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【特論16】帝国と女性―王女サルメの世界から(富永智津子)
掲載:2015.08.27 執筆:富永智津子
【英語】→*Woman and Empires ―From the World of Princess Salme(Chizuko Tominaga)
はじめに
本稿は、ザンジバルというアフリカ大陸東部沿岸の小さな島に生まれた王女サルメの生き方を読み解くことを課題としている。
サルメは、オマーン・アラブの出自ではあるが、ザンジバルというスワヒリ社会の中で育ち、20歳を過ぎてドイツに移住。晩年に近い20年ほどをレバノンで過ごしたいわばアラブ=スワヒリ・ディアスポラである。これを政治史的に見れば、オマーンという西アジアの「帝国」のアフリカ植民地ザンジバルから「追放」され、ドイツとイギリスというヨーロッパの2大「帝国」に翻弄され、ついにはどちらにも見捨てられパレスティナに安住の地を求める。しかし、第一次世界大戦によりそこからも退去を余儀なくされた女性の一生、ということになる。論点は①サルメという女性を生み出した歴史的・社会的背景、②ムスリムからキリスト教徒への改宗とそれにともなうサルメの葛藤、③政治をめぐる女性領域と男性領域、そして最後に④帝国主義時代に生きた女性が何と闘っていたのか、を問うてみたい。情報源は、特に断らない限り、オランダ人でライデン大学中東研究所の元所長E.van Donzelが編集したサルメの回想録に依拠している。
サルメの誕生
王女サルメの父は、オマーンと東アフリカ沿岸部を領域とするイスラーム王国の盟主サイード・ビン・スルターン、母はこのサイード王の側室のひとりだった。
母の名はジルフィダン。ジルフィダンは中央アジアでオスマン朝の遠征軍の捕虜となり、東アフリカ沿岸部のザンジバルという小さな島に拠点を定めたサイード王のもとに奴隷として売られてきたサーカシアン(チェルケス人)の女性である。売られてきた時は、まだ幼女だったといわれている。長じて、サイード王の側室となった。サルメは1844年、このサーカシアンの側室を母として、オマーン人でありながら、ザンジバルというオマーンとは全く異なるアフリカ的環境のザンジバル島で生を享けた。
ザンジバルという島
空から見るザンジバル島は、ココヤシやマンゴーの林が織りなす緑一色の小さな島である。島の面積は1,500平方キロ。佐渡島の約2倍。人口は約60万(2002年)。藍をまき散らしたようなインド洋の波間に、いまにも溶けてしまいそうに漂っている。長い長い歴史の紆余曲折を経て、現在はタンザニア連合共和国に属している。
大陸沿岸から目と鼻の先に浮かぶこの小さなサンゴ礁の島は、東部アフリカ沿岸のソマリア南部からタンザニア南部に沿って展開したスワヒリ文化圏に属している。最盛期は19世紀。サルメの父サイード王が、この島にオマーンから都を遷したのをきっかけに、インド洋西域とアフリカ大陸を結ぶ交易中継地として浮上した。サイード王のねらいもここにあったのだろう。やがて、アメリカを嚆矢として、イギリス、フランス、ドイツのハンザ自由都市が次々に領事館を設置。アフリカ内陸部から運ばれる象牙や奴隷、あるいはその他さまざまな熱帯産品をめぐってアメリカやヨーロッパの商人がアラブ商人やインド人商人としのぎを削るコスモポリタン的なスワヒリ都市(のちに「ストーンタウン」と呼ばれるようになる)が出現することになる。サルメは、このストーンタウン近郊のムトニと呼ばれる離宮で生まれ育った。
現在のストーンタウン(2000年にユネスコ世界文化遺産に登録)
ムトニ離宮
ムトニ離宮は、サイード王が建設したいくつかの離宮のうちで最も古く、最も大きな離宮だったとされている。サルメは、母親や異母兄弟姉妹とともに、大勢の奴隷に囲まれて、七歳までをこのムトニ離宮で過ごした。
わ たしが初めてこの離宮を訪れたのは、かれこれ20年前のことになる。ストーンタウンから車で10分ほどの郊外に、その廃墟が残っていた。石造りの壁は剥げ落 ち、二階に通じる階段は崩れ、天井も抜け落ちて、すっかり廃墟と化していた。かつての面影はなく、いたるところがアフリカマイマイやこうもりの住み家と なっていた。
2008年9月、久しぶりにムトニを訪れた。観光客誘致をねらって、序々に修復が進められており、かつての全容が復元されつつある。
ム トニ離宮は、ザンジバルにクローヴをもたらしたアラブ人が所有していた館を、サイード王が手に入れて改修したものだと伝えられている。ムトニは「小川のそ ば」を意味するスワヒリ語である。ということは、近くに小川があるはずだ。ところが、あたりを見渡しても小川がない。なのに、なぜこの名前が付いているの か。その謎が、今回の訪問で解けた。遠くの川から引いてきた水が宮殿の中に張り巡らされた水路を通って、海に注いでいたのだ。この水路を「小川」に見立て たのだろう。流水が汚れないよう、屋外の水路には石の覆いがかけられていたという。
宮殿の案内所で入手したパンフレットには当時の写真が掲載されており、わたしはぜひその元になった写真を見たいと思い、ザンジバル国立文書館に向かった。
久しぶりの文書館には、パソコンが配備され、すべての写真資料がそこに保存されていた。かなり膨大な、しかも時代や撮影場所も不明な写真にまじって、ムトニ宮殿の古い写真を見つけた。
キャ プションにはサイード王の死後王位を継いだ「マジド」(在位1856―70)という文字も書かれている。このことから、この写真はマジドの治世の間に撮ら れたものと推察される。英語のキャプションが付けられていることから、当時のイギリス領事館関係者か宣教師が撮影したものである可能性が大きい。
