【年表8】人文学と科学・技術の歴史

更新:2016-06-28 掲載:2016-06-07 作成:三成美保

【趣旨】

日本では、「文系」「理系」の違いがよく言われる。「文理」の相違を前提に、さかんに「文理融合」が語られる。1995年制定の科学技術基本法(日本)は、その第1条で対象を「科学技術(人文科学に関わるものを除く)」と定義した。法律用語としての「人文科学」は、「人文・社会科学」をさす。科学技術基本法にしたがって、5年ごとに「科学技術基本計画」が策定されるが、そこに「人文・社会科学」(いわゆる「文系」)は含まれないのである。

しかし、歴史的にみると「ヒューマニティーズ(人文学)」と「サイエンス(科学)」は不可分に結びついており、相互に強い影響を与えあった。両者の区別にこだわらない社会や文化も少なくない。なによりも、「学術」や「文化」の評価基準が西洋男性モデルに依拠してきた結果、歴史教科書における「文化」は、西洋中心・男性人名中心で語られてきた。西洋以外の文化や科学の発展、文化相互の影響、女性の活躍を改めて位置づける必要がある。

以下では、学術・文化(人文学・科学技術)の歴史を年表で示し、科学・技術・思想の発展が深く結びついていること、地球規模で相互に影響し合って発展してきたこと、身体や生殖、ジェンダー、衣食住、家族に関する考え方や技術の展開が時代を変える意識変容を呼び起こし、社会制度の改革や地域関係の変化につながっていること、そして、女性が主体的に文化形成に関わっていたことを考えてみたい。そのため、完全に時系列(文化別に分けない)で年表を作成してみた。なお、今後とも随時、情報を追加・更新する。

【凡例】**は日本に関係する事項、赤字は女性人名・女性身体に関係する事項、【性・生殖】は「性と生殖」に関わる事項。

紀元前

前3300頃(メソポタミア)シュメールで世界最古の「文字(文字体系)」がつくられる。このとき「数」をあらわす記号(のちの「数字」)もうまれた⇒「楔形文字」。[ゲージ1998:p.36-37]

前3200頃(エジプト)ヒエログリフ(神聖文字)が登場。

前18世紀~前15世紀頃(ギリシア)クレタ島で文字が用いられる(線文字A)⇒未解読。

前1450頃-前1375頃(ギリシア)ミケーネ時代にギリシャ本土からエーゲ海諸島の王宮で文字が用いられた(線文字B)⇒解読されている。

前15世紀頃 ヒッタイト(前1700頃ー前1200頃)が鉄器を製造。

○鉄器製造技術は秘密とされた。前1200頃にヒッタイトが滅亡すると、周辺地域に技術が伝播する。

前1400年頃のヒッタイト王国と周辺国家:ヒッタイト(青)、エジプト(黄)、アッシリア(緑)、ミケーネ(紫)(出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Hethiter

前1300頃ー前1050頃(中)殷(前1600頃ー前1050頃)⇒殷代後期(前1300頃=前1050頃)に「甲骨文字」(漢字のもととなった)が使われる。

○殷王が戦争のときなどに占いのために使った文字。亀甲や獣骨に刻まれた。殷の都であった殷墟で多数発見されている。

前1050頃ー前770頃(中)周で「陰陽説」が生まれる(「易(周易)」(のちの易経))。

○「易(周易)」は、儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典である。古代中国の占筮(細い竹を使用する占い)の書物であり、符号を用いて状態の変遷、変化の予測を体系化した古典である。陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。著者は伏羲とされる。

【性・生殖】男女ともに本来陰陽両方の気をもつのであり、成長・役割に応じて陰陽のバランスを正しく保つ身体が健康とされた。身体は「活用変化」するものとされ、性の境界を超えることには何ら違和感がもたれなかった。

【解説】前近代中国の陰陽二元説

「陰陽の二爻(天地の現象に効[なら]って互に交わり、また他に変ずる[1])を基本理念とする易(「易経」)は、紀元前六世紀の中国で成立した。その後、陰陽論は、道教や儒教にも取り入れられ、長く中国の自然哲学や医学を支配した[2]。万物は、「太極―両儀(陰陽)―四象―八卦」という派生関係と、「乾(天・健・南・父・陽・男)」と「坤(地・順・北・母・陰・女)」という両極を含む八卦によって説明された[3]。たしかに、「乾道成男、坤道成女[4]」(周易繋辭上傳)と対比されたが、もっとも重要な点は、陰陽の「循環(変化/発展)」を自然の道理として組み込んでいることにある。男女ともに本来陰陽両方の気をもつのであり、成長・役割に応じて陰陽のバランスを正しく保つ身体が健康とされた。身体は「活用変化」するものとされ、性の境界を超えることには何ら違和感がもたれなかったのである[5]。

異性間性交は、宇宙的な力である陰陽の顕現であり、生命の源をなすと賛美された。他方、同性間の性交は、陽(男)同士、陰(女)同士の交わりであるから、陰陽のエネルギーを浪費することがなく、有害行為とはされなかった。とくに、女性の場合、陰のエネルギーが無尽蔵とされたこともあって、自慰は大目に見られ、張形の過度の使用によって子宮を損じることがない限り、女性間性行為に対しても寛容であった。男性の場合には、自慰は精気の空費とされて禁じられたが、男性間性行為は宮中で少なくなかったため[6]、中立的な態度がとられた。」

