【年表】アフリカ史の中の女性たち

掲載:2016-01-10 執筆:富永智津子

(出典:The Oxford Encyclopedia of Women in World History ; Dictionary of African Historical Biography)

「世界女性史(年表)」については⇒【年表6】世界女性史年表(人名)

目次

紀元前1570年頃(古代エジプト)Ahmose Nefertari誕生(紀元前1305年没)


第18王朝の開祖アフメス王の妹であり、正妻。アフメス王は在位中に、妻のネフェルタリや後世の王妃たちのために「アフモンの神妻」の地位を職位として定めた。この法は「神妻」の地位に富と土地を与えるものであった。王妃は、男性の神官に混じって神殿の儀式に参加し、夫である王に助言もした。 夫や息子に先立たれたが、トトメス1世の治世まで生き、長く栄誉を称えられ、新王国時代を通して神格化され崇拝の対象となった。(L.ブレイクマン監修『世界女性史大事典』)なお、残されたネフェルタリの肖像は、すべて皮膚の色が黒く描かれていることから、クシュ王国の女性だったのではないかとの説もある。

紀元前1479年頃(エジプト)Hatshepsutの統治(紀元前1458年まで)

古代エジプトの数少ない女性ファラオのひとり。トトメス1世の娘、トトメス2世の妹であり妻。娘Neferureの母。しかし、トトメス2世は、他の妻の息子をトトメス3世として後継者に指名。おそらくトトメス3世が幼かったため、以来、Hatshepsutが摂政となる。王が幼い場合に年長の女性の親族、通常は母親が摂政となることは珍しくはなかった。しかし、Hatshepsutは、共同統治というエジプトの伝統を利用し、7年後には実権を掌握。ただし、伝統的には、王が自分の後継者を共同統治者として指名するのが通常だったため、Hatshepsutの場合は全く異なっていたといえる。
Hatshepsutは、神々のなかの神であるAmun-Reの娘であると宣言することによって王としての地位を固めた。また父トトメス1世が、彼女を後継者として任命していたが、トトメス2世の治世にはGreat Royal Wifeの肩書きだけを与えられ、実権を行使できなかったのだともされている。
王の役割は、男性に限定されていた。この役割を全うするために、Hatshepsutは付け髭や短いスカートを身に着け、男性を模した銅像や図像で自分を表象した。テキストでは、男性形と女性形の両方の名詞や形容詞を使用させた。一方で、王族としての名前は女性の名前を使い、しかも男性の支配者には不可能だったであろう女神に結びつけたさまざまな言葉の言い回しを使って、王権を強化したという研究者もいる。
他のエジプト王と同じく、Hatshepsutも廃墟となっていた神殿を再建し、新しい神殿を建設した。なかでもカルナックのアムン神殿や王家の谷の墳墓は有名である。その他には、プント(おそらく現在のソマリアかエリトリア)の地への交易船の派遣が有名であり、それについては、Deir el-Bahriにある葬祭殿にレリーフとして残されている。この遠征は、乳香没薬が採取できるミルラの木を含むアフリカ産の贅沢品を多く持ち帰ったことでも知られている。その木は、現在でも神殿の中庭に残されている。
こうした交易により、Hatshepsutは平和的な外交政策を実施していたとされるが、それは正しくはない。女性であったこともその理由のひとつに挙げられている。Hatshepsutは、少なくとも一回は、ヌビアに対する軍事行動を指揮している。彼女はトトメス3世とともに、ナイル川の第四瀑布までのすべてのヌビアを支配下に置き、その金鉱や石切り場や労働力を手に入れるとともに、中央アフリカへの交易路を確保するという先人の願望を達成したのである。これによってエジプトの南の境界線が確保され、トトメス3世のその後のレヴァントでの戦争を勝利に導く布石となった。
Hatshepsutは、娘のNefrureを重用していた。一説によれば、彼女をトトメス3世と結婚させるか、もしくは自分の後継者としてファラオに即位させようと思っていた可能性があるという。というのは、Nefrureは、しばしば若い王子として図像に登場しているからである。しかし、彼女に関する記録は短期間に終わっており、おそらく若くして死亡したものと思われる。
Hatshepsutはトトメスの治世22年目までに記録から消えている。彼女のミイラも発見されておらず、したがって死因も不明。20年後、トトメス3世は、彼女に関する記録やリリーフの多くを除去し、自分の父親や祖父のもとに取り換えた。しかし、これは、個人的な悪意によるものというより、自分の息子のAmenhotepの王位継承を確実なものとしたいがためであったという可能性もある。のちに、記録係がHatshepsutの名を神殿の王家の祖先のリストから取り除いた。しかし、Hatshepsutの名を持つ女性が、その後の世代に現れていることは、Hatshepsutに関する記憶がすべてタブーとなっていたわけではないことを示している。
間接的にではあるが、Hatshepsutは多くの女性の生き方に影響を与えた。Amun神を称えるために、彼女はその祭事に多くの女性の歌手や楽師を雇用したことも、そのひとつに挙げられる。

【女性】古代エジプトの女王と王妃たち(付:年表)

紀元前14世紀(古代エジプト)Tiy, Queen of Egypt

アメンホテップ3世の妻。多神教を一神教に変えたアクエナテンAkhenaten(アメンホテップ4世)の母。

紀元前14世紀(古代エジプト)Nefertiti

ネフェルティティの胸像(ベルリンの国立博物館所蔵)

古代エジプトの女王、多神教を一神教(太陽神Aten)信仰へ変えたアメンホテプ4世(のちにイクナートン、あるいはアクエンアテンAkhenatenと改名;在位1353~1336)の妻。神殿や墳墓のレリーフは、Nefertitiが突出した人物であったことを示している。とりわけ、王妃は王とともに祭殿に描かれているのが一般的だった中、Nefertitiがひとりでテーベの太陽神を祭った神殿で捧げものをしているレリーフの存在がそれを証明している。
Nefertitiの夫への影響力については断片的な資料しかないが、夫がTell el-‘Amarnaに遷都した時には、その儀礼や宗教的行事で重要な役割を果たしており、絵画にも夫と同じサイズで描かれているなど、古代エジプト史上もっとも王と同等の立場にあった王妃とされている。

紀元前1300年頃(古代エジプト)Nefertari


古代エジプト第19王朝、第3代ファラオ、ラムセス2世(ラムセス大王)の正妃。出自は不明。ネフェルタリは、アメン神の神后の称号を持ち、この称号によって、独立した多くの富と権力を授けられた。ネフェルタリは夫ラムセスに深く愛されていたと見られ、王妃の谷のなかにあって、もっとも壮麗な彼女の王妃墓-QV66からもそれが伺える。

紀元前10世紀頃(イエメン/エチオピア)Makeda, Queen of Sheba

ソロモン王を謎かけ問答で試したとされる知的でSheba icon.jpg美しい女王。古代の文献に登場するが、謎に満ちた人物であり、その生涯についてはほとんど知られていない。実名も統治していた国の正確な所在も不明。にもかかわらず、アフリカ系アメリカ人やエチオピア人、あるいはムスリムやユダヤ教徒を3000年にわたって魅了してきた。
イスラームとユダヤの伝承においては、この女王が、紀元前10世紀頃、現代のエチオピアとイエメン、あるいはアラビア南西部あたりに存在していたサバ(シェバ)王国の支配者であったことについては一致している。コーランの中ではBalqis,、もしくはBalkisの名で登場し、人間に超自然的な力を行使できるジン、つまり精霊の末裔とされている。ユダヤの伝承の中では、名前は記されておらず、エチオピアの文書の中ではMakedaという名前で登場し、今日、このマケダという名前が頻繁に引用されている。
女王が、イスラエルの王でありダビデの子孫であるソロモンの宮廷を訪れたことについては、旧約聖書(ユダヤの聖典)、コーラン、エチオピアのKebra Nagast (The Glory of Kings)という3つの文書が立証している。もっとも有名なシェバの女王の物語は、旧約聖書の「列王記上」10:1-14と「歴代誌下」 9:1-12に登場する。両方ともに同じ描写で始まる。「シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き、難問をもって彼を試そうとしてやってきた。彼女はきわめて大勢の随員を伴い、香料、非常に多くの金、宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。ソロモンのところに来ると、彼女はあらかじめ考えておいたすべての質問を浴びせたが、ソロモンはそのすべてに回答を与えた。王にわからない事、答えられたい事は何一つなかった。」これが、その後の女王の旅に関する物語の基本形となっている。
コーランは、アラム語のTargum Sheniのユダヤ版である旧約聖書のエステル記に依拠している。そこでは、メッセージを運ぶ鳥がソロモン王に、Balqisという名の強力なサバの女王がいることを告げたことになっている。しかし、コーランでは、Balqisはアラーではなく太陽神を崇める異教徒となっており、ソロモン王の宮廷に呼ばれ、その偉大さに感服してアラーを信仰するようになったとされている。後に、イスラームの記者が、物語を装飾し、Balqisを天から落ちてきた天使か悪魔に似たジンの末裔に仕立て上げた上に、ソロモンとBalqisが結婚したという話を付け加えた。ふたりの間に生まれた息子はシェバの女王の後継者となったというわけである。
この結婚から生まれた息子が、エチオピア伝承の核心部分となる。そこでは、女王の名はMakedaとなっている。14世紀に口頭伝承から編まれたKebra Nagastによれば、マケダは、商人からソロモン王の名声を聞いて贈り物を携えてエルサレムを訪れたところ、マケダに魅了された王がマケダを誘惑し、息子(Ebna Hakim またはMenelik)が生まれ、この息子がエチオピアの最初の皇帝メネリク1世になったというのだ。
最近になって、シェバの女王をめぐるふたつの説が浮上してきた。ひとつは、ソロモンとシェバの女王の出会いは、ソロモンの名声とは関係なく、交易に関する交渉をするためであったという説。もうひとつは、近年のアフリカ人やアフリカ系アメリカ人の研究者によるシェバの女王のアフリカ起源説である。彼らは、女王がアフリカ起源であることを示す歴史的史料があると指摘する。たとえば、シェバの女王は聖書に登場する2人のアフリカ人の女王のうちのひとりであるというのだ。ちなみにもうひとりは新約聖書の「使徒言行録」に登場するCandace。初期キリスト教の指導者であったFlavius Josephus(c.185~c.254)とSaint Jerome(c.347~c.420)は、シェバの女王がアフリカの黒人王国の女王であったと考えていた。
シェバの女王の死後、何世紀も経てなお、女王は時空間を越えて人びとの想像力を掻き立てていることは確かである。

Solomon and The Queen of Sheba Giovanni De Min 1789–1859

紀元前4世紀末~(マケドニア/古代エジプト)アルシノエ2世(前3世紀初頭没)

マケドニアの王妃。エジプトに帰国後、実の弟プトレマイオス2世と結婚、王と王妃の一対からなる王権のイメージを作り上げることに寄与。(⇒森谷「マルシノエ2世―プトレマイオス1世の娘、プトレマイオス2世の王妃」参照)

紀元前170年頃(スーダン)Shanakdakheto誕生(紀元前150年頃没)

クシュ王国メロエ朝の最初の女王。戦場に赴いた武人女王としても知られる。王妃や摂政としてではなく、自立した女王であり、支配者であった。メロエのピラミッドの中でもひときわ大きなピラミッドは彼女のために建設され、内部には芸術性の高いリリーフで装飾されていたと考えられている。「ラーの息子」「2つの国の支配者」という称号を持つ。ナカで発見された彼女の名前が書かれた碑文は、現存するメロエ文字で書かれた最古のものである。その後、メロエは、4世紀までに7人の女性の支配者を輩出している。

紀元前69年(エジプト)Cleopatra IV誕生(紀元前30年没)

古代エジプト・プトレマイオス朝最後のファラオ

970年(エジプト)Sitt al-Mulk誕生(1023年没)

シーア派の分派イスマイリアを奉じるファーティマ朝(969~1171)の王女。現在のチュニジアのal-Mansuriyyaで、カリフal-‘Azizとキリスト教徒の奴隷の母親との間に生まれ、エジプトのカイロの自分の宮殿に、何千人もの奴隷とともに住み、独身を通した。
また、義理の兄弟であり、カリフの地位を継承したal-Hakimの暗殺に関わったことでも中世イスラーム史によく登場する女性である。al-Hakimの死後、彼の息子でありSittの甥にあたるal-Zahirを後継者に指名させたのは、Sittだった。al-Zahirが1021年に即位するまで、実権を掌握していたのもSittだった。Al-Zahirの即位後も摂政として実権を行使した。Sittはal-Hakimが導入した女性の外出禁止令を廃止したり、税制を改革したり、奪った屋敷地を地主に返還したりした。カイロの公衆浴場や庭園を一般市民に開放したことでも知られている。
国際的な場面では、1022年に外交交渉によってビザンティン皇帝にキリスト教会の再建とキリスト教徒の受け入れの認可を与えている。その代わりに、ビザンティンはムスリムに課していたビザンティン領内での交易禁止令を解除した。こうした交渉は、Sittが病死した1023年以降は中断することになる。

15世紀~16世紀頃(ナイジェリア)Amina

ハウサ国家ザリア(ザウザウ)の女王。ザリア国家をヌペとジュクン王国方面へ拡大し、カノとカツィナを支配下におさめた。彼女はハウサ都市国家の有名なearthworkの発展に尽くしたとされている。彼女の統治期に、東西交易が、ザリアを通ってのサハラ越え交易を補てんする重要なルートとなった。(Dictionary of African Historical Biography)

15世紀末~16世紀(ベニン王国/南西部ナイジェリア)Idia

iyoba(皇太后=queen mother)のタイトルを与えられたベニン王国最初の女性。宮殿で裁判を行い、軍隊を率いて戦場で戦った唯一の女性として人びとに記憶されている。司祭としても実権を行使した。

16世紀中葉(ニジェール/ナイジェリア)Aisa Kili Ngirmaramma

ボルヌのカヌリ帝国の支配者(在位1563年頃~1570年)。前支配者Dunama(在位1545頃~62/63)の娘。女性の君主を軽視してきたアラビア語文書には登場しないが、伝承されてきた歴史の中には残されている。H.R.Palmerが収集した伝承によれば、彼女はIdris Alomaが統治を引き継ぐまで、支配を行った。(Dictionary of African Historical Biography)

1536年(ナイジェリア)Aminatu、Queen of Zaria誕生(1610年没)

ハウサ人。王家の出身。戦士として頭角を現し、1576年、王位を継いだ弟の死後、現在のナイジェリア北部に存在したサハラ交易の拠点である王国Zauzau(20世紀初頭、イギリス植民地下でZariaに改名される)の支配者となり、36年にわたり君臨。領土の拡大に寄与。900年におよぶZauzau史上、唯一の女性支配者。ムスリム王国の女性支配者となったという点でも稀有な存在。

1582年(アンゴラ)Njinga, Queen of Matamba誕生(1663年没)

Ann Zingha.jpgアンゴラ北部のNdongo とMatamba両王国の支配者(在位1624~1663年)。
1617年から1622年のポルトガル人侵略者とImbangala(軍事化した難民集団)とMbundu人農民との間の戦闘により、Ndongo王国が弱体化。1622年、Njingaとふたりの姉妹Kambo とKifunjiは、ポルトガルと義理の兄であるNdongoの王Ngola Mbandeとの和平の人質として首都Luandaに到着。和平が結ばれる。NjingaのNdongo王国における地位は不明だったが、彼女がキリスト教の洗礼をうけたことにより、ヨーロッパ人の注目を惹くことになる。
1624年、Ngola Mbandeの死後、Njingaは後継者であることを宣言。しかし、ポルトガ
ルが1622年に結ばれた和平を遵守していないという彼女の主張がポルトガル人の役人を怒らせ、結局、Njingaは、Njingaの正統性に疑問を持つ貴族たちを支援するポルトガル軍によって、1629年に追放される。天然痘の流行も彼女に不利な状況をもたらした。
NjingaはImbangalaのリーダーと結婚。その後、新たに入手した呪薬によって、夫の軍団の半数以上を支配下におき、Imbangalaの将軍の地位を確立してMatamba王国の領土を奪い、自分の宮廷を構えた。
1630年代~1640年代を通して、Njingaは奴隷狩りを行い、交易ルートを確保して勢力の奪回を図ったが、ポルトガルとポルトガルに支援されたNdongo西部の指導者Ngola Airiの脅威は続いた。Njingaは、多様な民族集団を取り込みながら、Luandaを占領したオランダ人と組んで、こうした脅威を取り除こうと戦いを挑むが、1646年にポルトガルに敗れ、再び妹Kamboが囚われの身となった。もうひとりの妹Kifunjiは、スパイとしてポルトガルの支配領域に配置した。その間、Njingaの軍団は、態勢を立て直してポルトガルに攻勢をかけた。この戦闘と同時に奴隷反乱が勃発、ポルトガルはこの反乱の責任をNjingaに押し付けた。ポルトガルは報復として、妹のKifunjiをスパイとして殺害した。
1648年8月、ブラジルの艦隊がポルトガル勢力に加勢し、オランダ人をLuandaから追い出した。援軍を期待できなかったNjingaは、妹のKamboを救出するために宗教と交渉という戦略に転じた。1650年代初頭、彼女はイタリア人のカプチン修道僧たちとの交渉を通してポルトガルに対抗しようとした。妹との交換条件として、ポルトガルは奴隷を要求。一方、カプチン修道僧は、Njingaの悔悛と宮廷の改宗、および新生児の洗礼を求めた。1655年、Njingaとポルトガル間の敵対関係に終止符が打たれ、妹Kanboが釈放された。しかしなお、Njingaは、Mbunduの貴族層(その多くはキリスト教に改宗)と定住を好まないImbangala集団との対立が、自分の死後、内戦を引き起こし、王国が崩壊するのではないかという不安に捉われていた。
Njingaは妹のKamboを後継者とすることによって、後継者争いを防止しようとしたが、すでに年老いていた妹がそうした権威を確立することは難しかった。Kamboと自分自身の身を守るために、Njingaは、親族と血族の価値を再評価し、女性は宮廷内で子供を産むこと、そして人びとには定住農耕に励むようお触れを出した。1663年12月、Kamboが後継者となり、Njingaの遺産は継承されることとなった。17~18世紀には、Mtambaの女性支配者が、Njinga の偉業を宮廷儀礼に再現し、後世に伝えた。演劇、祭り、伝記などを通して、アンゴラや海外在住のアフリカ系の人びとは、敵対勢力に果敢に抵抗したNjingaの功績を称えている。

