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年表:核開発と核の「安全神話」―国際政治との関連から
更新:2016-03-04 掲載:2015.07.04 執筆・作成 富永智津子
【解説】
ここに収録するのは、「核開発と核の「安全神話」――国際政治との関連から」と名付けた年表である。ジェンダーの視点から歴史や社会を見ようとするとき、その理想とする展望は「非暴力」と「非戦」であると筆者は考えている。それは「平和」の大前提であり、その必要性を一番身近に感じてきたのは女性やマイノリティーである。その意味で、反核や反原発は、ジェンダーの歴史にとっても重要なテーマであるといえよう。その 個別具体的な歴史的事件や運動に関しては詳細な研究や証言が公刊されている。しかし、その全体像を通時的に眺めることができるような文献は、探してみたが見つからなかった。個別的な事例は、それに関連する歴史の中に位置づけることによってその意義を明確にできる。そのため の「資料」を作成できないものか。そう考えた時に思いついたのが、年表に語らせるという手法だった。
歴史資料の扱いは難しい。年表となれば、なおのこと切り捨てざるをえない事項は多い。何を拾い上げ、 何を捨てるかは、年表の作成者の采配に委ねられている。だから、作成した年表が、中立的な歴史を提示し ているとはいえない。作成した者の歴史認識や価値観が多分に反映されざるを得ない。ここでの作成者の立 場は、「反核」と「反原発」である。
東日本大震災による福島第一原発事故は、国策として推進されてきた「原発」の存廃をめぐる議論を巻き 起こした。この事故で、絶対安全な原発はないこと、放射性物質は人間の叡智をもってしても制御できない こと、そうした放射性物質が相当量にのぼって蓄積され、その廃棄物は最終処分場も確定されないまま増え 続けているということが明らかになったからである。同時に、何年も前からこうした危険性を指摘し続けて きた在野の研究者がいたこと、原発の受け入れをめぐって各地で差し止め訴訟をめぐる裁判がおこなわれて きたことにも、改めて光が当てられている。
一方で、潤沢な交付金で潤ってきた原発受け入れ地、その電力を何の疑念も持たずに使用してきた大方の 市民が「原子力はクリーンである」「原子力は安全である」「原子力は安い」、……といった原発推進派の 「安全神話」に絡めとられ、それを鵜呑みにしてきたことも確かである。われわれは「フクシマ」が起きる まで、いったい何をしていたのか。女川原発を抱え、近未来にほぼ確実に大地震が起きることが予測されて いた宮城県に居を構えている私も、この反省を共有している。
ここで明らかにすべき重要なことは、原子力産業を支えてきた「安全神話」が、アメリカが主導した国際的 アリーナでの核の危険性の隠蔽工作によって政治的に創りだされたことである。その中に、日本での事例も 位置づけておく必要がある。いったい、どのような歴史的経緯で創りだされた神話だったのか。その経緯を 明らかにしておくことは、歴史研究者としての責務ではないか。そう考えた私は、核や原発の「安全神話」 が核開発の過程でどのようにしてつくられたのか、その経緯を国際政治との関連で検証してみたいと思った。 以下、その経緯を公刊されている資料や文献から年表形式にまとめた。「安全神話」の生成過程は、将来、同じ事が繰り返されないためにも、さまざまな表現媒体によって、次世 代に残し、伝えてゆくべき歴史の断章だと思っている。なお、青字は日本における核開発のプロセスを、 赤字は「核の安全神話」~「核の危険性の隠ぺい工作」に関わる事項をそれぞれ示している。
【年表】
- 1895年 ドイツのウィルヘルム・レントゲン、電磁波の中の放射線を発見し、それを「X線」と命名。
- 1897年 フランスのアンリ・ベクレル、ウラン鉱石から放射線がでていることを発見し、それを放射 能と命名。ちなみに放射線量を示す「ベクレル」は、彼の名に因んで付けられた単位であり、人体への影響を示す「シーベルト」は、放射線防護の研究で功績のあったロルフ・マキシミ リアン シーベルトの名に因んで付けられている。
- 1898年 キュリー夫妻、ウラン鉱石からポロニウムとラジウムを分離、それらを放射性物質と命名。ポロニウムの語源は、夫妻の母国ポーランド。
- 1938年 オットー・ハーン(ドイツ人物理学者)とリーゼ・マイトナー(ドイツ人物理学者、のちス ウェーデンに亡命)原子核分裂を発見。
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1939年3月 レオ・シラード(ハンガリー出身のユダヤ系アメリカ人物理学者)のグループとエンリコ・ フェルミ(イタリア出身の物理学者、夫人がユダヤ人のためアメリカに亡命)のグループ、 コロンビア大学でそれぞれ別の装置を用いてウランの核分裂実験を行い、ともに複数の高速 な二次中性子が放出されることを確認。シラードは、「世界が災厄に向かってすすんでいる と考えざるを得なかった」と早くも核分裂を「災厄」と結びつけ、関係者の間では「ある種 の列強による重大な悪用の危険性」や、もし爆弾の製造が可能ということになれば「独裁国 家より一歩先んじていることが重要である」といったことが話合われた(『シラードの証言』 みすず書房、1982:73,95)。
- 1939年8月 シラードの要請を受けて、アルベルト・アインシュタイン、原爆開発を促す書簡をルーズベルト大統領に送付。大統領からは、10月に、提案の実現性を徹底的に調査する旨の返信があった (『シラードの証言』124)。ちなみに、アインシュタイン自身は原爆の開発自体に一切関わ っていない。