サルメは1888年にドイツ語で回想録を出版している。アラブの王女が自分で書いた回想録ということもあり、出版されるやすぐに英語やフランス語訳が出るなど、欧米で注目を浴びた。百年以上の時を経て現在なお、貴重な史料として新しい版を重ねている。
ザ ンジバル生まれの王女が、ドイツ語で自伝を書くにいたったのはなぜか。その歴史的経緯を紐解いてゆくと、そこには、19世紀末の帝国主義時代の女性と帝国 の確執が見えてくる。それは、いったいどのような確執だったのか。サルメは何と闘っていたのか。以下、この回想録を読み解きながら、サルメのいわばアラ ブ=スワヒリ・ディアスポーラとしての生涯をたどってみることにしよう。
離宮の住人たち
「マスカト・イマーム、およびザンジバル・スルタン」の称号を持つサルメの父サイイド・サイードは、ムトニ離宮の海に近い一翼に正室とともに暮らしていた。一週間のうち3日はサーヘルと呼ばれていたストーンタウンの宮殿で執務を行い、ムトニ離宮には週4日滞在するのが慣例となっていた。幼いサルメの記憶にある父は、白いひげを蓄えた中背の初老の男性であり、その容貌は並はずれて魅力的で人を惹きつける何かを感じさせるばかりでなく、その風貌全体が崇敬の念を起こさせるものだった。戦争好きで征服に喜びを見出す父ではあったが、家長として、また君主として一家の手本となっていた。正義を重んじ、罪を犯した者に対しては、息子であろうと奴隷であろうと区別はしなかった。全能なる神の前にはきわめて謙遜かつ慈悲深く寛大で、ユーモアを好んだ。倹約を旨とし、忠実な奴隷の結婚式には、自ら馬に乗って祝福を与えに出向くことすらあった。
一方、幼くして家族から引き離されてザンジバルに連れてこられたサーカシアンの母は、同い年の王女たちの遊び相手として身請けされ、これら王女たちと一緒に教育を受けて育った。母は格別美人ではなかったが、背が高く、黒い瞳とひざまで延びた黒髪が特徴的だった。とても優しい気質の持ち主で、病人の世話をよくしていた。それほど知的ではなかったが、針仕事には秀でていたという。母はサルメの他にもうひとり娘を産んだが、小さい時に亡くしている。
ムトニ離宮には多くの側室とその子供たちがいたが、実質的に離宮を支配していたのは、オマーン生まれである正室ビビ・アザだった。王である父さえもこの正室には頭が上がらず、彼女のいいなりになっていた。老若男女、身分の高低を問わず、誰もがビビ・アザを恐れていた。彼女に好意を持つ者はいなかったという。
ムトニ離宮では、男の子が女の子より格別な権利を与えられるということはなかった。両親は男の子だからという理由で、女の子より可愛がるということもなかった。遺産相続などの法的権利をのぞけば、誰もが平等に愛され、扱われていた。ただし、お気に入りの子供ができるのは人間の性ゆえ仕方がない。父の場合、お気に入りの子供は息子ではなく2人の娘シャリーファとホーレだった。
父には2人の正室と75人の側室がいた。正室に子供が生まれなかったため、父が死んだときに存命だった子供35人はすべて側室の子供たちである。
側室は、サルメの母のようなサーカシアン(チェルケス人)であったり、ホーレの母親のようにアッシリア人(アッシリア語を話す人々で現在もシリアなどに住む)であったり、あるいは、アビシニア人(エチオピア人)であったりグルジア人であったりした。
ワトロ宮殿
サルメ7歳の時、母はサルメを連れてストーンタウンに移り住むことになる。12歳年長の異母兄のマジドが独立してストーンタウンのワトロ宮殿で暮らすことになったからである。同じサーカシアンの女性だったマジドの母が、亡くなる時に、サルメの母に親代わりを頼んだからだった。
海を臨むワトロ宮殿は、世界のさまざまな文化の香に満ちていた。床にはペルシア絨毯が敷きつめられ、まっ白い壁に穿たれた窪みには高価なグラスや中国製陶器が飾られ、床から天井にとどくようなヨーロッパ製の大きな鏡が、その前を通る人々を威圧していた。偶像を廃するイスラーム社会の掟に従い絵画は飾られていなかったが、大きな時計が鏡の両脇に、そして部屋の隅にはインド人大工によって製作されたローズウッド製のアラブ様式のベッドが据えられていた。ベッドは足台が必要なほど高く、下の空間は、乳母や病人を看護する女性が寝るスペースとして利用されていた。部屋にはテーブルはなかったが、椅子はあった。洋服ダンスのようなものはなく、大きな箱型のチェストを使用していた。その内部には宝飾品や現金を入れる秘密の場所も確保されていた。
ムトニ離宮に比べ、閉鎖的なワトロ宮殿での生活は、サルメにとって窮屈なものだった。大勢の異母兄弟たちに会えない寂しさもあった。そんなサルメを慰めてくれたのが、フェンシングや乗馬を教えてくれたマジドだった。これらは、レース編みや針仕事などよりサルメの性に合っていた。やがて、サルメはこうした自由を満喫するようになってゆく。母親は、異母姉のハディジャ(マジドの妹)の養育にかかりきりになっていて、サルメを放任していたということもあった。サルメはむしろアビシニアンの側室に親近感を抱いていた。ムトニ離宮との交流も続いていた。母親と一緒に訪れることもあったが、たいていは信頼できる奴隷が運ぶ伝言が交流の手段だった。そうした奴隷が主人を裏切ることもまれではなかったが、彼らが自立できる道はきわめて限られていた。主人とともに暮らすことが、かれらにとっては最も意味ある選択なのだとサルメは回想している。
サーヘル宮
サイード王のストーンタウンの住まいであるサーヘル宮は、サルメにとって驚嘆の空間だった。大勢の奴隷たち、運び込まれる大量の肉や野菜・・・そして公式の場で使用されるアラビア語とともに飛び交うペルシア語、トルコ語、チェルケス語、スワヒリ語、ヌビア語、アムハラ語・・・・。そして、ムトニ離宮より多いさまざまな皮膚の色をした側室。彼女たちから生まれた異母兄弟姉妹の間には、時折ある種の「人種差別」的感情が暴発することもあった。たとえば、アビシニアンの側室の子供たちは、サーカシアンの側室の子供たちを「猫」と呼んだ。不幸の兆候である青い目を持っていたからだった。