1630年頃(ギニアビサウ)Bibiana Vaz誕生(1694年頃没)


アフリカ人女性とカポ=ヴェルデ生まれのポルトガル系アフリカ人の父との間に生まれ、17世紀の奴隷商人としてその名を馳せた女性。1670~80年代にガンビアとシエラレオネの河川との間に広大な交易帝国を樹立。

1650年頃(ザンジバル/タンザニア)Mwana Mwema, Queen of Zanzibar

スワヒリ語圏における女性の政治的指導者としての役割については議論があるが、Mwana Mwemaが歴史上の人物であり、支配者であったことについては十分な根拠がある。もっと正確に言えば、彼女はザンジバル島南部のワハディムと呼ばれる民族集団の女王であった可能性が高い。
Mwana Mwemaの歴史的役割については、その名前がザンジバル島北部に位置する小さな島Tumbatuの女王Mwana wa Mwanaと類似していることから、混乱が生じている。さらに、ザンジバルの観光化にともない、ウェブサイトなどで、Mwana Mwemaは「ザンジバルをポルトガル支配から解放した」指導者であるといった物語が流布している。この物語はもう少し込み入っている。つまり、Mwana Mwemaは確かに、独立を維持するために、交易拠点としてのザンジバルをねらうさまざまな勢力と格闘していたという経緯があるからである。
アラブやヨーロッパ人による植民地化前、東アフリカ沿岸部には多くの都市国家が存在した。その統治者は、「王」(mwenyi mkuu)や「女王」と呼ばれ、世襲制だった。
16世紀初頭、ポルトガル人が東アフリカをインド洋交易の拠点として統制下に置こうとし、17世紀中葉にはオマーンが進出する。そうした複雑な状況下で、Mwana Mwemaのような地元の支配者は、独立を維持するために、外交戦略や戦闘に巻き込まれることになる。
ポルトガルの史料や地元の口頭伝承によれば、当初ポルトガルと同盟関係にあったMwana Mwemaは、1652年にポルトガルによって追放される。彼女が頼みとしたのが、1650年にポルトガルを駆逐して独立を回復したオマーンだった。オマーン軍はカトリックの僧侶を殺害し、キリスト教徒を監禁した。ただちに報復に出たポルトガルは、ザンジバルの町を略奪し、Mwana Mwemaとその息子を追放したということになっている。
その他に、Mwana Mwemaはイエメン出身のアラブ人と結婚し、弟のYusufが王位を継ぎ、その後継者としては姪のFatumaがザンジバル北部の女王に即位したとの史料も残っている。

1684年頃(コンゴ王国)Kimpa Vita誕生(1706年没)

「コンゴのジャンヌダルク」として知られている宗教指導者。貴族の家庭に生まれ、洗礼を受ける。洗礼名はDona Beatriz。その当時の地域一帯は政治的に不安定で、数名の首長が覇権を競って、40年間にわたる内戦(1665~1706)が続いていた。
Kimpa Vitaは、精霊の世界と交感できるnganga marindaと呼ばれる治癒専門の霊媒師だったが、妖術との関連を疑われるとして、霊媒師をやめた。1704年までに、王位をめぐる内戦が、コンゴのもっとも肥沃な土地の人口を減少させ、さまよい出た農民の多くが、兵士になったり、捉えられて奴隷として新大陸に売られたりした。1703年、Kimba vitaは故郷を救うよう神からの啓示を受け、1704年8月に死んで、PaduaのSaint Anthonyが自分の身体に入ったと宣言。神は彼女に廃棄されたコンゴの首都に人びとを呼び戻し、新しい支配者を選ぶよう命じたというのである。
当初、人びとは“Antonian movement”として知られている彼女の運動に合流し、首都を占拠したが、彼女が新しい支配者を選ぶと、コンゴの貴族層が反旗を翻し、さらにはヨーロッパ人のカトリック教会の書記が、彼女を悪魔にとり付かれた女性であるとの見方を広めた。こうした中、Kimba vita は妊娠したため、首都を離れて子供を産む。運動に敵対的な勢力に捕まり、Pedro4世に引き渡されたKimpa Vitaとその連れ合いは、異端審問の末、火刑に処せられた。子供は火刑にされなかったが、まもなく死亡。
Antonian運動の支持者は戦いを続けたが、3年後に敗れ、多くは逃亡したり、自首したり、あるいは行方がわからなくなった。Antonian運動はコンゴ王国を再統合し、首都を再選挙し、さらにキリスト教のアフリカ化を成し遂げたことによって、コンゴの歴史に記憶されている。

1730年(エチオピア)Empress Mentewwabの支配(1769年まで;1770年初頭没)

18世紀のエチオピア政治史におけるもっとも卓越した女性。Mentewwabは本名、洗礼名はワラッタ・ギヨルゲス(「セント・ジョージの娘」の意味)、支配者としての名前はベルハン・モゲサ(「栄光の光」の意味)。生まれた年は不明。出身は西部のQwara州。皇帝バカッファ(在位1721~30)の側室となり、1723年頃、息子Iyasuを出産。皇帝バカッファの突然の死により、祖母と伯父のNiqolawosが息子のIyasu2世を後継者とし、Mentewwabに皇后の称号であるyetegeを与えた。彼女は同時に女王を意味するnegestの称号も併せ持った。彼女の本来の立場は皇太后(queen mother)であったが、1730年に実質的な後見人だった祖母と伯父が死去したため、1730年の中ごろには、エチオピアの実質的な支配者となった。彼女は重臣たちに「私は女性としてつくられたが、神から授かった私の才能は男性の才能である」と宣言、息子の第一夫人を離婚に追い込み、後釜にオロモ人の女性を据えた。これによって、エチオピアの宮廷政治にオロモという民族集団が入り込むことになる。
Mentewwabは、親族の男性のネットワークを通して統治を行い、Ethiopian Orthodox Churchの派閥の一方を支持、王都ゴンダールに教会を建て、Virgin Maryに捧げた。この教会はQwesqwam教会と呼ばれ、その後の50年間、教会建設のモデルとなった。1751年、Mentewwabは、エジプトから3人のフランシスコ修道会の宣教師を招待した。これがエチオピア社会に大きな衝撃を与え、カソリシズムが放棄されるきっかけとなった。
皇帝Iyasu二世は1755年に熱病で死亡。Mentewwabは急ぎ孫のIyo’asを後継者に指名した。しかしMentewwabの権力は次第に衰えを見せ始め、1769年のIyo’asの暗殺は、それを象徴する事件であった。翌年、Qwesqwam に引退した彼女を訪れたスコットランド人探検家James Bruceは、Travels to Discover the Source of the Nile(1790)の中で、好意的に彼女のことに触れている。

1740年(ダホメー/ベニン)Kpojito Hwanjile実権掌握(1774年没)

植民地化前のダホメー王国の高位の司祭、皇太后(queen mother)。王位後継者の選定に介入したことが、その後の皇太后の権力を決定づけ、それがひとつの伝統として定着した。

1759年(ギニア/シエラレオネ)Betsy Heard誕生(1812年以降に没)

商人。父はイギリス人、母はアフリカ人。父親は、彼女をイングランドに送って商業やヨーロッパ文化を学ばせた。帰国後、奴隷貿易と政治的ネットワークを父親から引き継ぎ、蓄財と政治にかなりの手腕を発揮。18世紀末には、西部アフリカ内陸部の奴隷貿易を独占し、政治的影響力を身に着けた。混血という立場から、ローカルな首長とSierra Leone Companyとの仲介役も務めた。1812年以降の歩みについては不明。Signaresと呼ばれた同じような女性に、18世紀にポルトガル人の船長と結婚したBibiana Vazや19世紀のMãe Aurélia Correiaがいる。

1765年頃(南ア)Mnkabayi誕生(1840年没)

18世紀末のSenzangakhonaの時代から1839年に終焉を迎えるDingane 王の治世にまたがるズールーの歴史を生きた女性。ズールー王族の中でもっとも勇猛果敢な女性として知られる。
ズールー王国では、18世紀中葉から1879年のCetshwayo王の治世の終焉にいたる期間、王室の女性は積極的に軍事や政治に介入した。Mnkabayiは、1780年頃にJama kaNdabaの跡を継いだ弟Senzangakhonaの摂政となり、Shaka の治世には、きわめて大きな影響力を行使した。シャカは、彼女に、現在のニューキャッスル近郊の軍事拠点に駐屯していた軍隊の指揮を委ねた。彼女の能力はジェンダーの垣根を越え、国の評議会に出席するときには、弓矢を携えた戦士の服装を身にまとっていた。儀礼においても重要な役割を演じ、その影響力は50年以上にわたって続いた。しかし、ズールー王国が分裂し、ナタール州に組み込まれると、王室の女性たちの軍事的、政治的役割も終焉した。

1770年頃(南ア)Mawa

ズールーの王女。3人のズールー王の父親Senzangakhonaの末の妹。甥のShakaとDinganeの統治期、彼女は軍事拠点となった町で、王室の代表を務めた(1815年頃~1840年)。1840年にDinganeの統治末期には、まだSenzangakhonaの3人の息子が生き残っていた。そのひとりMpandeは、Dinganeを倒して自分が王位に就き、もうひとりの息子Gqugquを抹殺した。Mawaは、おそらくGqugquを支持していたと思われる。そのためにGqugquが処刑されると(1842年頃)、ただちに数千人の部下を引き連れてナタールに逃亡。他の難民も取り込み、イギリス植民地行政の許可を得て、そこに永住地を建設した。(Dictionary of African Historical Biography)

1770年頃(アサンテ王国/ガーナ)Yaa Kyaa Asantewaa誕生(1840年頃没)

AmpomahemaaとAsantehene Osei Kwadwoの間に生まれた王女。1824年にMcCarthy軍との戦いに参戦し勝利。McCarthyは捕えられて首を刎ねられる。しかし、Asantewaaは、1826年のKaramansoの戦いでは敗退し、2人の兄弟と義理の息子を失う。彼女自身は、オランダ人に売られたが、1830年に解放されると、イギリスとアサンテ王国との和平の仲介に成功。彼女の演じたこの功績を目前に、アサンテ王は彼女をゴールドコースト(後のガーナ)へのミッションの代表に選んだ。
和平の条件に沿って、ミッションは2人の捕虜と600オンスの黄金を持参した。この和平条約はケープコーストのイギリス人との間で結ばれたものだったが、彼女は和平と交易についての交渉をしに、エルミナのオランダ人の陣営に向かった。イギリスとオランダの両方と交渉することによって、交渉を有利に進めようとしたのだった。
ケープコーストからアクラに行き、オランダ人に囚われていた捕虜を解放させたのち、エルミナに戻ったAsantewaaは、1831年9月にオランダ人総督Frederick Frans Ludewich Ulrich Lastとの間でうまく交渉をまとめ、1931年11月にクマシに戻った。その後の彼女の足取りはわかっていない。

1776年頃(南ア)Nandi誕生(1837年没)

Shaka Zuluの母。19世紀のズールー王国史において傑出した影響力を持った女性。Shakaとその母Nandiに関する物語は、神話のヴェールに隠されているが、一般に、次のように伝えられている。Langeniという王家の一員として生まれたNandiは、Shakaの父親Senzangakhonaと結婚する前に妊娠してしまう。この話は事実と思われる。NandiはSenzangakhonaと結婚し、Senzangakhonaの第一夫人であるMkabi女王の住む王宮に移るが、さまざまな危険と隣り合わせの生活を送っていた。そんな中で、息子のShakaは父親の王宮を飛び出し、まずLangeni人の領域へ、その後、若者を引き連れてMthethwaの支配者Dingiswayoの宮廷に移り住んだ。Shaka はNandiの出身民族Langeniなどの小さな集団をまとめて新しい王国をつくった。その際、Nandiの仲介によって小集団を駆逐したり、殺害したりすることはなかったことが、当時の史料に残されている。攻撃的で気性の荒い暴力的なShaka像が流布しているが、それは後に造られた虚像である。
Nandiは、Shakaの王宮を支えるのみならず、Shakaの軍団のひとつを任されて、軍事的な面でも重要な役割を担った。この軍事上の義務は、Shaka とその後継者である義理の弟Dinganeの時代のズールー王国の王室の女性たちの重要な役割のひとつだった。この役割は、1879年のイギリス=ズールー戦争でイギリスに敗北した後、消滅した。
Nandiは1827年に病に倒れ、10年後に死去。その直後、一年も経ずして、息子のShakaは、義理の兄弟であるDingane とMbophaによって暗殺された。

1778年(マダガスカル)RanavalonaⅠ(在位1828~18611861年没)

夫RadamaⅠの死後、1540年のメリナ王朝開闢以来初の女王に就く(戴冠式は1829年)。ヨーロッパの勢力への政治的・経済的従属を排し、ロンドン宣教協会(LSE)によって夫RadamaⅠが始めたMalagasy Christian 運動を排除することに勢力を注いだ。1835年にはキリスト教の実践を禁止し、ヨーロッパ人を国外追放にした。島内では、2~3万の常備軍を整備して領域を拡大した。しかし、その間、フランスとイギリスの間でマダガスカル領有をめぐっての熾烈な外交が繰り広げられ、結局、それに深く介入していたフランス人Francois Lambertは、1857年、独断でクーデタを起こしたが、失敗し、ヨーロッパ人は国外追放となった。1861年の死後、息子のRakoto王子がRadama Ⅱとして王位に就いた。

1784年頃(南ア)Mmanthatisi誕生(1847年没)

BaSia 民族集団の首長Mothahaの娘。現在の南アのHarrismith近郊で育つ。Tlokwa民族集団の首長かつイトコのMokotjoと結婚。夫が1804年に死去すると、幼かった息子の代わり首長位を継承し、近隣の敵対する民族集団との抗争を勝ち抜く。1817年には、Ndwandwe の首長Zwideを攻撃し、すべての牛を奪う。その後もMoshweshweを打倒する。彼女の兵力は3万5千~4万人であったとされている。息子が長じて首長に即位した後も、隠然たる政治権力と権威を保持し続けた。

1788年頃(アフリカ系ディアスポラ/バミューダ諸島)Mary Prince誕生(没年不明)

自伝を出版したことで知られる最初の元奴隷の女性。自伝The History of Mary Prince, a West Indian Slave, Related by Herself (1831) は、研究者によってその価値が再評価されるまで、著者ともども忘れ去られた存在だった。
Princeは、人間であることとはどういうことかを、貧しい、阻害された人々から学んだ。父親からは、言葉によって自分自身を守る術を学んだ。自伝によると、まず、Princeは、10代の時、暴力的な主人の元を逃げ出し、連れ戻された時に、二回目は、性的虐待を受けた時、最後は精神的な虐待を受けた時に言葉で自分を守っている。
Princeが学んだ最大の教訓は、母親からのものだった。キリスト教に改宗し、宗教的なレッスンを受けるずっと前に、母親は、奴隷オークションの直後に、Princeの心や身体や精神の主人であると自負している人より大きな力があり、それは、勇気と希望であり、それを信じるように教えたのだった。ほぼ30年後、Princeは、ロンドン滞在中に、主人の家のドアを開けて、歩み去るという形で自分を奴隷状態から解放した。外国の地で、自分自身で奴隷状態から抜け出すということは、Princeには、主人の家以外に身を寄せる知人はおらず、ひとりぼっちになる事を意味した。彼女がこうした境遇を選択した背景には、母親から教えられた勇気と希望があった。それにしても物心ついて以来、奴隷としての生活を強いられてきた女性が、外国で自ら自由を選択したことの意味は大きい。

1789年頃(南ア)Sarah(Saartjie) Baartman誕生(1815年没)

現在の東ケープ近郊のコイコイ人(ホッテントット)の家庭に生まれる。父親は牛の放牧中にサン人(ブッシュマン)によって殺される。サラは、その体型(大きく膨らんだ臀部と長い陰部―エプロン)に目をつけた男性たちによってロンドンに連れてこられ、1810年秋のロンドンを皮切りに「ホッテントット・ヴィーナス」と命名されて見世物にされる。イギリス各地、そしてパリで評判となり多くの観客を集めた。しかし、その終焉はあっけなく、1815年、パリの片隅で孤独なアル中女性として亡くなった。サラの死後、フランス比較解剖学の最高権威でナポレオンの主治医としても知られるジョルジュ・レオポルド・キュヴィエは「ホッテントットのエプロン」の謎を解くべき公開解剖を行った。サラは生前、解剖学者の前で裸を見せることに激しく抵抗したとの記録があり、彼女は自分の尊厳をいかに守ろうとしていたかの証左として引用されている。解剖後、サラの身体はばらばらにされ、性器はホルマリン漬けにされてパリの人類博物館33番ケースに保存され、骨格は標本とされ、身体は模型がつくられた。フェミニストからの抗議を受けた博物館は、1970年代半ば、標本を置くの物置に収めて展示から外した。この忘れられたサラを偶然にも発見したのは、アメリカの古生物学者であり科学史家スティーヴン・ジェイ・グールドだった。グールドは当時の科学の権威ですら、セクシュアリティと動物性の関連に囚われて、サラを「もっとも遅れた人間集団に属する」と考える大きな過ちを犯していたと看破したのである。時に1980年代初め、南国内でアパルトヘイトに対する反対運動が激化し、国際批判が高まるなか、人種やジェンダーをめぐる既存概念の見直しと再定義が進められた時期と重なり、「ホッテントット・ヴィーナス」への好奇心が「サラ・バールトマン」という女性個人への関心へと転化し、20世紀末のサラの「身体返還運動」へと展開していくことになる。アパルトヘイト後の新たな国民の創出や先住民権利運動とも共振し、サラの「身体」は、2002年に南アの故郷東ケープに戻り、第二代大統領ムベキ列席のもと、サラの埋葬儀式が執り行われた。(詳しくはバーバラ・チェイス=リボウ『ホッテントット・ヴィーナス―ある物語』法政大学出版局、2012所収、井野瀬久美恵「あとがき」を参照)。

1793年(ナイジェリア)Nana Asma’u bint Uthman dan Fodiyo誕生(1864年没)

