ローマ法の成立と発展(共和政期~古典期)

執筆:三成美保/掲載:2014.03.19 /初出:三成他『法制史入門』一部加筆修正)

本サイトの「【法制史】ローマ法の成立と発展(三成美保)」「【法制史】古典期ローマ法(三成美保)」をもとに加筆修正。

王政・共和政ローマの年表・項目解説については→2-6.古代ローマの共和政と家父長制(年表:共和政ローマ)

ローマ法の特徴

Capitoline she-wolf Musei Capitolini MC1181.jpgローマ建国からユースティーニアーヌス法典成立までのおよそ1300年間に、政体・経済の変化と対応しながら、ローマ法はゆっくりと変化していく。ローマ人は、きわめて早い時期から、法と習俗とを分離し、「武器と法律」を不可欠の支配手段として利用した。法という人為的秩序の強制は、ローマが、戦争によって拡大した支配領域を、長く安定して維持するための知恵だったのである。しかし、ローマの法は、けっして体系的ではない。それは、人により、事物によって適用が異なる複数の法の集合体であった。

ローマでは、公法と私法の分化もまた早かった。後世にたいする影響の点では、私法が圧倒的に重要である。私法の発展に寄与したのは、法務官と、とりわけ、法学者であった。1ー3世紀に最盛期をむかえた古典期のローマ私法は、法曹法として特徴づけられる。この古典期ローマ法学は、ヨーロッパ法の発展にはかりしれない影響をおよぼしていく。ユースティーニアーヌス法典のもっとも重要な部分は、古典期の法学者の見解を収録した部分(学説彙纂)にほかならず、学説彙纂は、19世紀の近代私法体系の基礎ともなるからである。

ローマ法の成立(共和政期)

十二表法

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エトルリア時代のイタリア(紀元前500年頃)

都市国家ローマは、紀元前8世紀から7世紀にかけて建国された。最初はエトルリア人の王政がしかれていたが、前509年ころ、共和政に移行した。ローマは、第2次ポエニ戦争(前218-前201年)の勝利により、地中海世界の覇権を掌握する。この戦争終結の年をもって、共和政期を前期(前509-前202年)と後期(前202-前27年)に分けることができる。

紀元前218年ごろの地中海世界:カルタゴ(赤)・ローマ(水色)・プトレマイオス朝エジプト(緑)・セレウコス朝(黄) (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/Punic_Wars

共和政前期は、有力貴族の寡頭政から、前5世紀からはじまる貴族(パトリキ)平民(プレーブス)との長い身分闘争をへて、身分闘争の終結(前300年頃)による平民の進出という経過をたどる。寡頭政期には、神法(祭祀法ファース)人法ユースとが未分離であった古い時代のなごりで、法知識は神官である貴族に独占されていた。前494年、平民は軍事行動をおこし、平民会を設置して護民官を選出するが、貴族は身分を閉鎖化してこれに対抗した。

前450年ころ、貴族と平民は和解し、それまで神官に独占されていた慣習法が、十二枚の銅板に記される。これが、ローマ最古の成文法「十二表法」である。十二表法の制定後、立法はほとんど意味をもたず、法は、主として法文解釈によって発展させられていく。しかし、平民が法文を理解するのはかならずしも容易ではなく、なおしばらくは、法知識をそなえた神官団が法実務の担い手として、解釈にたずさわった。前4世紀末には、法知識も公開されるようになり、前300年に、神官職が平民に開放される。前254年に、はじめて公開の場所で、法文解釈や手続が明らかにされたが、このころより、法学は世俗的な学として自立したと考えられる。

