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メロヴィング王妃たちの攻防ークロティルダ(クローヴィス1世の王妃)
三成 美保(掲載:2014.06.08)
クロティルダ(Clotilda/Clotild)475-545年
●概略
クロティルダ(475-545年)は、ローマ・カトリック教会の聖人。フランク王国メロヴィング朝クローヴィス1世(位481-511年)の王妃である。カトリックへの改宗に影響を与えたことで知られるが、ルネ・ミュソ=グラールによれば、それ以上に、政治的役割が大きかった(ルネ・ミュソ=グラール『クローヴィス』白水社、2000年、61頁)。
クロティルダは、ブルグンド王国(443-534年)の王女であった。492年か493年に、彼女はクローヴィス1世と結婚した。叔父のブルグンド王グンドバットは、姪の結婚を阻止しようとしたが、クロティルダは馬にのって全速力でクローヴィスのもとに急ぎ、結婚が成立した(同上、65頁)。こののち、496年、夫クローヴィスは、洗礼を受けてカトリックに改宗する。
●ブルグンド族とブルグンド王国
ブ ルグンド族は、東ゲルマン語を話すゲルマン民族の1つであり、スカンジナビア半島に起源をもつとされる。その後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」にとも ない、400年頃、ライン川沿いに定着した。411年、支配拠点をヴォルムス、シュパイエル、シュトラースブルクにおき、王国が成立する(第1ブルグンド 王国という)。ブルグンド族は、本来はゲルマンの多神教を奉じていたが、400年頃には、カトリックからは「異端」とされるアリウス派に改宗していた。
437年、ブルグンド王国はフン族傭兵を利用したローマの将軍アエティウスによって滅ぼされ、国王グンダハールも殺された。フン族によるヴォルムスとブルグント王国の破壊の物語は、後に英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』に取り入れられることになる。
443 年、グンダハールの息子グンディオクが、ヴィエンヌを都として、ブルグンド王国を再興した(第2ブルグンド王国)。グンディオクは、「ガリアにおける最後 の最も強力なローマ人の一人」(ルネ・ミュソ=グラール2000、63-64頁)であるリキメール(パトリキウスであった)の姉妹と結婚した。
474 年頃、王国は、グンディオクの4人の息子(グンドバット、ゴディギゼル、キルペリク2世、グンドモル1世)によって分割相続された。キルペリクが相続した 王国は、リヨンやヴィエンヌを拠点としていた。ほぼこの頃(473年頃),キルペリクは、軍司令官とパトリキウスの官位を受け取っており、この官位は、蛮族たるブルグンド王にローマ貴族に匹敵する地位を与えるものであった。彼は、敬虔なカトリック教徒であるカレタナ(506年没か?)と結婚しており、ふた りの間にはクロティルダを含む子どもたちが生まれた。しかし、480年、グンドバット(アリウス派)は、キルペリクとその息子たちを殺害し、クロティルダ などの娘たちを ジュネーブに追放した。
●カトリックへの改宗ー夫クローヴィスの洗礼
●王国の分割相続がもたらす親族間戦争
クロティルダとクローヴィスの間には4人の子が生まれた。クロドメール、キルデベルト、クロタールという3人の息子と、娘クロティルダである。クロティルダと結婚する前に、クローヴィスには長男テウデリクがいた。511年、クローヴィスの死により、4人の息子たちが王国を分割相続した。
王国の分割相続は、フランク族の古くからの慣習であった。統一はむしろ例外であり、王国は、兄弟間、あるいは息子の間で分割された(息子は兄弟よりも優先される)。これは、王国が「私的」な財産と考えられていたからではない。むしろ、「王国の譲渡不可能性」という原理を維持しつつ、相続資格のある男子たちのあいだで持ち分を共有したのである(レジーヌ・ル・ジャン『メロヴィング朝』白水社、2009年、22-23頁)。女性は領地相続権はもったが、王位継承権からは排除された。
クローヴィスの統一国家が分割されたあと、息子や孫たちの血なまぐさい争いが続いた。クロティルダは、523年に息子たちを焚き付けて、グンドバットの息子であるブルグンド王ジギズムントと対決させ、ブルグント戦争を引き起こした。翌524年、クロドメールが死ぬと、その領地をめぐって対立が起きた。キルデベルトとクロタールから、クロドメールの幼い子どもたちについて「剃髪させて王国支配権を失わせるか、殺害するか」と問われ、クロティルダは、「支配権を失わせるよりは殺した方が良い」と答えたという。544年頃、彼女は死去し、聖使徒教会の亡夫の傍らに葬られた。
●【参考】フランク王国の王妃(リスト)