側室の中にはきわめて強い意志と支配力を行使する者もいた。たとえばハリッドの母であるサーカシアンの側室。彼女は、父の不在中代理を務めたハリッドをさ しおいて、実権を行使したばかりでなく、交易にも強い関心を抱き「ヒンドゥー商人」というあだ名まで付けられていたという。
教育
王女たちには、オマーンから家庭教師が派遣されてきていた。しかし、サルメが教育を受ける年齢になった時、ふさわしい家庭教師が見つからなかったこともあり、父は、サルメに毎朝のコーランの朗読を義務づけた。あまり勉強熱心ではなかったが、異母兄弟姉妹と一緒に勉強できることや、とりわけあこがれの異母姉のホーレが母親がわりに面倒をみてくれることになり、それがサルメの大きな励みとなった。当時、女の子はコーランを読めさえすればよいとされており、文字を書くことは教えられなかった。しかしサルメは、コーランの文字を独学で学び、アラビア語の書き方を習得した。
プランテーション
王室の財産は、交易からの収益と農村部のクローヴ・プランテーションからの収益に大別できる。サルメの父であるサイード王は、ザンジバル島全土に45のプランテーションを所有していた。それぞれに50人から500人の奴隷労働者が、アラブ人の管理人のもとでプランテーションの維持にあたっていた。
こうしたプランテーションへの遠足は、サルメの楽しみのひとつだった。遠足の日時や場所はすべて父が決定した。インド人ダンサーやフランス領事館付きの医者の娘が同行することもあり、その娘が寝る前に寝巻きに着替えるのを初めて見て、皆で大笑いしたこともあったという。アラブの習慣によれば、着替えは洗濯する時だけ。通常、昼間の衣装が夜にはそのまま寝巻きになるのである。
オマーンとの関係
父は、何年かに一度はオマーンを訪れ、さまざまな政治的案件の調停にあたっていた。奴隷がしばしば職業訓練のためにオマーンに派遣されていたのも、こうした両地域の関係があったからだ。しかし、ザンジバルを拠点とする王室の女性メンバーは、オマーン訪問に積極的ではなかった。プライドの高いオマーン女性たちが、ザンジバル生まれの女性を野蛮人のように扱ったからである。ザンジバルにやってきたオマーン生まれの異母兄弟姉妹たちも、この尊大さを共有していた。彼らは、黒人の中で育った者は、黒人の何かを受け継いでいるにちがいないと思っていた。とりわけ、アラビア語以外の言葉を話せることが軽蔑の対象となっていたという。
父の死
サルメの父サイード王は、オマーンのアル=ブーサイーディ王朝三代目の支配者である。現オマーン王カブースは、サイード王の息子のひとりであるトゥルキの4世代後の直系にあたる。つまり、サルメはトゥルキ王の異母兄妹にあたり、ザンジバル生まれとはいえ、現オマーン王室にとっても縁の深い王女なのである。
サイード王は1856年、オマーンからザンジバルに戻る航海上で病に倒れ死去した。王位を継いだのはマジドだった。
サイード王の死後、イスラーム法にのっとり遺産相続が行われた。女子は男子の2分の1の相続権があり、サルメも法定年齢の12歳に達していたとみなされ、3つのプランテーションを相続した。このプランテーションはサルメがドイツへと逃避行をする際に処分し、現金化したが、その後に亡くなった親族の財産の相続分をめぐって、サルメはバルガッシュと長期にわたる確執を展開することになる。
宮廷クーデタ
父サイード王の死後、サルメは母と敬愛する異母姉ホーレと一緒に暮らしはじめた。その3年後の1859年、ザンジバル島をコレラの大流行が襲い、母がその犠牲になった。両親という後ろ盾を失い途方にくれていたサルメに追い打ちをかけるように不幸な事態が展開する。王族内部の対立抗争である。派閥ができ、これまでの穏やかな宮廷が、猜疑心と陰謀の巣窟と化した。やがて、王位をねらうバルガッシュの周囲には、不満分子が集まり、それが宮廷クーデタに発展した。バルガッシュと仲が良かったホーレ、そのホーレを敬愛するサルメという関係の中で、サルメはバルガッシュのクーデタに全面的に介入することになる。郊外の反乱軍の拠点には武装した兵士たちが集められ、決起の時がせまる。しかし、これを察知したマジド王は、軍隊をバルガッシュの家の周囲に貼り付け、動きを封じようとした。その時、バルガッシュを女装させて、家から救い出し、夜道を駆け抜け、反乱軍が待機する待ち合わせ場所まで送り届けたのが、サルメとホーレだった。この陰謀は結局マジド軍の前に潰え、バルガッシュは当時イギリスの植民地だったインドのボンベイに追放されて一件落着となる。これに加担したサルメとホーレに対して、マジドからは何のお咎めもなかったという。しかし、この一件は、消えることのない心の傷をサルメに残した。バルガッシュは2年ほど後にザンジバルにもどり、やがてマジドの死後、王位を継承することになる。
ちなみにホーレは父サイード王お気に入りの王女であり、きわめて高い行政手腕を発揮し、アッシリア人の母の亡きあと、サーヘル宮の管理運営を一手に引き受けていた王女である。その類まれな美貌の持ち主にもかかわらず、1875年に没するまで独身で通している。一説によれば、キリスト教を信奉していたのではないかと言われている。フランスの宣教団を手厚くもてなしたという逸話も、その証拠に挙げられている。
19世紀ザンジバル社会
さて、サルメの物語を先に進める前に、当時のザンジバル社会の概要を写真に則して紹介しておこう。