十二表法の特徴は、①農業共同体国家にふさわしい法、②属人法的性格、③形式主義の貫徹にある。①エトルリア王政以来、社会の単位は、農業生産を基礎とした家父長制的な家であった。家承継の安定をはかるため、農業生産にかかわる財産の移転には厳格な方式行為が必要とされた。また、耕地の境界や農作物への損害について詳細に定められていた反面、債権債務関係についてはなお十分な展開はみられない。②十二表法は、ローマ市民にのみ適用される市民法(ius civile)であった。外国との取引が活発になるにつれ、市民法の限界があらわになり、新しい法形式(法務官法・万民法)が形成されるが、市民法の属人的性格は最後まで維持される。③当時のローマでは、基本的な訴訟行為や物の譲渡などの法律行為については、厳格な形式を守ることが要求された。一言一句誤りなく言明しなければ、たとえ自分の物であっても、権利を失ったのである。

カルタゴとポエニ戦争

第1次ポエニ戦争 (前264 – 前241年)
第2次ポエニ戦争 (前218 – 前202年)
第3次ポエニ戦争 (前149 – 前146年)

カルタゴ勢力範囲(紀元前264年頃、青色部分)

ポエニ戦争によるカルタゴ領土の変化: 青色(第2ポエニ戦争によって失った領土)、緑色(第1次ポエニ戦争で獲得した領土のうち、第2次ポエニ戦争で失った領土)、水色(第2次ポエニ戦争で失った領土)、紫色(第3次ポエニ戦争でローマに征服された地域)

名誉法 

共和政後期に、ローマは、古代世界のほとんどすべてを支配し、交易・商業・貨幣経済に基礎をおく大国家へと成長する。領土拡大の過程で、ローマは、ヘレニズム文化と接触した。その結果、ローマ法は、従来の実際的志向を脱し、ギリシア哲学の影響下で、思弁的傾向をもちはじめる。法学者が生まれ、法学が発達しはじめたのである。

社会・経済情勢の変化に応じ、農業的性格をもつ伝統的な市民法を修正・変更・補完して、新しい私法を発達させる必要が生じた。その新しい法の総体は、市民法にたいして、名誉法(ius honoratium)とよばれ、法務官によって導入されたかぎりで、法務官法(ius praetorium)ともよばれた。法務官は、前367年に設置され、前242年に2名に増員された任期1年の官職で、裁判を職務とする。政治家である法務官のブレーンとして、私人たる法学者が、たえず、専門的助言をあたえた。

共和政後期には、法務官とその背後にいた法学者が、法適用と法形成の担い手であった。法適用は、法務官の裁判権力をもとに、法律になんら根拠をもたない訴権 請求権 を多数みとめるという形で、法形成は、任期初めに法務官がおこなう広範囲の告示によって実現された。名誉法はまた、ローマ市民以外にも適用されたので、万民法(ius gentium)の起源ともなった。

古典期ローマ法

帝政前期=ローマ元首政

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アウグストゥス

前27年、アウグストゥス(位:前27-後14年)が元首政をしき、ローマは帝国となる。4世紀後半には、ゲルマン人の民族大移動がはじまり、キリスト教が国教(391年)となってまもない395年、ローマ帝国は東西に分裂した。西ローマ帝国は、476年に滅亡する。東ローマ帝国は、ビザンツ帝国として、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまで存続した。

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フォールム・ロマーヌム

 

ローマ法の古典期

帝政前期には、法学がもっとも隆盛をむかえた。したがって、この時期を「古典期」とよぶ。なかでも、いわゆる五賢帝時代(96-192年)が古典期盛期にあたり、その前を古典期前期(前27-後96年)、その後を古典期後期(193-284年)とよぶ。3世紀末、ディオークレーティアーヌス帝(位:284-305年)が帝位についたころより、ローマの政体は専主政へとうつり、経済的には衰退期にはいる。法学もまた、停滞しはじめる。

勅法の登場

古典期前期には、市民法・名誉法とならぶ第3の類型である皇帝法(勅法)が登場し、しだいに勅法の優位が確立する。いっぽうで、回答権の制度が生まれて、それまで法務官の背後にいた法学者が前面にあらわれてくる。回答権とは、「特定の学者に賦与された、回答を与えることのできる地位」のことである。回答権の名のもとに、法学者は法の創造的解釈者となっていく。