教師、研究者、詩人。フラニ民族集団のFodioクランの生まれ。父親はソコト王国を建設したShehu Uthman dan Fodiyo。イスラーム神秘主義のスーフィー教団カディリーヤを信奉。「精神にはジェンダー格差はない」とするカディリーヤ教団の平等主義と、イスラーム学者であり巡回説教師でもあった父親の影響を受け、学問を志す。
Nanaの生涯は、当時の西部アフリカの女性の典型でもあり、特異なものでもあった。彼女は早い時期から読み書きを覚え、コーランを手始めとして、さまざまな古典を学び、4つの言語を習得して教師となった。それ以上に彼女を有名にしたのが、西アフリカで広く読まれたアラビア語の詩である。その他のフルフルデ語やハウサ語の詩は、ローカルな人びとに宗教的かつ精神的な支えを提供した。彼女の詩は、父親が始めたハウサ王へのジハードに関する草の根の情報も含まれており、歴史的な史料としても貴重であるとされている。また、彼女は、訓練した女性巡回教師のネットワークを作り、農村部の女性の教育にも貢献した。
今日、ナイジェリアのみならず、オランダやアメリカにいるムスリムの女性たちは、Nanaの作品を復唱することによって、女性が教育を受け、活動家として社会的な問題について発言し、個人個人の才能を開花させることが女性の権利であることを確認している。

1810年頃(西アフリカ)Madame Tinubu誕生(1887年没)

商人。Egba森林地帯で生まれ、商人として成功した祖母から交易について学ぶ。若くして結婚し、2人の息子を授かるが、アベオクタに移住した1830年ごろ、夫を失う。その後まもなく退位させられたラゴス王と出会い再婚、家族でBadagryという沿岸部の町に移動。夫はその支配者として一時的に認められる。折しも奴隷貿易の最盛期にあたっており、彼女は2人の奴隷を使って、アベオクタと沿岸部との商取引に乗り出す。手にした収益を奴隷貿易に投じ、手下を増やして交易を拡大。1835年、夫のAdeleが再びラゴスの王として呼び戻されることになり、彼女は王妃の地位に就く。2年後に夫が死去すると、ムスリムの兵士であり新しい王Oluwoleの臣下でもあったYesefu Bada(Obadinaとしても知られる)と結婚、王室の庇護のもとに商業に従事。1841年にOluwoleが死去し、その後継者をめぐってKosokoとAkitoyeの間で争いが勃発。Tinumuと夫はAkitoyeを支持。いったんは王位に就いたAkitoyeが敗れるという政治的混乱の中、奴隷交易で莫大な利益を手にする。
1851年、Akitoyeに背中をおされたイギリスがラゴスを攻略、Kosokoを退位させ、Akitoye を王に任命。これにより、大西洋奴隷貿易の終焉と新しい商業の時代が到来する。Tinubuはアフリカ人の利益と自治を守るためイギリスに抵抗、アベオクタに追放される。アベオクタでTinubuは奴隷を使ってナツメヤシの栽培を開始。アベオクタの政治にもかなりの影響力を発揮し、その結果、iyalode (町の女性首長)の称号を授与される。
イギリス人はTinubuを常習的な奴隷商人であり、奴隷貿易廃止論者の代表的存在だとするが、彼女は、そうした海外との特殊な貿易に深く関わったというよりむしろ、自身の政治的党派やアフリカ人の自治を守ることに関心があった。Tinubuは、歴史の記録に残ることのなかった植民地化前の西アフリカの女性の中で、珍しく歴史的文書に残されている稀有な事例である。

1810年頃(セネガル~シエラレオネ)Mãe Aurélia Correia誕生(1875頃没)

傑出した奴隷商人兼商人。奴隷、ラム酒、農作物を扱った。自身も数百人の奴隷を擁していた。Senora、あるいはsignaresと呼ばれたポルトガル系アフリカ人女性の可能性が高い。彼女たちは、多言語、多文化を身に着け、ポルトガルとアフリカとの文化的仲介者としての地位を最大限に利用し、富を蓄えた。彼女はNhara Julia da Silve Cardosoという女性と姻戚関係にあり、彼女から商売の仕方を伝授されたと思われる。奴隷貿易禁止キャンペーンを張ったイギリスによって、奴隷を商品として扱う時代は終焉を迎え、所有していた落花生プランテーションの労働力であった奴隷たちの解放をやむなくさせられた。

1825年頃(ケニア)Mwana Kupona誕生(1860年没)

詩人。ケニア沿岸部のラム諸島はパテ島の都市国家Siuで生まれる。どのような育てられ方をしたかは、ほとんど不明。史料は末裔や民俗史家が伝える口頭伝承のみ。ただし、当時の社会・政治状況については、Pate Chronicle(パテ年代記)が伝えている。
夫は彼女よりかなり年長のSiuの支配者Sheikh Mataka。近隣の都市国家との戦争を繰り返し、時にはザンジバルのスルタンSayyid Saidの支援をうけることもあった。Kuponaとの結婚前に一人か二人の女性と結婚していたと思われる。Kuponaとの結婚は1842年前後。
Kuponaは娘をひとり、息子をひとり授かった。夫の死後、跡を継いだ義理の息子との折り合いが悪く、ラム島に移住。自分が死の病に罹っていることを知り、結婚年齢(14~16歳)に達した娘のMwana Sheeのために、夫との諍いのない幸福な結婚生活を送るための知恵をちりばめた叙事詩を編んだ。Utendi Wa Mwana Kupona(『ムワナ・クポナの詩』)である。102節からなるこの詩は、アラビア文字を使用したスワヒリ語で書かれている。このことは、当時としてはKuponaが高い教育を受けていたことを示している。
この叙事詩は、現在もなおラム諸島の人びとの間で、母から娘へと読み継がれている。

1830年頃(アサンテ王国/ガーナ)Yaa Asantewaa誕生(1921年没)

皇太后ohemaa、イギリスに抵抗した最後のアサンテ王国の指導者。アサンテの皇太后の権力は、Akan民族集団の母系社会の伝統に由来している。アサンテ社会では、ほとんどの政治的役職は男性が掌握していたが、政治的地位を授けるのは女性だった。しかし、皇太后は唯一、女性に与えられた役職だった。皇太后は、王と国家の責任を共有し、男性の王がいない時には、王として国を統治した。
Yaaは、Edweso-Beseaseの王族であるAsonaクランの一員として生まれ、1888年ごろに皇太后の地位に就いた。1896年、王がイギリスによって国外追放になると、Yaaが王に就任。1896年、イギリスとの保護領条約に署名したが、自国領の鉱山地帯をイギリスが占領することには抵抗した。
その後、1900年に総督Frederick Hodgsonの要求によって、ガーナの首都Kumasiで、アサンテ王国の指導を委任される。しかし、それはイギリスの傀儡であって、アサンテの住民を強制労働に駆り立てるといった実質的な権限は総督にあった。
総督の演説を聞いたその夜、Yaaはアサンテの解放のために戦うよう男性たちに呼びかけた。銃を手に取り、空中に弾丸を放った。すべての首長たちは、イギリスに抵抗して立ち上がることを約束。Yaaの指導の下に、戦闘評議会が組織されたが、戦闘力に勝るイギリスには勝てず、1901年に降伏、Yaaはセイシェルに流刑となり、1921年、故郷に戻ることなく死去。

1835年頃(ジンバブウェ)Nyamazana(1890年頃没)


ンゴニの指導者Zwangendabaの姪にあたる女性だとされているNyamazanaは、1819年頃にズールーランドを離れ、Zwangendabaが現在のジンバブウェを移動中に、ンゴニの分派のリーダーとなる。Zwangendabaは1835年にザンベジ川を渡ったが、Nyamazanaは川を渡ることなく、ザンベジ川の南部にとどまった。その後2~3年間、彼女は部下を従えてショナ人の領土を掠奪してまわった。Mzilikazi率いるンデベレ人が1839年頃にジンバブウェに到着すると、Nyamazana率いるンゴニ人はMzilikaziに投降し、以後、ンデベレ国に吸収された。Nyamazana自身はンデベレ王と結婚し、1900年頃に死亡したとされている。(Dictionary of African Historical Biography)。

1840年頃(南ア)Nongqawuse誕生(1900年頃没)

コーサ人の預言者。孤児となってオジと暮らしていた1856年のある日、すべての牛を殺し、トウモロコシを引き抜くことによって、コーサ人は蘇るとのお告げをあの世からやってきた精霊から受け取った。というのは、人びとも動物も妖術によって汚されており、生きとし生けるものはすべて浄化されねばならない、そうすれば、人びとも牛も再生するというのである。
Nongqawuseの預言は、ほとんどのコーサ人が信じた。すでに彼らは、Eighth Frontier War(1850~1853)でイギリスに敗れており、それに追い打ちをかけるように、肋膜肺炎(bovine lung sickness)という外来の病気によって牛の頭数が激減していた。このことが、Nongqawuseの預言に信ぴょう性を与えていた。コーサ人の中にも、牛を殺さなかったものも少数いたが、Nongqawuseはこの行為を、15か月にわたる預言の失敗を正当化するために利用した。最終的に、コーサ人は40万頭に上る牛と食用のトウモロコシ、および来たるべきシーズンの種付けのためのトウモロコシを失い、4万人の餓死者を出した。生き残った者は難民となって東ケープに流入した。
この危機的状況は、総督George Greyにとって、80年以上にわたり抵抗してきたコーサ人の勢力を抑え込む絶好のチャンスだった。総督は飢えに苦しむコーサ人を、白人入植者の奴隷的労働力として投入し、コーサ人首長たちを、反逆の可能性ありとして監禁した上、コーサ人の60万エイカー以上の土地が白人入植者用に収用された。
オジを含め、親族の何人かを失ったが、Nongqawuse自身は生き残った。1858年、Nongqawuseは逮捕され、ケープタウンに連行されたが、その後の釈放や死を含めて、詳細はわかっていない。名前を変えて、故郷から遠く離れたAlexandria近くの農園に住みついたという説もある。
Nongqawuseの行為や動機を説明するのは難しい。コーサ人は、Nongqawuseが、総督Greyによって、牛を殺すよう操作されていたと考えている。最近の研究は、キリスト教の復活の影響を強調している。こうした説明に対して、Helen Bradfordは、牛殺しは、妻が牛と交換されるというコーサ社会の家父長制への攻撃だったとする。さらには、Nongqawuseの言う「汚れ」は、コーサ人男性による性暴力を意味しているとも主張する。Nongqawuseが孤児となったEighth Frontier Warの際、多くのコーサ人女性が殺されたりレイプされたりしたからである。しかし、Nongqawuseの預言は、全く新しい何かではなく、首長が支配する牛文化を基盤としたコーサ社会という植民地化前の栄光を取り戻そうとする行為だったという説明も可能だとする研究者もいる。

1840年頃(ジンバブウェ)Nehanda Nyakasikana (1898年没)

ショナ民族の霊媒師であり、ショナ民族の精神的指導者。イギリス南アフリカ会社(British South Africa Company)によるマショナランドとマタベレランドの植民地化への抵抗運動を鼓舞。同盟者Kaguviとともにイギリス当局に捕えられ処刑された。

1842年(南ア)Princess Emma誕生(1892/93年頃没)

コーサ民族の首長Sandileの長女。二度にわたるイギリスとの戦争に敗れた首長に、イギリス総督は子供たちへの教育を申し出る。それによって、植民地支配に協力的な次世代を養成しようとしたのである。こうして、Emmaとその他の民族集団の首長たちの子弟は、ミッションの寄宿舎に入って教育を受けた最初のアフリカ人となった。イギリス人司教の意図は首長の息子たちを牧師にし、娘にはその連れ合いにふさわしい教育をさずけるというものだった。総督と司教の仲介により、Emmaの結婚相手として選ばれたのは、一夫多妻を放棄することを拒んだ男性だった。一夫一婦の結婚を望んでいたEmmaはその結婚をどうにか拒否することに成功。しかし、結局、娘の結婚を通しての他民族集団との同盟関係によって権力基盤を固めようとしていた父親の勧めもあって、一夫多妻を実行するマイナーな首長の息子との結婚を了承せざると得なかった。Emmaは、イギリス帝国主義とそのケープコロニーへの影響、およびアフリカ人家族の家父長制の中で翻弄された女性を象徴するものだったといえるだろう。

1844年(ザンジバル/タンザニア)Sayyida Salme/Emily Ruete誕生 (1924年没)

オマーンのサイード王の娘として、東アフリカ領ザンジバルで生まれる。ザンジバル駐在のドイツ人商社マンHeinrich Reuteと恋仲になり妊娠、イギリスの軍艦でアデンに逃亡(1866年)。イスラーム教徒からキリスト教徒に改宗し、合流したハインリッヒと結婚してドイツに渡る。1870年に夫が交通事故で死亡。幼い3人の子供を抱え、財政的にも困窮し、ザンジバルの王室メンバーの遺産の相続権をめぐって、新たに王位についた異母兄のバルガッシュとの交渉を始める。しかし、イスラーム教徒であることを捨てた妹を、バルガッシュは冷たく突き放す。1885年の初めてのザンジバルへの帰郷は、遺産相続に決着をつけたいとのエミリーの意図とは別に、東アフリカ分割をめぐってザンジバル王に圧力をかけたいドイツ当局の思惑が絡んでいた。彼女の意図は、バルガッシュ王がドイツの要求を受け入れたことによって無視される。その後もさまざまな画策を行うも、イギリスもドイツも、外交政策の駒としての価値を失ったサルメを支えようとはしなかった。傷心の彼女は、2度目のザンジバル訪問(1888年)からの帰路、ドイツに戻らず、直接、レバノン(オスマン帝国領)に居を移す。第一次大戦の勃発によって、敵国となったオスマン帝国領のレバノンからドイツに戻り、1924年没。1886年に刊行されたMemoirs of an Arabian Princessは、アラビア王女によって書かれた世界初の自伝である。(Dictionary of African Historical Biography)

1848年(イギリス/ナイジェリア)Mary Slessor誕生(1915年没) 

貧しい労働者階級の家庭に生まれる。父親は靴職人だったが、アルコール中毒で職人を続けられずに工場労働者になる。母親も向上に勤める。メアリーも、11歳になると、半日学校へ、残りの半日は工場で働いた。やがて父親が死亡、14歳でジュート工場の専任の労働者となる。母親は熱心なプレスビテリアンの信者で、毎日、メアリーに宣教師の記事を読み聞かせた。やがて、伝道に関心を持つようになった矢先、リヴィングストンの死を知り、彼の足跡を継ごうと決心する。
United Presbyterian Church’s Foreign Mission Boardにコンタクトを取り、エジンバラで訓練を受けた後、1876年、28歳でナイジェリアのCalabar地区のEfic (エフィック人)の居住地に赴任する。そこで、双子が生まれるとどちらかが呪われた子供であるとして捨てる慣習があることを知る。彼女は、捨てられた子供を拾って育て、悪習を根絶しようとした。にもかかわらず、彼女は現地の人びとの信頼を得て、現地に溶け込んでいたと、1881~2年に視察に行った宣教所の使者は報告している。その理由のひとつとして、彼女が現地の言葉を話すことができたことが指摘されている。その後3ねんほどして、健康上の理由で帰国、その際、Janieと名付けた養女を伴った。
帰国後、母親の介護やJanieの養育にしばらくを費やした後、再びCalabarに戻り、何百という捨て子をブッシュから救い出した。同時に、犯罪の審議の際に毒を飲ませる慣行も止めさせるために努力し、イエスの言葉を広めた。この双子の慣習は、CalabarのEfik人だけではなく、隣接するIbo人の社会にも、その他の地域にも存在していた。
1888年、彼女は、かつて男性の宣教師が殺されたOkoyongを訪れる。女性なら現地の人びとの警戒心が小さいだろうという考えからだった。 1892年、MaryはOkoyongの副領事となり、現地の裁判に係るようになり、1905年には現地の裁判所の副長官に任命される。故郷に帰国することなく、1915年にCalabarで没す。
Maryは、Calabarに職業訓練所Hope Waddell Training Instituteを設立するなど、イエスの言葉の普及よりむしろ、現地の対立抗争の調停や交易の推進、社会改革、西欧教育に力を注いだ。

       

 

19世紀中葉(ザンビア)Mamochisane (Ma-Muchisane)

コロロ国を創設したSebitwani王の娘。コロロがザンビア西部を占領していた時、彼女はロズィ王国によって捕えられたが、害を与えられることなく父親のもとに帰された(1840年頃)。このことがあって、父親がロスィを征服した時、ロズィに対する扱いが寛大であったとされている。父親のSebitwaneは、ロズィ王国を4つに分割し、そのひとつの統治を娘のMamochisaneに委ねた。彼女は1851年の父親の死にともない、後継者としてコロロの女王に就任したが、まもなく兄弟のSekeletuに王位を移譲し、結婚して家庭生活に退いた。(Dictionary of African Historical Biography)

1849年頃(シエラレオネ)Madam Yoko (1906年没)

シエラレオネ内陸部の最大の政治領域を誇ったKpa Mende連合国家(1878~1906)の創設者であり支配者。最初の夫と離婚、二番目の夫とは死別。その後、メンデランド西部の強力な首長と結婚。呪術と外交に長けた第一夫人としての名声を得る。
近隣集団と同盟を結び、大きな連合体を作り上げた。もっとも重要な同盟相手は、シエラレオネ内陸部の政治に大きな存在感を示していたイギリスであった。イギリスの外交や和平の手助けをし、見返りに、イギリスの警備隊を自国領内に駐屯させるといったイギリスの支援をとり付けた。1886年、ライバルである首長がフリータウンとの交易を阻害していると通告し、イギリスに追い払わせるなどした。
1896年、イギリスがシエラレオネ内陸部を保護領化すると、その2年後に小屋税の導入に反対する暴動が戦争に発展したが、彼女はイギリス側にとどまった。その褒章として、戦争後、イギリスは彼女が領地を拡大することを認可。イギリスの間接統治下で、彼女は連合国家をまとめて中央集権化をはかり、さらなる領土拡大をめざした。1906年、彼女は老齢の自分に見切りをつけて、自分で命を絶ったという話も伝えられている。1919年、Kpa Mendeは14の首長国に分裂した。(Dictionary of African Historical Biography)

1850年頃(エチオピア)T’aitu Bitoul誕生(1918年没)