ザンジバル経済を支えていたのは、半年毎に風向きを変えるモンスーン。このモンスーンに乗って人と物の交流を担ったのがダウと呼ばれる木造帆船である。ダウは、同時にさまざまな文化を運び、それらが混淆して「スワヒリ」と呼ばれる独特の社会が東アフリカ沿岸部に展開した。
ザンジバル社会の労働を担っていたのは奴隷だった。サルメの生活も奴隷によって支えられていた。王の側室たちが中央アジアやエチオピアからの奴隷であったことを考えると、奴隷社会の複雑な構造が見えてくる。
ザンジバルの中継交易は、内陸部から運ばれる象牙とコーパル(化石ゴム・ワニスの原料)が2大商品だった。象牙は、インド亜大陸の女性の装身具として、あるいは欧米のビリヤードの球やピアノの鍵盤として需要が大きかった。
ザンジバル島は、交易の中継地としての重要性の他に、クローヴの生産地として19世紀に注目を浴びた。一時は世界で最大の生産量を誇り、「香料の島」という異名も享受したことがある。その最大の所有者がサイード王だった。
スワヒリ社会は高度に階層化された社会だった。その中で身分の高い女性ほど厳重に「隔離」され、家長を後見人として移動や人生の選択を制約された。この写真は、最も身分の高い王族の女性。
良家の女性は、外出する時、ブイブイと呼ばれる外套を頭からすっぽり被り、マリンダと呼ばれるフリルのついたズボンを着用していた。このスタイルは、グビグビと呼ばれ、20世紀中ごろまで流行していた。
この写真の女性たちの身分は不明だが、アラブ系でないこと、カンガと呼ばれる布をまとっていること、下着にマリンダを着用していることから、奴隷制廃止後のスワヒリ女性だと思われる。
当時のヨーロッパ人コミュニティは、領事館関係者、宣教師団関係者、そして貿易商社から構成せれていた。当然、その中では、領事館関係者が最も特権的地位を享受していた。
ドイツ人商社マンとの出会い
さて、宮廷クーデタ失敗後、それに加担したことで罰せられることのなかったサルメだったが、しかし、周囲の人々の態度は冷たかった。かつての人間関係は失われ、サルメは孤立感を深めていった。そんな彼女の息抜きは、父から相続したプランテーションで過ごす時間だった。その時間は次第に長くなり、ついには、ストーンタウンを離れ、ザンジバル島中部に居を構えることになる。しかし、海を見ながら育ったサルメにとって、クローヴとココヤシの林の中は、永住するには物足りなかった。海の見える場所を探したが、どこも占拠されており、ようやく見つけた借家も、イギリス領事の別荘にするということで追い立てられ、最後にはまたストーンタウンに舞い戻ることになる。ストーンタウンでは、王族内の派閥対立がくすぶっており、クーデタ以来はじめて顔を合わせたホーレとも気まずい関係になってしまった。サルメがマジドのいいなりに、イギリス領事に別荘を明け渡したからだった。ちなみにマジドへのこうした譲歩は、ホーレのみならず、ボンベイから帰国したバルガッシュの機嫌をも損ねることになる。このバルガッシュとの気まずい関係は、彼が1870年に王位に就き1888年にこの世を去るまで続くことになる。
そんな鬱々とした日々を過ごしていたサルメの心を捉えたのは、隣の館に住むドイツ人の青年だった。青年の名はルドルフ・ハインリッヒ・リューテ。ザンジバルに進出していたハンブルクの商社ハンジングの社員だった。その背景には、ザンジバルの王族とヨーロッパ人との親密な友好関係があった。ヨーロッパ人が王族の女性たちに秋波を送ったり、それに対して、節度ある返礼をしたりすることも容認されていたという。そういう雰囲気の中で、二人の間に愛が芽生え、サルメは妊娠する。1866年のことだった。その間のいきさつをサルメは次のように記している。
「わたしの住居は、彼の家の隣でした。彼の家の平屋根がすぐ下にありました。私の住居の上の階からは、男性たちの賑やかなパーティーの様子を見ることができました。それは、ヨーロッパの食事の風習を私に見せるために彼がアレンジしたものだったのです。私たちの友情は、やがて深い愛に発展し、町中の人々の知るところとなりました。私の兄マジドの耳にも入りました。しかしマジド側からの敵意を感じることはありませんでした。ましてや、このことでマジドが私を監禁するなどということもありませんでした。
もちろん私は愛する者が一緒になることが絶望的なこの島を密かに抜け出したいと思っていました。その最初の試みは失敗しました。しかし、すぐにもっと良いチャンスが訪れました。ある夜、私の友人であるイギリス領事代理夫人の手引きで、イギリスの軍艦ハイフライヤーの司令官が私をボートで連れ出してくれたのです。私が乗船するや否や、船は北に向けて出港し、目的地であるアデンに無事到着しました。そこで私を迎えてくれたのは、ザンジバルで知り合いになったスペイン人の夫婦でした。私はそこで、ザンジバルでの残務整理をするためにもう数か月を必要とした夫を待ったのです。」[Donzel, 371]
キリスト教への改宗と長男の死
1867年、ルドルフ・リューテがアデンに到着するや、英国国教会でサルマの洗礼と結婚式が執り行われた。サルメの回想録には書かれていないが、ザンジバルで妊娠したリューテとの間の子供はこのアデンの地で生まれている。ハインリッヒと名づけられたこの長男の消息はその後長い間不明だったが、最近真相が明らかになった。ライデン大学付属の元中東研究所長Donzel氏からの個人情報(2008年3月)によれば、サルメの書簡集Briefe nach der Heimatを編集したHeinz Schneppen が、ハンブルクの公文書館で、長男の死亡届を見つけたのだという。届け出たのは、義父だった。イスラームからキリスト教への改宗後のこの悲劇が、サルメの心にどのようなトラウマを残したのか。サルメは、生涯、このことについて一言も書き遺さなかったことが、心の傷の深さを物語っている。
