新規掲載:2016-05-08
【中国史】中国貴族制社会の女性の活躍
掲載:2016-05-08
武則天(623-705)(小浜正子)
「14歳で太宗の後宮に入った武照は、太宗の没後、高宗の妃となり、655年皇后となって、病弱な高宗に代わって垂簾聴政を行った。高宗の没後、子の中宗が即位するが、従わなかったので廃して弟を立てて睿宗としたが彼女の傀儡だった。690年には自ら帝位につき、周王朝を開いた。この間、科挙出身の多くの有能な官僚を登用した。晩年の705年、迫られて退位し中宗が復位して国号も唐に復し、まもなく没した。彼女の統治期間は反乱もほとんどない良い時代で、政治の担い手が古い家柄の貴族から科挙官僚に移る契機ともなった。死後は唐朝で皇太后として遇され、その後の唐の皇帝はみな彼女の子孫である。武則天が「牝鶏司晨(めんどりが時を告げる―女性が政権を握るのは良くない)」の悪女の代表とされたのは、後に中国社会で女性が政治に参画するのが忌避されるようになってからである。(小浜正子)」
(出典)『読み替える(世界史編)』67頁から引用
【参考】
○「4-2.中国貴族制社会の女性の活躍(小浜正子)」(『読み替える(世界史編)』)には、以下の項目が記載されています。ご参照ください。
「活発な女性、自由な恋愛」「女性権力者たちー馮太后から武則天へ」「関連資料4件」
○関連するHP記事
⇒*【年表】東アジア世界(200~1000)