メネリク2世(在位1889~1913)の妻(皇后)。19世紀の著名な政治指導者の娘として生まれ、エチオピア中部の政治的に重要な家系との広いコネクションを持つ。30歳ころまでの経歴は不明な点が多い。メネリクの妻だった女性の兄との結婚を含めて何回かの結婚歴がある。1883年にシェワ州の王だったメネリクと結婚。それまでのメネリクには多くの女性がいたが、T’aituとふたりで聖体拝受を受けて以降、夫婦としての絆を固めた。
結婚するや、メネリクが宮廷を遷したエントトの丘にSaint Mary教会を建設させる。教会は1886年に完成。同じ年に、現在のAddis Ababaに移る。1889年、メネリクが皇帝に即位し、その即位式はエントトのSaint Mary教会で執り行われた。その2日後、T’aituが皇后に即位する儀式が行われた。その直後、メネリクはイタリアとの間でウッチャリ条約(Treaty of Wechale)を締結。その1年以内に、イタリアが条約文の主文の1節を根拠に、エチオピアの保護領化を宣言したために論争が勃発。T’aituは条約をめぐる交渉に積極的に関わり、皇帝に条約の廃棄通告をさせることに成功。以後、イタリアとの関係はとん挫位し、エチオピアとイタリアが1890年に植民地化したエリトリアとの国境問題が切迫した。1895年、イタリア軍がエチオピアに侵攻し、メネリクは軍隊を招集。T’aituとメネリクは北部に軍を進め、1896年3月1日、アドワの戦い(Battle of Adwa)でイタリア軍を破る。
その後、子供がいなかったT’aituは、1900年、甥のGugsa とメネリクの娘Zewdituとを結婚させたり、姪とメネリクの重臣との婚姻をアレンジしたりして、親族のネットワークを強化した。
1906年と1908年の2度にわたる発作(stroke)で身体の自由を一部失ったメネリクに代わり、T’aituが実権を行使。人事や法令の制定なども行った。しかし、1909年、メネリクはT’aituが薦めるZewdituではなく、孫のIyasuを後継者に指名。その直後に、メネリクは意識を失い、その状況は、以後1913年まで続いた。その間、T’aituに対抗する勢力が台頭し、ついにはエントトのSaint Mary教会に退かざると得なくなり、そこで生涯を終えることになる。

1855年(南ア)Olive Schreiner誕生(1920年没)

イギリス系南アのフェミニスト、反帝国主義作家、活動家。バストランドとケープ植民地と南アと境界を接するWittebergenのWesleyan 宣教所で生まれる。12人兄弟姉妹(生き残ったのは6人)の9人目。父親はロンドン生まれ、母親はドイツ生まれの宣教師。妹の死をきっかけに、9歳でキリスト教を拒否し(のちに、仏教を通して心の慰めと人生の意味を見出すことになる)自由な思索の道を選択。11歳の時、貧困から、兄のWill(1898年にケープ植民地の首相となる)とともに両親の家を離れ、親類や友人の家を転々としたのち、アフリカーナーの家の家庭教師(governess)となる。この経験から、イギリス人とアフリカーナーの文化的価値に対する鋭い考察力を身に着ける。
1881年、女性に開かれた新しい領域を開拓すべくイギリスに渡り、医学の訓練を受ける。しかし、ぜんそくや扁桃腺炎などの持病のせいで、医学をあきらめ、作家の道に転向。1883年に出版された彼女の第二作The Story of an African Farm(Ralph Ironというペンネームを使用)は、語りのうまさ、革新的フェミニズム、勇気ある社会問題への批判などで高い評価を得た。ふたりの主人公の悲劇的結末は、人種、階級、ジェンダー間の不平等が構造化されている植民地文化の中での自己実現は決して達成できないことを明らかにしたこの作品は、19世紀から20世紀初頭に英語で執筆された南ア作品の中で、もっともよく知られた小説となっている。
1889年に南アに戻ったSchreinerは、人種差別や性差別やユダヤ人差別、あるいは肉体労働者への暴力の事例を引用しながら、南アの社会的政治的実態を告発し続けた。1880年代に彼女が執筆したこれらの論説は、彼女の死後にThoughts on South Africa(1923) として出版された。
1894年、Schreinerは家畜のブリーダーとして成功し、のちに政治家に転身したSamuel Cron Cronwrightと結婚。家族や友人が、彼女の急進的な考えに批判的だった中、夫は彼女の平等主義的な政治的社会的信念を支持してくれたが、生まれた娘の死や流産の後、ふたりの関係はうまくいかなくなっていった。
その間の作品として、1897年に出版した小説With Trooper Peter Halket of Mashonalandは、イギリスによる南ローデシア(現在のジンバブウェ)の征服を描いている。その他に、Closer Union(1909)や、死後に出版されたFrom man to Man(1924)がある。
健康を害し、治療のためにヨーロッパに行き、第一次大戦終了後に帰国、1920年に死去し、故郷のBuffelskopの墓地に埋葬された。

1856年(ブガンダ/ウガンダ)Muganzirwazza皇太后に即位(1882年退位)

ブガンダ王国の皇太后(queen mother)。19世紀のブガンダ王国の歴史は、政治組織の統括、支配階級の団結、植民地主義とブガンダ王国のエリート階級との覇権争いの歴史だった。その歴史を明らかにするには、ジェンダー、階級、民族、人種を横断する政治学的視点が必要となる。Muganzirwazzaが皇太后の地位にいた時期は、そうした時代を象徴している。
ブガンダ王国の系譜をたどると、Muganzirwazzaは、22代目の皇太后にあたる。彼女はSunna王(1795~1856)の数百人の妻のひとりで、不屈で影響力のある、反帝国主義者だった。息子のMutesa1世が1856年に王に就任すると、Muganzirwazzaは王と同等の権力を確保した。自分の農園を持ち、労働力や税金を徴収し、裁判官としての役割を遂行し、象牙交易を独占。息子を守るためには、殺人も辞さず、たとえば、1850年代には、Mutesaの異母兄弟11人を餓死させている。
それにもかかわらず、皇太后としてのMuganzirwazzaは、普通の女性より厳しい王国の監視と支配下に置かれていた。首長たちは、彼女の移動の自由を統制することができたはずなのだが、彼女は果敢にそれに挑戦した。さらに、皇太后として、再婚と性的な活動は制約されていた。
熟練外交官でもあるMuganzirwazzaは、探検家のJohn Hanning Spekeからヨーロッパの政治機構や王権や婚姻についてのさまざまな知識を得ていたが、彼女の考えは、当初から変わらず、むしろヨーロッパ人がブガンダの社会政治システムについて学ぶべきだと考えていた。王が気まぐれに一夫一婦制に関心を示しても、彼女は一夫多妻は、クランやクライエントや征服地との間の政治的バランスを維持するために必要不可欠な政治的な制度だと考えていたのである。Mutesa1世は洗礼を受けることなく、84人の妻と1700人の妻の予備軍と1000人の側室を持つ一夫多妻主義を実践した死亡した。
Muganzirwazzaは、ブガンダ王国併合のために王国の政治機構を変えようとしているとして、宣教師が宮廷に介入することを拒否したことからもわかるように、ウガンダで最初の反帝国主義者のひとりだった。1882年に彼女が死去すると、王の宮廷は緊張が高まり、諸宗教間の対立抗争が勃発、ブガンダ王国は1900年、イギリスによって併合されることになる。

1861年(マダガスカル)Ranavalona誕生(1917年没:在位1883~1897年)

RanavalonaⅡの死後、後継者としての資格を持つ親族の中から選ばれて王位に就いたマダガスカル最後の君主。アメリカとイギリスとの貿易と外交を強化することによってフランスによる植民地化に抵抗。しかし、フランスは沿岸部の町を攻撃、結局、1895年に首都アンタナナリヴォを攻略、マダガスカルを植民地化した。

1862年(イギリス/中部・西部アフリカ)Mary Kingsley(1900年没)

イギリス人旅行家。かなりの財産を遺して両親が死去したのち、2回のアフリカへの旅行を行った。最初は1893年で、アンゴラからベルギー領コンゴおよびフランス領コンゴに足を延ばし、そこからナイジェリアまでもどった。二回目は、1894年。ナイジェリア、フランス領コンゴ、ガボン、カメルーンを、小商いをしながら路銀を得て旅費の足しにした。
この旅行を通して、それまでヨーロッパで流布していたアフリカ人の劣等性を否定し、アフリカ人のメンタリティは異なっているだけで、決して劣等なものではないとの結論に達する。その結果、彼女は西欧の植民地化や西欧教育を受けたアフリカ人を非難し、1880年代の慣習法と秩序が支配し、西欧との関係では商取引のみに限定するという考えに到達。帰国後、さまざまなメディアや講演をとおして自説の普及に努めた。Travels in West Africa(1897)およびWest African Studies(1899)は、その後のイギリスの植民地政策に影響を与えた。3度目のアフリカ旅行の代わりに、彼女は南アフリカ戦争の従軍看護婦にボランティアで参加、1900年に現地で病死。(Dictionary of African Historical キングスリーBiography)

1868年(シエラレオネ)Adelade Casely Hayford誕生(1960年没)

パン=アフリカニスト、フェミニスト、教育者。クレオーレのエリートの家庭に生まれ、1872年に家族とともにイングランドに移住。イギリスとドイツで教育を受け、アフリカ人ディアスポラのエリートの代表的存在となる。西欧の文化やフェミニズムの影響を受けつつ、パン=アフリカニズムの国際的潮流にも深く共感。1903年、弁護士のJoseph E. Casely Hayfordと結婚してガーナに移住する。その後、夫と別居し、1914年にシエラレオネのフリータウンに戻る。1920年以降、少女と女性のための教育機関や職業訓練機関の設立に奔走。アメリカでもさまざまな人びととの交流や支援を通して、1923年についにフリータウンにGirls’ Vocational and Industrial Training Schoolを開設、夢を実現させる。

1874年(南ア)Charlotte Maxeke誕生(1939年没)

アメリカの大学で学位を取得した最初の南アの女性。
政治家、教育者、教会や社会関係の活動家。1880年代初頭にポート・エリザベスのEdwards Memorial Schoolを卒業し、教師の資格を取得。1885年、家族は、ダイヤモンド鉱山で繁栄するキンバリーに移住、妹とともにAfrican Jubilee Choirのイギリスへの公演旅行に参加、2年間のイギリス滞在の機会を得る。ロンドンで、Emmeline Pankhurstを含む参政権論者の演説を聞き啓発される。
さらなる教育の機会を求めて、アメリカへの公演旅行に参加。1894年、オハイオ州のクリーブランドでこの公演旅行がとん挫し、一座が解散すると、African Methodist Episcopal Churchの計らいでWilberforce Universityに入学、宣教師となるべく教育を受け、W,E,B,Du BoisやIda B. Wells-Barnettといった黒人リーダーの指導の下、1901年に学士号(bachelor of science degree)を取得した最初のアフリカ人女性となる。そこでは、すでに南アからやってきていた未来の夫Marshall Maxekeとの出会いもあった。同年、南アに戻った彼女は、家族と合流。そこの首長に寄贈された土地に学校を建設してキリスト教の布教に専念。Marshall Mazekeが合流し、ふたりは結婚し、共に学校の運営にあたった。
しかし、政府からの支援を得られず、コミュニティの貧困状況も重なって、学校運営の続行が困難になる。その後も、各地で学校を開設するが、いずれも運営難に陥る。最後は、テンブ族の王Sabata Dalindyeboの支援を受けて学校を運営した。
1910年代末までに、農村部からヨハネスブルグ近郊に移動。教会の仕事を続けながら、一方で政治運動にもコミットするようになる。1912年のSouth African Natives National Congress(のちのANC)設立集会に出席。1918年、Bantu Women’s Leagueに、1920年には労働者の権利擁護をめざす労働組合運動にも参加。これが認められて1922年、Native Affairs Departmentの先住民のための福祉業務に就く。1930年に公務から退き、5年間のブランクの後、African Methodist Episcopal Church’s Wilberforce Instituteの女子寮の寮監になり、孤児や貧困家庭の支援を行う。1937年、専門職の黒人女性を結集した全国的なNational Council of African Womenが結成され、その会長に選出されたが、その2年後にこの世を去った。
ヨーロッパの教育と宗教に触れたことによって、深い亀裂で隔てられた黒人と白人の架け橋となり、生涯、アフリカ人、とりわけ女性が立ち上がり、自分のことは自分で判断できるような能力を持っていることを訴え続けた女性だった。

1875年頃(南ア)Nontetha Nkwenkwe誕生(1935年没)

預言者。ケープ東部のアフリカ人居住区Ciskeiで、典型的な農村部の家庭に生まれる。結婚し、10人の子供を授かる。夫Bungu Nkwekweは、出稼ぎに出かけた先のケープ西部で死亡。Nontethaは、すでに薬草の扱いや占いの名手としての評判があったが、何万もの人々の命を奪った1918年のスペイン風邪の流行までは、宗教的なカリスマ性を身にまとうことはなかった。そのきっかけは、病気でこん睡状態が続く中で、スペイン風邪は神の罰(コーサ語でisibeto)であり、終末が近づいているという幻影を見たことだった。幻影の中で、人びとに罪ある行動をとらせないこと、聖書のメッセージを伝えること、教育を受けさせること、首長たちを団結させること、といった特別の使命を神から授かったとするNontethaは、積極的に説教を開始する。文字は読めなかったが、手のひらに書いた記号を、あたかも聖書を読むように語り、少しずつ信者を獲得していった。
Nontetha のメッセージは、あからさまに白人の支配する南ア政府を批判するものではなかったが、こうした自立的なアフリカ人預言者の出現に、白人当局は危機感を抱く。折しも、3千人を超える独立教会Israelitesのメンバーが、預言者Enoch Mgijimaの預言に応えて、共に終末を迎えるためにBulhoekに集合。その集合場所が独立教会の所有地でなかったことから、当局との間で紛争となる。和解交渉は不発に終わり、当局は600人もの重装備の警官を送り込み、強制的な排除に乗り出す。小競り合いがはじまり、結局、Israelitesは200人以上の死者を出した。1921年5月のBullhoekの虐殺である。
数百マイル離れたNonththaの地区にいた役人たちは、このまま放置しておけば、彼女とその信奉者たちがIsraelitesのような不穏分子になるかもしれないと恐れ、彼女を精神病だとして100マイルほど離れたBeaufort要塞に隔離した。しばらくして釈放されたが、説教は禁じられた。それに従わずに再び説教をはじめて、また隔離される。信者が隔離場所に押し寄せ始めると、当局はさらに遠方のプレトリアに彼女を移したが、信奉者が彼女に会うためにプレトリアにやってくるのを押しとどめることはできなかった。1927年には2か月かけて、徒歩で信者が訪れている。二度目の信者の訪問は、当局によって妨害され、1935年に家族との面会を一度も果たすことなくこの世を去った。遺体は、人知れず埋葬され、長い間、行方が分からなかったが、1997年に歴史家が埋葬地を確定、1998年に遺体は故郷の地に戻された。

1875年(エチオピア)Zewditu, Empress誕生(1930年没;在位1916~1930年)

独立した権力を持って統治したことで知られるエチオピア史上唯一の女帝。メネリク2世の娘。男系優先の伝統にのっとり、1909年に孫のLej Iyasu(他の娘の息子)を後継者として任命。1913年にメネリクが死去すると、Iyasuが皇帝の地位を継いだが、統治能力に欠けていたため、宮廷の重臣たちによって退位させられ、Zewdituが生存していた唯一の子供として、1916年に後継者となった。公的には1917年に即位。彼女のマタイトコTafari Makonnnenが、その次の後継者に指名された。

1879年(エジプト)Huda Sha’rawi誕生(1947年没)

ナショナリスト、フェミニスト。上エジプトの富裕な地主の家庭に生まれる。父親が5歳の時に死亡し、チェルケス人の母親に育てられる。初等教育は家庭で受け、9歳でコーランを暗唱、アラビア語とトルコ語の読み書きを覚えた。その後、当時のエジプトのエリートの間で広く使われていたフランス語も学ぶ。その間、家族と交流のあった女性の詩人Khadija al-Maghribiyyaの影響を強く受けたことを自身で認めている。
1892年、後にWafd Party(ワフド党)の創設者となるイトコのAli Sha’rawiと結婚。20世紀初頭には、公的場面に登場し、活動家としての頭角を発揮するようになる。1909年、慈善団体Mubarrat Muhammmad ‘Aliを創設するとともに、女性のために教育の機会を提供する組織を立ち上げた。彼女の最初の公的なスピーチは、エジプトのフェミニストMalak Higni Nasifの死を悼むものだった。イギリス支配に対する1919年革命は、ナショナリストにとってもフェミニストの活動家にとっても転換点となった。Sa’ad Zaghloulを含む3人のワフド党指導者のマルタ島への追放は、エジプト全土の反英デモの拡散のきっかけとなった。このデモには、上層の女性たちに率いられて、大勢の女性たちも参加。1920年にWomen’s Wafd Central Committee(WWCC)が創設され、Hudaが委員長に選出された。男性主導のワフド党と共同戦線を張ったが、決して従属はしていなかった。1923年に新憲法が発布され、ワフド党が女性参政権を認める約束を反故にした時、彼女は、Egyptian Feminist Union(EFU)を創設する。EFUは国際的な女性の運動と連携し、パレスチナ問題にも積極的に関わるようになる。一方でフランス語の雑誌LEgyprienneを1925年に、また1937年にはアラビア語のal-Misriyyaを発行している。
Hudaの回想録Mudhakkirat Huda Shaw’rawi ra’idat al-mar’ah al-‘Arabiyah al-hadithahは1981年にアラビア語で出版されている。彼女の姪が翻訳したその英語版のタイトルHarem Years (1987)は、東方の女性の地位についてのネガティヴな意味を表象しているとして議論になった。さらには、Huda へのヨーロッパ人女性の影響を強調しすぎていること、彼女のアラブ・イスラーム的伝統を侮辱していること、彼女の政治的な活動家としての側面が過小評価されている、といった批判が出されている。総じて、英語版はHudaの語りを途上国の女性についての西欧フェミニストの言説の中に位置づけようとしたものと解釈されている。一方、アラブとイスラームのアイデンティティを強調しつつ、女性の権利を擁護するというHuda の改革者としてのアプローチは、フェミニストは西欧の思想を宣伝していると受け止められたアラブ世界においては、繰り返し誤解されてきた。彼女の遺産は、ポストコロニアルというコンテキストにおけるジェンダーと民族との関係に関する拮抗するイデオロギーの間で動きが取れなくなっているといえよう。