[1] 高田真治・後藤基巳訳『易経(上)』岩波文庫、1969、解説二七頁。
[2] R・H・ファン・フーリック(松平いを子訳)『古代中国の性生活―先史から明代まで』せりか書房、1989。
[3] 『易経(上)』解説二七頁以下。
[4] 『易経(下)』二一一頁。
[5] スーザン・マン(小浜正子/リンダ・グローブ監訳)『性からよむ中国史―男女隔離・纏足・同性愛』平凡社、2015、一八六頁。
[6] 「分桃」や「断袖」など、男性間性愛・性行為にまつわる故事は、君主とその寵臣の関係に由来するものが多い。

(出典:三成美保「尊厳としてのセクシュアリティ」三成編『同性愛をめぐる歴史と法』明石書店、2015年、26頁)

(出典)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD

前624頃ー前546頃(ギリシア) タレス

前6世紀(ギリシア) ピタゴラス

○前5~前4世紀 ピタゴラス学派がはじめて「偶数」と「奇数」を区別した。[ゲージ1998:p.68]

前6世紀(中)春秋時代(前770ー前403):思想・技術の発展

○諸子百家
○鉄製農具(鋳鉄法のためもろく、武器には適さない)の使用・牛耕農法始まる⇒農業生産力の向上。
○戦車など、戦闘用には青銅を用いた。

前551頃ー前470(中)孔子⇒儒家

前544頃ー?(ギリシア) ヘラクレイトス

前480頃ー前390頃(中)墨子⇒墨家

前469頃ー前399(ギリシア)ソクラテス

前460頃ー前370頃(ギリシア) デモクリトス

前460頃ー前375頃(ギリシア) ヒポクラテス

○西洋医学の祖とされる。
【性・生殖】ヒポクラテスは、男女とも精子をもつと考え(男女二精子論)、子宮という戦場で、男の精子と女の精子が質・量の両面で戦った結果、勝った方の性が子の性になると考えた。このようなヒポクラテスの生殖論は、ガレノスに引き継がれて、主流となった。

前429頃ー前347(ギリシア)プラトン

○アカデメイアを開設。

前403ー前221(中)戦国時代

○青銅貨幣の流通

前384-前322(ギリシア) アリストテレス(古希: Ἀριστοτέλης

○『動物誌』『動物部分論』『動物発生論』を執筆。
【性・生殖】女性を「未完成の男」たる「不完全な性」とみなした。生殖については男性精子論に立つ。彼は、妊娠とは、男性の精液が女性の経血を効果的に搾取することだと定義した。

前372頃ー前289頃(中)孟子⇒儒家

前305頃ー前240頃(中)戦国時代の陰陽家騶衍(すうえん)が五行思想」を創始⇒「陰陽五行説」

(出典)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3

(出典)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3

前300頃(ヘレニズム) エウクレイデス

前3世紀 バビロニアで歴史上はじめて「ゼロ」が用いられる。

【解説】「ゼロ」の発見

歴史上、「ゼロ」を用いた文明は3つある。バビロニア文明(前3世紀)、マヤ文明、インド文明(5世紀)である。しかし、それぞれの文明における「ゼロ」の用法は異なっていた。

「ゼロ」には、①「しるし」としてのゼロ(数字のあとに記されたゼロなど)、②「数字」としてのゼロ(ある位に対応する数字がないときに使う演算記号)、③「数」としてのゼロ(1,2,3と同じように数をあらわすものとし、「0=nーn」と定義された)の3つの意味(三段階)がある[ゲージ1998:p.112]。

バビロニア文明では、①「しるし」としてゼロと②「数字」としてのゼロが使われた。マヤ文明の「ゼロ」は、①でも②でも③でもなかったが、「空位」をあらわす記号(ただし演算記号ではない)として使われた。マヤ文明は「20進法」をとる。

5世紀のインドでは、①・②・③のすべての要素をもつ「ゼロ」が発明された。インドでは、空の状態を「スンヤ」といって、小さなマルで表現した。これがアラビア語のスィフルとなり、さらにラテン語のゼフィルムとなり、「ゼロ」になったのである。「ゼロ」は「数がない」という意味であったが、やがて「無がある(ゼロという数がある)」と考えられるようになった。こうして、「ゼロ」は単なる記号ではなく、ある「値」をもち、その有無を問うことができる対象となった。[ゲージ1998:p.112-115]

【参考文献】
ドゥニ・ゲージ(藤原正彦監修)『数の歴史』創元社(知の再発見叢書74)、1998年

前298頃ー前235頃(中) 荀子⇒儒家

前290 アレクサンドリアにムセイオン設立⇒415 キリスト教徒によって破壊される(ヒュパティアの虐殺)。

前287頃ー前212(へレニスム) アルキメデス

前310頃ー前230頃(ヘレニズム) アリスタルコス

前275頃ー前194(ヘレニズム) エラトステネス

前3世紀(ヘレニズム)ヘロフィロス

○アレクサンドリア医学校の創設者の一人。ヘロフィロスは、人体解剖に基づいて理論を組み立てた最初の人物である。脳が神経系の中枢で、知性の拠点だと考えた。

前202~後8(前漢)中国最古の医書『黄帝内経』が成立。

前145頃ー前86頃(中)司馬遷(「中国の歴史の父」)⇒前97頃『史記』完成

1~10世紀

23頃ー79(ローマ帝国) (大)リニウス 『博物誌』

50頃-121頃(後漢)宦官の蔡倫が製紙法を改良(蔡侯紙)⇒751年に西伝したと伝わる。

○610:日本に伝来⇒「和紙」として発展(比較:「洋紙」は明治初年に伝来)
○(西方への伝播)751:タラス河畔の戦い(アッバース朝がタラス河畔の戦いで唐軍を撃退)で西伝開始⇒757:サマルカンド⇒794:バグダード⇒800:カイロ⇒1187:コルドバ⇒1494:イギリス
4-5.外戚と宦官