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ハドリアヌス帝(76ー138、在位117ー138)

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ハドリアヌスが愛した少年アンティノウス(111ー130)、ナイルで溺死した。

古典期前期

古典期前期にはまだ、法学者は私人として活動する伝統を保持していたが、古典期盛期になると、回答権の制度が完成して、法学者は国家権力と緊密な関係をむすぶようになる。ハドリアーヌス帝(位:117-138年)は、皇帝の諮問機関たる顧問会に法学者をくわえ、指導的な法学者は官吏として、法形成に関わりはじめる。

※ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』は、ハドリアヌス帝時代のローマに生きたフロ設計技師を主人公にしたコミックである。歴史的読み物として参考になる。

古典期後期

古典期後期のローマ法学は、しだいに創造性を失う。著名な法学者はすべて高官となるなど、法学者の官僚化が完成した。軍人皇帝時代(235-285年)にはいって、政治的安定が失われると、あまりにも政治と密着していた法学もまた、没落していくのである。

古典期後

古典期後(284-527年)には、法学はますます衰退していく。その理由として、①専主政体のもと、皇帝の権力がつよまるとともに、法学者は皇帝の道具となって、法学の魅力が失われたこと、②キリスト教が国教となって、有為な人材がそちらに流れはじめたこと、③ローマ帝国の分裂とそれにつづく西ローマ帝国の滅亡により、古典期の法を実際に利用できる地理的統一体がなくなったこと、があげられる。

⇒本文続きは、*【法制史】ユースティーニアーヌス法典(三成)

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400年頃のローマ帝国

ローマ法学者

パウルス『意見集』(1)(早稲田大学ローマ法研究会訳:2004年)

ユースティーニアーヌス法典

ユースティーニアーヌス法典

476年、ゲルマン民族の侵入をうけて西ローマ帝国が滅亡したのち、帝国の西半分ではローマ法の影響はますます衰えていった。ローマ法は、ゲルマン人の諸王国のローマ人法典として、部分的に生き残ったにすぎない。いっぽう、帝国の東半分、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、ローマ法文化がとだえることなく存続し、高度の法学教育をほどこす法学校も存在した。

東ローマ帝国の皇帝ユースティーニアーヌス1世(位:527-565)は、コンスタンティノープルを中心に、ヘレニズム的キリスト教的世界帝国を復興させようとした。ローマ法の編纂事業は、かれの帝国改革計画の一環をなすものであった。528年、皇帝は、法制長官トリボニアーヌス(c.545没)(左の図)に、古代の賢者の作品を集めるよう命じた。529年から6年間にわたって、11名の弁護士と4名の法学者からなる委員会により編纂作業が続けられた。こうしてできたユースティーニアーヌス法典は、3編からなる。第1編の「勅法彙纂」、第2篇の「学説彙纂」、第3篇の「法学提要」である。

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ユースティーニアーヌス大帝と随臣たち(サン・ヴィターレ聖堂:6世紀前半)

 

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皇后テオドラと侍女たち(同上)

勅法彙纂

第1編の「勅法彙纂」(Codex Instianus)は、ハドリアーヌス帝以来の勅法を分野別に年代順におさめ、12巻[第1巻=教会法・国法・手続法、第2-8巻=私法、第9巻=刑法、第10-12巻=行政法]からなる。

学説彙纂

ディゲスタ(パンデクテン)1581年

第2編の「学説彙纂」は、ラテン語でディゲスタ(Digesta)またはパンデクテン(Pandectae)とよばれ、諸編のなかでもっとも重要である。

学説彙纂は、50巻からなり、古典期のおよそ  名の法学者たちの書物からの抜粋をおさめる。とりわけ、パーピニアーヌス、パウルス、ウルピアーヌス、ガーイウス 、モデスティヌスの著作からの抜粋が、全体の3分の2をしめる。もとのテキストは 、2000巻300万行にも達し、編纂にあたって15万行にまで圧縮され、9142個の抜粋として収められた。そのさい、法文は、委員会の手により、時代の要請にあわせて改竄され、簡略にされた。いわゆるインテルポラーティオー(修正・加筆)である。50巻のうち、私法が第2-46巻をしめ、あとに手続法、行政法、刑法がつづく。