1885年頃(南ローデシア/ジンバブウェ)Mai Musodzi誕生(1952年没)

Elizabeth Maria Musodzi、Mrs. Frank(s)とも。先駆的なフェミニスト、社会運動家。ハラレのHwata民族の出身。Hwataは、1896~1897年のイギリス南アフリカ会社(British South Africa Company)に反旗を翻して敗れ、Musodziと兄弟姉妹は孤児となり、近隣の首長領に身を寄せる。そこでは、オジの世話で、カトリックが経営するChishawasha農園に住みつく。ここで、彼女はドミニカ修道院のシスターと出会い、多少の教育を受けたが、人生のほとんどを無文字社会の一員として過ごした。
1908年頃、イギリス南アフリカ会社に勤める警官(police sergeant)Frank Ayemaと結婚。ふたりはソールズベリー(現在のハラレ)東部の農園にテナントとして住み込み、5人の子供をもうける。子供たちにはChishawashaで教育を受けさせた。その間、彼女は市場向けの菜園で働き、農業に才能を発揮する。1937年頃、一家は1920年代から借りていた家のあるソールズベリーに転居。こうしたMusodziの波乱に富んだ経験が、彼女の思考や個性に大きな影響を与え、困窮した人びと、とりわけ女性やジェンダーの問題への強い共感を育んだ。
Musodziは、アフリカ人女性が伝統的な家事の境界を越えた意味ある人生を見出すという新しい時代が始まったと感じた。教育や都市の生活は女性を堕落させるだけだとの当時の考えに逆らって、彼女は、両親は家畜を売ってでも子供に教育を受けさせるべきであり、女性には現金収入を得る機会が必要だと力説した。
1917年に洗礼を受け、ソールズベリー地区のSaint Peter’sのメンバーとなった彼女は、Chishawashaからやってきた女性たちとともに、1940年代初頭にChita chaMuaria Hosi yeDenga( Union of Mary Queen of Heaven)を立ち上げ、その議長に就任した。すでに、1938年に、Harare African Women’s Clubを創設していたMusodziは、このクラブを拠点に、さまざまなコミュニティ活動を展開。リクリエーションあり、チャリティーあり、裁縫教室あり、編み物教室あり・・・赤十字教室で訓練され、病院で働く女性も輩出した。
さらに、Native Welfare Society や女性の意見を代弁するNative Advisory Boardで、Musodziは女性の願いや訴えを取り上げ、生活改善に取り組んだ。1940年代初頭のマタニティ・クリニックの建設はその最大の成果だった。
戦後、Musodziの活動は認められ、1947年にはソールズベリーを訪れた英国女王の晩餐会に招待され、勲章を贈られている。やがて、彼女が始めた女性クラブ運動は全国に広まっていく。Musodziは1952年に死去。彼女の功績を記念して、古いレクリエーション・ホールがMai Musodzi Hallと名付けられた(Maiは「お母さん」の意味)。

1880年代(ナイジェリア)Alimotu Pelewura誕生(1951年没)

反植民地運動の闘士。貧困層の出身。教育歴なし。マーケットで働く女性たちを主体とした首都ラゴスの最大の女性組織Lagos Market Women’s Associationの最高責任者となる。1930年代までに、組織は、イギリス当局との交渉に必要な手紙を書いたり、代弁したりする弁護士を雇えるまでに資金力を高め、20世紀初頭に結成されたナショナリスト政党を支援。イギリス当局が、マーケットで働く女性に課税しようとしたことに抵抗し、もし、課税するなら参政権を与えるよう要求。第二次大戦中に当局が導入しようとした価格統制にたいしても反旗を翻した。1947年、彼女は、女性の利害を代弁する役割を意味するEreluというタイトルを与えられる。
Alimotuの歩んだ闘争の軌跡は、反植民地闘争におけるナイジェリア人女性の強い指導力を示している。

1895年(ケニア)Rebecca Njeri Kairi

政治活動家、教育者。1920年代、ミッションの経営する学校教育に対抗して始まった「独立学校」を設立しようとする運動の中で、少女のための最初の独立学校を設立、その校長として運営に携わる。1950年代の独立闘争(「マウマウ闘争」)ではリーダーとして頭角を現し、1952年には逮捕拘禁される。1960年に釈放されると、独立派と植民地当局への協力派に分断された女性の団結に尽力した。1961年の最初の総選挙に際して、Kenya African National Union(KANU)の実行委員に選出される。独立後は、女性の経済的自立に尽力した。ケニア史の中では、ケニア独立運動に貢献したもっとも重要な女性リーダーのひとりとして記憶されている。

1897年(ナイジェリア)Oyinkan Abayomi誕生(1990年没)

初等教育はナイジェリアで、その後は、イングランドで教育を受ける。第一次大戦後、ナイジェリアに戻り、少女のための中等教育機関の設立に関わる。1935年、Nigerian Youth Movementの機関誌に“Modern Womanhood”という記事を寄稿、女性の政界進出を説く。しかし、男性中心のナショナリスト政党には女性の居場所はなく、1944年、Nigerian Women’s Partyを創設し、女性の権利を主張。1950年に、限定的な女性の参政権が認められ、立候補したが落選。政党のメンバーは多くて2000人を超えることはなく、勢いも衰えた。かわって1959年にNational council of Women’s Societiesが創設され、ラゴス支部長に就任。死後、功績を称えて、ラゴスのメインストリートがOyinkan Abayomi Driveと命名された。

1897年(南ア)Cissie Gool誕生(1963年没)

本名Zainonesa Abdurahman。政治活動家。ケープタウン出身。父は黒人の医師、母はスコットランド生まれの白人。National Liberation League of South Africa(1935)およびNon-European United Front(1938)のリーダー。1938年にケープタウンのCity Councilに選出され、1963年に死去するまで現役を貫いた。反アパルトヘイト運動を指導した最初の女性であり、ケープタウン大学の最初の非白人の学生のひとり。女性の参政権を要求して母親とともに公の会合に参加。1960年にはシャープビル事件に連座して逮捕されている。

1900年(ナイジェリア)Funmilayo Ransome-Kuti誕生(1978年没)

反植民地闘争の指導者、ナショナリスト、Funmilayo Ransome-Kuti.jpg女性と貧者の権利擁護のために国際的に活動。ヨルバ人。
アベオクタ南西部に生まれ、学校教育を受けた最初の世代。のちにイングランドにも留学(1919~1922)。帰国後、女性のために識字教育をはじめ、1930年代には保育園を設立。やがて、Abeokuta Women’s Unionを創設して植民地政府の恣意的な権力行使に抵抗し、マーケットで働く女性への課税やマーケットへの統制に反対して闘った。何万もの女性デモを組織して、税金の不払い、ストライキを指導し、王を退位させ、Sole Native Authority(植民地行政への発言権を認めたられた委員会)への女性の代表権を獲得した。
1947年には、ナイジェリアの初期のナショナリスト政党のひとつであるNational Council of Nigeria and Cameroonsのメンバーとしてロンドンへの代表団に随伴、その際、さまざまな女性の組織と接触したり、工場を訪問したり、ラジオ出演したりして、ナイジェリア人女性の権利と植民地からの解放を訴えた。イギリス新聞Daily Worker(1947年8月10日)に寄稿した論説では、ナイジェリア女性を代表するのは、自分のような教育を受けた女性ではなく、子供を背負って朝から晩まで畑仕事をする女性たちであることを力説した。
Ransome-Kutiは、20世紀におけるアフリカのもっとも有名な女性活動家のひとりである。その活動は、1930年代から60年代にかけて頂点に達し、しかもナイジェリアにとどまらず、国際的な広がりと展望を持っていた。のちには、南アのアパルトヘイト反対運動の支援も行っている。彼女の政治的スタンスは、必ずしも共産主義に偏っていたわけではなかったが、共産圏を訪問したことで1957年にパスポートを没収され、1958年には、サンフランシスコでの女性会議に招待されたにもかかわらず、アメリカ当局によってビザの発給を拒否された。
彼女自身は、自分は政治家ではなく、人権活動家であると自負している。女性の権利を主張し擁護しつつ、男女を問わず、貧困層の人びとの生活向上に心血を注いだからである。

1903年(南ア)Josie Mpama誕生(1979年没)

Josie Palmerという名でも知られる黒人の活動家。1926年に南ア共産党に入党。当時住んでいたジョハネスバークから117キロほど離れたPotchefstroomの黒人居住地域には、農場の仕事が徐々に減ったことにより労働者が流入し、1920年代には人口過密になっていた。そうした状況下で、町の評議会が下宿税を課し始めたのである。しかも両親と暮らしている14歳以上の子供たちにまで、それを要求したのである。これに抵抗したのがMpama率いる黒人女性たちだった。
白人が、黒人の政治的デモを制圧しようとして、ひとりの死者がでたあと、Mpamaは怒った女性たちを組織し、すべての労働者に仕事をボイコットするよう呼びかけ、評議会に請願書を提出した。結局、女性たちは州政府と南ア政府、およびマスメディアの同情を勝ち取ることに成功した。しかし、評議会は違反者を強制的に家から退去させる反撃にでた。Mpamaは退去させたれた場所から、家具をもとの家に運びもどすという運動を組織し、一年にわたる抵抗を続行した。さらに住む場所を失った人びとに食料やシェルターを提供したりしたが、結局、1930年に、評議会の圧力に屈して、仲間とともに町を離れた。この年、彼女は南ア共産党の中央委員会の数少ない女性メンバーのひとりに選出され、1935年には革命理論を学ぶためにモスクワに留学。1938年には南ア共産党の支部組織を立ち上げる責任者に指名され、専従の地位を確保した。1940年代を通して、パス法反対などで活動し、その後は、全国レヴェルの活動から引退し、地域レヴェルでの活動を続けた。

1904年頃(エジプト)Umm Kulthum誕生(1975年没)

歌手。エジプトの近代文化の発展に寄与したと言うUmm Kulthum4.jpg意味でも、おそらく20世紀のアラブ世界でもっとも有名な歌手。
ナイルデルタの小さな村のイマームの娘として生まれ、幼い時からコーランの暗唱と宗教歌に馴染んだ。その才能ゆえに、父親は彼女を男装させて、さまざまな催しに連れて行って歌わせた。当時、女子が公共の場で歌うことは家の名誉を傷つける行為だったからである。
1923年にカイロに移住。20年代末には、歌手としての不動の地位を確立。レコードの発売、ミュージカル映画への出演、コンサートの開催が相次ぎ、出演料は高騰し、財政的にも潤った。作詞作曲を、当時の最高級の人びとに依頼、そのスタイルや歌詞に新風を吹き込み、新しいエジプト音楽を生み出した。しかし、多くのエジプト人が西欧の楽器や技法にあこがれる中、彼女の音楽は、アラブの音楽の伝統に基づいた真にエジプト的な文化の一環に位置付けられるものだった。

1905年頃(ケニア)Wambui Wangarama誕生(没年不明)

キクユ人政治活動家。若くして、他の大勢の女性たちとともに、ヨーロッパン人入植者のコーヒー農園で、性的暴力の危険にさらされながらの過酷な低賃金労働を強いられた。それに対して、キクユ人女性たちはストライキなどの手段によって抵抗を試みた。こうした状況の下で、Wambuiは抵抗運動にのめりこんでゆく。同級生には後の初代大統領Jomo Kenyattaがおり、そして夫はKikuyu Central Association(KCA)の指導者だった。
女性たちは、ナショナリストの思想に共鳴していたが、活動は男性たちへの調理人という地位にとどまっていた。1930年、女性たちはKCAを離脱して、ケニア初の女性の政治組織Mumbi Central Association(MCA)を創設、Wambuiはその会長に就任。3年後、KCAが女性にフルメンバーシップを与え、指導的地位に就くことを約束した時点で、MCAのメンバーはKCAに復帰した。女性が、ナショナリスト運動においてエージェンシーを見せつけた重要な出来事だった。
1952~60年の戒厳令下における解放運動(いわゆるマウマウ闘争)では、夫とともに逮捕され、その時の暴力で聴力の一部を失った。釈放後は地下組織Kiama Kia Muingiに所属し、再三にわたり逮捕拘禁され、1957年に釈放されている。
1963年にケニアが独立を達成すると、Wambuiは与党の女性問題担当の責任者として80年代まで活動を続けた。

1908年(エジプト)Durriya Shafiq誕生(1975年没)

1940~50年代エジプトのフェミニスDoria Shafik.jpgト。裕福な家庭に生まれ、13歳の時に母を失う。アレキサンドリアのフランスのミッションスクールで学び、のち、フランスのソルボンヌで哲学博士号を取得。パリ在住中にソルボンヌの同級生だったイトコのNur al-Din Ragaiと結婚。エジプトに戻ったShafiqは、“モダン・ウーマン”であることを理由に、国立大学のポストを拒否され、差別に直面する。それが、女性の権利のために立ち上がるきっかけとなった。
当初、著名なエジプトのフェミニスト・リーダーHuda Sha’rawiが率いるEgyptian Feminist Union(EFU)と共同歩調をとっていたが次第に距離を置くようになり、1945年にジャーナルBint al-Nileを発行しはじめ、1948年にはBint al-Nile Unionを組織し、女性の法的・政治的権利の獲得に焦点をあてて活動した。1951年にEFUと連携して起こしたエジプト議会への突撃行動では、女性の政治への完全なる参加を要求した。
エジプト史の混乱期には常に、Shafiqは中産階級の女性の政治的権利闘争を支えた。スエズ運河地帯におけるゲリラ闘争や、イギリスとエジプト王室に対するデモに身を投じ、1952年革命への地ならしに貢献した。ナセル新政権との短い蜜月時期が過ぎると、1957年以降は、ナセルに辞任を要求し、ハンガーストライキも行った。その後、自宅監禁下に置かれ、表舞台から姿を消した。1970年代に、再び表舞台に立つ機会が訪れたが、彼女はそれを拒否し、ひとりでつましい生活をしながら、執筆活動に専念した。1975年、バルコニーから身を投げて自死。
活動家としてのShafiqは、さまざまな点で論争の的となっている。アラブ世界にいながら、フランス語でスピーチしたり書いたりし、法律家の夫に守られ、派手な服装で身を飾り、アラブ社会主義が全盛の時代にリベラルな個人主義を標榜し、エジプトが東陣営を向いていた時期に共産主義と対立し、国際的な女性運動では保守的なアメリカ主導の組織と連携した。ナセルに辞任を迫ったのも、ナセルがスエズ運河危機で人気絶頂の時期と重なっている。エジプトにおける彼女の評価は、こうした選択のせいで低いが、女性の政治的権利に関する貢献を再評価しようとする動きもある。

1911年(南ア)Lilian Ngoyi誕生(1980年没)

南ア解放運動の傑出した女性リーダーLillian Ngoyi.jpg。貧しい家庭に生まれ、人種差別を受ける両親の姿を見て育った。そうした状況に何の手立ても講じないキリスト教に疑問を持つ。結婚5年後、夫が交通事故で死亡し、3人の子供を抱えたシングルマザーとなる。1945年から1956年までジョハネスバーグの衣料工場で働く中で、Garment Workers Union に関わるも、その活動に不満を持ち、従兄弟のEzekiel Mphahleleの薦めで、ANC(African National Congress)のDefiance Campaignに参加し、白人のみに許されていたポストオフィスに入って逮捕拘禁される。
その間、Ngoyiは急速にANCの組織の中で頭角を現してゆく。1954年にはTransvaal ANC Women’s Leagueの会長、人種の壁を越えた女性の組織Federation of South African Women(FEDSAW)の副会長、1956年にはFEDSAWの会長となり、ANCの全国実行委員(National Executive)にも選出された。また、1955年にはスイスで開催されたWomen’s International Democratic Federation によって開催された「世界母親大会」(World Congress of Mothers)に招待され演説をしている。この機会に、彼女はドイツの強制収容所や、中国、ソヴィエトを訪問している。その際、パスポートを取得できなかった彼女の身元を保証したのがANCの指導者であった弁護士ネルソン・マンデラだった。
帰国すると、1956年8月9日、パス法反対運動、移動の自由、雇用機会の拡大を求める2万人デモをプレトリアで指導した。その後、政治活動を制限するさまざまな拘束を受けるようになり、国家反逆罪で他の155人とともに有罪となる。5年後に釈放されると、以後、自宅軟禁を強いられるようになった。1960年にANC Women’s Leagueが禁止になり、FEDSAWも指導層が抑圧され、まもなく機能停止に陥った。
自宅軟禁中は、裁縫の仕事で生活を支えていたが、ソウェトの若者たちを背後で精神的に支え続けた。1980年の彼女の死とその葬儀は、その後の新たな解放運動の再出発点となった。親しい友人であり、共に闘ったHelen Josephは、彼女の隣に埋葬されている。

1912年(フランス領スーダン/マリ)Aoua Keita誕生(1980年没)

政治活動家、産婆、フェミニスト。バマコの高貴な家系の出身。フランス領アフリカで教育を受け、批判精神と進歩的な価値観を身に着けた数少ない女性のひとり。1931年にEcole des Sages Femmesを卒業し、保健局に勤める。1935年のイタリア軍のエチオピア侵略によって政治に目覚め、1944年にアフリカ人の労働組合が合法化されると、その中心的な団体Symevotopharsaに加入し、ストライキに参加。その後、フランス植民地主義と対決していた急進的な政党Rassemblement Democratique African(USRDA)の支部の数少ない女性の活動家となる。2年間の国外追放後、Union of Salaried Women of BamakoをAissata Sow(Teachers’Unionの書記長)とともに設立。その代表として西アフリカや海外にも出かけた。1958年、女性として初めてUSRDAの中央委員会の委員に任命され、1960年には独立後のマリの国民議会に代表代理として参加。一夫多妻に強く反対し、1962年のMalian Marriage and Guardianship の起草に参加した唯一の女性。

1912年(ケニア)Mekatilili Wa Menzaの抵抗運動(1914年まで)

