目次
【特集8】中国の女性参政権運動・儒教的家族道徳批判(中国女性の100年②)
掲載:2016-03-25 出典:『中国女性の100年』第2章
Ⅱ 臨時約法・褒揚(ほうよう)条例―「二級国民」として
[1]「中華民国臨時約法」[抜粋](1912年3月11日公布)
第1章 総綱
第1条 中華民国は、中華人民がこれを組織す。
第2条 中華民国の主権は、国民全体に属す。
第2章 人民
第5条 中華民国人民は、一律平等、種族・階級・宗教の区別なし。
第6条 人民は左列各項の自由権を有す。
(三)人民は財産を保有し営業する自由を有す。
(四)人民は言論・著作・刊行および集会・結社の自由を有す。
(六)人民は居住移転の自由を有す。
(七)人民は信教の自由を有す。
第12条 人民は選挙および被選挙の権を有す。
(「中華民国臨時約法」沈雲龍主・郭衛編「中華民国憲法史料」文海出版社、1973年)
[2]「中華民国憲法」(抜粋)(1947年1月1日公布)
第1章 総綱
第1条 中華民国は三民主義にもとづき、民有・民治・民享の民主共和国である。
第2章 人民の権利義務
第7条 中華民国人民は、男女・宗教・種族・階級・党派の分なく、法律上一律平等である。
(「中華民国憲法」中華民国法律彙編審訂委員会編「中華民国法律彙編」立法院秘書処、1988年)
[3]「褒揚条例」[抜粋](1914年3月11日公布)
第1条 左列の良きおこないの一を有する者は本条例の褒揚を受けることを得。
- 孝行卓絶し著しく郷里に名高い者 2.婦女の節烈貞操以て世を風すべき者
3.特に著しい義行により称揚すべき者 4.年老いて徳高く郷里の誇りたる者
[「褒揚条例」「政府広報」第662号]
[4]「修正褒揚条例」(抜粋)(1917年11月20日公布)
第1条 左列各款(かん)の一に適合する者は内務部より呈請しこれを褒揚す。
- 孝行純篤 2.特に著しき義行 5.碩(せき)徳淑行 7.節烈婦女
[「修正褒揚条例」「政府広報」第664号]
[5]「修正褒揚条例施行細則」(抜粋)(1917年12月13日公布)
第1条 修正褒揚条例第1条第2款に称するところはおよそ兄弟に友(ゆう)、義父、義僕、その他義烈の事項皆これに属す。
第2条 前条に称するところの義父は年30以下ですでに子嗣(しし)[あとつぎの男子]を有し、妻の死亡後も再婚納妾せず、60歳以上に至るものを以て限となす。
第5条 修正褒揚条例第1条第5款に称するところはおよそ学識深き老人、良妻賢母の良きおこないが郷里の誇りたるもの皆之に属す。
第7条 修正褒揚条例第1条第7款に称するところの節婦は年30以下で守節し50歳以上に至る者を以て限となす。もし歳50歳未満で死亡した場合、守節満10年のものを以て限となす。
第8条 前条の規定はおよそ女子の未だ嫁さずして夫死し、みずから願って守節する者に之を適用することを得。
第9条 修正褒揚条例第1条第7款に称するところの烈婦烈女は、およそ強暴に遇うも従わずして死に到り、あるいは羞憤(しゅうふん)して自尽した者および夫死亡し殉節した者之に属す。賊軍に遭遇して殉節した者も同じ。
([修正褒揚条例施行細則](政府広報)第690号)
解 説
1912年3月11日に公布された中華民国臨時約法は、主権在民と人民の諸権利の一律平等を高らかにうたい、帝制から共和制への転換を内外に示した。しかし、現実には国政参加から女性を排除して、女性が中華民国の「人民」でなく、「主権者」でもないことが暴露された。
ところでそれより少し早い2月12日、数千年に及ぶ帝制に幕をおろした宣統帝の諭旨(ゆし)が出されたが、女性の政治参加の面で新旧両体制には奇妙な対照がみられる。論旨で幼帝は、自分は隆裕(りゅうゆう)皇太后(先帝光緒帝の正妻)の次のような命令に謹んで従うので、文武官僚以下みなこれを心得よと述べている。そして皇太后の命令文はいう。すでに人心は共和に傾いており、私は古えの聖王の教えにそい、一姓(皇太后自身の姓でなく、皇帝の愛(あい)新覚(しんかく)羅(ら)姓)の尊栄へのこだわりを捨てて、皇帝を率いて統治権を公けのものとし、共和立憲国体とする。そして袁世凱に臨時共和政府を組織させる、と。もちろん皇太后が実際に力をもっていたわけではない。しかし、伝統的家父長制における正妻と母に特有の、子女に対する教導権や後嗣(こうし)決定権によって、隆裕皇太后はこの重大な政策決定をすべき唯一の人とされたのである。