- 1941年 イギリスからオットー・フリッシュ(オーストリア生まれ)とルドルフ・バイエルス(ドイツ生まれ)が記した核エネルギーを兵器に応用するアイディアがルーズベルト大統領に伝えられる。このフリッシュ=バイエルス覚書は原爆の爆発から放射性物質の降下までを予測していた。
- 1942年6月 ルーズベルト大統領、国家プロジェクトとして、原爆の研究に着手することを決意。
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1942年11月 原爆開発の研究所の設置場所、ニューメキシコ州ロスアラモスに決定される。本部がニューヨークのマンハッタンに置かれていたため、「マンハッタン計画」と命名。多くの科学者、企業、大学が研究に参加。総額で20億ドル(当時の日本の年間総国家歳出)がつぎ込まれた。研究リーダーは、ロバート・オッペンハイマー(1943年就任。ユダヤ系アメリカ人。のち、水爆反対運動に転じ、左翼の嫌疑で公職追放となる。高木仁三郎は、この計画について「この計画が軍事目的だったため、即効的な破壊力が優先され、環境に対する放射能の影響、核爆発による放射線やフォールアウトの影響などの研究は、すべて切って捨てられた。核の核たるゆえんに対する考慮と検討を欠落させ、原爆が完成したことは、その後の世界にとって大きな不幸だった」と記している(高木仁三郎『核時代を生きる』講談社現代新書1983:95)。
- この年 アーネスト・ローレンス(アメリカの物理学者)、質量分析法によるウラン235の工業的分離に成功。ちなみにウランには質量数238と235の同位体があり、採掘されたウランにはウラン238が約99.3%、ウラン235が約0.7%含まれている。このうち、ウラン235が核分裂する放射性同位体であり、原子炉で核燃料として用いられる他、核兵器の主要な材料として用いられる。
- 1940~50年代 米、マンハッタン計画のため、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、コロラド(通称、フォーコーナーズ)でウラン採掘開始。先住民ナヴァホとホピの労働者、および近隣住民に被曝被害。後に訴訟問題となり、1990年「放射線被曝補償法」が成立。
【解説】 19世紀末の放射能と放射性物質の発見から約半世紀を経て、アメリカのルーズベルト大統領は、核の研究を国家的プロジェクトとして着手することを決意。その背景には、1938年のドイツにおける原子核分裂の発見と「ある種の列強」「独裁国家」と表記されているナチス・ドイツによる原爆開発への核物理学者たちの危機感があったことが当事者だったシラードの証言から跡づけることができる。アインシュタインをはじめ、彼らの多くはナチス・ドイツの脅威からアメリカやイギリスへの亡命を余儀なくされた人びとであり、その危機感を共有していた。
【新事実】2016年8月6日放映NHKスペシャル「決断なき原爆投下―米大統領71年目の真実」によれば、トルーマン大統領の認可なく広島と長崎に原爆が投下されたことが残されていた記録から明らかになった。以下はその経緯の概要である。
1945年4月のルーズヴェルト大統領の突然の死去にともない急きょ予想もしなかった大統領に就任したトルーマンは、日本への原爆投下計画については全く無知の状態であった。当時、この計画の責任を担っていたレスリー・グローブス准将は計画の続行を求めるためにトルーマン大統領を訪問。その際に24頁の報告書を持参し承認を求めたが、トルーマンはその報告書に目を通すことなく、回答もしなかった。そこで、グローブスは大統領が承認したものと判断し、その後は軍部が原爆投下計画を着々と進めていくことになる。投下後、トルーマンは明快な判断をしなかったことを後悔し、もともと市民を犠牲にするような爆撃には反対していたトルーマンは、ただちに3発目の原爆投下を禁止する。その後のトルーマンの言動は、自己弁明のための世論操作へと舵を切ることになる。その中で「原爆投下は戦争を早期に終結させ、アメリカ兵の命を無駄にしないためであった」との弁明を行い、それが独り歩きすることになった。18年後、トルーマンは初めて被爆者と面会。被爆者の目を直視することなく、一方的に「原爆投下は日本人の命をも救ったのだ」との発言をし、早々に席を立ったという。
- 1942年12月 シラードやフェルミら、シカゴ大学の原子炉で、世界で初めて自己持続する核分裂の連鎖反応を起こす実験に成功。
- 1943年6月 米、原爆の軍事実験に関する報道規制を導入(スウィーニー:269-70)。
- 1944年6月 ジェームズ・フランク(アメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人)、日本に直接原爆を落すことなくより間接的に威力を知らせるような場を選ぶべきとの報告書を提出。
- 1944年7月 ニールス・ボーア(デンマーク人、母がユダヤ人であったため米に移住)、ルーズベルトとチャーチルに手紙を送り、米英ソ3国による原子力の国際管理を訴えるも無視される。
- 1945年3月 ドイツが原爆を開発していないことが確認され、シラードは日本への投下に反対する書簡を起草し、アインシュタインを通してルーズベルト大統領に届けようとした矢先に大統領死去。
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1945年6月 原子力開発を担っていたシカゴ大学の冶金研究所の「政治的・社会的問題に関する委員会」(通称フランク委員会)、日本への原爆投下に反対する報告書(フランク・レポート)を作成し、当局に提出したが反故にされる。シラードはこの委員会の七名の中で中心的役割を果たした(『シラードの証言』235-46)。
