目次
身体をどう読むか?
(執筆:荻野美穂/参考『読み替える(世界史篇)』2014年)
◆身体に歴史はあるか ?
私たちは誰もがそれぞれの身体として生きている。古今東西、身体をもたなかった人間は存在しない。では、その身体に歴史はあるのだろうか。一般には、身体はいつの時代も変わらない自然なもので、それを扱うのは医学や生物学などの科学の分野だと考えられがちである。実際、伝統的な歴史には身体は不在で、重要人物たちは名前や業績、あるいはせいぜい肖像画として登場するだけだ。民衆にいたっては、「農民」「下層民」のような十把一絡げの概念にすぎない。フランスの中世史家ル=ゴフはこれを、彼らは「肉体を奪われていた」と述べ、歴史に身体を返してやることが必要だと主張している。
というのも、身体には歴史があるからだ。確かに、頭と胴体と手足があって、という抽象レベルでの人間の身体は普遍的かもしれない。だが、人類学者のモースが指摘するように、その身体をどのように用いて歩いたり、食べたり、愛をかわしたり、子どもを産んだりするか--こうしたもっとも生理的で「自然」と思われている身体技法でさえ、文化や時代によってさまざまに変化してきたのである。現代の私たちが、男女の性の違いのもっとも自明で確実な根拠と考える性器にしても、かつては男女の性器は本質的に同じもので、女は「不完全な男」にすぎないと信じられていた時代があった。つまり身体をどのように使って生きるか、身体をどのように理解したり意味づけたりするかは、言語の習得と同じように、それぞれの社会のなかで人々が知らず知らずのうちに身につけていく「文化」なのである。身体の歴史の役割は、こうした歴史的に多様な身体のあり方とそれが各社会で持っていた意味を明らかにすると同時に、それらがいつ、どのように変化していったのか、その変化は政治や経済を含む社会全体の変化とどのような相関関係にあったのかについて、考察することにある。
◆身体と性の政治
人間の身体は、年齢や人種、障害の有無など、さまざまな指標によって差異化されるが、もっとも基本的なのは性別(男/女の区別)だろう。性別が社会にとって重要なのは、それが生殖、すなわち世代の再生産と関連しているからだ。生殖は男女両性の関与があって起きるが、受胎・妊娠・出産という一連のプロセスを直接になうのは一方の女の身体だけである。そのことは歴史のいたるところで、女に男とは異なる生き方や役割を割り当てる根拠として利用されてきた。たとえば、伝統的な家父長制社会では「女の腹は借り物」と言われたように、女をたんなる生殖の器、男の種を育てるための畑とみなして、女の性を厳しく監視する風習を生んだ。多くの社会が、結婚までの娘には処女性を、結婚後の妻には貞節を命じてきたのも、生まれる子どもが間違いなく父系の血統を受け継ぐようにするためである。20世紀以降、フェミニズムのなかで避妊や中絶の自由の獲得が重要な目標となり、女の性的自己決定権が主張された背景には、こうした身体的差異のゆえに女は歴史的に抑圧されてきたという思いがあった。
また、国家が人口の量と質に関心を抱くとき、国民の身体はそれを管理するための媒体として権力の介入の対象となってきた。女は21歳までに結婚し、夫婦あたり5人の子を産むよう求めた第二次大戦期日本の「産めよ殖やせよ」政策、「アーリア民族」とユダヤ人との結婚を禁止し、障害児や精神病者の「安楽死」をおこなったナチス・ドイツ、あるいは国の一人っ子政策に背いて2人目を妊娠すると多額の罰金を課せられたり、中絶を求められたりする現代の中国など、その例は枚挙にいとまがない。つまり身体は個人的なものであると同時に、つねにそのあり方をめぐって家族や共同体から国家や宗教、国際社会にいたるまで、多様な思惑や利害がぶつかりあう、きわめて政治的な場でもあるのである。
◆性別と欲望
生殖と並んで身体の歴史にとって重要なのは、セクシュアリティである。同性愛者の存在がしだいに認められるようになったとはいえ、現代は男と女という異性間の恋愛や欲望こそ「自然」で「正常」だとする社会である。だが、人間を「異性愛者」と「同性愛者」に分ける発想そのものがじつは近代の産物であり、同性間の欲望や性的関係はさまざまな形で過去の社会に存在してきた。古代ギリシアや近代以前の日本のように、男同士の性的関係が「男らしさ」と結びついて高い価値を与えられた文化もある(→*【総論6】男性性(マスキュリニティ)の歴史(三成美保))。また男女の区別についても、性別は身体と結びついていて変えることはできないと考える文化ばかりではなく、ネイティヴ・アメリカン部族に見られた「ベルダーシュ」のように、身体はそのままで性別を越境することに対して寛容な社会もあった。こうした身体の多彩なあり方と変化、それらが意味するものについて、現代人の「常識」や思いこみを捨てて見ていくことが、身体に歴史を取り戻すことにつながるのである。(荻野)
●参考文献
荻野美穂『女のからだーフェミニズム以後』岩波新書、2014年
→【新刊】荻野美穂『女のからだーフェミニズム以後』2014年(自著紹介)
荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会ー身体をめぐる戦争』(岩波人文書セレクション)岩波書店、2012年
中絶は、殺人罪か、基本的人権か。1973年の連邦最高裁による中絶合法化は、アメリカを現在まで続く泥沼の「中絶戦争」に引きずり込んだ。なぜ、もっと も個人的な出来事が、大統領選を左右し、国内を二分する熾烈な対立を生むのか。アメリカ現代政治を見るうえで欠かすことのできない中絶論争についての初の 網羅的研究。
荻野美穂『「家族計画」への道―近代日本の生殖をめぐる政治』2008年、岩波書店
子どもを「つくる」かどうかは計画的に決めるもの、という考え方はどのようにして「常識」になっていったのか。その道筋を、明治期から現代までの言説をた どりつつ考察する。子どもの数を調節するための避妊や中絶という生殖技術をめぐって、国家と、女たち・男たちの価値観・思惑はどのように交錯したのか。同 時期の海外での言説にも目配りし、多くの資料を渉猟して描き出す労作。
荻野美穂『ジェンダー化される身体』勁草書房、2002年
ジェンダー二元論の規範の中で、「女」や「男」の身体はどのように生き、抵抗してきただろうか。生物学的宿命論もバトラー流の幻想論も拒否して「女」の身体にこだわる論考集。
荻野美穂『生殖の政治学―フェミニズムとバース・コントロール』 (歴史のフロンティア)山川出版社、1994年
産む、産まない、産ませないを決めるのは誰か。イギリスとアメリカで展開されたバース・コントロール運動の苦闘の歴史を、フェミニズムや優生学を軸に考える。
現代人にとっては、あまりにも当たり前のことになってしまった避妊。それはいつ、なぜ、どのようにしてはじまったのでしょう。生殖をコントロールするのが 「正しい」ことになってゆく過程で、私たちはなにを失い、なにを得たのでしょう。これは、産む、産まないをめぐる熱い闘いについての「歴史」であると同時 に、「いま」の私たちの位置についても考えるための本です。
荻野美穂・姫岡とし子・長谷川博子・田辺玲子・千本暁子・落合恵美子『制度としての「女」―性・産・家族の比較社会史』平凡社、1990年
近代社会の成立と不可分の、性別役割分担の構造と近代的女性像。