退位の詔(みことのり)はまた袁世凱に禅譲(ぜんじょう)シナリオを提供した。革命勢力を武力で一掃した後、袁世凱はこれを利用して帝制を復活させ、みずから皇帝になろうと謀る。その際、王朝体制の三綱秩序のうち、「君は臣の綱」を再建する前に、まず「父は子の綱」、「夫は妻の綱」と儒教イデオロギーを補強しようとした。王朝下で至徳者たる皇帝がおこなった表彰制度にならって、「褒揚条例」を公布し、表彰条件のトップには「孝行卓絶」を、次に「節烈貞操」をあげている。さらに孔子祭礼を挙行し、家族や性別に関する法律を後退させたうえで、1915年12月帝位につくことを「受諾」した。しかし、共和制擁護の軍が興って16年3月、帝制は取り消され、6月には袁世凱が死没した。
共和再建が進められるなかで、1917年7月軍閥張(ちょう)勲(くん)が、今度は廃帝溥儀(ふぎ)の復位を謀る。これを阻止し共和擁護の立役者となった国務総理段祺瑞(だんきずい)もまた11月「修正褒揚条例」を公布する。袁世凱時期のものと比べると「節烈婦女」をやや後退させ、良妻賢母を含意する「碩徳淑行」を前面に出している。施行細則には「義夫」について女性の貞節に相当する説明をつけるなど、考慮の跡が見られる。ただし夫の「義」はあくまでも「孝」に反してはならず、「(男の)子無きは最大の不孝」であり、その場合再婚はもとより、納妾もまた徳行にほかならない。こうした一連の政治過程は、知識人、特に男性知識人にジェンダーの政治的役割を認識させ、新文化運動の家族制度改革、女性解放論、性道徳をめぐる議論が展開された。新文化運動の女性解放論を継承した国民革命を経て、1931年7月国民政府が公布した褒揚条例は、節烈や良妻賢母など女性特有の条件を一切やめ、徳行が特に優れている者、公益に熱心である者、とだけされた。
中華民国憲法は、さまざまな政治勢力によって提示されたが、ようやく1947年の国共内戦期に至って、国民政府により公布され、三民主義に基づく民有・民治・民享の民主共和国であり、男女の別なく法律上一律平等と明記された。
(訳・解説 末次玲子)
参考文献
小野和子『五四時期家族論の背景―刑法典論争』同朋舎、京都大学人文科学研究所共同研究報告(五四運動の研究)第五函15、一九九二年
末次玲子「中国女性史上の民国前期―政治と女性史との関係を中心に」『中国女性史研究』第9号、1999年
末次玲子『近代中国のジェンダー変容(仮題)』(共通文献11)
Ⅲ 参政権運動―第1波フェミニズムに呼応して
「女性参政同盟会、参政権を争う」(執筆者不明、1912年3月23日)
19日午前8時、女子20人あまりが皆で参議院に赴き、参政権を要求し、係員が傍聴席に引き入れようとしたが聞かず、こともあろうに議事堂に入り、諸議員に混ざって座りこんだ。女子参政権が提議されると、大声で叫び(中略)議論を始められないありさまであった。(中略)参議員が言うには、本院はこの件について、もともと絶対に不賛成という意思はなく、国会成立を待って、これらの問題を解決しようとしたにすぎない。しかし今このような挙動を見ると、女子の水準の整っていないことがはっきりしたため、ここに全体一致で反対を決定する、と。このとき、出席していたもう一人の議員が、欧米の話を次々と述べ、文明国の女子には決してこのような不法行為はないと言ったため、女子たちはようやくそれぞれ無言で立ち去った。
ある書簡によると、19日、南京参政同盟会の唐群英女士ら30余人が、武装した状態で参議院に入り、女子参政権を要求して、勢い激しく敵に抗した。参議員の数十人は周章狼狽した。まもなく、現在の約法案は暫定的なものであり、政府が完全なものに整理してから、当局があらためてこれを議論すると告げ、手を尽くしてなだめたため、女子たちはようやく脅しをやめて立ち去った。