- 1945年7月 マンハッタン計画により3発の原爆が完成。そのうち1発(プルトニウム原発)が、ポツダム会談の日に合わせて、ニューメキシコ州アラモゴルドで炸裂(作戦名、トリニティ)。
- 1945年8月 あとの二発が広島(リトルボーイ、ウラン原発)・長崎(ファットマン、プルトニウム原発)に投下される。この間の新聞報道は、すべて検閲にかけられ、アメリカに不利な部分は修正されたり、削除されたりした(スウィーニー参照)。
【解説】 マンハッタン計画が始動したことにより、核物理学は純粋科学の領域から国際政治の舞台へと引き出された。原爆開発がドイツを念頭においていたことは、シラードが1944年にイギリスの知人に宛てた書簡でも確認できる。そこには、「ドイツ人が今や遠からず原子爆弾を使い始めるという可能性を考慮に入れなければならないと私は思います」として、ドイツが原爆を開発した暁には、イギリスがその標的になるだろうと警告している(『シラードの証言』252)。ところが、1945年春、ドイツが原爆を開発していないことが判明し、シラードやアインシュタインは原爆の対日使用の阻止に動く。しかし、この要請が効を奏することはなかった。原爆開発に関しては、完璧な報道統制が敷かれ、日本への投下後は、それがさらに厳しくなった。シラードは「戦争が終わった時、私たちは原子爆弾について公に議論しないよう求められた」と証言している(『シラードの証言』293)。核の安全神話は、こうした情報統制の下で作り上げられていくことになる。なお、アメリカ先住民居住地域でのウラン鉱山の開発が始まったのもこの時期であり、先住民労働者や近隣地区に放射線被害者が出て、後に訴訟問題へと発展するが、こうしたウラン鉱山開発による人体への被害や環境汚染の問題は、世界有数の山地であるアフリカのナミビアやニジェールでは放置されたままになっている。
- 1945年9月 ウィルフレッド・グレアム・バーチェット(オーストラリア生まれのジャーナリスト)、広島を訪れたのち、ロンドンのデイリー・エクスプレス紙に「原子の伝染病」と題し、放射能の恐ろしさを暴露。マンハッタン計画の軍部最高責任者はただちに報道関係者を集めて、「核実験場アラモゴードには残留放射能はない」との記事を書かせる。ニューヨークタイムズ紙にも「広島に放射能はない」との記事が掲載された。
- 1945年11月 日米合同調査団による広島・長崎の放射線被害調査開始(全調査資料はアメリカに送られた)。アメリカ科学アカデミー、「原爆傷害調査委員会」(ABCC)を設立。学術組織を装っていたが、実質的にはアメリカ軍部が管轄。その目的は、放射線被害の実態を一般市民の目から覆い隠すため。公的には1946年11月に設置されたことになっている。
- 1946年8月 アメリカで「原子力法」の制定(1954年に大幅な改定が行われ、原子力の民生利用と国による許認可制度が整備される)。同時に、原子力研究とテクノロジー開発のため、マンハッタン計画の中枢を占めた人材を中心に「アメリカ原子力委員会」(AEC)が設置される。この年、その別動隊として「アメリカ放射線防護委員会」(NCRP)も発足。
- 1946年末 「原爆傷害調査委員会」(ABCC)の調査団としてブルース=ヘンショー調査団来日。
- この年 米、ビキニ環礁で二回の原爆実験(クロスロード作戦)。
- 1947年3月 広島の赤十字病院の一部に原爆傷害調査委員会の拠点が開設される。
- 1948年 米、マーシャル諸島のエニウェトック環礁で原爆実験(サンドストーン作戦)。
- 1949年8月 ソ連の核実験成功による「ソ連脅威論」の台頭。米、この時から真の核の恐怖についての国家的な隠蔽を本格的に開始(高木1983:104)。
- 1950年1月 トルーマン大統領、水素爆弾の開発を指令。
- 1950年3月 世界平和会議による「ストックホルム・アピール」(核兵器廃絶アピール)。世界で億単位の署名を集める。これに賛同した黒人解放運動家デュボイスら、FBIによって、反米活動の罪に問われる。
- 1950年11月 トルーマン大統領、中国の朝鮮戦争参戦で「原爆使用考慮中」を表明。
- 1951年9月 旧日米安保条約締結。
- 1951~57年 ネヴァダ、太平洋、マーシャル諸島、ビキニなどで核実験。朝鮮戦争で使用した場合の米兵の精神的な恐怖を取り除くため兵士を参加させる。20万とも30万ともいわれる被ばく兵士と同数の被ばく住民を生み出した。
- 1952年10月 イギリス、オーストラリアのモンテ・ベロ島で初の原爆実験。
- 1953年5月 米、ネヴァダでの二回の核実験でユタ州のセント・ジョージなどに大量のフォールアウトがあり、まず数千頭の羊が死亡。牧畜業者、原子力委員会を相手取って訴訟。しかし、1956年の裁判でクリステンセン判事は、羊の死因はおそらく放射線傷害によるものではないだろう」と発言。1982年に同判事は裁判のやり直しを決定。同判事、当時、政府による同判事への圧力があったことを認めた。
【解説】 広島・長崎への原爆投下後、アメリカの軍部は核に関する情報統制と秘密主義をさらに徹底させた。原爆に関わる資料はすべてアメリカに押収され、日本で公開されることはなかった。このことが日本人の核や放射能への危機感に蓋をしたことは、その後の原子力の平和利用を容認させることになった。一方、アメリカは、新たな原水爆の開発に邁進する。その実験場となったネヴァダや南太平洋諸島では、多くの被爆者が発生し、環境への深刻な放射能汚染が現在なお問題となっている。こうした背景には、ソ連が核実験に成功したことによる「ソ連脅威論」があった。本格的な米ソによる核開発競争の幕開けであった。
- 1953年12月 アイゼンハワーの国連演説「平和のための原子力」。以後、平和利用のためには、核は安全でなくてはならないとして、危険性の告発や警告はますます排除されていった。
