 繭香 (著)

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