【略年表】ゲルマン社会とフランク王国

最終更新2018-11-23 掲載2014.09.16 作成:三成美保

ゲルマン古代の社会

概要

500年ころにヨーロッパ最初の統一国家、フランク王国が成立するが、それより前のゲルマン社会では一部にローマ法の影響がおよんだとはいえ(ローマ卑俗法)、 外来法の影響はまだそれほど受けていない。法は記録されず、法格言として覚えやすい言い回しで口伝えにつたえられた。社会はいくつかの身分に分かれ、社会 の主たる担い手である自由人のほかに、神的出自にさかのぼる小数の貴族、非自由人として不完全自由人(解放奴隷や征服された部族)、奴隷がいた。

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【地図】紀元後50年頃のゲルマーニア

戦いなどの重要事は、自由人の全成人男性からなる民会で、全員一致で決められた。多数決は利用されなかった。また、この民会は、裁判集会をも兼ねていた。仲間の保護をうけたり、裁判に参加できるのは自由人にかぎられた。非自由人は、人間としての資格が欠けるとみなされ、家の主人の懲戒権に服した。人びとの生活は、ジッペ(氏族)とよばれる、広い意味での親族集団を単位としていた。領主制は発達しておらず、農地はジッペの集団所有とされ、相続という観念もなかった。

裁判によらない紛争解決

古い時代にはそもそも紛争が生じても裁判はおこなわれず、もっぱら復讐行為とジッペからの追放によって解決された。ある事件がおこったときの復讐行為は、それが現行犯であるか、一夜明けてのちであるかによって異なる。被害にあった者は、大声をだして仲間に助けをもとめる。その声を聞きつけた者は、すぐに現場にかけつけなければならない。被害者を助けようとして、加害者を殺してもさしつかえない。現行犯のばあいには、加害行為と復讐行為がつりあっていなくともよいのである。

一夜明けたばあいには犯人の特定がむずかしくなるため、ジッペのあいだで戦い フェーデ(原意は敵対)がはじまる。そのとき加害者に復讐することもあるが、ジッペのなかでの被害者の位置に相当する人物に復讐してもよい。犯人そのひとへの復讐が問題なのではなく、ジッペの名誉の回復が重要だからである。しかし、戦いをつづけてはたがいのジッペに大きな被害がでるため、しばしば途中で、和解の道がさぐられた。贖罪金の支払いや婚姻によって、和解が成立したのである。

一方、宗教上の犯罪や謀反罪、強姦などの破廉恥罪については、ジッペの保護がうけられない。犯人は、平和喪失者となり、ジッペから追放される。これがアハト刑(追放刑)である。追放された者は、「人間狼」とみなされた。森でかれを見つけた者は、いつでもかれを殺してよいとされ、屍は鳥の餌食とされた。ジッペからの追放は、ほとんど死を意味したが、一定期間のあいだは、身請金を支払って平和を買いもどすことができた。

犯罪と刑罰 

平和喪失者が裁判集会に訴えられ、有罪判決を宣告されるようになったときに、はじめて刑罰が発生した。犯罪は、世界秩序の破壊とかんがえられ、犯罪の種類によって一定の刑罰が対応していた。窃盗犯は絞首、秘密殺人犯は車刑、強姦犯は斬首、姦通など風俗犯は沼地にしずめられた。

犯罪行為は自由意思のはたらきではなく、宿命とみなされた。「行為が存在するのでないかぎり、悪意を見いだすことはできない」とされ、未遂・教唆・幇助は罰せられない[結果刑法]。また、刑罰は呪術的な贖罪とされ、死刑執行が成功しなかったばあいでも、再度の執行は禁じられ、水のもる舟で漂流させて運命を天にまかせるといった「偶然刑」がとられた。

裁判集会型法発見

自力救済(フェーデ)をふせいで、失われた平和秩序を回復し、当事者の和解をもたらすために選ばれたのが、裁判という手続である。したがって、歴史上初期の裁判は、あくまでも個々の具体的ケースで合意を形成するためのコミュニケーションの場であって、一般的法規を適用する場ではない。すべての紛争は、刑事事件としてあつかわれ、民事紛争は存在しない。また、こののち中世をつうじて判決は被告と同じか、より高い身分の人々によって発見されるべきものとされた(仲間裁判の原則)。