夫の死
ハンブルクでは、夫の両親や親せきに温かく迎えられた。サルメは新しい環境に適応するために努力し、夫は妻がヨーロッパにどのような印象をもつかを興味深く見守った。しかし、こうした平穏で幸せな日々は3年あまりで終止符が打たれる。1870年、夫が交通事故で突然この世を去ったのである。あとには、3人の幼子アントニー(長女)、サイード(長男)、ロザリー(次女)が残された。末っ子はまだ生後3か月だった。ザンジバルに戻ることも考えたサルメだったが、夫の死の2か月後、頼りにしていた異母兄マジド王も死去し、後継者であるバルガッシュ王とはクーデタの一件にからんだ感情的なしこりが残っていた。結局、サルメはハンブルクに留まることを選択する。
夫の死は、サルメの生活を大きく変えた。それに加えて、人任せにしていたため財産のかなりの部分を失い、それまで温かく見守ってくれたハンブルクの親しい人々の支えも失った。3年ほどの間に、「アラビアの王女」という珍しさも色あせてしまっていた。夫の保護を失った女性、しかもドイツ語もまだ満足に話せないサルメが3人の子供を育てて行くために取った方法はふたつ。ひとつは、「王女」という肩書を最大限利用して、さまざまな人的ネットワークに入り込むこと。実際、サルメはそうしたネットワークを求めて、ドレスデンからルドルフシュタット、それからベルリンへと居を移す。この戦略はかなりの成功を収めた。その中には、ヴィクトリア女王のふたりの王女や当時のドイツ宰相ビスマルクも含まれていた。しかし、この人脈がサルメをイギリスとドイツ間のアフリカ分割競争に巻き込んでゆくことになる。
もうひとつは、王室のメンバーの死去に伴う遺産相続分に対する権利の行使である。サルメがザンジバルを離れた後、マジドを始めとして何人かの王族が死去しているのだ。ところが、バルガッシュ王は、キリスト教に改宗したサルメを、改めて遺産相続人のリストから外してしまったのである。サルメの遺産相続権の行使にむけてのバルガッシュとの駆け引きが、この時から始まった。サルメはこの駆け引きにためにドイツで築いた人的ネットワークを利用する。ドイツサイドからすれば、折しもアフリカ分割の争点だったザンジバルの王女は、国際的な政治取引に利用できる「駒」だった。ここに、思惑の異なる両者の利害が一致する。こうした中で、サルメのザンジバルへの帰郷が実現することになる。
左2つの写真は、は1860年代末~70年代初頭のサルマとその家族(遺族提供)
帰郷-1885年
ある日突然サルメはドイツ外務省から呼び出され、ザンジバル行きを打診される。それまでも何度も帰郷のチャンスを失していたサルメの心は喜びに満たされる。なぜ、外務省だったのか。それについてサルメは、「同時並行的に進行していた政治的事件については日々の新聞報道に譲り、ここでは省略する」として、回想録の中では語っていない。ここでは、サルメの回想録に沿ってその足跡をたどっておこう。
1885年7月1日、3人の子供とベルリンを列車で出発。ブレスラウ、ウィーンを経て3日にイタリアのトリエステ港着。ただちに海路でエジプトに向けて出航。8日、アレキサンドリア着。一歩市街に足を踏み入れたサルメは、寒い冬をひねもす部屋に籠ってすごしたドイツの日々に思いを巡らしながら、19年ぶりに触れるイスラームの雰囲気に故郷ザンジバルへの懐かしさを抑えきれない。12日、エジプトのポート・サイド着。そこからドイツの貨物船で蒸し風呂のような紅海を一路アデンへ向かう。一週間後、ようやくアデン着。そこで5日待機したのち一路ザンジバルに向かう。8月2日、くしくもサルメが19年前に闇夜にまぎれてザンジバルを脱出したその同じ日、サルメの視界にペンバ島(ザンジバル島の北方に位置する姉妹島)が入った。この時の気持ちをサルメは「わたしはこの故郷をアラブ人の女性として、善きムスリマとして離れました。そして、今、わたしはいったい何者なのでしょうか?」と記している。
久しぶりのザンジバルで、サルメは大勢の人々からの歓迎を受ける。しかし、ストーンタウンは、いたるところで石造りの外壁が崩れ、ゴミが散らかり、かつての面影はなかった。何より衝撃をうけたのは、荒れ果てたムトニ宮殿だった。屋根も二階へ通じる階段も抜け落ち、すっかり廃墟と化していた。
しばらく滞在するうち、サルメは次第にバルガッシュの異常な性格を知るところとなる。例えば、宮殿の窓からヨーロッパ人の男性が投げかける秋波に応えたある側室がバルガッシュの折檻で死亡したという話、プランテーションを強制的に売却させられその代金を正当に支払われなかった地主の話、王位継承権を持つ近親の男性を監禁した話、などなど・・・。サルメは遺産相続権の交渉相手が、このきわめて専制的・家父長的権力者であることを改めて知ったのである。そして、何よりもヨーロッパ人を憎悪していることを・・・。サルメは所期の目的を果たせず、失意のうちに再びザンジバルを離れることになる。
帝国の思惑
サルメが帰郷を果たした1885年という年は、ドイツ植民地政策のターニングポイントにあたっている。それまでアフリカ進出に消極的だった宰相ビスマルクがドイツ産業界に押されてアフリカに関するベルリン会議を主催(1884年11月~85年2月)、積極的に植民地獲得に乗り出したのだ。そのターゲットのひとつが東アフリカだった。東アフリカではすでにカール・ペータースらの組織した「ドイツ東アフリカ会社(DOAG)」がザンジバル対岸の内陸部の首長たちと「保護条約」を締結しようと暗躍していた。もちろん、イギリスはザンジバルを含めた東アフリカを実効支配していると考えており、ここにドイツとイギリスというふたつの帝国によるザンジバル争奪戦の火ぶたが切って落とされることになる。
