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カトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Médicis、1519 - 1589年
更新:2016-11-11 掲載:2015.11.04 執筆:三成美保
カトリーヌ・ド・メディシスとフランス王子アンリ(1519 – 1559)との結婚
神聖ローマ皇帝(スペインもハプスブルク家)と対抗するためにフランス王家が教皇(メディチ家出身)と手を結ぶためにととのえられた政略結婚。メディチ家は大富豪であるが、王家とは家格がつりあわず、結婚には反対もあった。
【摂政母后】カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1559)
フランス王アンリ2世の王妃(王妃位:1547-1559)。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后。摂政母后として、政治的権力を握った(摂政母后位:1560-1574)。また、芸術を愛好、宮殿の造営や歌謡・演劇の分野で才能を発揮、フランスの食文化を発展させた。
- 1519 イタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの孫)と、オーヴェルニュ伯ジャン3世の娘マドレーヌの間に生まれた。
- 彼女を出産後に母が亡くなり、間もなく父も亡くして孤児となる。
- 1533 ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚する。
- 10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアヌ・ド・ポワチエに独占されていた。
- ⇒*【女性】ディアヌ・ド・ポワチエ(1499-1566)
- 1544 長男フランソワ2世(のちの国王)出産。
- こののち、1556年まで毎年のように10人の子どもを産む。子どもたちの多くは、政略結婚に利用された。
- カトリーヌの子どもたち
- (フランス国王)フランソワ2世(1544年1月19日 - 1560年12月5日) - 1558年にスコットランド女王メアリーと結婚。
- エリザベート(1545年4月2日 - 1568年10月3日) - 1559年にスペイン王フェリペ2世と結婚。
- オペラ『ドン・カルロス』
- エリザベート・ド・ヴァロワは、スペイン王太子ドン・カルロスと婚約していたが、父王フェリペ2世がエリザベートを3人目の王妃とした。カルロスの死の数ヶ月後に、エリザベートは亡くなっている。このため、シラーの戯曲やヴェルディのオペラ『ドン・カルロ』で、エリザベートへの悲恋というフィクションが作り上げられ、悲劇的人物として知られるが、歴史的事実は確認されていない。
- フランス宮廷では、カトリーヌとそのイタリア系側近は「魔術師」として嫌悪された
→ジャン・ボダン『魔法使いの悪魔狂』(1580)
- 国内ではユグノー(フランスのカルヴァン派)とカトリックの対立が激化→カトリーヌは融和政策を図るが、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)が勃発
- 内乱はカトリック陣営(ギーズ公アンリ・ユグノー陣営(ナバラ王アンリ)とのいわゆる「三アンリの戦い」の様相を呈し、泥沼化
- カトリーヌの死の8ヶ月後にアンリ3世はカトリック修道士に暗殺され、ヴァロワ朝は断絶→ナバラ王アンリがアンリ4世として即位し、新たにブルボン朝が開かれた。
フランスの摂政母后たち
フランスは「サリカ法典」に従い、女性が王位につくことを認めなかった(オーストリアも同様)。しかし、女性が政治から排除されていたわけではない。16-17世紀のフランスでは、カトリーヌ・ド・メディシス以外にも、摂政母后が続出した。しかも、名目上の摂政ではなく、政治的実権を握った。
【ルイ13世の摂政母后】マリー・ド・メディシス(1575-1642)
ブルボン朝初代国王アンリ4世の王妃。1600年に結婚(アンリ4世は再婚)。莫大な持参金をもたらした。カトリーヌとは遠縁にあたる。
1610年 アンリ4世の暗殺⇒マリーは、王位についた息子ルイ13世(1601-1643)の摂政となる(1614年、ルイ13世が13歳の誕生日を迎えるまで)。摂政を退いた後も政治的権力を持ち続け、ルイ13世とは対立した。