2世紀頃(ローマ帝国) プトレマイオス『天文学大全』⇒地球中心の天動説を唱える。

129頃-200頃(ローマ帝国) ガレノス(希: Γαληνός)

○ローマ帝国時代のギリシアの医学者。古代ローマ最大の医学者とされる。臨床医としての経験と多くの解剖によって体系的な医学を確立し、古代における医学の集大成をなした。彼の学説は、ルネサンスまでヨーロッパおよびイスラームの医学において支配的学説とされた。
【性・生殖】ガレノスは、ヒポクラテスと同様、「男女二精子論」(男女とも精子をもつと考える=卵子の存在を知らない)をとった。男女の生殖器については、相似形論をとった。すなわち、女性身体は、男性身体の内向型であるとみなし、外(男性)と内(女性)の相似形で男女身体を語ったのである。したがって、男女の中間形態の存在も想定された。

200頃(中国)医学書『黄帝内経』(鍼灸医学)と薬用植物学の書『神農本草経』が成立[梶田2003:p.123]

350/370頃ー415(ローマ帝国) ヒュパティアὙπατία, Hypatia

○ローマ帝国時代の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者。400年頃、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になる。彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行った。このころ、キリスト教会はローマ皇帝の保護をうけるようになっており、古代ギリシアの書物を保管していたアレクサンドリア図書館は破棄された。さらに、キリスト教の強硬派がアレクサンドリア総司教に任命されると、ヒュパティアは異教徒として虐殺された。彼女の虐殺をきっかけにアレクサンドリアから学者たちが亡命し、アレクサンドリアを中心として栄えた古代学術は凋落する。

虐殺されるヒュパティア、19世紀の想像図

4~5世紀(日)朝鮮半島から多くの渡来人。

431(カトリック教会)エフェソス公会議でマリアを「神の母」と認める。ネストリウス派が「異端」とされる。

○「ネストリウスはコンスタンチノープルの総主教であったが、早くから正統教父[義?(三成)]の『三位一体論』(神と子と精霊の一体論)に反旗を翻してキリストの人性を強調し、キリストの母マリアを『神の母』と呼ぶべきではない、と主張した」。[梶田2003:p.135]

○「異端論争が深刻な政治問題になるのは、一つには教会堂と教会財産がどちらの手に帰するか、という利害関係を伴うからである」。「教会史の立場から見ると、教義の合理的解釈に傾いたほうが異端とされる例が多い。宗教というものが、つねに何か非合理の核をない方するものだからである」。[森安達也『東方キリスト教の世界』:梶田2003:p.135]

458(インド)『ロカヴィバーガ』(ジャイナ教の経典)

「インド式位取り記数法」の誕生(1,2,3,4,5,6,7,8,9,0の数字をもちいた10進法)。「ゼロ」も用いる。数字そのもの(今日「アラビア数字」とよばれるが、アラビアで生まれたものではなく、インドで生まれた)は、前2世紀のインドにすでに存在したが、位取り原理はなく、「ゼロ」も用いられていなかった。
⇒773 アラビアに伝えられる。[ゲージ1998:p.53-54]

6~7世紀(インド)「負の数」概念をうみだす(「借金」を「負の数」として計算する必要から)。[ゲージ1998:p.84]

542 東ローマ帝国でペストが大流行。[梶田2003:p.106]

628(インド)ブラーマグプタ『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』

○「ゼロ(0)」概念を定義する。

630(日)第1回遣唐使(894中止)

750-1258 アッバース朝「イスラーム文化の黄金期」

773 「インド式位取り記数法」がアラビアに伝わる。

820 フワーリズミーの代数学に関する著作『インド式算術による加法と減法』

○そのラテン語訳(Algoritmi de numero Indorum) により「ゼロ」概念が西欧に広まっていった。[ゲージ1998:p.55]

830(アッバース朝)「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」の設立。

○アッバース朝第7代カリフ・マームーンがバグダードに設立した図書館。天文台も併設されていたと言われる。ササン朝の宮廷図書館のシステムを引き継いだもので、諸文明の翻訳の場となった。中心的な活動は、ギリシア語の学術文献をアラビア語に翻訳することにおかれた。

921ー1005(日)安倍 晴明(あべ の せいめい)

○平安時代の陰陽師

980-1037(アッバース朝)イブン・スィーナー

○イスラム世界を代表する知識人で、哲学者・医者・科学者。『医学典範』

11世紀

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ビンゲンのヒルデガルト

1008-1179(独)ビンゲンのヒルデガルト

○ビンゲンのベネディクト会系女子修道院院長。博物学書の執筆で有名。作曲家・画家としても知られる。「12世紀最大のヒーラー」とよばれる[小川2014:p.103]。
○主要著書:『神の御業(みわざ)の書』(1170)、『病因と治療』