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1954年3月 米、ビキニ環礁において水爆(ブラボー)実験。周辺の島民が被爆。このことはアメリカ国民には知らされなかった。マーシャル海域にいた日本漁船第五福竜丸の乗組員も被ばくし、半年後に久保山さん死亡。杉並の主婦たちの間から原水爆禁止の市民運動が起き、全国に広がる。
- 1954年3月 中曽根康弘衆議院議員(改進党)、原子力関連の予算を国会に提案、五日に衆議院通過。研究者や産業界が否定的な中、政治主導での原子力平和利用の推進はじまる。
- この年
・米、商業用原子力開発を可能とするため、原子力法を改正。
・米で初の原子力潜水艦「ノーチラス」稼働。
・ソ連、世界初の発電用原子炉を開発。 - 1955年8月
・広島にて第一回原水爆禁止世界大会(原水爆禁止日本協議会主催)開催。
・ジュネーヴで国連主催の原子力平和利用国際会議開催。 - 1955年12月 原子力三法(「原子力基本法」「原子力委員会設置法」「原子力局設に関する法」)成立。
- 1955年末 岡山・鳥取県境の人形峠周辺でウランの採掘はじまる。10年後採算が取れないことが判明して閉鎖。その後、輸入したウラン鉱石の精錬・濃縮試験を同地で開始。1988年になって野ざらし状態の鉱石混じりの土砂(ドラム缶100万本分)からは放射線、坑口からは許容濃度の一万倍の放射能ラドンが放出されていることが確認される。動燃は残土を囲い安全宣言。鳥取県側の方面(かたも)地区の住民は撤去を求め、裁判に発展。最高裁で、3千立方メートルの残土の撤去命令。そのうちウラン濃度の高い290立方メートルは、アメリカ先住民の土地(ユタ州)に捨てられた(小出2010:80-82)。
- この年
「原爆傷害調査委員会」(ABCC)による「広島における残留放射能とその影響」調査。「黒い雨」による健康被害への聞き取り対象は9万3千人にのぼ り、1万3千人が被害を報告していたが、調査の目的は被曝の安全基準作成にあり、「核」は危険とのイメージを与えないために調査結果は隠蔽された(NHKスペシャル 2012年8月6日放送)。 - 1956年
・「原子力三法」施行。初代原子力委員会委員長に正力松太郎(衆議院議員)就任。原発を5年後に建設する構想を発表。国策としての原子力推進はじまる。慎重論を唱える湯川秀樹原子力委員がこれに反対して委員を辞任。
・科学技術庁、日本原子力研究所(いわゆる原研、2006年に核燃料サイクル開発機構との統合に伴い解散し、独立行政法人日本原子力研究開発機構となる)、原子燃料公社(のちに動燃事業団に統合)が設置さる。 - 1957年5月 英、クリスマス島で核実験、英兵士被爆。
- この年
・ アメリカ原子力委員会の国際版として、国連に「国際原子力機関」(IAEA)設置さる。
・英、ウィンズケール原子炉で火災、燃料棒損傷で放射性ヨウ素が飛散。
・アメリカ人ヨークによるT57D(原爆の放射線量を評価する基準として算定されたもの。Tentative 1957 Dosimetryの略)という放射線量(中性子線とガンマ線)の暫定評価が出されたが、不確かなものだった。 - 1957~8年 ソ連の南ウラル地方の小都市キシュチム近郊にあった軍用核施設で大規模爆発、膨大な放射能が放出。一千平方キロ以上の地域を汚染し、数百人の死者を出した。1980年代になっても広範囲にわたり立ち入り禁止区域となっていた。核の平和利用に不利な情報としてソ連もアメリカもこの事故を隠蔽した。この事故が公になったのは70年代。
- 1958年6月 日米原子力協力協定の締結。
- 1959年 原子力の平和利用と開発に資するため、日本原子力学会(産学連携の任意団体)設立さる。
- 1959~77年 米のウラン鉱山(フォー・コーナーズ)で15回のウラン残滓流出事故。
【解説】1953年のアイゼンハワーの国連演説「平和のための原子力」以後、原発建設の動きが加速した。それと並行して核実験が各地で行われていた事は、この演説が、実は軍事用核開発の隠れ蓑であったことを示している。現在、核の監視役を担っている国際原子力機構(IAEA)がアメリカ原子力委員会の国際版として設立されたことを考えると、IAEAがアメリカと歩調をあわせて西側主導の核開発を推進しようとしてきた経緯が見て取れる。その間、核開発に不利な情報は掩蔽され続けた。その一方で、被曝の安全基準に関する研究調査が、広島や長崎などのデータを使って行われた。こうした世界的構図の背景に冷戦体制があったことを忘れてはならない。
- 1960年2月 フランス、サハラ砂漠で初の原爆実験。
- この年
・新日米安保条約発効。この時、核持ち込みに関する密約が取り交わされていたことを2000年に不破哲三がアメリカの資料にもとづいて国会で暴露。
・東海発電所(東海原発)着工。初の原子力発電所。英国産の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉使用。1998年まで稼働。現在廃炉作業中。 - 1965年7月 原子力推進のための「日本原子力文化振興財団」の設立。資金の40%は原子力行政担当の経産省と文部省から、60%は電力会社からの出資。中・高へ無料講師を派遣して原発の安全性を宣伝。2012年より一般財団法人に移行。
- 1965年11月 東海原子力発電所(日本原子力発電=日本原電)、初の送電に成功。
- この年
・アメリカ人オクシャーがネヴァダの核実験のデータに基づく放射線量のより確かな評価T65Dが出される。広島や長崎のデータとかなり一致したということで、しばらくは基礎資料として使用された。 - 1966~96年 フランス、ムルロア環礁(フランス領ポリネシア)で約200回の核実験。被曝者多数。