 

法学提要

ガイウス

第3編は、「法学提要」(Institutiones)である。これは、法学教育用の公認入門教科書ともいうべきもので、ガーイウスの法学提要を主なモデルにしている。そこには、いまの総則にあたるようなローマ法の一般的諸原理が叙述されている。4巻からなり、編別は、Ⅰ人の法(人法・家族法)、Ⅱ・Ⅲ物の法(財産法)、Ⅳ訴訟の法(訴訟法)である。のちのフランス民法典やオーストリア民法典は、この編別(インスティツティオーネス編別)にならった。

ガーイウスの「法学提要」は、1816年にニーブールによって発見された。

新勅法彙纂

ユースティーニアーヌスは、三つの編が施行されたのちに自らが発した勅令を第4編で公刊しようとしたが、果たせなかった。ユースティーニアーヌス帝とかれ以降の勅法は、私人によって、「新勅法彙纂」(Novellae)として集録される。以上の4編からなる法典は、12世紀以降、「コルプス・ユーリス(Corpus iuris=法の総体)」とよばれ、13世紀からは、「コルプス・ユーリス・キヴィーリス(Corpus iuris civilis=市民法大全・ローマ法大全)」とよばれるようになった。

その後のユースティーニアーヌス法典

ユースティーニアーヌス法典は、現代の法典のように、抽象的・一般的な法規をもたず、すぐれてカズイスティッシュ(個別事例的)である。また、法源とされたテキストが成立した年代も背景も異なるため、たがいに矛盾するものも少なくない。この法典の発効により、古い原典は意義を失ってほとんど消失した。

たいへんな苦労をともなって編纂されたにちがいないこの法典は、ビザンツ帝国では、ほとんど意味をもたなかった。ビザンツ帝国の通用語がギリシア語であったにもかかわらず、法典はラテン語で書かれており、なかなか実務にうけいれられなかったのである。892年、ユースティーニアーヌス法典にギリシア語で手をくわえた、「バシリカ法典(Basiliken=欽定諸巻)」 全60巻が制定される。これは、ギリシア世界でもっとも重要な法典である。バシリカ法典の制定により、ビザンツ帝国では、ユースティーニアーヌス法典そのものは忘れられていく。

いっぽう、帝国西部では、ローマ法はローマ人の慣習法として生き残る。しかし、それはユースティーニアーヌス法典をとおしてではなく、ごく貧弱な内容しかもたない種々の手引き書や書式集をとおしてであった。学説彙纂は、603年に最後の記事がみられたのち、11世紀後半に再発見されるまでのあいだ、イタリアではまったく忘れられていた。法学研究は、応用修辞学の一形態として存続したにすぎない。

次は⇒【法制史】中世ローマ法学ー註釈学派と註解学派

【関連項目】

ローマ法の成立と発展古典期ローマ法中世ローマ法学ローマ法の継受ビザンツ帝国とジェンダー

【史料】

①ユースティーニアーヌス法典の全文(ラテン語)は次を参照→http://droitromain.upmf-grenoble.fr/

②ほかに、『学説彙纂』のデジタル史料として、以下がある。

Corpus iuris civilis : Digesta Justiniani. Infortiatum. Mit der Glossa ordinaria des Accursius und mit Summaria des Hieronymus Clarius.(アックルシウス『標準註釈』1235年頃成立・デジタル史料は1495年版) →全文を見ることができる(デュッセルドルフ大学デジタル史料プロジェクト:目次検索あり・全文閲覧可能・全文のPDFもある) →http://digital.ub.uni-duesseldorf.de/urn/urn:nbn:de:hbz:061:1-30642