1017-87 コンスタンティヌス・アフリカヌス(Constantinus Africanus)

○チュニジア生まれの医師。1077年にサレルノ医学校の教授となった。アラビア医学書を翻訳してヨーロッパに紹介したほか、多くの医書を残し、中世ヨーロッパの医療に大きな影響を与えた。

1031ー1095(中)沈括(しんかつ・Shěn Kuò)

○北宋時代の政治家・学者。博学で、著作『夢渓筆談』(1088年)でよく知られる。沈括は本書で、船舶修繕用乾ドック、航行用磁気羅針盤の使用のほか、『真北』という概念(および北極への磁気偏角)の発見について触れている。また沈括は、土地形成の地質学的理論(地形学)を創案したり、きわめて長い時間で地質学的地域に気候変動が起こることを理論化した。

11世紀末ー13世紀(欧)大学の成立

○大学では、ヨーロッパ共通言語として「ラテン語」(古代イタリア語)が使われた。ラテン語は当時すでに「死語」であった。大学に集まる人間は共通言語たるラテン語を学び、コミュニケーションをはかることができたが、ラテン語は日常言語ではないため、一般の人びとには理解が非常に困難であった。ラテン語は、18世紀まで学識者と非学識者を区別する手段として機能したのである。大学での授業もすべてラテン語で行われた。ドイツではじめてドイツ語で授業を行ったのはトマジウスであり(1688年)、これがドイツ啓蒙主義の幕開けとなった。

【法制史】中世の大学と法学教育(三成美保)

【特論2】西洋中世の大学と学生生活ーバルトルスとその遺産(三成美保)

6-8.中世ヨーロッパの女性知識人と大学

【解説】啓蒙主義の比較(英・仏・独)(三成美保)

【解説】自由学芸7科

「自由学芸7科」とは、「人文」にかかわる3科目の「三学」(トリウィウム、trivium)と「科学」に関わる4科目の「四科」(クワードリウィウム、quadrivium)の2つに分けられる。三学が「文法・修辞学・弁証法(論理学)」、四科が「算術・幾何・天文・音楽」である。ヨーロッパ中世の大学では、専門学部(神・法・医)にあがるまえの「学芸学部(哲学部)」で「自由学芸7科」が学ばれた。

右図は、Philosophia et septem artes liberales, The seven liberal arts – Picture from the Hortus deliciarum of Herrad of Landsberg (12世紀)。中央の玉座に座るのが、「哲学」である。

12世紀

1101-64 エロイーズ

13世紀

1225頃-74 トマス・アクィナス

1290頃ー1340頃 ウィリアム・オブ・オッカム

14世紀

1346/47ー14世紀末(欧)ペストの大流行

1365頃ー1430 クリスティーヌ・ド・ピザン

○ヨーロッパ初の女性職業作家

15世紀

1400頃ー1468(独)グーテンベルク

【文化】活版印刷術の発展ーグーテンベルク(三成美保)

1473-1543(ポーランド)コペルニクス

1486 ハインリヒ・クラーメル『魔女の槌』を著す。

【史料】魔女の鉄槌

【法制史】糾問主義ー魔女裁判の手続き(三成美保)

1492 コロンブスの隊員がアメリカ現地人とまじわって梅毒をヨーロッパに持ち帰ったとする説がある(有力説)。

「コロンブス交換」

1493-1541(スイス)パラケルスス

○医師、化学者、錬金術師。

16世紀

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アンドレアス・ヴェサリウス

1514-64(ベルギー:当時は神聖ローマ帝国)アンドレアス・ヴェサリウス(Andreas Vesalius)

○16世紀は「解剖学」が盛んとなったが、ヴェサリウスは、その16世紀解剖学を代表する解剖学者、医師。長く権威とされたガレノスの解剖学がサルの解剖に基づくと批判し、人体解剖にもとづく知見を発表した。
○1543 『ファブリカDe humani corporis fabrica:人体の構造)』を公刊。その後、ヴェサリウスは、神聖ローマ皇帝の侍医となった。

『ファブリカ』

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Gabriele Falloppio

1523‐62(伊)ガブリエレ・ファロッピオ(Gabriele Falloppio)

○16世紀を代表する解剖学者、医師の一人。フェラーラ大学に学び,フェラーラおよびピサ大学教授を経て,1551年にパドヴァ大学の解剖学・植物学教授となった。頭部の解剖で多くの成果を残した。
【性・生殖】男女の生殖器についても研究し、輸卵管を発見した。輸卵管は彼の名を冠して「ファロピウス管」と呼ばれる。研究成果は、1561年『解剖学観察Observationes anatomicae』にまとめられた。しかし、輸卵管を発見したものの、ファロッピオは、男女の生殖器の根本的違いは考えず、ガレノス流の男女相似形説に立っていた。

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1530 コペルニクス『天球回転論』(公表は1543年)⇒地動説を唱える⇒「コペルニクス的転回」

1543(日)鉄砲の伝来

1548-1600 ジョルダーノ・ブルーノ

1549(日)キリスト教の伝来

1561-1628(英)フランシス・ベーコン

1563 ヨーハン・ヴァイヤーが魔女裁判批判書『悪魔の幻惑について』を著す。

1564-1642(伊)ガリレオ・ガリレイ

1571-1630(独)ケプラー

1578-1657(英)ハーヴェー

1578(明)『本草綱目』(李時珍)