- 1967年 日本の原子力計画を管理する機関として動力炉・核燃料開発事業団(動燃)設立。1988年「核燃料サイクル開発機構」に改組。
- 1972年 原子力潜水艦「むつ」完成。放射能漏れなどのトラブル続きで、1995年に原子炉撤去。
- 1973年8月 愛媛県伊方原発訴訟はじまる。日本初の原発提訴。1992年原告の敗訴が決定し、原発安全神話が加速。
- 1974年9月 原子力潜水艦「むつ」の放射能漏れ事故
- この年 原発の立地促進を目的に「電源三法交付金」創設。財源として消費電力量に応じて徴収。出力135万キロワットの原発を新設する場合、環境影響評価から運転開始までの10年間で約480億円、その後の40年間で約900億円が自治体に支払われた。
- 1975年
・米「ラスムッセン報告」(WASH-1400報告)。「原子炉の巨大事故が起きる確率は極めて低い(ヤンキースタジアムに隕石が落ちる確率より低い)」として「安全神話」を確立させた(高木2011:133)。
・「原爆傷害調査委員会」(ABCC)、「放射線影響研究所」に改組(日米共同研究所)。本部広島。原爆症認定基準を作成するも残留放射線(黒い雨など)の被害は考慮されなかった。 - 1978年
・ソ連の原子炉衛星「コスモス954」、カナダ北西部の雪原に墜落、広い範囲に放射能をまき散らしたが、アメリカは寛大さを示した。
・原子力安全委員会発足。2012年、原子力規制委員会に引き継がれる。 - 1979年3月 アメリカでスリーマイル島原発事故。ソ連は問題視せず。
- 1970年代末 米のローレンス・リバモア国立研究所やオークリッジ国立研究所で、オクシャーのT65Dの見直し始まる。T65D による広島原発の中性子量やガンマ線量は間違っていたことが判明。
- 1980年 米で原子力の危険性を告発する画期的な著書、カーチス&ホーガン著『原子力 その神話と現実』刊行さる。
- 1981年1月 敦賀原発で放射能を含んだ大量の冷却水漏れ事故。
- 1981年6月 イスラエル空軍、建設中のイラクの原子炉「オシラック」を爆撃。
- この年 原子力安全委員会、「原子力安全白書」出版開始。
- 1983年 ソ連の原子炉衛星「コスモス1402」、炉心ともどもインド洋に落下。
- 1985年
・高速増殖炉「もんじゅ」着工。2011年現在、米・英・仏・独は高速増殖炉の建設から撤退。日本とインドと中国、およびロシアは建設中。
・原子力安全委員会、原子力モニター制度を通して「原子力発電の必要性と安全性を、日頃から多くの機会をとらえて、テレビ、映画、見学会、新聞等を通して、積極的に宣伝し広く理解を求めていくことが大切」といった一般市民の意見を公開。 -
1986年 チェルノブイリ原発事故。東京都の教員有志、原発に批判的な観点から『ノンちゃんの原発のほんとうの話』を出版。
- 1986~89年 科学技術庁、日本国内の原子力発電に反対する運動を監視。
- 1987年 資源エネルギー庁(1973~)による原子力エネルギー教育のための講師派遣事業。1998年までに1700回、10万人以上が利用、その後も継続された。
【解説】1960年の新日米安保体制を象徴するのは、アメリカの核の傘の下で、平和目的の核利用として原発を国策として推進する日本政府と電力会社を中心とした産業界の協調路線である。一方で、アメリカやチェルノブイリでの核関連の事故が起こり、「安全神話」への疑義と核の危険性への認識が高まり、民間レヴェルでの原発立地反対運動や原発訴訟にはずみがついた。以後、こうした原発反対派とそれを抑えこみ、原発を推し進めようとするせめぎあいが、日本各地で展開していくことになる。
- 1991年 関西電力美浜原発で事故。日本ではじめて緊急炉心冷却装置が作動。
- 1994年
・原子力委員会編『原子力の研究、開発および利用に関する長期計画』(第8号)の発行。「日本の原子力施設は十分安全であり、国際的にも高い評価を受けている」との記述あり。
・動燃、プルトニウムは原発反対派が言うほど危険ではないことを教える子供向けビデオを製作(カー2002:116)。 - 1995年12月 高速増殖炉「もんじゅ」で液体ナトリウム漏れ火災事故。動燃、事故の真相を隠蔽。2010年試運転を開始したが、原子炉内に炉内中継装置が落下した。回収されたものの、点検漏れが多く、2011年4月現在、試運転中断中。
- 1997年3月 東海村の再処理工場で放射性廃棄物を詰めたドラム缶が発火・爆発。動燃、一部データを隠蔽し、情報公開を遅らせ、しかも、鎮火したとの虚偽の報告をした(高木2011:268)。
- 1998年6月 原子力安全委員会、相次いだ原発事故を受けて動燃の閉鎖的体質の改善と情報公開などを盛り込んだ「原子力安全白書」で、日本の原子力は「安全」であるが、さらに人びとを「安心」させることが必要との目標を掲げる。
- 1999年9月 東海村JOC(ウラン加工工場)の臨界事故。作業員が大量のウランを沈殿槽に注ぎ、とめどない臨界反応を起こした。近隣住民600人以上が被曝し、35万人が避難ならびに外出禁止となる。作業員2人死亡。政府の事故調査委員会の最終報告書において「いわゆる原子力の『安全神話』や観念的な『絶対安全』という標語は棄てられなければならない」と記述(高木2011:132、カー2002:115)。
- 1999年12月 JOC臨界事故調査報告書の提出(委員長吉川弘之)。「直接の原因は全て作業者の行為にあり、責められるべきは作業者の逸脱行為である」として、原子力委員会とその委員たちは組織的、個人的責任を全くとろうとしなかった(小出2010:12)」
- 2000年6月 ドイツ、シュレーダー首相、20基ある原発を2022年までに順次廃棄していくことで4大電力会社と合意。