ゲルマン的・伝統的裁判制度は、裁判集会型法発見モデルとよばれる。中世盛期以降、ローマ=カノン法的訴訟手続が普及するまで、裁判は、このモデルにしたがっていた。裁判集会の構成メンバーは、裁判長、判決発見人、訴訟当事者である。ここでの裁判長は訴訟の司会役にとどまり、判決を下すレフェリーではない。判決発見にたずさわったのは、裁判集会のメンバーである。裁判の特徴は、厳格な形式主義、当事者主義、口頭主義にあった。すこし言いまちがっただけで裁判にまけることもしばしばあった。

裁判手続

裁判集会型法発見モデルにもとづく手続は、つぎのような段取りですすむ。被害者訴追主義がとられ、職権による告発も事実調査もおこなわれない。「原告なければ裁判官なし」と言われたとおり、被害者あるいはその友人が原告として、被告を裁判集会に召喚することから、裁判がはじまるのである。被告が出頭を拒否すれば、平和喪失となる。原告が被告の法侵害行為を非難することが訴えの提起となるが、この時点で原告が被告に決闘をいどむこともできた。決闘におうじなければ敗訴する。

決闘がなければ、被告は原告の主張をみとめるか、否定する。否定したときには、被告はみずからの主張の正当性を雪冤宣誓(せつえんせんせい)によって証明しなければならない。雪冤宣誓とは、共同体の複数の仲間(3,7,12名など) が被告は偽りをいうような人間ではないと請けあう人格保証の宣誓である。雪冤宣誓が不首尾におわったときには神判(⇒【法制史】神判(神明裁判))が利用される。盟神探湯、鋤刃歩行、水審などである。目撃者などの偶然の証人による証明はゆるされず、証明には形式が重視され、自由心証主義のはいる余地はない。

こののち、判決発見人(すべての裁判集会民)が判決提案をおこなう。判決に疑問をもつ者は、別の判決を用意すれば判決を非難できる。ただし、判決非難は、判決提案者の名誉を非難することでもあるので、よほどの覚悟が必要である。立会人が判決に賛同すれば、判決が確定する。しかし、この判決は、公権力によって執行が強制されるわけではない。判決の執行は、勝訴者の実力にゆだねられた。被告が判決をうけいれようとしないとき、判決は「二枚舌の判決」となる。被告は、裁判所外で原告との直接対決で無実を原告に納得させるか、あるいは、それができなければ、贖罪金を支払わなければならないのである。控訴という手続は、いまだ存在しなかった。

フランク時代の法と社会

5-10世紀の国家

375年、フン族の侵入によってゲルマン民族が移動しはじめたことにより、ゲルマン人は、古代文化やキリスト教と接触し、ヨーロッパ文化の基礎が形作られていく。ゲルマンの諸部族は、各地に部族国家を建設した。そのうちもっとも重要な国家が、フランク王国である。

6-2.ゲルマン社会からフランク王国へ(年表・地図)

【法制史】古代ゲルマン社会の法と裁判(三成)

5世紀のガリア

フランク族の拡大(出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Franken_(Volk)

フランク族は、諸族の集合体であったが、そのなかの一つサリー族を中心に国家形成がすすむ。クローヴィス(位481-511)以来、メロヴィング朝が支配権を獲得し、王家は率先してキリスト教に改宗した。このころより、ヨーロッパのキリスト教化が急速にすすんでいく。 世紀に、政治の実権は、宮宰であったカロリング家にうつる。751年、ピピン2世(位751-768)が、クーデターにより王位につく。800年、カール大帝 (位768-814)の皇帝戴冠とともに、フランク王国は、ヨーロッパにおける古代ローマ帝国の後継国として、指導権を確立するのである。

【女性】メロヴィング王妃たちの攻防(三成美保)

クローヴィスの洗礼

【女性】フランク王国の王妃たち

【『読み替える』より(三成:一部加筆修正)】

◆政治的役割を果たした女性たち――プレクトルーデとベルトラーデ 

カール大帝の母ベルトラーデ

プレクトルーデ

メロヴィング家の宮宰ピピン(714没)は、モーゼル流域の相続人プレクトルーデを妻に迎えた。彼から孫の後見人に任ぜられたプレクトルーデは、ピピンの庶子カール=マルテル(741没)を孫の最大の脅威とみなして彼の財産を没収した。その後、プレクトルーデを排除したカール=マルテルは王国統一に成功する。

彼の息子ピピン(位751-768)は、プレクトルーデの姉妹の孫娘ベルトラーデ(783没)と結婚し、多大な財産を得た。夫の死後、ベルトラーデはピピンの息子たちの相続争いを仲裁し、婚姻政策を進めるなど政治的役割を果たした。

 

◆悪女か、賢女か?――ユーディトの評価

Judith – Abbildung aus dem Weingartener Stifterbüchlein(1510年頃)