20日午後、唐群英ら女子たちがまた参議院に赴いたが、参議院は入れようとしなかった。唐女士たちはついにガラス窓を打ち破り、手を血に染め、警備兵が阻止しようとすると、女士たちはそれを足で蹴り倒した。
21日朝9時、女子同盟会の唐群英は再び女性同志たちとともに参議院に赴いた。参議院はすでに衛兵を配備しており、力ずくで入場を阻止した。唐女士らはみずから総統府に赴いて孫文総統に謁見し、参議院が兵を配備して阻止したことをつぶさに訴え、参議院が兵を使って防衛させるなら、女性同志たちもまた兵を派遣して自分たちの入場を保護するよう求めると言った。また、孫総統が議院に出席して本件を提議するよう強く要請した。孫総統は代わって参議院に調停することを承諾し、(中略)参議院は女子同盟会が再び文書で上申したのち、約法を提議することを了承した。
[「女子参政同盟会力争参政権」『時報』1912年3月23日。『中国婦女運動歴史資料 1840~1918』(共通文献31)]
解 説
1912年中華民国の成立に前後して、女性参政権を要求する運動が開始された。清末以来、纏足解放や女子教育というかたちでおこなわれてきた女性解放運動が、このときには参政権要求という一点に集約されたのである。女性たちは、女子参政同志会(上海)、女子同盟会(日本で呼びかけ、南京に移転)、女国民会(湖南)、女子後援会(上海)、女子尚武会などの団体を各地で結成した。11年11月には、この5つの団体が連合して女子参政同盟会(南京)を結成し、積極的な運動を開始した。
南京臨時参議院において、臨時約法(暫定憲法)の制定が審議されることになると、彼女たちは条文内に、男女は一律平等であり、等しく選挙権ならびに被選挙権を持つことを明記するよう要求した。孫文は、こうした請願運動に理解を示し、女性がこれまで北伐軍に加わったりあるいは赤十字会で活躍したりしたことから、「女子が将来参政権を有することは必至である」と述べている。(「女界参政之要求・附大総統履書」『民立報』1912年3月4日)。
しかし、実際には、女性参政権に対しては反対意見の方が多かった。たとえば、『民立報』には、空海という署名で強硬な反対論が展開されている。空海は、反対する理由として以下の三つを挙げている。第一に、女子は先天的に男子に劣っているのであり、知識は男子におよばない。第二に、なぜ有史以来千百年あまり、東洋でも西洋でも、女子は政権を執れなかったのか。女子の特性が劣っていたからではないのか。第三に、10人の女子のうち8,9人は家庭生活をしたとしても、残る一人が政治に身を投じれば、一つの家族の生活が維持できなくなる。ましてや、全国の女性が政治活動に身を投じたらどうなるであろうか、というのが彼の主張であった(「履楊季威女士函」『民立報』1912年3月5日)。彼のあげた三点は、当時の反対論者の論拠を端的に示しているといえるだろう。女性の政治参加はその本分に反しているばかりか国家に不利益である、と強調している点で説得力をもち、女性参政権主張者がその論拠とした天賦(てんぶ)人権や女性の革命への貢献以上に、当時の人々の理解を得やすいものであったと考えられる。
このような反対意見を背景に、1912年3月11日に公布された「中華民国臨時約法」には男女平等の規定は盛りこまれなかった。第5条には「中華民国人民は一律平等にして、種族、階級、宗教の区別なし」とあるのみで、男女の別を問わないことを明記してはいなかった。そこで、業を煮やした唐群英らが、3月19日、南京参議院の女性参政権についての審議中に押しかけて力ずくで要求を主張しようとした。このことについて報道したのが、史料である。彼女たちの、ガラスを打ち破り、衛兵を足蹴にするなどの過激な行動は、纏足によって行動すら不便であった伝統的女性像とはまさに正反対のものである。