- 2002年~ 原子力安全・保安院(2001~、経済産業省管轄)、原発立地自治体向け広報体制を強化。2007年にはニュースレター「NISA通信」を年四回発行し、立地地域の全戸(約50万戸)に配布し、いかに原発の安全対策を行なっているかを宣伝。
- 2005年 日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構(旧動燃)を統合再編して独立行政法人「日本原子力研究開発機構」発足。
- 2006年 東芝グループ、アメリカの原子力産業ウェスティングハウスの商業用原子力部門を買収
- 2007年7月 中越沖地震にともなう柏崎刈羽原発事故。放射性物質を含んだ水が海に流出したり、放射性ヨウ素が排気筒から放出されたりした。差し止めをめぐり住 民投票が行われたが、2009年12月以降再起動。
- 2010年2月 文科省・経済産業省、義務教育副読本『わくわく原子力ランド』(小学校向け)『チャレンジ!原子力ワールド』(中学校向け)作成。「原発から放射性物質がもれることはない」「地震が起きても原子炉は自動的に止まる」などと記述。
【解説】1990年代の相次ぐ原子力関連事業での事故と中越沖地震に伴う柏崎刈羽原発事故を受けて、日本原子力委員会や原子力安全・保安院、あるいは文科省は、原子力の安全性についての市民教育に乗り出す。その間、東芝グループがアメリカのウェスティングハウスの商業用原子力部門を買収して国際的な原子力産業へ参入するという動きもあり、国策としての原子力産業は、国民の反原発感情や運動をいかに抑えこむかという対策に追われた。
- 2011年3月 東日本大震災と福島第一原発事故
<11日>
・14時46分・・・・・ 大震災発生 マグニテュード9.0
・15時35分・・・・・ 最大の津波襲来
・15時37~41分・・・ 1~3号機の全交流電源喪失、4号機は定期点検作業中
<12日>
・15時36分・・・・・ 1号機建屋で水素爆発
<14日>
・11時1分・・・・・ 3号機建屋で水素爆発
<15日>
・18時過ぎ・・・・・ 4号機建屋で爆発、火災確認
・20時25分・・・・・ 2号機で白煙確認
<16日>
・5時45分ころ・・・・4号機で再び出火
・8時37分・・・・・・3号機で白煙があがる - 2011年4月 ドイツのメルケル首相、福島原発事故を受け、2010年に2034年まで延長した原発利用を、シュレーダー政権時の2022年までに戻し、それまでに原発の廃止と再生可能エネルギーへの移行方針を決定。
- 2011年6月
・スイス、福島原発事故を受け、2034年までに段階的原発廃止を決定。
・イタリアで実施された原子力発電再開の是非を問う国民投票が実施され、97%が反対。政府の原発再開の計画を否決した。 - 2011年10月 文科省と経済産業省、新しい小・中・高向け放射線に関する副読本を作成・公開・配布。放射能は自然界に普遍的に存在し、少しも怖がる必要がないことを強調。福島第一原発事故に関連した情報は盛り込まれず。「一度に100ミリシーベルト以下の放射線を受けた場合、放射線だけを原因としてがんなどの病気になったという明確な証拠はありません」などの記述あり。
- 2011年12月 衆議院本会議で、ヴェトナム、ロシア、韓国、ヨルダンとの「原子力協定」を可決・承認。原発輸出を推進する方針の継続を表明。
- 2012年1月 放射線影響研究所(日米共同の研究所/ABCCの後身)、長崎と広島で9万人以上の「黒い雨」の後遺症に関する聞き取り調査資料の一部を初めて公開。1万3千人を対象に死因調査はじまる(NHKスペシャル2012年8月6日放映)。
- 2012年3月 1986年に出版された原発に批判的な教材『ノンちゃんの原発のほんとうの話』(高木仁三郎監修)の復刻・増補版の出版。
- 2012年5月 すべての原発操業停止
- 2012年6月 リトアニア議会、原発受注先として日立製作所を承認。
- 2012年7月
・福井大飯原発3,4号機再稼働(同12月、再稼働手続きの取り消しを求めた大阪・京都・滋賀の住民訴訟、大阪地裁で門前払い)
・東京電力福島第一原子力発電所事故に関する政府の事故調査・検証委員会(委員長=畑村洋太郎・東大名誉教授)、最終報告書を発表(二三日)。これにより、政府、国会、民間の事故調査報告書が出揃う。いずれの報告書でも、危機に際しての政府の場当たり的な対応の不適切さ、「安全神話」にあぐらをかいて予防措置を怠ってきた東電の無責任体質に対して厳しい批判がなされている。例えば、政府の報告書は、政府や東電が「炉心溶融のような過酷事故が起こり得ないという安全神話にとらわれ、危険を現実のものと捉えられなくなっていた」とし、東電が「想定外」と自己弁護したことを「安全神話を前提に、あえて想定してこなかったから想定外だったにすぎない」と批判。 - 2012年9月
・フランス、フェッセンアイム原発を2016年までに閉鎖することを決定。
・政府「2030年代に原発稼働ゼロを可能とするよう、あらゆる政策資源を投入する」との目標を決定。
・福島原発事故で十分な機能を果たせず批判を浴びた経済産業省原子力安全・保安院と内閣府原子力安全委員会に代わり、環境省の外局として「原子力規制委員会」(安全基準に関する委員会。原発再稼働の是非については判断を行わない方針)発足。 - 2012年10月
・中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の再稼働の是非を問う住民投票条例案を審議していた静岡県議会、本会議で条例案を否決。
・リトアニアで原発建設(日立製作所が受注)の是非を問う国民投票、(投票率五〇%)。反対が六〇%以上と賛成を大きく上回った。
・日立製作所、英国の原子力発電事業会社「ホライズン」を6億7千万ポンド(約850億円)で買収すると発表。 - 2012年12月