ルートヴィヒ1世は、先妃亡き後、バイエルン大公ヴェルフェン家のユーディト(795/807-843)(右図)を二人目の王妃とした。教養豊かで美貌のユーディトは、夫に多大な影響力をもち、実家の権勢増大にも貢献した。すでに帝国整序令(817)で王国は先妃の3人の息子に分割相続されると定められていたが、ユーディトは息子シャルル(2世)(位843-877)にも相応の相続分を求めてさまざまな策を練った。そのふるまいは貴族層の反発を買い、彼女は追放・復帰を繰り返す。

ルートヴィヒ死後(840)の相続争いでユーディトはシャルルに援軍を送る。彼女の死後まもなくヴェルダン条約(843)によって、シャルルは西フランク王国を得た。

ユーディトについては、当時も今もまったく評価が分かれる。「諸悪の根源/尊敬すべき女性」「カロリング帝国没落のひきがねになった身勝手な悪女/息子や自分の地位を守るための当然の行動をした賢女」。このような評価のブレ自体に、歴史認識のジェンダー・バイアスを見ることができよう。

カールの死後、3人の息子たちに分割された王国は、2度の分割条約[ヴェルダン条約(834年)、メルセン条約(870年)]をへて、919年、東フランク王国の王位がザクセン太公ハインリヒ1世(位919-936)にうつったとき、ドイツとフランスに完全に分離した。フランスでは、カロリング家が断絶(987年)したのち、カペー朝(987-1328年)のもとで、しだいに中央集権的な国民国家づくりがすすめられていく。ドイツでは、962年、オットー1世(大帝)(位:国王936-973、皇帝962-973)の皇帝戴冠により、神聖ローマ帝国(962-1806)が建国された。

もともとブリトン人が住み、400年ころにローマ人が放棄したイングランドには、450年ころ、アングル人、サクソン人、ジュート人がはいり、ブリトン人を西部に追いやった。 600年ころ、アングロ=サクセン人はキリスト教に改宗し、アルフレッド大王(位871-899)以来、国家の基礎が固まる。 1066年、ノルマンディー公ウィリアム(位1066-1087)が上陸して王位につき、アングロ=サクソン貴族は所領を没収される。それとともに、国王を頂点とする封建制が整備されていく。

経済と社会 

民族移動と征服により、ゲルマン社会もまた、大きく変化した。定住生活にはいったことによる土地への依存の増大、征服による大土地所有の成立、大経営の集約化による経済的不平等の進展、自由人の没落と平行した領主制の発達、キリスト教の影響が、この時代の変化を特徴づけている。このころのヨーロッパは、まったくの農業社会であり、自然経済社会であった。

大土地所有の成立、経済的不平等の進展、自由人の没落は、たがいに密接に関係している。大経営は自給自足体制をととのえ、危機におちいった多くの小経営農民は、大土地所有に併合されていく。かれらは、自己の所有地を大土地所有者に寄進し、それをあらためて、借地・小作地として借りもどした。これを、プレカーリア契約という。プレカーリア契約そのものは、自由身分を失わせるものではなかったが、社会的・経済的従属をまねいた。また、もはやジッペの保護をあてにできなくなった自由人のなかには、有力者の人的保護をもとめて、自己託身する者もあらわれた。被保護民は、軍役などの公的負担を免れるかわりに、保護者の裁判権に服して、種々の貢租を負担しなければならなかった。経済的従属と人格的従属があいまって、しだいに領主制(グルントヘルシャフト=荘園制)が発達していく。その過程で、自由人と非自由人との平準化がすすみ、自由を制限された農奴身分が成立する。

領主制の単位である古典荘園(ヴィリカチオン制)は、8世紀ころ成立した。それは、かならずしも全ヨーロッパに普及したわけではないが、12世紀ころまで優勢であり、その後、純粋荘園に移行する。古典荘園の特徴は、領主直営地を中心とする自給自足経営にある。土地領主である荘園領主は、下級裁判権を行使し、農奴(隷属農民)にたいする体僕支配権をも有していた。農奴は、夫役(労働地代)を提供するため土地に緊縛され、自由な結婚ができず、死亡時には死亡税を納めなければならなかったのである。

立法

前近代には、三つの立法様式が存在した。法の判告、協約、法命令である。法の判告とは、裁判集会や裁判所で判決人が具体的事件においておこなう法の宣言であり、協約とは、法共同体の仲間があつまって誓約ないし合意によって法をつくることである。法命令は、君主やお上(当局)が命じて定めたものである。これら三つは並存しうるが、おおまかに言って、フランク時代には法の判告、11-15世紀には協約、16-18世紀には法命令が立法の中心をなしていた。法判告の代表的なものは、部族法典、農村の判告集である。協約の典型は都市法であるが、ラント平和立法も皇帝と諸侯との協約であった。法命令といえるのは、近世のポリツァイ条令である。