史料のなかで、男性議員が文明国の女性にこのような野蛮な行為はないと述べて非難しているが、しかし、実際はそうではなかった。イギリスの婦人運動において、バンカーストの指導する婦人社会政治同盟がこの年の三月初めに大規模な窓ガラスの打ち壊しをおこなっており、唐群英らの過激な行動も、「文明国の女性」を模倣したものと考えられる。しかしながら、彼女たちの努力もむなしく、女性参政権要求運動は結局成功しなかった。国民党の綱領からは、男女平等は民生主義とともに降ろされたのみならず、袁世凱(えんせいがい)の独裁体制強化に伴い、議会自体が有名無実化してしまったのである。
ただし、これに先立って広東省では数カ月の短命的なものであったが、一時的にしろ女性参政権が認められた。1911年末に制定された「広東臨時省会簡章」では、省代議士の資格は、年齢21歳以上、広東に本籍があるか、もしくは中国人で5年以上広東に居住している者という規定のみで、性別による差別はなかった。さらに、代議士の人数は、各界ごとに割り当て、それぞれ代議士を選出するという方式で決定された。総勢165名のうち、女性には10名が割り当てられた。このとき荘漢(そうかん)𧄍(ぎょう)、李佩(りはい)蘭(らん)、張源(ちょうげん)などが各婦人団体の互選によって選出され、中国で初めての女性議員が誕生した。また、広東省の「臨時約法」でも、第8章第47条において「本約法に称する人民は、男女を含む」と明記、男女平等ははっきりと成文化された。当時、世界的に見ても広東省におけるこの事態はきわめて先進的なものであった。
しかしながら、中央において女性参政権が否定されたために、広東省が一度は認めた女性参政権も、中央にあわせて取り消されてしまった。唐群英らは、その後もさらに女性参政権要求運動を継続していくこととなる。中国の女性すべてが男性と同等の参政権を獲得するには、1949年まで待たなくてはならない。 (訳・解説 須藤瑞代)
参考文献
『中国女性史』(共通文献5)
小野和子「辛亥革命時期の婦人運動―女子軍と婦人参政権」
小野川秀美・島田虔次編『辛亥革命の研究』筑摩書房、1978年
『中国女性運動史 1919~49』(共通文献15)
『中国婦女運動 1840~1921』(共通文献47)
Ⅴ 儒教道徳批判―「家」からの脱出
[1]「女性問題の根本的な解決」(高素素、1917年5月1日)
わたしはかつて、人とは、神と物の間に介在するものだといった。エレン・ケイ女士の『恋愛中心の結婚論』のような高尚な理想を実現し、一般に普及することはおそらくできないだろう。しかし、恋愛が結婚の第一要素であることは疑う余地がない。今の世の中を見渡すと、いわゆる結婚というものはみな、金銭・肉欲と結びつき、卑しくいい加減で、神の愛など微塵も反映されないものである。女性はただ男性の犠牲となり、ひいては、男女とも家族主義の犠牲となる。それゆえ、これらの人々がつくる家庭は活気のない、精力のない、操り人形の舞台となる。互いにとがめあい、だましあい、まるで悪魔の地獄のようである。幸福の2文字は夢にも現れてこない。[中略]
総じていえば、女性問題の解決には、二つの前衛がある。一つは儒教の打倒であり、もう一つは習俗の打倒である。二つの中堅がある。一つは女性の人格の確立であり、もう一つは家族主義の桎梏(しっこく)からの離脱である。二つの後衛がある。一つは女性の職業範囲の拡充であり、もう一つは社会における公人としての女性の地位向上である。
(「女子問題之大解決」『新青年』第3巻第3号)
[2]「趙(五貞)女士の自殺に関する批評」(毛沢東、1919年11月16日)
社会における一つの事件の発生を小さくみてはならない。事件の背後には、幾重にも重なりあう原因がある。たとえば、「人の死」という事件の場合は、二つの解釈がある。ひとつは生理的・物理的なもので、「年をとり寿命が尽きる」はこの類に属する。いま一つは反生理的・反物理的なもので、「夭折(ようせつ)」「横死(おうし)」はこの類に属する。趙女士の死は自殺であり、横死であり、後者に属する。