1580(仏)ジャン・ボダン『魔術師の悪魔狂』

1582(日)天正遣欧使節が出発⇒1590帰国

1583-1645(蘭)グロティウス

1588-1679(英)ホッブズ

1596ー1650(仏)デカルト

17世紀

【解説】科学革命ー近代ヨーロッパの科学者にはプロテスタントが多かった

17世紀における「近代科学」の成立を「科学革命」とよんだのは、イギリスの歴史家H・バターフィールドである(1949年:日本語訳『近代科学の誕生』1978年)。伊東俊太郎「科学革命について」によれば、この「科学」の特徴は次のようなものであった[以下①②③の引用は、梶田2011:p.172]。

①「神学者ではなく、実践的・合理的な知識人が担った。」
②「現象の背後にある本質を問うよりも、現象そのものの解析に向かった。」
③「科学が技術と手を結んだ、さらに研究者が共同する機関ができて科学が制度化した」

近代ヨーロッパの科学者にプロテスタントが多いことは、ロバート・マートン(1938)の指摘でよく知られるようになった。マックス・ウェーバーの名著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1929)は、この問題と深いところで触れ合っている。」[梶田2003:p.186-187]

その理由として、梶田は、メイスン『科学の歴史』(1955-56)をひきながら、2点を指摘する。

「第一に、初期プロテスタントの心性と科学的態度の類似である。(中略)第二に、宗教的目的を達成するために科学の利用。これはとくにイギリスの清教徒が重視したことで、かれらにとって『良い仕事』が救済の保証なのであり、科学の研究は『良い仕事』に含まれていた。」[梶田2003:p.188]

1610(朝鮮)許浚(ホ・ジュン)が『東医宝鑑(トンイボガム/동의보감)』を完成させる。

Margaret Cavendish

1623-73(英)マーガレット・キャペンディッシュMargaret Cavendish(自然哲学者)[シービンガー1992:67-83頁]

1626-89 クリスティナ女王

1628 ハーヴィ『心臓と血液の運動』刊行⇒近代医学の始まり[梶田2003:p.180]

1632(伊)ガリレiイ『二大世界体系対話』(『天文対話』)⇒地動説を確認

1632-1704(英)ロック

1635(日)日本人の海外渡航・帰国を全面禁止

1635(仏)フランス学士院(アカデミー・フランセーズ)設立

1637 デカルト『方法序説』(「我思う、ゆえに我あり」)

1642-1727(英)ニュートン

1642-1708(日)関孝和(和算)

1647ー1717(独)マリア・シビラ・メーリアン

【女性】マリア・シビラ・メーリアン(1647-1717)

17世紀半ば~18世紀初め(日)元禄文化(5代将軍・綱吉)

○学問を奨励

1662(英)ロンドン王立協会設立

【解説】ロンドン王立協会と大英博物館

『哲学会報』創刊号

ロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)は、現在まで続く学会としてはもっとも古い。当時、科学はまだ「職業」として自立しておらず、もとは、ベーコンの経験主義を掲げる民間学者(趣味として実験や観測を楽しむ「素人」)の集まりであった。1662年、イギリス国王チャールズ2世の勅許を得て、「ロイヤル(王室公認)」となった。しかし、王立ではなく、会員が負担する会費で運営される私的団体である。

「メンバーは清教徒が多く、当時の政治対立では議会派に属していた。1663年の会員68人のうち、42人が清教徒かつ議会派、26人が王党、ハーヴィは後者の側だった」[梶田2003:p.185-186]。

ニュートンは、1672年に会員となり、1703-1727年に会長をつとめた。

⇒1665 ロンドン王立協会が定期刊行の学術雑誌『哲学会報』を創刊。

ニュートンの後任であるスローンは、王室の侍医をつとめていた。彼は、8万点にも及ぶ品を収集し、遺言で国がコレクションを管理し、一般に公開する機関の設立を求めた。これがもとになり、大英博物館が創設された。他方、1666年に設立されたパリ王立科学アカデミーは、宮廷(ルイ14世)からの援助で運営される文字通りの「王立」であった。

(参考文献)小山慶太『科学史年表、増補版』中公新書、2011年、33頁、68-69頁。

1666(仏)パリ王立科学アカデミー設立

1672(蘭)リーニエル・デ・グラーフが卵子理論を発表。

【性・生殖】卵子理論は、長く信じられていたヒポクラテスやガレノスの「男女二精子論」を打破するものであったため、医学者たちから強い抵抗にあった。(エヴリーヌ・ベリオ=サルヴァドール「医学と科学の言説」『女の歴史』Ⅲー2、p.547)

1687 ニュートン『プリンキピア』

1689-1755(仏)モンテスキュー

1694-1774(仏)ケネー

1694ー1778(仏)ヴォルテール

1697(日)宮崎安貞『農業全書』(日本初の総合農業技術書)

1700(独)ベルリン王立科学協会

18世紀

1701(独)トマジウス『魔術の犯罪について』(魔女の実在性を否定)

1703 ライプニッツが「2進法」を提唱⇒コンピューターは「2進法」[ゲージ1998:p.62]

1706-49(仏)エミリ・デュ・シャトレ(デュ・シャトレ侯爵夫人)

【女性】エミリ・デュ・シャトレ(デュ・シャトレ侯爵夫人)1706-49(仏)