フランク時代の主な法源は、①部族法典、②カピトゥラリア、③特権状である。

①部族法典としてもっとも古いものに属し、かつ、もっとも重要なものが、「サリカ法典」である。これは、フランク族のひとつサリー族の法典で、クローヴィス王の治下、508-511年ころの成立とされる。成文化は国王の命令によりはじまったとみられるが、サリカ法典の序文にあるように、部族法典は法判告の一種であった。8世紀には、バイエルン族やアレマンネン族も部族法典を作成した。部族法典の内容は、古い法慣習の記録であり、人民法ともよばれる。その多くは刑事訴訟法的な規定で、国制や民事法にかかわる規定はほとんどない。条文は、きわめてカズイスティッシュである。

②カピトゥラリアは、人民法にたいして、王令ともよばれる。フランク王国の諸王は、さしあたって解決しなければならない聖俗のことがらにつき、そのつど、勅令を発した。これらの勅令は、カロリング時代にカピトゥラリア とよばれた。勅令が、いくつかの条文をもつ複数の章に分かれていたためである。カピトゥラリアは、王国の集会で、参集した貴族の審議と承認のもとに口頭で布告されたものであり、国王が単独で定めたものではない。カロリング期の国王の立法活動は、範囲も効果も限られた、あまりまとまりのないものだったのである。

③特権状は、フランク時代後期と中世に重要な役割を果たした。最初は、国王により、のちには、領邦君主により発せられた。性格は、権利創出的で、個人、あるいは、教会や都市・村落共同体にたいして個別的権利を授与・保証したものである。

司法   

500年ころフランク王国が成立してのち、王権は国王裁判所を組織しはじめる。王権は、裁判によるフェーデの和解を強制し、裁判外での和解を犯人隠匿罪として拒否した。また、キリスト教の影響で刑罰におけるゲルマンの宗教的要素が後退し、死刑が忌避されるようになる。

国王裁判所の創設により、王国には二種類の裁判所が併存し、役割を分担するようになる。国王裁判所は、上級裁判所として、大事件(死刑・身体刑相当の犯罪、不動産訴訟、自由身分にかんする訴訟)を管轄した。伝統的な自由人による裁判集会[人民裁判所]は存続したが、そこでは、6世紀以降、行政区長官(グラーフ)が裁判長をつとめるようになる。その結果、人民裁判所は、下級裁判所として国王裁判所に従属する機関となり、小事件を管轄した。

国家が刑罰権を独占するようになった結果、死刑や身体刑は、もはや私的復讐としては禁じられ、純国家的な応報手段となる。ただし、すべての刑罰は、身請けすることができた。人命金に相当する贖罪金を支払えば、刑罰を免れることができたのである。人命金は、身分に応じて定められていた。たとえば、自由フランク人を殺害した場合、加害者は、60頭の牛に相当する200シリングを人命金として支払わなければならない。そのうち、3分の1が平和金(罰金)として国庫にはいり、3分の2はフェーデ金(損害賠償金)として被害者の相続人や親族に帰属する。平和金の3分の1は、裁判官収入となる。フランク時代に実刑を科せられたのは、贖罪金を支払うことができない貧しい人びとだったのである。

(出典)下記2点を合体して修正

⇒*【法制史】古代ゲルマン社会の法と裁判(三成)

*【法制史】フランク時代の法と社会(三成美保)

(関連記事)

【法制史】古典期ローマ法(三成美保)

【法制史】中世ヨーロッパの封建社会(概説)(三成美保)

【略年表①】ケルト社会・ゲルマン社会・ゲルマン諸国家

★(日本:12000年前ー前400 縄文文化)

◆新石器時代(ヨーロッパ)

ヨーロッパについては、前7000年頃(初めて農耕社会がギリシアに現れた時期)から前1700年頃(北西ヨーロッパで青銅器時代が始まった時期)までを「新石器時代」とよぶ(新石器時代の期間は地域によって異なる)。

  • 南東ヨーロッパの新石器時代:前7000~前3000
  • 北西ヨーロッパの新石器時代:前4500~前1700

◆青銅器文化から鉄器文化へ

前2300頃~前800 青銅器文化

前1200~前500 ハルシュタット文化(前800頃に青銅器文化から鉄器文化に移行=狭義のハルシュタット文化はケルト鉄器文化にあたるC期とD期をさす)