帰郷に先だつ1884年6月、サルメはこうした政治状況を前に、ドイツ政府に財政的支援を要請する際、東アフリカ政策に対して何らかの役に立てるかもしれないという一文を書き添えた。即座に外務省がこれに飛びついた。ビスマルクも動いた。ドイツ皇帝は、8月13日付で、サルメへの財政支援に同意した。
ビスマルクは、海軍大将カプリヴィからの問い合わせに、「バルガッシュとの交渉はドイツ領事、もしくはザンジバルに差し向けたドイツ艦隊の司令官が行うべきである。リューテ夫人(サルメ)が殺されたり虐待されたりする場合には、司令官は報復する権限を持ち、もしバルガッシュが妹との面会を拒否する場合には、武力で圧力を加えることもできる」(Donzel, p.66)と回答している。こうして、同年9月27日、ザンジバル植民地化の強硬派フリードリッヒ・ゲルハルト・ロルフが初代領事に就任した。ところが、この動きに対し、イギリス外務省は、先手を打ってバルガッシュに「イギリスの承諾なくして他の列強の保護領になったり、領土を割譲しない」という宣言に署名させてしまった。12月6日のことだった。
年明けて、両帝国のザンジバルをめぐる争いは一挙に表面化する。1885年4月、ペーターズが入手した保護条約に基づき、ドイツ皇帝が内陸部の一部を「保護領」にすると宣言したからである。ただちにバルガッシュはこれに抗議。ビスマルクはこれをザンジバル占領の好機と捉えたのである。
こうした動きに並行して、ドイツがザンジバルを植民地としたあかつきには、サルメの息子サイードをザンジバル王に据えるという考えが浮上していた。これに対し、イギリスのザンジバル領事が危機感を抱いていたことも史料に残っている。ビスマルクはこの考えに懐疑的ではあったが、サルメとその息子がザンジバル政策にとって重要な要因であることは認めていた。
一方、エジプトでのフランスとの緊張関係、スーダンのマフディー軍の勝利、ロシアとの戦争の危機などを抱えるイギリスは、ザンジバルの問題をバルガッシュ抜きにドイツとの外交交渉で決着しようとしていた。
サルメ帰郷の計画は極秘にうちに進められた。サルメ一行は偽名を使うよう指示され、ポートサイドで用意された船の行き先はコロンボ、サルメはスペイン人ということになっていた。そのため、ザンジバルに到着してもドイツ軍艦が先に入港していることが上陸の条件となっていた。
ザンジバルに到着した時、まだドイツ艦隊は到着しておらず、サルメ一行は船上で待機を余儀なくされた。日中はザンジバル島に近づき、夜になると沖合に停泊するこの船に疑念を抱いたイギリス領事カークは、土地の少年を偵察に差し向けた。乗船はさせられなかったが、少年は女性が乗っていることを察知し、これがロンドンの外務省の知るところとなった。
8月7日、ようやくドイツの艦隊が到着。11日にようやくドイツ側の要求がバルガッシュに伝えられた。バルガッシュは、内陸の保護領化を破棄するよう要請。これに対し、ドイツは艦隊をザンジバルの港に配置して砲撃体制で応えた。こうしてバルガッシュは内陸部の割譲を認めさせられることになる。
一方、サルメの遺産相続権をめぐる要求は8月16日にバルガッシュに伝えられた。バルガッシュの回答は、サルメはキリスト教に改宗したためムスリムの法律にのっとった遺産相続権はない、というものだった。イギリス領事やドイツ領事の介入は、バルガッシュの態度をますます硬化させ、ついに、ベルリン政府は、サルマをただちにドイツに連れ戻すよう指示を出した。こうしてサルメは10月4日、ザンジバルを離れることになる。その後の交渉で、バルガッシュに6,000ポンドをサルメに支払うよう要請した結果、バルガッシュは500ポンドでそれに応じている。しかしサルメはこれを受け取ることを拒否、そのお金はドイツ政府の金庫に保管されることになった。
帰郷1888年
サルメはバルガッシュの死後、2度目の帰郷を果たした。1888年5月14日に娘2人を伴って(息子の渡航はドイツ政府から禁じられた)ザンジバル入りし、11月初旬まで滞在している。ドイツの軍艦に守られることなく、バルガッシュとの遺産をめぐる交渉を仲介してくれる公的サポートもなかった。ドイツ領事もイギリス領事も、これに介入することを躊躇したからである。
サルメはザンジバルからドイツ皇帝ウィルヘルム二世に手紙で苦情を訴えている。
「閣下、ドイツ帝国がなぜこのような仕打ちを私に対してするのか、その理由がわかりません。私は過去21年間、キリスト教徒として、ドイツ人と結婚し、ずっとドイツで暮らしてきました。ですから私はドイツの臣民として、ドイツ領事から支援を受ける権利があります。私が相続権を行使するために、かくも長い間待たねばならないのはなぜでしょうか。私と宗教を同じくするキリスト教徒たちは、私を見捨てるのでしょうか。私の親族たちは、私と子供たちを以前の宗教に引き戻せると大喜びなのです。しかし、ひとたびキリスト教の真実を認めた今、この信仰を捨てることは私にはできません。私を再びムスリマにしようとする人は、キリスト教徒が私をサポートしてくれていることを知れば、あえて強制はしないでしょう。しかし、彼らは、私が新しい故郷から何の支援もなく、孤立していることを知っています。閣下、私は閣下がドイツ皇帝だからではなく、あなたが臣民、なかんずくキリスト教がまだ根付いていない土地の臣民を保護しサポートするために無限の権力を持っているキリスト教徒だから閣下にお願いするのです。ムスリムの観点からみれば、もし私の願いがここで絶たれるようなことがあれば、東アフリカのキリスト教宣教団の展望は明るいとは言えないでしょう。」(Donzel, p.93)
帰路の船中でサルメは記している。「わたしにとって、住み心地のよい場所はなくなりました。今はただ静寂と平和以外の何物も望みません。」(Donzel,p.89)