イギリス植民地時代のケニアにおける沿岸部の民族集団ギリアマの抵抗運動の指導者。1912年、イギリス当局が、長老の権威を無視して、当局が指名した若い村長や評議員に国税調査・徴税・労働力調達の権限を委託したことに対して、1913年8月までには、さまざまな形での抵抗運動を組織。その形態は、19世紀に、白人の到来によってギリアマ社会は打撃を受けるだろうとの預言をした預言者Mepohoの手法を踏襲していた。権威の喪失、家族メンバーの喪失、土地の喪失に不満の焦点を絞り、政府が任命した村長のボイコットを訴えた。同時に、奴隷制や婚姻を通じて母系集団ドゥルマに奪われた娘や息子への注意を喚起し、ギリアマが政府の要求を受け入れない場合にはサバキ川北方の土地(4分の一以上のギリアマが居住)を失うだろうとの政府の脅かしを暴露した。もっとも重要な事は、年長のギリアマ男性の宣誓(oath)と子供の保護者である母親の宣誓という強力な2種類の宣誓を、かつてすべてのギリアマが暮らしていた先祖代々の埋葬地であるkayaと呼ばれる土地の精神性と結び付けたことだった。
ギリアマは宣誓をし、不満と非協力を軸に抵抗をするが、決して戦闘はしないことを表明した。ほとんどの住民が税金の支払いを止め、村長の集会には行かず、公道や公共の建物の建設労働を拒否した。イギリス当局はMekatililiと最長老のWanje wa Mwadorikolaを逮捕し、千キロ以上はなれた場所に投獄し、すでに行った宣誓を取消し、新たにkayaを閉鎖する宣誓を行うよう強要した。
この対立が本格的な「戦争」に発展したのは、第一次世界大戦の勃発により、ギリアマ人のポーターの需要が高まったその1年後の1914年8月である。Kayaへの爆撃、政府の警官によるギリアマ女性へのレイプ、千人にのぼるギリアマ男性の徴兵と何万シリングもの罰金という爪痕をのこして、ギリアマは敗北した。効果的な行政組織が失われた中、イギリス当局は1915年にkayaを再建し、Wanjeを評議会の長として据えるとともにMekatililiをそれまで存在しなかった女性評議会の長に据えたのである。ギリアマの抵抗は続き、1918年には、サバキ川を越えた土地への帰還を認めた。その後、労働者になるギリアマはほとんどなく、息子や娘は故郷にとどまり、ギリアマ社会は崩壊を免れた。

1913年(イギリス/ケニア)Mary Leaky誕生(1996年没)

人類考古学者。イギリスやフランスでの人類の起源についての考古学的研究の研鑽後、Louis Leakyに誘われて1935年にタンザニアのオルドヴァイ峡谷の発掘調査に参加。2年後、2人は結婚。1972年の夫の死後も発掘調査を続行。2人の発掘成果は、1959年のオルドヴァイ峡谷での初期原人Zinjanthropus(Australopithecus boisei)の化石である。夫の死後の成果としては、1978年のレイトリで発見した360万年前の人の足跡が挙げられる。

1913年(南ア)Ray Alexander Simons誕生(2004年没)

反アパルトヘイト運動の活動家。ラトヴィアの小さな村に生まれ、共産主義者の地下活動に加わったために、10代のはじめに国外に逃亡。1929年に南アに到着するや否や、共産党に入党し、指導的地位に就いた。その他、Food and Canning Workers’ Unionなどの労働組合でも指導者として活動。白人である彼女の活動は黒人との無条件の連帯を特徴としており、南アの解放運動が必ずしも反白人闘争ではなかったことを示している。
Rayは、女性の権利拡大にも指導的役割を果たした。その役割は、1954年のFederation of South African Womenの創設に結実する。彼女の自伝は、彼女の死後まもなく出版されている。

1917年(南ア)Helen Suzman誕生(2009没)

HelenSuzman.jpg政治家。リトアニア出身のユダヤ系移民の家庭に生まれる。母親を幼くして失くし、食肉領域でのビジネスに成功した父親のもとで育てられる。16歳で、ジョハネスバーグのWitwatersrand 大学に入学したが、3年次のテストに失敗して退学、医師のMoses Suzmanと結婚。ウィーンへの新婚旅行中に出会ったナチスの活動家を目前にして政治に目覚める。第二次世界大戦に南アが参戦したことは、彼女に決定的な決断を促した。子供を育てながら、大学に戻り、二番目の娘を出産後、War Supplies Boardで働き始める。一方、大学では歴史学科に所属し、政府の隔離政策への鋭い批判で名を上げる。1948年、彼女は、先住民政策に関する政府のFagan CommissionへのSouth African Institute of Race Relationsの意見書を準備した。その年にはUnited Party(UP)のメンバーとなり、1953年に教育レヴェルが高く、リベラルな住民の多い地区であるHoughtonから立候補して、議員に当選。新しいアパルトヘイト法の導入に対する反対の陣営を張った。1958年には再選されたが、UPは次第に右よりに舵を切り始めたため、UPを脱退した仲間とともに、1959年、新たにProgressive Party(PP)を創設。大多数の黒人を排除する識字資格を条件としたPPによる選挙権の提案は、鉱山王Harry Oppenheimerの支持やANCの支持を取り付けたにもかかわらず、白人の支持層は広がらなかった。
その後の13年間、Helenは反対意見を持つ唯一の議員として政府に対峙しようとした。1963年には、ひとりで180項目の質問を提示し、人権違反についての情報を民間に届けようとした。彼女は人種差別法の内容を修正することには成功しなかったかもしれないが、アパルトヘイト反対について、白人の世論に影響を与えたことは確かである。1967年にロベン島にネルソン・マンデラを訪問して以来のマンデラとの交流もあり、ANCや共産党とは良好な関係を維持した。
1974年の総選挙で5人の議員を当選させた後、PPは1978年にReform Party に合流し、野党としての歩みを鮮明にした。国民党の指導者に嫌われはしたが、政府の平議員やアフリカーナーのナショナリストの新聞からは、ひそかな尊敬を勝ち得た。議員として、Helenは離婚、結婚、中絶に関する重要な改革草案の作成にも寄与している。
1989年に議員を辞職したが、1991年の憲法制定にあたってはDemocratic Partyの党員になり、1994年には選挙管理委員を務めた。その際、囚人の選挙権を確保するために決定的な役割を演じた。
Helen Suzman Foundationは、彼女が生涯をかけた自由主義的な市民権の原理を守りつつ、活動を続けている。

1918年(南ア)Elizabeth Mafekeng誕生(2009年没)

労働組合運動家。10代で果物の缶詰工場労働者となり、低賃金労働に従事。1941年のFood and Canning Workers Union(FCWU)の設立メンバーとなり、1947年にその副会長に選出される。急進的な政治思想のために工場を解雇された後、1952年のDefiance Campaignの期間中に逮捕される。1953年、FCWUの専従セクレタリーとなると同時に、警察による労働者の自宅への襲撃への憤りからANCのメンバーとなり、Federation of South African Womenの中心的メンバーとしての活動。1955年、ブルガリアでの国際食糧労働者会議に代表として出席した機会に、アウシュヴィッツ、中国を訪問。1959年、パス法反対を指導した後、住み慣れた自宅からの退去を命じられ、国内移動を制限されるも、当時イギリス植民地だったバストランドに逃亡。夫と子供たちも合流。1994年の新生南アフリカ共和国の誕生後、南アの自宅に戻る。

1918年(シエラレオネ)Constance Cummings-John誕生(2000年没)

フェミニスト、政治活動家。クレオーレのエリートの家庭に生まれ、フリータウンのミッショナリーとイギリス系の学校で学ぶ。17歳の時、イギリスに渡り、ロンドン大学と提携していたWhiteland Collegeを卒業。1936年にはアメリカのCornell Universityで6か月間研修を受けた。その過程で、帝国主義や人種差別への批判に触れ、ロンドンに戻ってからはパン=アフリカニズムの活動家との交流を深めた。1937年にEthan Cummings-Johnと結婚し、シエラレオネに帰国。彼女はAfrican Methodist Girls’ Industrial School の校長に就任。政治的には、Wallace-Johnsonの設立した過激なWest African Youth Leagueに参加。1938年、20歳でフリータウン評議会の選挙で大勝利をおさめ、マーケットの女性たちとの同盟関係を構築し、1942年まで評議会を拠点に活動した。第二次大戦で活動を中断され、1946年、ふたたびアメリカを訪問し、5年間滞在。共産主義に共鳴し、反植民地主義を掲げてデモに参加した。1951年、フリータウンに戻ると、Eleanor Rooseveltの名を冠した学校の建設に着手する。この間、同じくクレオーレ出身で、教育者として活動していたAdelaide Casely Hayfordの影響を強く受けた。政治的には非クレオーレの政党Sierra Leone People’s Partyに加わり、その実行委員を務める一方、Sierra Leone Women’s Movementを他の女性たちと共に立ち上げた。1966年、フリータウンの市長に任命される。独立後の混乱の中、政敵から汚職の嫌疑で訴えられ、ロンドンに居を移し、労働党員になって反核運動などの活動に参加した。その後、1974~76年と1996年の2度、彼女の立ち上げた政党が政治の表舞台に浮上したが、その都度、政情不安のためロンドンに戻り、82歳でこの世を去った。

1922年(ケニア)Mary Muthoni Nyanjiru没

過激な活動家のシンボル的女性。多くの知られざるヒロインのひとり。1922年のいわゆるHarry Thuku暴動で殺されることによって、ケニアにおける女性の役割が見直されるきっかけとなった女性。
Harry Thukuは、反植民地闘争の中で、入植者のプランテーションで過酷な労働を強いられ、性暴力やレイプの被害にあっている女性や少女の不満にも目を向けた政治指導者。反政府活動により、1922年3月14日に逮捕され、その釈放交渉の過程でNyanjiruの短い政治との関わりが生まれた。彼女はThukuの釈放を求める7~8千人の群衆の中のひとりだった。交渉が決裂すると、彼女は、スカートをめくるという伝統的な方法(guturama)で、勇気のない男性を嘲った。この方法は、窮極の欲求不満や怒りの表現形態であり、女性たちの甲高い賛同の声が続いた。群衆がThukuの収監されている警察所めがけて押し寄せると、パニックに陥った警官が発砲し、Nyanjiruを含め、22人が射殺された。150人が殺されたと主張する者もいた。Nyanjiruの行動は、Thukuの釈放には結びつかなかったが、その家父長制と植民地権力に対する挑戦は、1952~1960年のマウマウ解放闘争における女性の参加へと受け継がれていくことになる。

1923年(南ア)Nadine Dordimer誕生(2014年没)

ユダヤ系移民(父はラトヴィア出身、母はイギリス出身)の家庭に生まれる。15歳で、いわゆるアパルトヘイトという人種差別を念頭に執筆を始める。1950年代以降の作家と政治活動により、1991年度のノーベル文学賞受賞。

1924年(ザンビア)Alice Lenshina Mulenge誕生(1978年没)

預言者、治癒師。1953年、Aliceという名の若いベンバ人女性が死んだにもかかわらず、数度にわたり生き返ったとの噂が広まった。彼女は夢の中で、福音を広めるようにイエスに指示されたとも言われている。
南部および中部アフリカでは、病気や死についての物語や先祖についての夢が、霊媒師や伝統的な治癒師が信者を惹きつける一般的な方法だった。ヨーロッパ人宣教師がもたらしたイエスの死と復活の物語は、新しい宗教的指導者の特別な権威についての信仰を強化し始めたのである。Alice Lenshinaも、他のアフリカ人が始めた教会の指導者と同じく、死の間際の経験、もしくはヒーリングに続く本物の苦痛の経験によって、預言者として認められる第一歩を踏み出すことになる。
Aliceは飲酒、一夫多妻、不倫、ウィッチを、悔い改めるべき罪と呼び、イエスの再臨の前に洗礼を受けなさいと説いた。彼女が創設したLumba Churchには、男女の信者が集ったが、女性の方がはるかに多かった。というのは、女性は男性よりウィッチや不倫で訴えられることが多かったからである。ウィッチの嫌疑をかけられた女性たちが、家族から逃れてLumba Church に避難してきたこともあった。そうした女性たちは、シェルターとなっている村で生活し、傷を癒し、信者として生活再建をするのだ。
イギリス当局は、悪魔の支配下で活動している人びとによって運営されている制度だとしてAlice Lenshinaを否定的に見ていた。彼女は信者に税金を納めないように指示し、当局の攻撃に備えて、Lumba Churchの置かれていた村の守りを固めた。1964年、Kenneth Kaundaが独立後の初の大統領に選出されるころには、Aliceの信者は2~3千人に膨れ上がっていた。Lumba Churchの教えが独立後のザンビアの目指す方向とは異なるとして、Kaunda大統領は警官と兵士を送りこみ、Lumba村を破壊しようとした。小競り合いが3か月ほど続き、700人ほどの死者をだし、Aliceの逮捕と拘禁によって終結した。
預言者Aliceは1978年に、他の信仰を求めて右往左往する信者を残して、牢獄でこの世を去った。女性の中には、Catholic Legion of Maryに合流した。そこでは、Lumba Churchを特別なものとして称える讃美歌が21世紀の初頭になっても歌われている。

1925年(南ア)Liz Abrahams誕生(2008年没)

労働組合運動の活動家。ケープタウンを拠点に、人種主義・経済的搾取・アパルトヘイトと闘った。Nanaの愛称で知られる。幼くして父を亡くし、高校を中退して母親とともに工場で働く。その時の労働環境の劣悪さの経験から、社会意識に目覚めた。Food and Canning Workers’ Unionでリーダー的役割を務める。1955年のSuppression of Communism Actにより組合活動を禁止され、逮捕もされた。釈放後、組合活動を再開。交通事故をきっかけに、運動の第一線から引退するも、相談役として重要な役割を果たした。1995年、国会議員に選出され、1999年に引退。
Liz Abrahams

1924年(ガーナ)Efua Sutherland誕生(1996年没)

作家、教育者、詩人、活動家、子供の福祉に深くコミット、近代的な劇場の生みの親。Saint Monica Teacher Training Collegeで教師としての訓練を受ける。アフリカ系アメリカ人のWiliam Sutherlandと結婚し、3人の子供を授かる。ケンブリッジ大学のHomerton Collegeで、教育学士を取得。その後、ロンドン大学のSchool of Oriental and African Studiesでドラマ、言語学、アフリカの言語を学ぶ。ガーナに戻った後、教育界に身を置かず、劇場を舞台に読み書きのできない人々との接点を大事にした。
1960年、ロックフェラー財団とガーナのArts Councilの支援で、Efuaが2年前に創設したExperimental PlayersをGhana Drama Studioに改組。このスタジオは1990年に、新しいナショナル・シアターに改編されるまで、彼女の作品を上映、女性や子供たちの才能やエネルギーを引き出す重要な役割を果たした。

1925年(南ア)Ruth First誕生(1982年没)

ジャーナリスト、作家、政治活動家。リトアニアのポグロムを逃れてヨハネスブフクに移住した左翼の家庭に生まれる。高校を卒業するころには、一人前の政治活動家になっていた。Witwatersrand大学を卒業。1949年に大学の同級生Joe Slovo(共産主義者、ANCのリーダー)と結婚。卒業後、社会主義を標榜し、人種差別反対の拠点であるGuardian紙に勤務。同紙は何度も発禁となり、その都度新しい名称で活動を続けていた。女性へのパス法導入についての彼女の論説は、3万人もの女性の反対運動を後押しした。また、パス料金値上げ反対のバスボイコット運動のレポート以降、彼女の政治思考は草の根の活動へと変化していった。地下組織South African Communist Party とANCを支持するSouth African Congress of Democratsの創立メンバーであった彼女は、のちに新生南アの指針となるFreedom Charterの起草にかかわり逮捕拘禁される。釈放されはしたが、政治活動を禁止されたFirstは、南アが不法に統治しているナミビアについての調査と執筆に専念した。1960年代初頭、ANCはUmkhonto we Sizweを結成、武力闘争へと舵を切る。彼女は、ネルソン・マンデラや夫とともにそれに参加し、逮捕拘禁され、厳しい尋問の中で自殺を図る。釈放後、夫のいるロンドンへ娘3人を連れて移住し、反アパルトヘイト運動と執筆活動を続行。Manchester 大学やDurham Universityでの研究員や講師を務めた後、1977年にモザンビークのEduardo Mondlane UniversityのCenter for African Studies のディレクターとなるも、1982年、南ア警察によって送付された手紙爆弾によって殺害された。

1926年(モザンビーク)Noémia de Sousa誕生(2002年没)

詩人、作家。ドイツ、ポルトガル、インド(ゴア)、ロンガ、マクアといったさまざまな民族の入りまじった混血。ロレンソ・マルケス(現在の首都マプト)生まれ。父親の死により、高校への進学をあきらめ、商業学校でタイプや速記を習得し、秘書として働く。
最初の詩は、19歳の時に雑誌に発表したO irmao nogro(The black brother)。政治的には、アフリカ協会に所属し、その機関紙の復刊に寄与。1940年代を通して、モザンビーク文化と歴史を称える詩作に没頭したが、1951年に秘密警察を逃れて移住したポルトガルでGaspar Soaresと出会い1962年に結婚。以後、サモラ・マシェル大統領の死(1986年)を悼む詩を例外的に書いただけで、詩作からは遠ざかった。夫妻はフランスに渡り、彼女はジャーナリストとして活動。2002年にポルトガルに戻り死去。

1926年(タンザニア)Bibi Titi Mohamed誕生(2000年没)