エミリ・デュ・シャトレ

名家に生まれ、最高水準の教育を受けて育つ。19歳のときに貴族には普通であった政略結婚をして、三人の子をもうけた。24歳のときに地方生活の夫と別居 し、宮廷社会で暮らす。貴族の常として、彼女は愛人をもった。彼女の愛人はみな知的であり、学者や詩人もいた。ヴォルテールとも愛人関係にあり、互いに知的刺激を与えあった。このころ、エミリは物理学や数学の研究を行っている。

学術的著述

  • Dissertation sur la nature et la propagation du feu (1st edition, 1739; 2nd edition, 1744)
  • Institutions de physique (1st edition, 1740; 2nd edition, 1742)
  • Principes mathématiques de la philosophie naturelle par feue Madame la Marquise du Châtelet (1st edition, 1756; 2nd edition, 1759)
  • 1749 ニュートンのPhilosophiae Naturalis Principia Mathematica (プリンキピア・マテマティカ、自然哲学の数学的諸原理)を、注釈を付けつつラテン語からフランス語へ全訳した。

(コメント:三成)婚姻が個人的好意や恋愛に基づくものではなく、家の政略であった時代には、家の跡継ぎとなる子を複数もうけたあと、夫婦が互いの愛人を黙認 して、別居するケースもあった。ただし、夫婦が共働きで「家」経営を支えねばならない手工業者や農民などでは別居はほとんどありえず、別居が可能なのは、夫婦が自立して生活できるだけの資産をもつ貴族や上層市民に限られた。近世ヨーロッパでは、公権力による臣民(農民・市民)の「規律化」がすすみ、性風俗の管理が強化されたが、そのようなセクシュアリティ管理は臣民層でも決して徹底できなかった。また、「規律化」は貴族身分には及ばなかった。貴族身分では、婚姻外での恋愛や交遊が、男女を問わず、個人の自己実現や精神的安定に大きな意味をもちえたのである。これに対して、19世紀以降のヨーロッパの上層市民層では、男性には自分や他人の家庭をこわさない限りで婚姻外の性愛・恋愛・交遊が認められたが(ただし男性同性愛行為はタブー)、女性は父や夫の保護下におかれ、貞操を厳しく管理されるようになった。これを「性の二重基準」という。

1707-78(スウェーデン)リンネ

【科学史】ロンダ・シービンガーの科学史・科学政策研究(小川眞里子)

ボローニア大学でのラウラ・バッシ

1711-88(伊)ラウラ・バッシ

○ボローニア大学で物理学の名誉教授職を得る。

1714-74 アンナ・マンゾリーニAnna Morandi Manzolini

Anna Manzolini2.jpg

1712-78(仏)ルソー

1713(日)『養生訓』(貝原益軒)

1717(仏)ダランベール生まれる。母親のタンサン侯爵夫人は、婚外子のダランベールを捨て、のちに、自分のサロンに迎え入れた。

1718-99 マリーア・ガエターナ・アニェージ

1723-90(英)アダム・スミス

1733(英)ジョン・ケイが「飛び杼(とびひ)」を発明⇒綿織物作業の効率化⇒産業革命

1734(仏)ヴォルテール『哲学書簡』

1743-94(仏)ラヴォアジェ

1749(仏)シャトレ侯爵夫人『プリンキピア』のフランス語訳を完成。

1753(英)大英博物館設立

1765-69 ワットが蒸気機関を改良

1774(日)『解体新書』(杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周、嶺春泰、石川玄常、烏山松圓、桐山正哲

1776 アダム=スミス『諸国民の富』

1798 マルサス『人口論』

1798 ジェンナーが種痘法を開発。

1799(英)【性・生殖】世界初の配偶者間人工授精を実施⇒1804(仏)仏で最初の配偶者間人工授精を実施。(ジャクリーヌ・コスタ=ラスクー「生殖と生命倫理」『女の歴史』Ⅴ)。

19世紀

1809-1882(英)ダーウィン

1815(日)『蘭学事始』(杉田玄白)

1825(英)蒸気機関車の実用化⇒1830(英)公共鉄道の開通

○1804(英)蒸気機関車の発明⇒1814(英)スティーブンソンの蒸気機関車

1851(英)ロンドン万博(世界初の万国博覧会)

1859 ダーウィン『種の起源』1896 日本語訳

1865 「メンデルの法則」を発表

1867ー1934(ポーランド)マリー・キュリー

1867(仏)パリ万博江戸幕府が日本の美術工芸品を出品「ジャポニズム(日本趣味)」がうまれる。

1868(日)明治維新

1869(墺)【性・生殖】オーストリア=ハンガリーの医師ベンケルトにより「同性愛(Homosexualität)」という語が考案される。

1869 スエズ運河の開通

1869 アメリカ横断鉄道の開通

1869(英)週間科学雑誌『ネイチャー』の創刊。

1870年代~1910年代 【性・生殖】社会ダーウィニズム(社会進化論)の流行

1872(日)道が開業(新橋~横浜)

1873(独)ドイツ医師協会連合(全国組織)の設立⇒毎年、「ドイツ医師会議」を開催(現在に至る)。

1873 ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンがらい菌を発見⇒今日では、「ハンセン病」とよばれる。