  • ハルシュタットA期(青銅器文化):前1200~前1000年
  • ハルシュタットB期(青銅器文化):前1000~前800年
  • ハルシュタットC期(ケルト第一鉄器文化):前800~前650年
  • ハルシュタットD期(ケルト):前650~前475年

前500~前50 ラ・テーヌ文化(ケルト第二鉄器文化)

前509~前27 共和政ローマ

★(日本:前400頃 水稲耕作の普及→弥生文化)
★(日本:前1世紀 倭国、100余国に分立)

ケルト文化(黄色~茶色はハルシュタット文化、緑はラ・テーヌ文化、大陸中央部は二つの文化が重なる)

前58-前51 カエサルのガリア遠征
前50頃 カエサル『ガリア戦記』=ガリア(ゴール)にいたケルト人(ゴール人)社会の記録

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前58年頃のガリア(ケルト=緑色)とゲルマニア(ピンク色)・黄色はローマ帝国(クリックすると拡大)

前27~後395 帝政ローマ

9 トイトブルクの戦い(ローマ軍がゲルマン軍に惨敗)

98頃 タキトゥス『ゲルマーニア』
○古代ゲルマン社会
○神判
○ゲルマンの神々(北欧神話)
★(日本:239 邪馬台国卑弥呼が魏に遣使)

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ゲルマン人の大移動(クリックすると拡大)

375 フン族が東ゴートを支配
→西ゴートが移動を開始(ゲルマン人の大移動)

395 ローマ帝国が東西に分裂

434 アッティラ(406?-451)がフン族の王(兄との共同王)として即位
436 アッティラがブルグンド王国(第1ブルグンド王国)に侵攻
445頃 アッティラが単独で王となる

○ゲルマンの諸王国が成立
418-711 西ゴート王国
429-534 ヴァンダル王国
443-534 ブルグンド王国
449-829 アングロ=サクソン7王国
481-751 フランク王国(メロヴィング朝)
493-555 東ゴート王国
568-774 ランゴバルド王国

8世紀末ー11世紀 ヴァイキング(第2次民族移動)

フランク王国(地図)

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メロヴィング朝

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カロリング朝

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ヴェルダン条約

フランク王国の版図の変化

 

【略年表②】フランク王国

○フランク時代の法と社会
481 クローヴィス即位(位:481-511)→メロヴィング朝の成立(481-751)

496 カトリックに改宗
○メロヴィング王妃たちの攻防:クローヴィス王妃クロティルダ(475-545)

507-511 サリカ法典(フランク族の部族法典)の成立
★(日本:538 百済より仏教伝わる)
★(日本:630 遣唐使の始まり)
★(日本:645 大化の改新)
★(日本:710-784 奈良時代)

732 トゥール=ポワティエの闘いでイスラーム勢力の進出を阻止(宮宰カール=マルテル)

751 ピピン(3世)即位(位:751-768)→カロリング朝の成立

756 教皇領を寄進

768 カール大帝即位(位:768-814)
★(日本:794-12世紀末 平安時代)

800 カール大帝の戴冠

843 ヴェルダン条約(東・中・西フランクの3王国に分割)

855 プリュム条約(中フランク王国を3つに分割)

857 ロタリンギア国王ロタール2世(位:855-869)と王妃テウトベルガ(835/40-875)の離婚事件

【ロタール2世と王妃テウトベルガの離婚事件】

330px-Teilung_Lotharingiensロタール1世(位:843-855)の死後、中フランク王国(ロタールの王国)は、3人の息子(ロタール2世、カール、ルートヴィヒ2世)に分割された(855年プリュム条約)。王国は相続財産として扱われていたからである。
ロタール2世(位:855-869)はテウトベルガと855年に結婚したが、子がいなかったため王妃テウトベルガと別れ、すでに子をなしていた愛妾ワルドラダと結婚しようとした(857年以降)。ロタール2世は、テウトベルガが兄フクベルトと近親相姦を行ったと自白させて離婚しようと死ぬまで努力し続けたが、ローマ教皇らの反対にあって実現しなかった。その結果、ロタール2世は嫡出子がないままに死去し、メルセン条約(870年)によって王国が改めて分割されることになった。

(→事件について詳細は、ファルク他『ヨーロッパ史のなかの裁判事例』Case6、ミネルヴァ書房、2014年を参照)

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メルセン条約(870年)

870 メルセン条約

911 東フランク王国でカロリング朝が断絶→神聖ローマ帝国(962-1806)の成立

987 西フランク王国でカロリング朝が断絶→フランス・カペー朝(987-1328)の成立