1950年代のナショナリスト運動のリーダー。ダルエスサラーム生まれのムスリマ。父はビジネスマン、母は農民。初等教育を終え、初潮を迎えると、当時の他のムスリマの少女と同じく、14歳で両親の選んだ年長の男性と結婚するまで隔離された。娘が生まれると離婚し、今度は自分で選んだ男性と再婚、離婚、再再婚。これは、当時の沿岸部の多くの女性がたどった婚姻歴だった。
Bibi Titiは、預言者ムハンマドの誕生日を祝うマウリディ祭への参加とンゴマ(歌と踊り)の歌手として公的場面へ登場する。マウリディとンゴマを通じた女性のネットワークが彼女の政治運動を支えることになる。とりわけ誰でも参加できるンゴマは、120以上の異なる民族集団をひとつの民族へと結集させる重要な役割を果たした。1955年、ニエレレの指導の下に結成されたTANU(Tanganyika Nationalist Union)の女性部の議長に選ばれるや、たちどころに5千人以上の女性の党員の獲得に成功。イギリス委任統治下で独立運動に参加することを躊躇する男性を尻目に、インフォーマル部門で働く女性たちは、社会的・経済的ネットワークを活用して多くの基金を集めることにも成功。1961年、その功績が評価され、独立を祝う日には、ニエレレと同じ壇上に並んだ。
独立後も政治活動を続行、All African Women’s Conferenceを創設し、政府の社会開発部門の大臣(junior minister)やUmoja wa Wanawake wa Tanzania(UWT、「タンザニア女性連合」)のリーダーを務める。しかし、1965年に議会での議席を失い、さらに1967年にニエレレの「アルーシャ宣言」(社会主義宣言)の中の「借家禁止令」に抗議して、TANUの中央委員会からも脱退した。教育を受けていない女性にとって借家は、数少ない収入源のひとつだったからである。1969年、彼女はニエレレ政権の転覆を図った罪で裁判にかけられた。無罪を主張したにもかかわらず有罪判決が下った。
Bibi Titiは、釈放されたのち、ほとんど公に姿を現すことはなかったが、彼女の足跡は、多くの学歴を持たないムスリマの女性たちが、イギリス統治からの独立に向けての政治的覚醒を拡散するために果たしたきわめて重要な役割を検証ための試金石となっている。

1928年(南ア)Fatima Meer誕生(2010年没)

グジャラート出身のインド系ムスリム、ナタール大学で社会学学士号および修士号取得。活動家、研究者。Indian Viewsの編集者だった父親から大きな影響を受け、自由と抵抗の精神を学ぶ。Indian Viewsの編集を手伝いながら、Student Passive Resistance Committeeを立ち上げ、インド系の人びとの土地所有権を制限している法律への抵抗を1946年から2年間展開した。反アパルとヘイト運動にも、夫とともに積極的に参加。1954年、あらゆる公的集会への参加や演説や友人との面会を禁じられた南アで最初の女性となる。1975年には6か月の拘禁、1976年には独房に入れられた。同年、釈放されたが、禁止令は1976年にさらに5年間延長され、1981年にはさらに5年間更新された。
南アのインド人についての歴史や解放の政治学などについて40冊以上の著書があり、本人の要望によりネルソン・マンデラの自伝も執筆している。

1929年(セネガル)Mariama Bâ誕生(1981年没)

小説家。フェミニスト。現代都市の女性の経験を描いたUne si longue letter(1979:邦訳『かくも長き手紙』中島弘二訳、講談社、1981)で第一回野間文学賞受賞。20世紀アフリカ文学100選のトップ12位以内に選ばれる。父親の権威、人種、階級、ジェンダーの交叉する社会で生きる女性を描き、死後に出版されたUn chant ecarlate(1981:英語版Scarlet Song)も、世界的に大きなインパクトを与えた。
Mariama Bâ

1930年(ケニア)Grace Ogot誕生(2015年没)

英語で小説を発表したケニアで最初の女性作家。ルオ人。ウガンダの看護師養成所を卒業、産婆としてイギリスやケニアで働いた経験を持つ。Writers’ Association of Kenyaの創設者のひとり。
Ogotの作家としてのキャリアは、ドイツで出版されているBlack Orpheusとウガンダで出版されているTransitionに作品を発表したことに始まる。1962年と1964年に英語で小品を発表、1966年のThe Promised Landで本格デビューした。その後、Land Withour Thunder(1968)、The Other Woman(1976)、Island of Tears(1980)、The Graduate (1980)を次々に発表した。
作品の中で、Ogotはケニア、とりわけルオ社会におけるジェンダー関係や、植民地主義と政治的独立という歴史的背景に抵抗するアイデンティティを追求している。たとえば、The Grduateは、独立後まもないケニアで、女性たちが直面した家事と専門職のジレンマや政治的な意思決定機関や公的機関からの女性の排除を描いている。彼女は、独立後のジェンダーや人種的差別を描き、社会的正義と民主主義は女性が男性と同等の教育の機会と専門職に就く機会を与えられることによってのみ達成できることを伝えようとしていたのである。
Ogotは、英語の他に、ケニア一般民衆が作品にアクセスできるように、母語であるルオ語でも書いている。ルオの神話の翻案であるThe Strange Brideは、まずはルオ語で執筆し、次に英語に翻訳して、歴史的変化の主体としての女性の重要性を力説している作品である。

1931年(ナイジェリア)Flora Nwapa誕生(1993年没)

作家。ナイジェリアで小説を発表した最初の女性Florence Nwanzuruahu Nkiru Nwapa.jpg
両親とも教師という家庭に生まれ、1957年にイバダンの大学を卒業後、1958年にはイギリスのエジンバラ大学で教育学の学位を取得。1967年に勃発したビアフラ戦争の際には、ビアフラに入り、戦争が終結するまでそこにとどまった。1970年からの5年間は、戦争で疲弊したビアフラの再建のために、保健・社会福祉大臣としてナイジェリア政府で働いた。とりわけ、戦争中に難民となった孤児の救済に力を入れた。のちには、土地の計測や都市開発を担当する大臣も務めた。
彼女の最初の作品Efuru (1966)は、女性の立場から女性の世界観を表現するという、女性を中心に据えている。Igbo人の民話からヒントを得、Uhamiriという女神によって選ばれた女性が主人公となっている。富裕で美人、しかも人びとから尊敬される主人公Efuruは、しかし、女性性とは母親になることであるという文化の中での不妊などのさまざまな悲劇に遭遇する。しかし、彼女は、こうした悲劇によって規定される自分というものを拒否し、自分が心酔できる女神を探し求め、自分自身が司祭になることによって、社会的・文化的制約を越えて、自分自身の条件に合った幸せを追求する。
Efuruは、まごうことなきフェミニスト―Nwapaの言葉で言えば、womanist―の作品でであり、Nwapaは、男性作家によって主流化されてきたアフリカ文化や人びとの描き方の長い伝統を覆そうとした最初の作家である。たとえば、植民地化前のアフリカ人のジェンダー関係を西欧のステレオタイプ的なイメージで描いた同じIgbo人であるChinua AchebeのThings Fall apart(1958)などである。
Nwapaの作品は、批判的に受け止められた。無視はされなかったが、その強いフェミニスト的なスタンスと、男性を弱い存在として描いたがゆえに切って捨てられた。これと対照的に、かなりの評価をされたのが、同じ民話からヒントを得て書かれたElichi Amadiの1966年の小説The Concubineである。主人公のたぐいまれな美しさとセクシュアリティに焦点をあてたこの小説は、彼女の注意を惹こうとする男性と男性神の物語を語るという舞台となっている。
Newapaの二番目の作品Idu(1970)は、伝統的なIgobo社会の女性を描いている。しかし、Never Again(1975)とWives at War and Other Stories(1980)は、それまで無視されてきたビアフラ戦争中の女性の役割や経験を描いている。One Is Enough (1981)とWomen Are Different(1986)は、不妊と女性の自律性を、より現代の都市的状況の中で描いた作品である。こうした作品を発表するかたわら、1976年にはナイジェリア女性ではじめて、出版社を立ち上げている。
Newapaはリズム感のある文章と詳細な描写へのこだわりを持った傑出した作家である。作品の中では、女性を社会の自律したエージェントとして描き、植民地時代以前の相互補完的なジェンダー役割の概念をいかに現代に生かすことが可能かを発見することによって、女性をエンパワーすることを目的としてきた。当初、批判にさらされた女性中心のスタンスは、のちにはジェンダーがまさに社会的・歴史的に構築されたものであるというNepawaのテーゼを立証するものとなっている。

1932年(南ア)Miriam Makeba誕生(2008年没)

Makeba in 1969

歌手、人権活動家。子供のころから音楽に親しみ、学校の音楽教師に見いだされ、コーラス部で活躍。イギリスのジョージ四世が南アを訪問した時にソロの歌を披露。16歳で学業を終えると、Gooli Kubayと結婚し、娘Bongiをもうける。まもなく離婚し、Cuban Brothersの歌手として本格デビュー。1954年にはManhattan Brothers に移籍。1959年にはジャズオペラKing Kongに、1960年には映画Come Back, Africaに出演し、国際的な名声を得る。その間に、南アの俳優Sonny Pillayと再婚するも離婚。その後、Harry Belafonteの誘いでアメリカに旅行。アメリカでは聴衆に歓迎されるが、帰国しようとした時にパスポートを取り上げられ、国外追放にあう。これを機に、人権活動家として反アパルトヘイト運動に身を投じる。公演活動も続行しながらHugh Masekelaと再再婚するも離婚。1968年にはブラックパンサーのStokely Carmichaelと結婚することにより、従来のイメージを急速に悪化させた。結局、ギニアに移住し、そこで国連代表としての活動を始める。1998年にCarmaichaelが死ぬと、Bageot Bathと結婚。1990年に国外追放が解除され、Makeba Rehabilitation Centerを設立するなどして女性と少女のためのさまざまなプログラムを実施した。音楽と政治、アフリカへ捧げた活動から、Mama Africaとの愛称で呼ばれている。

1933年(スーダン)Fatima Ahmed Ibrahim誕生

政治指導者、人権活動家。1952年のSudanese Women’s Union(のちにGeneral Union of Sudanese Womenと改称)の創立者のひとり。Sudanese Communist Partyのメンバー。女性の貧困、失業、識字、FGMと闘う。1965年、女性で最初の国会議員となり、女性の権利を擁護する法令の制定に尽力。しかし、1969年にヌメイリ軍事政権の誕生によって、弾圧を受け、夫は処刑され、自身も終身刑を受ける。国際的な非難と支援により、1990年にロンドンに亡命し、政治活動を続行。同時にパレスチナやアラブ女性の支援も行っている。1991年にはInternational Democratic Women’s Unionの会長に選出され、1993年に国連の人権分野における賞を、2006年にアラブ世界における自由のための闘いによってイブン・ラシュド賞を受賞。

1934年(南ア)Winnie Mandela誕生

政治活動家。元ネルソン・マンデラの妻。Winnie Mandela00.jpg東ケープタウン州の比較的富裕な家庭に生まれ、1953年にヨハネスブルグのソーシャルワークの専門学校を卒業。1958年のANCの活動家ネルソン・マンデラと結婚を機に、反アパルトヘイト運動に参加。夫が1962年に国家転覆罪で終身刑を宣告された後、国際的に反アパルトヘイト運動のシンボルとなる。同時に活動も過激化し、1969年に逮捕され、「テロリスト」として繰り返し拷問されるも、1970年に釈放に漕ぎ着ける。
1976年の学生たちのソウェト蜂起を支持したため、遠隔地に8年間追放されたが、その間に自伝Part of My Soul Went with Himを出版するなどして国内的・国際的に発信し続けた。
再びソウェトに戻ると、ますます過激な活動に活路を見出し、私設の軍隊Mandela United Football Clubを組織。活動はエスカレートし、ついに1988年、近くの教会から4人の少年を誘拐する事件を起こした。そのうちのひとりは、警察のスパイとの嫌疑で暴行を受け、結局1991年に殺害される。さまざまな暴力事件に関連した裁判で、彼女は6年の刑を受ける。上訴により罰金刑に減刑されるが、これを機に、1996年に、すでに出獄し、大統領となっていたネルソン・マンデラと離婚。その後も国会議員、芸術や科学技術の大臣代理、ANCのWomen’s Leagueの会長などに就任、政治活動を続行。しかし、2003年に詐欺罪や銀行ローンに関連した窃盗罪で、執行猶予付き4年の有罪判決を受けるも、一貫して無罪を主張した。

1936年(ケニア)Wambui Otieno誕生(2011年没)

政治活動家。ギクユ人。10代から、高位の警察官だったにもかかわらず、ケニヤッタやコイナンゲといったナショナリストと関係のあった父親の影響を受け、1952年に始まったマウマウ闘争(自由と土地を求める植民地解放運動)に飛び込む。父親の逮捕、従兄弟の処刑にも触発されて、ナイロビに活動拠点を移し、スパイ活動や武器弾薬の密輸などを通してマウマウ闘争を支えた。その間、何度も逮捕拘禁される。
マウマウ戦争が終結すると、新たに結成された政党Kenya African National Union(KANU)のメンバーとなり、女性部の責任者に選出される。イギリス当局は、過激な政党の抑圧に乗り出し、Wambuiは逮捕され、沿岸部のラム島に送られる。そこで、イギリス人の憲兵にレイプされ、精神的にも追い詰められる。1961年に釈放されると、レイプしたイギリス人を探し出し、裁判を起こそうとしたが、彼は国外に逃亡。その弁護を買って出てくれた弁護士Silvano Melea Otienoと1963年に結婚。
1960年代から1980年代中葉にかけて、Wambuiは女性と開発の問題に取り組み、国連女性会議には代表として参加。1986年、夫の急死により、その遺産と埋葬場所をめぐって、夫の出身民族であるルオの慣習との闘いが幕を開ける。一年半に及ぶ法廷闘争の結果、遺産は相続できたが、夫はナイロビから離れたヴィクトリア湖畔の実家に葬られることとなった。この裁判は、単なる家族の問題を越えて、ルオ対ギクユという民族間の慣習の違いと、女性の相続権の問題としてケニアのみならず、国際的な関心を集めた。
2003年、Wanbuiは、40歳ほど年下の青年と再婚。これが、ケニア中に論争を巻き起こし、家族からも非難された。これも、進歩的な近代的な生き方を選ぶか、あるいは伝統的な文化的遺産を守って生きるべきかという二つの価値観の間の論争であったとされている。

1938年(リベリア)Ellen Johnson-Sirleaf誕生

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Secretary of Defense Ash Carter hosts an honor cordon for Liberian President Ellen Johnson Sirleaf at the Pentagon Feb. 27, 2015. (DoD photo by Petty Officer 2nd Class Sean Hurt/Released)

政治家。選挙によって選ばれたアフリカ初の女性大統領。両親は、アフリカ系アメリカ人入植者。17歳で結婚後、夫とともにアメリカに渡り、学業に専念。離婚後も大学でビジネス、経済学、公共行政学で学位を取得。1970年代初頭にリベリアに戻り、トルバート政権の財務相に就任するも、意見が対立して辞職。1980年にトルバート政権がドエ軍曹による軍事クーデタで崩壊すると、2度投獄された挙句国外追放となる。その後の15年間は、ケニアのナイロビで世銀のスタッフやUNDPのスタッフとして過ごす。その間、リベリアは内戦によって国家崩壊の危機に陥る。1997年、反政府軍との和解成立後、リベリアに戻り、大統領選挙に立候補。この時はテイラーに敗れたが、2005年の総選挙で大統領に当選。2006年1月に、アフリカ初の女性大統領に就任。2011年、ノーベル平和賞受賞。2012年、インディラ・ガンディー賞受賞。

1939年(セネガル)Ruth Sando Fahnbulleh Perry誕生


政治家、教育者、実業家。暫定元首格である国家評議会議長や上院議員などを歴任。ムスリムのヴァイ人。モンロビアのカトリック系の女学校から国立リベリア大学のティーチャーズ・カレッジに進学。卒業後、小学校の教師として勤務。その後、裁判官であり議員だったマクドナルド・ペリーと結婚し、7人の子供をもうけた。1985年、野党の統一党(UP)から立候補し、上院議員に当選(1986~1990)。1989年の内戦ぼっ発後の1990年、上院議員を退任し、Women Initiative Liberiaで、女性のために働いた。1996年、サンカウロが暫定元首格にあたる国家行議員議長を退いたあと、1996年に後任に就いて国家元首となる。

1940年(ケニア)Wangari Maathai 誕生(2011年没)

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Wangari Maathai holding a trophy awarded to her by the Kenya National Commission on Human Rights

生物学者、環境活動家。植民地下で初等教育、および中等教育を終え、学位号と修士号は、アメリカとドイツで取得。その後、ケニアに戻り、博士号を取得した。科学の領域での中央・東アフリカ初の女性の博士となる。1974~79年、ミュンヘン大学とナイロビ大学で教鞭をとる。その間に貧困や政府の無策を原因とした森林破壊を目にし、環境問題に目覚め、植樹活動による環境保全を軸としたGreen Belt Movement(GBM)を創設。苗木の配布による草の根の保全活動を指導する傍ら、1989年に政府がナイロビ中心部のウフルーパークに党本部を建設しようとしたことに反対し、撤回させた。持続的発展、貧困削減、民主的かつジェンダーに配慮した世界の実現を目的としたフェミニズムを展開したことにより、2004年、ノーベル平和賞受賞。

【エッセイ】アフリカ事情雑感④ノーベル平和賞(富永智津子)

1940年(リベリア)
Mame Madior Boye誕生(マーム・マジョル・ボイ):セネガル初の女性首相に就任。在任中の2002年9月26日、ジョラ号沈没事件が起きる。2002年11月4日、内閣総辞職。その後、2004年9月、ボイはアフリカ連合の特別代表に任命された。

1942年頃(ガーナ)Ama Ata Aidoo誕生

作家、劇作家、活動家。母系社会アカン文化の影響を強く受けて育った。1964年、ガーナ大学卒業。ンクルマ大統領とデュボイスのパン=アフリカニズムの影響を強く受け、アフリカとディアスポラとの関係の再構築をテーマにしたThe Dilemma of a Ghost(1965)を発表。その後も、ジェンダー、経済、人種の問題をグローバルな視点で描いた。Womanismの立場からは、黒人性と白人性、男性性と女性性の文化的構築、奴隷貿易と奴隷制および植民地主義に起因する貧困を焦点化した。1970年に発表したAnowaは、20世紀のアフリカにおける文学作品100選に入っている。作家活動以外では、ローリングス大統領のもとで教育大臣(1982~83)を務めたが、フラストレーションからジンバブウェに逃亡し、作家活動を続行しながら、アメリカの諸大学での講演を行っている。

1943年(ケニア)Gaudencia Aoko誕生(1988没)

ケニア西部出身のカリスマ的宗教指導者。階層化された男性中心のローマ・カトリック教会を批判し、Simeo Ondetoとともに独立教会Legio Mariaを創設。1962~63年、ルオ人を中心に、多くの信者を獲得。しかし、それも、時の流れとともに、ローマ・カトリック教会と同様の男性中心の階層化された組織に戻ってしまった。その結果、Aokoは、Legio Mariaの司祭に就任することを拒否。1967年、指導部から追放されたため、新たにCommunion Church of Africaを創設。カトリック教会やLegio Mariaに見られる男性の権威や性差別、ジェンダー格差に挑戦したAokoの活動は、フェミニズムに軸足を移行した第三世界の解放の神学を代表するものと見ることができる。