1882 コッホが結核菌を発見。

1883(英)【性・生殖】フランシス・ゴールトンが「優生学(eugenics)」という新語を発表。

1884 コッホがコレラ菌を発見。

1887(独)【性・生殖】精神医学者クラフト・エビング『精神病理(第2版)』が、同性愛を「変態性欲」と記述する。

⇒1892(英)「ホモセクシュアリティ」を英語に導入。

1913(日)クラフト・エビング『変態性慾心理』(1894年に翻訳出版されたクラフト・エビング『色情狂』[発禁処分]の改題)翻訳出版。

1895 レントゲンがX線を発見。

1898 マリー・キュリーとピエール・キュリーがラジウムを発見。

20世紀

1901 ノーベル賞の授賞開始。

最初のノーベル賞を受賞したころのマリー・キュリー

1903 ピエール・キュリーとマリー・キュリーが夫婦でノーベル賞(物理学賞)を受賞。

⇒1911 マリー・キュリーがノーベル賞(化学賞)を受賞。

○フランス科学アカデミーはマリーをアカデミー会員に選出しなかった。同アカデミーが女性を会員にしたのは、1979年である。

⇒1935 フレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリー(マリー・キュリーの娘)が夫婦でノーベル賞(化学賞)を受賞。

1903 ライト兄弟が飛行機を発明。

1903(英)社会学会の設立

1905 アインシュタインが相対性理論を発表。

1905   W.ベイトンが「遺伝学」という語を考案。

1907 【性・生殖】優生学教育学協会⇒1926 優生学会と改称

1907(米)【性・生殖】世界初の断種法が成立(インディアナ州)

【アメリカ史】近代アメリカ社会の構造と優生学(三成美保)

1908-10 W.ヨハンセンによって「遺伝子」という概念が成立。

1911 マリー・キュリーがノーベル賞(化学賞)を受賞。

1912 【性・生殖】第1回国際優生学会の開催。

1913 フォード、自動車の大量生産をはじめる。

1914(米)【性・生殖】マーガレット・サンガー「バース・コントロール」という語を考案。

1919(独)【性・生殖】ヒルシュフェルトがベルリンに「性科学研究所」を設立。

1920 ラジオの商業放送が始まる。

1920(独)【性・生殖】ビンディング/ホッヘ『生きるに値しない生命の抹殺の解除』

1933(独[ナチス])【性・生殖】遺伝病子孫防止法(ナチス断種法)が成立

1935(独[ナチス])帝国医務規定の制定⇒「帝国医師会」の成立(医師のナチ化)。

Irène、Frédéric, 1934 in London

1935 フレデリック・ジョリオ=キュリーとイレーヌ・ジョリオ=キュリー(マリー・キュリーの娘)が夫婦でノーベル賞(化学賞)を受賞。

 

1936(英)テレビの本放送

1943 ハンセン病治療にプロミンが有効であると報告される。

1945(米)原子爆弾の開発(最初の実験は7月16日)⇒長崎と広島に原子爆弾を投下。

【年表3】核開発と核の「安全神話」 (富永智津子)

1946-47(独)ニュルンベルク継続裁判⇒医師裁判(人体実験を裁く)

1946 初のコンピュータ

1949(日)湯川秀樹がノーベル賞(物理学賞)を受賞(日本人初)。

1953 ワトソン(米)とクリック(英)がネイチャー誌に、遺伝子はDNAの二重らせんであると発表⇒1962 ノーベル賞受賞

分子生物学、バイオテクノロジーの幕開けとなる。

【女性】ロザリンド・フランクリン(1920-58)ーDNA二重らせん構造の発見者

Rosalind Franklin.jpgロザリンド・フランクリンは、イギリスの物理化学者、X線結晶学者。DNA結晶解析に重要な貢献をしたにもかかわらず、正当に評価されてこなかったが、近年、再評価が進んでいる。

ロザリンドは、ロンドンのユダヤ人家系の銀行家の家庭に6人きょうだいの長女として生まれた。裕福な両親は、ロザリンドが9歳のときから寄宿学校に入学させ、可能なかぎり最高の教育をうけさせた。寄宿学校卒業後はケンブリッジ大学のニューナム・カレッジで学んだ。当時のケンブリッジ大学は、女性とユダヤ人の入学を認めてからまだそれほどたっておらず、必ずしも女性が自由に研究に没頭する環境にはなかった。しかし、ロザリンドは研究にいそしみ、大学をトップクラスで卒業し、さらに大学院に進んだ。

フランス留学後の1950年、ロンドン大学のキングス・カレッジに研究職を得て、X線結晶学の研究に没頭した。X線結晶学とは、結晶へのX線照射による物質の散乱パターンを逆フーリエ解析を用いて解き、当該物質の分子構造を解明していこうというものである。彼女にあたえられた研究テーマは、X線によるDNA結晶の解析であった。

研究に着手してほぼ1年後の1951年、ロザリンドは、DNAには水分含量の差によって2タイプ(A型とB型)存在することを明らかにし、それを互い に区別して結晶化する方法を確立させた。また、そこにX線を照射して散乱パターンの写真撮影に成功していた。さらに、これらについてはデータを公表せず数学的解析を自力で進めていた。1953年には、DNAの二重らせん構造の解明につながるX線回折写真を撮影している。