1615年 ルイ13世はスペイン王フェリペ3世の娘アンヌ・ドートリッシュと結婚。
1638年、アンヌは嫡男子ルイ(のちのルイ14世)を産む。ルイ14世は4歳で即位。アンヌは摂政母后となった。
1617年 ルイ13世は、母マリーを幽閉、リシュリューを補佐官とする。
1619年 マリーは反乱軍を決起⇒国王軍に鎮圧される⇒リシュリューの仲介でルイ13世と和解⇒1621年まで王立議会の一員として政治に関与⇒リシュリューとは対立。
1631年 フランスから追放(ブリュッセルに亡命)
1642年 ケルンで死去
【ルイ14世の摂政母后】アンヌ・ドートリッシュ(1601-1660)
スペイン・ハプスブルク家の王女。
父=スペイン王フェリペ3世
母=オーストリア大公カール2世の娘マルガレーテ(神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹)
弟=スペイン国王フェリペ4世、枢機卿フェルナンド
妹=神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の皇后マリア・アナ
1615年 ルイ13世と結婚(ルイ13世とは不仲、ルイの母后マリーからは無視、宰相リシュリュー卿とは対立)
1638年 王太子ルイ(のちのルイ14世)を産む。
1643年 ルイ13世が死去⇒ルイ14世が4歳で即位⇒摂政母后となる(マザラン枢機卿が協力)
1659年 ルイ14世を自らの姪(フェリペ4世の王女)マリー・テレーズ・ドートリッシュと結婚させる。
1661年 マザラン死去⇒ルイ14世が親政開始
サン・バルテルミの虐殺(1572)
サン・バルテルミの虐殺(1572)
- 1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件
- 宗教改革者カルヴァンの影響がフランスにも及び、カルヴァン派のプロテスタントはカトリック側から「ユグノー」と呼ばれた。金銭獲得を積極的に肯定するカルヴァン派の教義にもとづき、ユグノーは商工業の担い手となった。
- 1562年以降、フランスはカトリックとユグノーとの内乱状態(ユグノー戦争)となっていた。
国王シャルル9世の母后カトリーヌ・ド・メディシスの提案により、ユグノーとカトリックとの融和を図るため、ユグノーの指導者であるナバラ王アンリ(有力な王位継承権を持つブルボン家当主)と王妹マルグリット(国王シャルル9世の妹)が結婚することになった。
- サン・バルテルミの祝日(8月24日)、カトリック強硬派のギーズ公の兵がコリニー提督を暗殺。シャルル9世の命令により宮廷のユグノー貴族多数が殺害された。市内でもプロテスタント市民が襲撃され、虐殺は地方にも広まり、犠牲者の数は約1万~3万人とされる。ナバラ王アンリは捕らえられ、カトリックへの改宗を強制された。内乱はおさまらず、ユグノーはより強硬に抵抗し、穏健派カトリックも独自勢力であるポリティーク派を形成した。
結果(ナントの勅令1598年)
- 1574年 シャルル9世が死去
- 1576年 ナバラ王アンリが逃走してプロテスタントに再改宗
- 内乱は新国王アンリ3世(シャルル9世の弟)、カトリック同盟のギーズ公アンリそしてユグノー陣営のナバラ王アンリの三つどもえのいわゆる「三アンリの戦い」と呼ばれる泥沼状態に陥る。
- 1598年 アンリ4世がプロテスタントに一定の制限はあるが信仰の自由を容認したナントの勅令を発する⇒ユグノー戦争の終結。
絶対主義ー「宮廷社会」の形成
- 太陽王ルイ14世(1638ー1715)
啓蒙主義の時代へ
- 1685年ナントの勅令を廃止(ルイ14世)。
- フランスは、カトリック中心の権威主義的な国家へと逆戻りした。
- ユグノー(プロテスタント)の大半はネーデルラントやプロイセンなどの国外へ逃れ、フランスは商工業の担い手を失ってしまう。ユグノーは、産業の中核を占めていたため国家財政は危機に瀕し、それを補うための増税政策に反発した貴族・聖職者や市民・一般国民などの不満が爆発して、フランス革命につながった(→*【法制史】フランス革命(1789年)とコード・シヴィル(1804年)(三成美保))。
- フランスでは、ナントの勅令を廃止した1680年代から、啓蒙主義の時代に入る(→*【解説】啓蒙主義の比較(英・仏・独)(三成美保))。