1944年(ナイジェリア)Buch Emecheta誕生

ナイジェリア生まれのイギリスの作家。両親はIgbo人。ラゴスのMethodist Girls High Schoolを卒業。11歳の時に婚約していた男性と1960年に結婚し、ロンドンに移住。5人の子供に恵まれる。しかし夫が彼女の原稿をを焼却したのを機に離婚し、1970年にロンドン大学に入学して社会学を学ぶ。1972年に最初の小説In the Ditchを出版。二作目はSecond-Class Citizen。作風はロンドンでの人種差別やゲットーでの貧困の経験をもとにした自伝とフィクションの間。その後も黒人の移民女性を主人公とした作品を発表している。もうひとつのテーマは、急速に変化するナイジェリア社会の女性性と家族と母性の関係。The Bride Price(1976)とThe Slave Girl(1977)はその代表作。その後1883年に発表したアフリカと西欧近代との出会いを哲学的に描いたRape of Shavi)は、もっとも評判を呼んだ作品のひとつ。現在、息子とともにロンドンとナイジェリアに事務所を持つ出版社Ogwugwu Afor Publishing Firmを経営している。

1945年(モザンビーク)Graça Machel 誕生

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Graça Machel in 2010

貧困家庭に生まれたが、初等教育での優秀な成績が認められ、中等教育に進学。1967年には奨学金を得てポルトガルのリスボン大学に留学。在学中の1969年、Frelimo(Mozambique Liberation Front)の活動家としてモザンビーク解放運動に飛び込む。1972年に秘密警察に察知され、スイスに亡命。その後、タンザニアのFrelimoのキャンプに合流し、軍事訓練を受けながら難民の子弟への教育に携わる。まもなくSamora Machelと結婚、1975年の独立後、初代大統領となった夫をファーストレディー兼唯一の女性閣僚(教育相、1990年まで)として支えた。教育改革に取り組みつつ、Organization of Mozambican Women(OMM)の書記長やFrelimoの中央委員会のメンバーとしても活躍した。1986年に夫が飛行機事故で死亡。飛行機事故は、南アに支援された反政府軍によるものとされている。1990年にはFoundation for Community Developmentを創設し、独立後の内戦の中で孤児となった子供たちや子供兵へのさまざまな支援プロジェクトを企画した。内戦は1992年の和平の成立によって終焉。1998年には、南ア大統領ネルソン・マンデラと結婚。マンデラの親族は婚資(ロボラ)として60頭の牛を支払ったという。結婚はしたが、モザンビークと南アを往復しながら、自立した活動を展開し続けた。女性の権利擁護にも精力的に取り組み、1999年には、University of Cape Townの学長に任命された。受賞歴は数多い。

1945年(ウガンダ/ルワンダ)Muhumusa没

預言者。ルワンダ王国の偉大な支配者Rwabugiri(在位1867~1895)の寡婦。後継者Rutarindwa(在位1895~1896)の治世に生じた派閥間の争いに敗れて、Bahororo人のMpororo王国に逃れると、Mpororo王国に正統性を与えた精霊Nyabingiの化身であると宣言する。1901年までに精霊の化身であるというアイデンティティを確立し、貢納制を導入してBahororo人の首長たちを支配下に置くことに成功する。
一方、ルワンダのMusinga王(在位1897~1931)は、Muhumusaとはいずれ敵対関係になると考え、ドイツ人に討伐を要請した。Muhumusaは捕えられ、ルワンダの首都に連行されたのち、自宅監禁および100頭の牛を罰金として課された。しかし、Musinga王の正統性に挑戦した囚人である彼女の待遇はあまりにも特権的だとして、東方のヴィクトリア湖に追放になった。その際、75人の付き人が同伴したという。
1911年7月、ドイツによって監禁されていたMuhumusaは、そこを脱出して英領ウガンダ南西部の高地に逃れ、それまでのNyabngiの化身であるというアイデンティティを捨て、Ihangaにある洞窟に隠されているとされる太鼓を探しだすと宣言した。その太鼓は、彼女の声を聴くや、地面から無数の牛が湧いて出てくるというのである。
女性かつ王族のルワンダ人として、地元のクランや民族、あるいは家父長的政治構造と距離を置いていたことが、Muhumusaにユニークな力を与えた。妨害されることなく高地をよぎって太鼓の方角向かって移動した彼女は、今度は自分をNdorwa の女王であると宣言する。彼女がその戦略を捨てたのは、祭司でありイギリスの協力者であったふたりのクラン指導者が彼女の覇権を認めることを拒否した時だった。クランの指導者たちの非協力的な態度に気付いた彼女は、1904年以降、西部の高地人たちを虐殺し、ドイツ人の追手からもうまく逃れていた悪名高いBatwa人のBassebya と結託した。1911年8月、Muhumusaは2000人の部下とともにIhangaに移動し、9月には、Bassebyaの軍団が抵抗するクランの指導者を攻撃して、かれらを居住地から追い出した。その直後、65丁のライフルと大砲を装備したイギリス軍がMuhumusaの要塞を攻撃。Muhumusaは逮捕され、ウガンダに追放され、1945年に没した。

1951年(マラウィ)Joice Hilda Banda誕生


国民議会議員、女性青年地域社会サービス省大臣や外務大臣をつとめた後、2009年に副大統領に就任。一方で、「マラウィビジネス女性協会」NABWを創設、1997年にはモザンビークのシサノ大統領と共同で、ニューヨークに本部を置くNGO「ハンガープロジェクト」からアフリカ賞を受賞、ジョイス・バンダ財団の設立者として、ブランタイヤの孤児の支援や初等・中東教育の普及に力を注いでいる。2009年、副大統領候補として立候補して当選。しかし大統領ムタリカと対立し、民主進歩党を追放されている。ムタリカの急死したため2012年、大統領に就任。2013年には、横浜で開かれた第5回アフリカ開発会議に出席し、自身の経験から助成への教育投資、女性の政治参加の重要性を訴えた。

1952年(ブルンジ)Sylvie Kinigi誕生

トゥチの家族に6人兄弟姉妹の3番目に生まれる。父親は商人、母親は農婦。尼僧によって経営されていた女学校で学ぶ。その後、首都のブジュンブラで経済学を学ぶ。19歳で大学の教授を結婚し、4人のこどもに恵まれる。同時に学問も続け、トゥチ系の政党の女性の組織化に携わり、女性組織の全国実行委員のメンバーとして活動。ブルンジ大学を卒業後、ブルンジ中央銀行に就職、同時に大学で教べんとった。1991年に首相のアドヴァイザーになり、軍事費の削減や経済改革に取り組んだ。1993年、民主化に向けた選挙が行われ、Melchior Ndadayegaが大統領に当選、ほとんどが大統領と同じフトゥ系の閣僚の中、彼女が首相に任命される。トゥチとフトゥの敵対状況の緩和が目的で、彼女に白羽の矢が立ったのだった。しかし、その直後、大統領と6人の大臣がトゥチによって殺され、内戦が勃発。彼女はフランス大使館に避難し、命を守った。1994年の議会選挙後、フトゥのNtaryamiraが大統領に就任。トゥチ陣営はこれに反発したが、彼女は大統領を受け入れたが、首相職は辞した。このことで、彼女は批判にさらされ、身の危険を感じた彼女は亡命を決意。2004年現在、国連開発計画(UNDP)で働いている。

1952年(アメリカ/中央アフリカ)Dian Fossey誕生(1985年没)

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Dian Fossey in November 1984 photograph by Yann Arthus-Bertrand

環境保護活動の先駆者。アメリカ生まれ。中央アフリカのマウンテンゴリラの保護活動で知られるが、その生涯については不明な部分が多い。セラピストとして勤務していた病院で知り合った同僚に刺激され、1963年に、北ローデシア(現在のザンビア)、ケニア、タンザニアを経て現在のコンゴ民主共和国の東部でゴリラと出会う。1966年にルイス・リーキーの講義に出席、リーキーにゴリラ観察を勧められる。1967年、Karisoke Research Centre をVirunga 山系に設置し、本格的なフィールド調査に乗り出し、ケンブリッジ大学から博士号を取得。密漁者やアフリカ諸国のゴリラ対策への批判を1970年代からNational Geographic に掲載、世界の注目を集めた。1978年に最も愛するゴリラが殺害されたことをきっかけに、保護基金を立ち上げ、やがてルワンダ政府を巻き込んだ国際的なMountain Gorilla Projectに結実する。1980年代には、世界各地で講演活動をこなしたが、1985年、拠点としていたKarisokeで殺害される。犯人は不明。死の直前に出版されたGorillas in the Mistはベストセラーとなった。
2-8.フェミニズムが変える先史時代(小川眞里子)
映像(DVD・ネット動画) で学ぶジェンダー

1953年(ルワンダ)Agathe Uwilingiyimana誕生(1994年没)

農家に生まれ、長じて教師となる。結婚して、5人の子供に恵まれる。1983年にはルワンダ国立大学で化学を教えた。その後、1985年には科学で修士号を取得、ブタレの学校で教鞭をとったが、理科系の女性に理解がない社会で、メディアからの批判にさらされた。1993年5月、ハバリミャナ内閣で首相に就任。党派間の確執の中で、就任後18日目に彼女はハバリミャナ大統領から解任されるも、1994年4月のハバリミャナ大統領の飛行機が撃墜され大統領が死亡した直後に勃発した虐殺事件の中で暗殺されるまで首相の地位にとどまった。女子教育に力を注ぎ、Forum for African Women Educationalists(FAWE)の創設にも関わった。

1956年(ウガンダ)Alice Lakwena誕生(2007年没)

霊媒師、軍人。Lakwenaは、アリスに憑依した聖霊の名前。本名はAlice Auma。北部ウガンダのアチョリ民族の出身。英国国教会の家庭で育つ。7年の初等教育を修了後、カトリックに改宗。多くのアチョリ人が、現大統領の率いていたNational Resistance Army(NRA)に対抗して、当時の政府軍Uganda National Liberation Army(UNLA)に与した内戦(1981~86)中の1985年1月2日にLakwena(アチョリ語でメッセンジャーの意味)という名前のキリスト教の聖霊の霊媒師となった。土着の精霊に対抗して、苦難からの救済を目的としたキリスト教のカルトを立ち上げた。NRAがアチョリを占領するという非常事態が起こった1986年8月6日に、Holy Spirit Mobile Forces(HSMF)を設立し、キリスト教の預言者として「聖戦」を開始。国内および国際的メディアによって「ブードゥー教の司祭」、「魔女」、「ウガンダのジャンヌダルク」などと報じられた。こうした報道に対抗して、Department of Information and Publicityを創設し、宣伝作戦を展開した。人びとは、男性であるLakwenaという精霊が、抑圧されている女性を救うという力をAlice に与えているを信じていた。したがって、このHSMFは、男性の覇権を維持しつつ高度に複雑な権力の技巧を駆使することを通して機能していたといえる。HSMSは、現在、北部ウガンダの7千人~1万人の男女の信者を擁していたが、1987年10月に決定的な敗北を被り、Lakwenaはケニアに逃亡し、難民キャンプで暮らした。彼女の信念は父親やイトコが創設したLord’s Resistance Army(LRA)に受け継がれ、21世紀初頭まで戦闘を続行した。Alice Lakwenaはケニア北部の難民キャンプで2007年に死去。

1959年(モーリシャス)Ameenah Gurib誕生

スリナム生まれのモーリシャス人。高等教育はイギリスで受け、有機化学の領域で博士号を取得。1987年にモーリシャス大学に就職。1988年、外科医のDr. Anwar Fakimと結婚、2人の子供に恵まれる。2013年、モーリシャス大学の副学長に立候補するにあたり、宗教上の差別を受けたとしてMauritian Equal Opportunities Commission(EOC)に提訴。EOCは、訴えが正当ではないとしたが、選出のプロセスに問題ありとして、候補者の適格性に関する基準の見直しを行った。結局、彼女は大学を去り、自分のリサーチ研究所を開設。2015年5月以降、モーリシャス大統領。

1959年(ジンバブウェ)Tsitsi Dangarembga誕生

作家。英領ローデシア時代に生まれ、幼くしてイギリスに両親とともに渡り、西欧の文化に直接触れる。1965年に帰国後、初等教育と中等教育を終える。1977年、18歳の時にイギリスのケンブリッジ大学医学部に入学するも、修了することなく再び帰国し、ハラレ大学で心理学を学ぶ傍ら、ドラマクラブに所属。自分の考えや経験を文章や劇で表現することに関心を持ち始め、初めての作品The Lost of the Soilを発表(1983)。1987年にはShe No Longer Weepを上演する。しかし、彼女の作品の中でもっとも評価が高いのは、1988年に出版し、翌年にCommonwealth Writers Prizeのアフリカ部門賞を受賞した小説Nervous Conditionsである。ジェンダー、植民地、ポストコロニアル文学として、20年を経てなお読まれ続けている。1990年には詩集In a Voyageを世に出したが、その後映画製作に没頭し、現代アフリカにおける寡婦の権利を描いたNeria(1992)は、ジンバブウェ映画界にセンセーションを巻き起こした。その後、エイズ大流行に直面し、アフリカ人女性の身体とセックスライフのコントロールによる女性自身の闘いを描いた。2000年代には、Nyerai Filmsというプロダクションを立ち上げ、2002年には、小説を執筆する傍ら、ハラレで女性の映画製作者の祭典を開催するなどの活動と続けている。

1959年(中央アフリカ共和国)Catherine Samba-Panza誕生

実業家、弁護士出身で、同国では多数派のキリスト教徒。2013年から首都バンギの市長であったが、2014年1月に暫定議会の決選投票で同国初の女性元首に選出された。国内のキリスト教徒とイスラーム教徒の衝突に対し、武器を捨て、平和を回復するよう呼びかけている。 

1960年(南ローデシア/ジンバブウェ)Mai Chaza没

治癒師、預言者。1948年に夫の家族から追い出された後、死と再生の経験
を経て、預言者兼治癒師として身障者や不妊女性や悪霊にとり付かれた人々の救済を開始。それまで所属していた男性主導のメソディスト教会から信者を獲得することに失敗し、1954年にウィッチ退治というショナ民族の女性が担ってきた慣習をメソディストの一夫一婦制と尊敬という理想で強化した独立教会Guta re Jehova(CityofGod)を創設、2500人ほどの信者を獲得。彼女の教会は、女性が主導した預言者的な独立教会であったことが特徴である。入植者型の植民地の都市部に顕著な現象であり、他にAlice LenshinaのLumpa Church(1950年代)や1990年代のZenzele Church(ジンバブウェ)が挙げられる。

1961年(カメルーン)Calixthe Beyala誕生

作家、エッセイイスト、フェミニスト。中学~大学教育をフランスとスペインで終える。1987年以降、パリを拠点にフランス語で2年に一本の割で執筆。とりわけ、フェミニストの闘いを描いた“Lettre d’une africaine a ses soeurs occidentals,”(Letter from an African Woman to Her Western Sisters,1995)とフランス社会の人種差別を描いた“Lettre d’une afro-francaise a ses compatriots,”(Letter from an Afro-French Woman to Her Compatriots,2000)の二本のエッセイは、大きな反響を呼んだ。彼女の執筆の中心テーマは、アフリカとアフリカ人の在るべき姿を描くことではなく、ポストコロニアルのアフリカの都市の貧困と、女性へのそのインパクトである。パリを舞台にした作品では、アフリカ人移民社会に視点を移し、そこでの家族のダイナミックスと女性の自律性を描いた。移民は女性に力を与え、新しいアイデンティティを獲得させる一方、かつてのアフリカの父権制は急速に姿を消していく。作品をめぐる賛否両論が渦巻く中、彼女は植民地主義の結果として引き起こされ、アフリカとアフリカ人に多様なインパクトを与え続けている文化と階級の現代的衝突の中で、女性が生き抜いていく方法を探し続けている。
Calixthe Beyala

1978年(南ア)Makobo Modjadji Ⅵ 誕生(2005年没)

「雨の女王」(rain queen)。2003年にBalovedu民族集団の「雨の女王」に即位、2005年に病死。祖母も母も「雨の女王」だった。彼女は、200年間の歴代の「雨の女王」の中で、高校を卒業した初めての女王であり、女王であった期間が最短の女王。
Baloveduの「雨の女王」の起源は、近親相姦的な関係を暗示する口頭伝承しか残っていない。ジンバブウェ南部のMonomotapa王国のKaranga人の首長が娘のPrincess Dzugundiniと近親相姦関係を持ったという伝承もそのひとつ。子供が生まれ、それが共同体に大きな動揺と批判を巻き起こした。娘は父親から「雨を降らす力」(rain-making power)をもらい、Monomotapa王国から南の方向へと逃がれたという伝承である。もうひとつは、Princess Dzugundiniが兄弟と近親相姦関係を持ち、子供が生まれたと言う伝承。王女の父親は、王女とその近親相姦の相手である兄弟、そして生まれた子供は殺されるべきだという共同体の期待に背き、王女に「雨を降らす力」を与えて、一行を南方へと逃した。彼らはMolototsi Valleyに定住し、Mugudoという称号を持った首長の支配下に入った。この首長は家族内のトラブルで息子たちを殺害し、移住してきた王女の集団が持つ母系の王朝を再興するために、自分の娘との近親相姦関係を持つよう、先祖に命令されたと主張した、というのである。
このようにして、政治権力と「雨を降らす力」は、女性の支配者Rain Queen Modjadjiに託された。彼女は公に姿を現すことを許されず、会話も仲介者を通してしかできなかった。しかも結婚することも許されなかったが、密かに仕組まれた方法で子供をもうけることはできた。その方法というのが、いわゆる「女性婚」である。「妻」となる女性は、王室の評議会が、Baloveduの名だたるクランから選び、女王の男性親族との間で子供をつくった。その子供たちが、女王の子供となったのである。ModjadjiはこうしたBaloveduの聖なるシステムを象徴する存在なのである。多くの植民地化前のアフリカ人支配者に崇められていた「雨の女王」は、抗争と変化のダイナミズムを体現する存在でもあった。過去200年間に、植民地的侵略下での変容などを強要されたにもかかわらず、その権威は揺るがずに維持されている。