・原子力規制委員会、日本原電の敦賀原発2号機建屋直下の断層を活断層の可能性が高いと判断。続いて青森県東通の東北電力原発敷地内にも活断層が確認され、過去の国と電力会社のずさんな調査と調査結果の隠蔽による「安全神話」創りのからくりが明らかになった。
・自民・公明連立政権の発足。民主党の原発政策見直し(再稼働はありうる)はじまる。 - 2013年1月
・原子力立地給付金受け取り辞退者の増加。多くて一件につき年間数千円。過去に電力会社が辞退者を「反原発者」としてリストアップしていたことも明らかになる(朝日新聞1月1日)。
・新潟柏崎原発再稼働を問う県民投票案、県議会本会議で否決される。 - 2014年5月21日
大飯原発3.4号機をめぐる再稼働差し止め申請をめぐる福井地裁判決―運転差し止め判決 - 2014年11月27日
大飯原発3、4号機、および高浜原発3.4号機をめぐる再稼働差し止め訴訟―大津地裁、申請を却下の判決 - 2015年4月14日
高浜原発再稼働差し止め訴訟判決―福井地裁、運転差し止め - 2015年4月22日
川内原発1,2号機をめぐる再稼働差し止め申請―鹿児島地裁、申請を却下 - 2015年9~11月
九州電力、鹿児島県川内原発1号機、2号機を再稼働 - 2015年12月24日
高浜原発3,4号機をめぐる再稼働差し止め申請―福井地裁、運転差し止め決定を取消 - 2016年1月
関西電力、福井県高浜原発3号機、再稼働 - 2016年2月
関西電力、福井県高浜原発4号機、再稼働 - 2016年3月9日
大津地裁、安全性が確保されていないとして、高浜原発3,4号機稼働中止の仮処分を決定。稼働中の原発(3号機、4号機は再稼働直後の不具合により、再稼働中止中だった)の稼働中止の仮処分は史上初。 - 2016年4月6日
川内原発3,4号機再稼働申請―福岡地裁宮崎支部、運転差し止め申請の却下決定を維持 - 2016年6月20日
原子力規制委員会、40年という耐用期限を超えた福井県高浜原発1・2号機の20年の延長稼働をはじめて認める。実際の稼働には今後3年以上の点検作業が必要との関西電力の見解。 - 2016年7月12日
高浜原発3,4号機再稼働差し止め申請―大津地裁、差し止め決定を維持 - 2016年8月12日
四国電力、愛媛県伊方原発3号機を再稼働。 - 2017年1月11日(台湾)
2025年をめどにすべての原発を停止することを決定。 - 2017年3月28日
高浜原発再稼働差し止め申請―大阪高裁、再稼働を容認
【解説】2011年3月11日の福島第一原発事故により、原発の「安全神話」は完全に崩壊した。翌年5月には、点検中のものも含めて、54基すべての原発が停止。原発再稼働反対の市民デモが繰り返される中、政府は同年7月には福井県大飯原発三号機の再稼働を認可。その後、日本は夏の酷暑をこの原発一基のみで乗り切った。計画停電の導入もなかった。それを考えると、東日本大震災後に導入された関東一帯での計画停電は一体何だったのか。そうした反省もないまま、政府はふたたび核の「安全神話」創りに踏み出そうとしている。政府が海外に原発プラントを輸出しようとする民間企業を後押ししていることは、このことと無関係ではない。国内的には、文科省と経産省が、放射線や放射性物質についての基礎的な知識を与えるため、初等・中等教育向けの副読本を作成して配布した。そこでは、自然界にも放射能があることや、放射能がいかに利用されているかを中心に記されており、原発事故による放射性物質の危険性を糊塗しようとしているとの印象はまぬがれない。
確かなことは、新たな「安全神話」創りの背景には、これまでと同様に、政府と経済界との癒着があることである。この癒着に歯止めをかけられるのは、市民運動である。イタリアやリトアニアのように国民投票という選択肢は日本にはない。原発立地地域の自治体レヴェルの住民投票にさえ、高いハードルが立ちはだかっている。こうした中、政府が市民を納得させることができる政策を実施できるかどうかは、日本の民主主義の試金石ともいえる。
今、われわれに問われているのは、核の脅威なしに暮らせる環境を後世に遺すため、何をなすべきかという選択であり、決意である。それは、とりもなおさず、ここまで見てきたような軍産主導の国際政治を変える一翼を、われわれが担えるかどうかが試されていることを意味している。
【付 録】
【1】東日本大震災死者(行方不明者数)
宮城 9,539人(1,249人)
岩手 4,673人(1,129人)
福島 1,612人( 202人)
全国 15,891人(2,584人)(警察庁緊急災害本部広報資料2015年3月11日)
【2】歴史的重要度の高い核実験
年 月 日 名 称(国名) 重 要 性
*1945年7月16日 ガジェット[トリニティ](米) 人類史上初の原爆実験
*1945年8月6日 リトルボーイ(米) 人類史上初の原爆実戦使用(広島)
*1945年8月9日 ファットマン(米) 人類史上二度目の原爆実戦使用(長崎)
*1949年8月29日 RDS-1[ジョー1](ソ) ソヴィエト初の原爆実験
*1952年10月3日 ハリケーン(英) イギリス初の原爆実験
*1952年11月1日 アイビーマイク(米) 人類史上初の多段階熱核反応兵器実験
(非実用兵器)
*1953年8月12日 RDS-6[ジョー4](ソ) ソヴィエトによる初の水爆実験
(非多段階実用兵器)
*1954年3月1日 キャッスルブラボー(米) 人類史上初の水爆多段階実用兵器実験放射性降下物事故[第五福竜丸の被曝]
*1955年11月22日 RDS―37(ソ) ソヴィエト初の多段階実用兵器水爆実験
*1957年11月8日 グラップルX(英) イギリス初の多段階実用兵器水爆実験