ロザリンドと対立していたウィルキンスは、彼女に無断でその写真をワトソンとクリックに見せた。これが、「DNAらせん構造」発表の根拠となる。まもなく、ロザリンドはガンで死亡した。1968年にワトソンが公刊した『二重らせん』で、ロザリンドは「ヒステリックなダークレディ」とされ、否定的評価をされた。そのイメージがつきまとっていたが、近年、再評価がすすんでいる。

○参考文献
『ダークレディと呼ばれて-二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実』ブレンダ・マドックス著 /福岡伸一訳(化学同人、2005年)
隠された科学者-ロザリンド・フランクリン- (福岡伸一) (PDF) -数研出版サイエンスネット(2007年11月号)

1954(ソ連)世界最初の原子力発電所(オブニンスク原子力発電所)設置。

【年表4】原子力発電所建設との闘い―立地反対運動と原発訴訟(富永智津子)

1961(ソ連)ガガーリンが初の有人宇宙飛行。

1962 カーソン『沈黙の春』出版。

1965(国際)ヘルシンキ宣言にてニュルンベルク・コード(インフォームド・コンセント=人体実験の規制)を世界医師会で確認。

「バイオエシックス第1期」(1960年代半ば~1970年代半ば):テーマは、人体実験とインフォームド・コンセント[市野川2002]

1967(南アフリカ)世界初の心臓移植手術(クリスチャン・バーナード)

⇒アメリカにとっては「出し抜かれた」との思いが強く、これを機に「第一次心臓移植ブーム」が巻き起こった。この後の心臓移植手術の多くはアメリカで行われた。[米本1988『先端医療革命』p.26]

1968(日)日本初の心臓移植(いわゆる「和田心臓移植事件」)。

1968(米)ハーバード大学脳死基準(「その後の議論の本性を決定づけた、きわめて重要なもの」[米本1988『先端医療革命』p.27])

1969(米)アポロ11号月面着陸。

1971-74(米)ニクソン大統領

○科学政策をアポロ計画から、医学・バイオテクノロジー重視へと転換する[米本1988『先端医療革命』第1章]⇒遺伝子診断技術の発展。

1973(米)【性・生殖】ロウ判決(中絶を女性の「プライバシー権(自己決定権)」として認める。

【用語】自己決定権(プライバシー権)

「バイオエシックス第2期」(1970年代半ば~1980年代半ば):テーマは、生命の始まりと終わりをめぐる線引き[市野川2002]

【解説】「脳死」と「中絶」ー1970年代バイオエシックスの2大テーマ

欧米では、「脳死」と「中絶」がともに論じられたが、日本での議論は「脳死」に集中した。すでに優生保護法(1948)で、中絶が事実上自由化されていたためである。また、中絶を禁じるキリスト教のような宗教的背景も日本には存在しなかった。その結果、欧米で「中絶の権利」が「自己決定権」としてフェミニズムの第2の波の中心的課題となったのに対し、日本では「中絶の権利」を求める運動が欧米ほど広まらなかった。

しかし、日本における中絶の「事実上の自由」は、決して「権利としての自由」ではない。優生保護法もその改正法としての母体保護法(1996)も中絶については「適応規制モデル」(一定条件に合致した場合に中絶を認める)をとっている。両法とも、妊娠初期3ヶ月について中絶理由を問わない「期間規制モデル」(自己決定権タイプの法)ではない。

【参考文献】三成美保『ジェンダーの法史学ー近代ドイツの家族とセクシュアリティ』勁草書房、2005年

1976(米)【性・生殖】国家遺伝病法の成立⇒出生前診断技術の発展。

○出生前診断技術の発展は、リベラル・フェミニズムが主張する女性による生殖の「自己決定権」(中絶の権利)と親和的。
○1979(米)羊水穿刺の実用化

1978(英)【性・生殖】世界初の体外受精に成功(いわゆる「試験管ベイビー」)⇒「生殖革命」

⇒1981フランス、1982ドイツ、日本で成功。

1981(米)エイズに関する初のマスコミ報道。

「バイオエシックス第3期」(1980年代半ば~2000年頃):テーマは、バイオエシックスの経済化・医療経済)[市野川2002]

1988 地球温暖化論争が活発になる(アメリカの大干ばつがきっかけ)[小川2011:p.280]

1990 ヒトゲノム計画の開始

⇒2003 ヒトゲノム解読完了

1996 【性・生殖】クローン羊ドリー誕生。

2006(日)山中伸弥がiPS細胞の作成に成功。

【参考文献】

三成・姫岡・小浜編『歴史を読み替えるージェンダーから見た世界史』大月書店、2014年

三成美保「6-8:中世ヨーロッパの女性知識人と大学」
小川眞里子「6-9:中世ヨーロッパの医学校・修道院」
小川眞里子「9-5:食・薬の伝来と変化ーアメリカからヨーロッパへ」
小川眞里子「9-7:科学革命とジェンダー」
小川眞里子「11-11:男性優位の科学への挑戦ー女医の誕生」
小川眞里子「15ー10:現代化学とジェンダー」

ロンダ・シービンガー(小川眞里子他訳)『科学史から消された女たちーアカデミー下の知と創造性』工作舎、1992年

ドゥニ・ゲージ(藤原正彦監修)『数の歴史』創元社(知の再発見叢書74)、1998年

市野川容孝編『生命倫理とは何か』平凡社、2002年

『生命倫理学事典』太陽出版、2002年

小山慶太『科学史年表、増補版』中公新書、2011年

梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003年