一人の死は完全に環境によって決定される。趙(五貞)女士の本意は死を求めていただろうか?いや、彼女は生を求めていた。しかし趙女士は結局死を求めた。これは環境に追い詰められた結果である。趙女士の環境とは、(一)中国社会、(二)長沙南陽街にある趙の一家、(三)彼女の嫁ぎたくない婚家、すなわち長沙柑子園にある呉の一家である。これらは三つの鉄の網であり、三角形の装置である。趙女士はこの三角形の鉄の網の中で、いくら生を求めようとしても、生の道はなかった。生の反対は死である。そこで、趙女士は死んだ。
もしこの三つの環境の中で、一つが鉄の網でなかったら、あるいは鉄の網でも開くことができれば、趙女士は決して死に至らなかった。(一)もし趙女士の両親が強制的ではなく、趙女士の自由意思に任せていたら、趙女士は決して死ななかった。(三)父母および婚家が彼女の自由意思を容れないとしても、もし社会に彼女を応援する強い世論があって、家出したあと生きる手段を提供し、彼女の家出を名誉でこそあれ不名誉なことではないと認めていたら、趙女士は決して死ななかった。いま趙女士は本当に死んだ。これは三つの鉄の網(社会、実家、婚家)の重なる包囲の結果、生を求めることができず、死を求めるに至ったのである。[中略]
昨日の事件はとても大きな事件である。この事件の背後には婚姻制度の腐敗、社会制度の暗黒、自立した意志がもてない状況、恋愛が自由にできない状況がある。
(「対於趙女士自殺的批評」『大公報』(長沙)1919年11月16日)
解説
新文化運動期(広く1915年から25年までの時期をさす)には、『新青年』という雑誌の周辺に集まった人々が『民主』『科学』という外来思想をもって、中国の伝統思想や習俗のよってたつ儒教を批判し、その矛先を封建的専制制度に向けた。呉(ご)虞(ぐ)の有名な「家族制度は専制主義の根拠であることを諭す」(『新青年』第2巻第6号)は、その題からもわかるように、「孝」を中核とする家族制度を批判し、封建的専制主義を打ち倒すには、まずこの家族制度を倒さなければならない、と説いた。新青年たちにとって、旧礼教・旧道徳の害悪は主に三つの側面にある。すなわち一報がもう一方を抑圧する片面性、誰でも実行できるわけではないという虚偽性、人性、個性を束縛する抑圧性である。「包辦婚反対や自由恋愛などの婚姻問題はこの三つの側面とすべて絡んでいたため、五・四期に最も注目される問題の一つとなった。「包辦婚」とは、親や媒酌人によって決められる婚姻で、出征前にきめられることさえあった。
1916年5月、『新青年』(第2巻第1号)は「女子問題」をテーマとする論文募集要項を載せ、女性解放運動に関する女性自身からの発言を求めた。婚姻についていち早く論じた高素素の「女性問題の根本的な解決」は、この呼びかけに応じた論文の一つであった。高素素は「恋愛は婚姻の第一要素である」と明言し、旧来の愛のない金銭・肉欲と結び付いた婚姻を批判した。そして女性解放はまず儒教の打破という思想解放にあることを示唆した。自由恋愛は清末の革命運動の中ですでに提唱されていたが、「愛」というよりも清朝打倒を目的とした「志」が強調され、五・四期の主張とは違っていた。
『新青年』はこの後も、劉延陵の「自由恋愛」(第4巻第1号)、張崧(ちょうすう)年(ねん)の「男女問題」(第6巻第3号)、「討論 貞操問題―拼音(ぴんいん)文字問題―革新家態度問題」(第6巻第4号)などを掲載し、さらに貞操論争を引き起こし、当事者本人の感情などは無視した包辦婚を批判し、自由恋愛・自由結婚によって女性の独立自主の人格を回復させることを提唱した。