*1960年2月13日 シェルボアーズ・ブルー(仏) フランス初の原爆実験
*1961年10月31日 ツァーリ・ボンバ(ソ) 人類史上最大の水爆実験
*1964年10月16日 596(中国) 中国初の原爆実験
*1967年6月17日 実験No.6(中国) 中国初の水爆実験
*1968年8月24日 カノープス(仏) フランス初の水爆実験
*1974年5月18日 微笑むブッダ(印) インド初の核分裂爆発実験
*1998年5月11日 シャクティⅠ(印) インド初の潜在核融合増幅兵器実験
*1998年5月11日 シャクティⅡ(印) インド初の原爆実験
*1998年5月28日 Chagai-1(パキスタン) パキスタン初の原爆実験
*2006年10月9日 Hwadae-ri(北朝鮮) 北朝鮮初の原爆実験
【3】世界の核実験(大気圏内のみ)
アメリカ合衆国 ネヴァダと太平洋にて1945~63年の間に316回の核実験
旧ソ連 現カザフスタンのセミパラチンスク核実験場にて、1949~89年の間に450回以上の核実験
イギリス オーストラリアとネヴァダなどで1952年~58年の間に13回の核実験
フランス アルジェリアと仏領ポリネシアにて1960~75年の間に206回の核実験
中国 1964~80年の間に23回の核実験
インド 1974年に1回の核実験
パキスタン 1998年に6回の核実験
南アフリカ・イスラエル 1979年、米の早期警戒衛星ヴェラがインド洋上で閃光と電磁パルスを観測。南アフリカとイスラエルによる核実験との推測が有力となっている。
【4】世界の核兵器―核弾頭数合計 (1913年2月現在)
NPT批准国
アメリカ合衆国 9400
ロシア 1万3000
イギリス 185
フランス 300
中国 240
NPT非批准国(北朝鮮は脱退)
インド 60~80
パキスタン 70~90
北朝鮮 10以下
核保有の疑いが強い国
イスラエル 200~300
【5】世界の主なウラン鉱山(2013年現在)
鉱山名(国名) 出資社(国名)
・マッカーサー・リバー鉱山(カナダ) :カメコ (カナダ)・アレバ(フランス)
・シガーレイク鉱山(カナダ) :カメコ(カナダ)・アレバ(フランス)・出光興産 ・東京電力
・ レンジャー鉱山(オーストラリア) :エナジー・リソーセス・オブ・オーストラリア(リオ・ティント〈英+豪資本〉の子会社)
・オリンピック・ダム鉱山(オーストラリア) :BHPビリトン(オーストラリア)
・アクダラ(カザフスタン) :ウラニウム・ワン(カナダ)・カザトムプロム(カザフスタン国営企業でアレバNCとの合弁)
・インカイ(カザフスタン) :カメコ(カナダ)・カザトムプロム(カザフスタン国営企業でアレバNCとの合弁)
・ハラサンⅠ鉱山(カザフスタン) :ウラニウム・ワン(カナダ)・カザトムプロム(カザフスタン国営企業でアレバNCとの合弁)・エナジー・アジア(東京電力、中部電力、東北電力、九州電力、丸紅、東芝の企業連合体)
・スミス・ランチ=ハイランド(アメリカ・ワイオミング州・米国内最大のウラン鉱山):・カメコ(カナダ)
・クロウ・バット(アメリカ・ネブラスカ州) :カメコ(カナダ)
・クラスノカメンスク(ロシア最大のウラン鉱山) :ARMZ(ロシア国営企業)
・アクータ鉱山(ニジェール) :アレバNC(フランスの大手アレバの子会社)・ONAREM(ニジェール政府)・OURD(日本の海外ウラン資源開発株式会社)・ENUSA(スペイン資本)
・アーリット鉱山(ニジェール) :アレバNC(フランスの原子力世界最大手アレバの子会社)・ONAREM(ニジェール政府)
・パールリバー鉱山(南ア) :アングロゴールド・アシャンティ(南ア資本)
・ドミニオン鉱山(南ア) :SXRウラニウム・ワン(カナダ資本)
・レッシング・ウラニウム鉱山(ナミビア) :リオ・ティント(六八・六%)とエナジー・リソーセス・オブ・オーストラリアの共同経営
将来的に原発増設を見込んでいる中国は、中国国有原子力発電会社、中国核工業集団がニジェール、モンゴル、ジンバブウェ、タンザニア、ザンビア、カザフスタン、ロシア、オーストラリアのウラン鉱山に投資して開発を進めている。(日本経済新聞2010年11月18日)
主な参考文献・資料
内橋克人『原発への警鐘』文庫 1982
カー、アレックス『犬と鬼・知られざる日本の肖像』講談社、2002
カーチス、リチャード/エリザベス・ホーガン『原子力その神話と現実』(高木仁三郎、近藤和子、阿木幸男訳)紀伊国屋書店(増補新装版)、2011
小出裕章『隠される原子力―核の真実』創史者 2010
『市民科学者国際会議~会議録~:放射線による健康リスク~福島「国際専門家会議」を検証する~』CSRP市民科学者国際会議実行委員会、2011
『シラードの証言―核開発の回想と資料』(伏見康治・伏見諭訳)みすず書房、1982
スウィーニー、マイケル『米国のメディアと戦時検閲』法政大学出版局、2004
高木仁三郎『核時代を生きる』講談社現代新書 1983
高木仁三郎『原子力神話からの解放―日本を滅ぼす九つの呪縛』講談社+α文庫、2011(2000)
三宅泰雄『死の灰と闘う科学者』岩波新書 1972
NHKスペシャル 2012年8月6日放映「黒い雨―活かされなかった被爆者調査」
URL
ウィキペディア「核実験の一覧」(2013年1月参照)
ウィキペディア『核保有国の一覧』
各国のウラン鉱山一覧
小林孝雄「最近のウラン探鉱・開発動向(パート2・アフリカ)」【JAEAレポート2007年】(2013年1月参照)
本稿は、研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」(編)『「3.11」と歴史学』有志舎2013所収、富永智津子「年表で読む核と原発」の改訂版である。