ベイルート
ドイツ政府にもイギリス政府にも絶望したサルメは、ザンジバルからヨーロッパに戻らず、パレスティナへと向かった。最初に腰を落ち着けたのはJaffa(現Tel Aviv近郊)だった。そこにはアルメニア人、イギリス人、ドイツ人、フランス人のコミュニティがあり、サルメにとって魅力的だったが、なぜか借家がみつからず、それがサルメをいらつかせた。サルメはエルサレムにしばらく滞在したのち、ベイルートに居を構え、1914年の第一次世界大戦勃発まで定住することになる。その間、1898年、長女アントニーがEugen Brandeisと結婚、総督としてマーシャル諸島に赴任する夫に同行した。1901年には長男サイードがユダヤ人のMaria Theresa Mathiasと結婚、1902年にはロザリーもドイツ人のCaptain Martin Troemerと結婚している。
サルメは1914年、ベイルートからBromberg(当時プロイセンの首都。ポーゼン州。現在ポーランドのBydgosc)へ行き、しばらくアントニー一家と暮らしている。アントニーの夫General Troemerが東部前線のブリガード隊長だったからである。
1918年と1919年、サルメはスイスのルツェルンに長男ルドルフ(サイード・リューテからルドルフ・サイード=リューテと改名)を訪問、1920年にはJenaのロザリー夫婦と同居。1923年、サルマはハンブルクのイギリス総領事から、ザンジバル政府が100ポンドの年金を支払う決定をしたとの通知を受け取った。サルメが受け取るはずであった遺産の額に比してあまりも少なすぎる額だった。
1924年2月29日、サルメはJenaのロザリーの家で子供たちに見守られながら、肺炎でこの世を去った。遺骸は火葬に付され、骨壺に収められ、のちに夫ルドルフの眠るハンブルクのオールスドルフ墓地のリューテ家の墓に埋葬された。骨壺には、サルメの遺品の中にあったザンジバルの砂を入れた小さな袋も収められたという。
<HamburgのOhlsdorf墓地のリューテ家の墓 筆者撮影>
考察
①サルメという女性を生み出した歴史的・社会的背景
サルメという女性を生み出した歴史的背景としては、まず、東アフリカ沿岸部に開花したスワヒリ世界のコスモポリタニズムが挙げられるだろう。
インド洋とアフリカ大陸との境界域に位置し、紀元前から多様な民族が行き交い、物が交換され、そこに新しい文化が育まれた。その結果、人々は、偏狭なリージョナリズムに閉じこもることのない寛容な価値観を共有するようになる。商業や交易の展開は一層その傾向を推し進めた。サルメが生まれ育った離宮はこうしたスワヒリ世界のコスモポリタニズムを体現していた空間だった。
サイード王の側室は中央アジアやエチオピア出身者が多く、離宮では多様な言語や文化が共存していた。イスラームはムスリム/ムスリマの奴隷化を禁じている。したがって、奴隷として売られ、側室となった女性たちの中にはキリスト教圏の出身者がいたにちがいない。
アフリカ大陸から連れてこられた奴隷たちの存在も大きい。サルメが日常的に接触したのは、「スワヒリ人」というより、こうした奴隷の女性たちだったからだ。
加えて19世紀も半ばを過ぎるころには、ヨーロッパ人の存在がサルメに大きな影響を与え始める。サルメがこのまったく新しい世界に惹かれるようになった背景には、宮廷クーデタに関与したことによる孤立感もあっただろう。宮廷内の派閥抗争やそれが創り出す緊張も、それを後押ししたと思われる。その結果の恋愛と妊娠ではなかったか。
婚姻外妊娠はイスラームの掟では死罪に相当する重大な犯罪である。それをサルメが知らないはずはない。その背景には何があったのか。その理由はいくつか考えられる。ひとつは、サルメの年齢である。サルメがルドルフと出会った時、彼女はすでに20歳を超えていた。15歳ころに結婚することも多かった当時としては、婚期がとっくに過ぎていたといってもいいだろう。もしかしたら、独身のまま生涯を送るかもしれない瀬戸際だったのかもしれない。現にサルメの異母姉妹の中には生涯独身で通した女性が何人かいる。狭いザンジバル社会で、身分の釣り合う結婚相手に巡り合うチャンスは少ない。ましてやサルメは宮廷内の派閥の主流からはずれた存在なのだ。もうひとつは、婚姻外の恋愛や性交渉が、それほど珍しくはなかったのかもしれない、ということである。妊娠した女性を、メッカ巡礼に送り出すことで密かに「処理」していたということをサルメも記述している。
さらに重要な理由として、サルメの性格を挙げておきたい。幼い時からフェンシングや乗馬が好きで、クーデタにコミットするなど政治の領域にも関心を持っていたことを考えると、異母姉の影響があったとはいえ、そこからサルメの強い主体性と意志を読み取ることができる。その性格が、孤立感と閉塞感と相まって、目の前で繰り広げられるヨーロッパ文化という未知の世界に足を踏み入れる大胆さを引き出したのかもしれない。それは、結果的にみれば、イスラーム社会の掟や家父長権への抵抗という形となって表出せざるを得ない側面を持っていた。
②ムスリマからキリスト教徒への改宗とそれにともなうサルメの葛藤
愛する夫とともにドイツでの生活を始めたサルメは、夫の死後、さまざまな困難に直面する。中でも、子供の養育と生活費の捻出はもっとも深刻な問題だった。頼みの綱は、故郷のザンジバルで受け取るはずであった遺産のプランテーションや家屋。しかし、対立関係にあるバルガッシュ王が、サルメの前にたちはだかる。イスラームを捨てた者は、イスラーム法にのっとった遺産相続権はない、というのがバルガッシュ王の見解だったからだ。再びムスリマとしてザンジバルで一緒に暮らそうという親族や友人の勧めがあったが、サルメはそれを拒否している。なぜだったのか。ひとつはヨーロッパで生まれた子供たちの教育のことがあっただろう。教育面で、ザンジバルとドイツはあまりにも格差があり過ぎた。