五・四の反包辦、恋愛の自由の主張に拍車をかけたのは、一連の自殺と家出事件であった。特に花嫁趙五(ちょうご)貞(てい)の自殺事件の影響が大きかった。1919年11月長沙の趙五貞は両親に結婚を強要され、抵抗の甲斐なく、花嫁かごに乗せられていく途中、かみそりで喉を切って自殺した。長沙「大公報」はこの件に関する二十数編の文章を掲載し、そのうち毛沢東が12日間連続して九つの文章を書いた。趙五貞をいち早く「旧婚姻制度の犠牲者」ととらえたのは天籟(てんらい)と、兼公であった(天籟「旧式婚姻之流毒」、兼公「改革婚制之犠牲者」『大公報』)が、それをさらに明確に指摘したのは毛沢東であった。「趙女士の自殺に関する批評」のなかで、彼は封建制度、社会習慣、家族などの要素から事件の原因を探った。長沙の周南女学校誌『女界鐘』は趙の死に関する特集号を出し、彼女の自殺は専制魔王への宣戦布告であり、人々を夢から覚まし、強制婚・売春婚に死刑を宣告したものであると説明した。
1920年春、ふたたび長沙で、李欣淑(りきんしゅく)という女性が親の決めた結婚に反抗して家出する事件が起こった。李欣淑は幼年時に婚約が取り決められたが、婚約者が病死すると、両親はふたたび金持ちの家に嫁がせようとした。自治女子学校に通い、新聞にもよく投稿していた李欣淑は、「私はここにおいて私個人の人格を尊重し、積極的に環境と戦い、明るい人生の大通りに向かって断固前進するつもりである」との声明を発表し、「北京へ働きながら学びに行く」ことにした。同じころ、著名な政治家易宋虁(いそうき)の娘である易(い)群仙(ぐんせん)も家から逃げ出し、北京工読互助団へ助けを求めた。
趙五貞の自殺を消極的抵抗とするなら、李欣淑、易群仙などの家出は反封建の積極的行動として受けとめられ、苦悶する青年たちはそこに希望を見出したのである。伝統的な家庭から飛び出すことは、個性解放を求めた知識人の典型的な行動となった。(訳・解説 姚毅)
参考文献
湖南省哲学社会科学研究所現代史研究室編『五四時期湖南人民革命闘争史料選編』湖南人民出版社、1979年
小野和子『五四時期家族論の背景―刑法典論争』同朋舎、京都大学人文科学研究所共同研究報告〈五四運動の研究〉第五函15、1992年
張競『近代中国と「恋愛」の発見』岩波書店、1995年
(参考)前近代中国の家族法については⇒*4-1.前近代中国の家族法
コラム◇ノラ
洋の東西を問わず、20世紀前半の女性解放にノラの名は必ずといってよいほど登場した。ノラはノルウェーの劇作家イプセンが書いた『人形の家』の女性主人公の名前で、人形のようにかわいく夫に従順であったが、一人の自覚した人間に成長して家を出る。日本では1911年に文芸協会が上演し、ノラ役の松井須磨子(すまこ)はこれで新劇の女優としての存在を確立した。中国においては18年6月に『新青年』が特集号を出してイプセンとその作品を紹介した。『人形の家』は「娜拉(のら)」(後に「玩偶之家」と改められる)と題されて、羅家倫と胡適の共訳で発表され、胡適はまた「イプセン主義」を書いて、家庭や社会が維新革命しなければならないことを主張した。
『人形の家』は、北京女子師範学校で上演され、自由に生きることを望んで旧い家庭から出るノラは新しい女性の象徴となった。五・四期の新文化運動に触発されて新しい時代を予感した女性たちは、実際に旧態依然とした家庭から出ていくようになった。魯迅(ろじん)はそのような風潮に対して、23年に北京女子師範学校で「ノラは家出したどうなったか」を講演した。さらに小説「傷逝(しょうせい)」を書いて、経済的に自立していない女性が直面する現実の社会の厳しさを示唆した。
五・四運動以降、しだいに高等教育や一部の職種が女性に対して門戸を開くようになり、35年元旦、南京でアマチュア劇団の磨風社が「娜拉(のら)」を上演して、好評を博した。しかしノラを演じた小学校の教員の王光珍は、頑迷な校長から解雇され、他の上演者たちも女性教員は解雇、女子学生は除籍などの処分を受けた。当時、すでに復古思潮や「女は家に帰れ」という風潮が強くなりはじめた時期であったため、ノラは再び女性の生き方を問う論争のテーマとなったのである、同年6月、上海の左翼系演劇人のグループ「業余劇人劇団」も章泯(しょうみん)演出による「娜拉(のら)」を上演した。ノラを演じて好評を博した女優藍頻(らんひん)は、のちの毛沢東夫人江青であった。(前山加奈子)
(注)一部の図版は、原本とは異なる。また、赤太字・青太字は、HP編集担当による。