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古典期ローマ法
(執筆者:三成美保/掲載:2014.03.20/初出:三成他『法制史入門』)
本項目の前は⇒*【法制史】ローマ法の成立と発展(三成美保)
●帝政前期=ローマ元首政
前27年、アウグストゥス(位:前27-後14年)が元首政をしき、ローマは帝国となる。4世紀後半には、ゲルマン人の民族大移動がはじまり、キリスト教が国教(391年)となってまもない395年、ローマ帝国は東西に分裂した。西ローマ帝国は、476年に滅亡する。東ローマ帝国は、ビザンツ帝国として、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまで存続した。
●ローマ法の古典期
帝政前期には、法学がもっとも隆盛をむかえた。したがって、この時期を「古典期」とよぶ。なかでも、いわゆる五賢帝時代(96-192年)が古典期盛期にあたり、その前を古典期前期(前27-後96年)、その後を古典期後期(193-284年)とよぶ。3世紀末、ディオークレーティアーヌス帝(位:284-305年)が帝位についたころより、ローマの政体は専主政へとうつり、経済的には衰退期にはいる。法学もまた、停滞しはじめる。
●勅法の登場
古典期前期には、市民法・名誉法とならぶ第3の類型である皇帝法(勅法)が登場し、しだいに勅法の優位が確立する。いっぽうで、回答権の制度が生まれて、それまで法務官の背後にいた法学者が前面にあらわれてくる。回答権とは、「特定の学者に賦与された、回答を与えることのできる地位」のことである。回答権の名のもとに、法学者は法の創造的解釈者となっていく。
●古典期前期
古典期前期にはまだ、法学者は私人として活動する伝統を保持していたが、古典期盛期になると、回答権の制度が完成して、法学者は国家権力と緊密な関係をむすぶようになる。ハドリアーヌス帝(位:117-138年)は、皇帝の諮問機関たる顧問会に法学者をくわえ、指導的な法学者は官吏として、法形成に関わりはじめる。
※ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』は、ハドリアヌス帝時代のローマに生きたフロ設計技師を主人公にしたコミックである。歴史的読み物として参考になる。
●古典期後期
古典期後期のローマ法学は、しだいに創造性を失う。著名な法学者はすべて高官となるなど、法学者の官僚化が完成した。軍人皇帝時代(235-285年)にはいって、政治的安定が失われると、あまりにも政治と密着していた法学もまた、没落していくのである。
●古典期後
古典期後(284-527年)には、法学はますます衰退していく。その理由として、①専主政体のもと、皇帝の権力がつよまるとともに、法学者は皇帝の道具となって、法学の魅力が失われたこと、②キリスト教が国教となって、有為な人材がそちらに流れはじめたこと、③ローマ帝国の分裂とそれにつづく西ローマ帝国の滅亡により、古典期の法を実際に利用できる地理的統一体がなくなったこと、があげられる。
⇒本文続きは、*【法制史】ユースティーニアーヌス法典(三成)
ローマ法学者
パウルス『意見集』(1)(早稲田大学ローマ法研究会訳:2004年)