バルガッシュとの交渉がムスリマではないということによって拒否されたサルメが、今度はドイツ国民としてドイツ政府に頼る選択をしたのは当然の成り行きだった。元ザンジバル王女、そして息子は王位継承権を持っている・・・そこに生来の政治的野心が働いた。イギリスの支配下に全面的に組み込まれるより、ドイツ=ザンジバル王朝構想の方がベターだ。そのためにバルガッシュを動かすとしたら、ヨーロッパ式の外交では効果がない、アラブ社会では血縁や親族のネットワークが有効であるとサルメ考えたのではないか。しかし、そこにもサルメの誤算があった。ビスマルクはサルメの案に動かされ、血縁ネットワークとヨーロッパ式外交のふたまたをかけることにしたものの、血縁ネットワークでバルガッシュは動かなかったからである。その理由はサルメがムスリマではないということだったのだ。それなら、キリスト教徒としての自分を守ってくれるのはキリスト教徒の共同体であるべきだとサルメが考えたとしても無理はない。それが、ドイツ皇帝への陳情書からも伺える。サルメは「皇帝」という世俗の権力者にではなく、「キリスト教徒」としての皇帝に訴えかけているのだ。イスラーム共同体はムスリム/ムスリマを保護する。キリスト教の社会もそうあるべきだ、とサルメは考えていたに違いない。
③政治をめぐる女性領域と男性領域
サルメが寡婦となってから築いた人的ネットワークの広がりは、国境を越えた広がりを持っていた。ドイツとイギリスの王室関係者、そこには後のドイツ皇帝の妻となるヴィクトリア女王の娘も含まれている。そのネットワークを洗ってゆくと、女性のネットワークと男性のネットワークが抽出できる。その両者は、もっぱら政治領域をカヴァーする男性のネットワークを、夫を通して操作する女性のネットワークという関係性を持っている。サルメが夜陰に乗じてザンジバルから脱出するのを実質的にサポートしたのは領事代理夫人であったし、ドレスデンで最初に知己をえたのは男爵夫人(Baroness von Tettau)だった。19世紀という時代背景を考えると、イスラーム社会もキリスト教社会も似たり寄ったりの家父長社会である。その中で、サルメが生きて行くために取った戦略が、「王女」という身分を最大限に利用することだった。そのサルメがまず近づいたのが女性のネットワークだったということになる。しかし、ひとたび女性のネットワークに入り込んだサルメは、それを飛び越えて、直接男性のネットワークに働きかけている。それが、悲惨な結果に終わったことは、サルメを中東へと旅立たせることになる。そこには、イスラーム的でありながらキリスト教徒にも寛容な空間があったからである。また、そこはサルメの母語であるアラビア語で生きていける世界でもあった。
④「帝国」の時代に生きたサルマは何と闘っていたのか
地政学的にみれば、サルメはアラブ「帝国」、ヨーロッパの「帝国」、その両者の間に横たわるオスマン帝国という3つの「帝国」の狭間で生きた女性だった。帝国主義時代にあって、この3つの「帝国」は食うか食われるかの政治の時代を迎えようとしていた時期にあたっていた。それはまた、イスラーム文化圏とキリスト教文化圏のせめぎ合いの時代でもあった。当時、女性がひとりでこのような空間を旅し、移動すること自体驚異としかいいようがない。そうした旅の中でサルメが闘っていたものは何だったか。表面的に見れば、遺産相続権の獲得という世俗的な目的であるが、それを構造的に見ると、そこには女性が置かれた社会的地位が見えてくる。それが「家父長社会」である。サルメは、遺産相続権の主張を通して家父長制と闘っていたのだ。帝国そのものも「家父長制」の基盤の上に築かれたものであり、したがってその政治戦略に女性の問題が入り込む余地はない。あるとしたら、それに政治的利用価値がある時だけだ。
サルメが闘っていたもうひとつの対象、それはヨーロッパのイスラーム観だった。これについては紙数の余裕がないので、稿を改めることにしたい。
19世紀の「帝国」の時代から1世紀を経て、現代の「帝国」のあり方にも変化が見え始めている。女性の権利やマイノリティーの権利を無視しては、「帝国」は成り立たない時代を迎えようとしている。3つの「帝国」の狭間で翻弄されたサルメは、時代が産み落とした悲劇のヒロインだった。1870年代の写真(右)と1916年の写真(左)を比較すると、その間の半世紀のサルメの苦悩の軌跡がそのまなざしに刻印されているように思われる。
サルメの回想録
初版(ドイツ語) 1886年
英語訳(New York)1888年
フランス語訳(Paris)1905年
英語訳(New York) 1907年
英語訳(London)1981年
その他多数の版が各国で出版されている。
写真:【ZNA】 Zanzibar National Archives所蔵
【遺族提供】 Ursula Stumpf, Anne Bauer, Michael Bauer
その他のカラー写真は筆者撮影
参考史料:E.van Donzel(ed.), Sayyida Salme/Emily Ruete―An Arabian Princess Between Two Worlds: Memoirs, Letters Home, Sequels to the Memoirs, Syrian Customs & Usages, E.J.Brill, Leiden, New York, Koeln, 1993
(初出『共同研究 多民族社会における宗教と文化』No.12、宮城学院女子大学キリスト教文化研究所、2008)