目次
【法制史】フランク時代の法と社会(三成美保)
⇒*【特集8】法制史(西洋) 三成美保(掲載:2014.3.27/)
5-10世紀の国家
375年、フン族の侵入によってゲルマン民族が移動しはじめたことにより、ゲルマン人は、古代文化やキリスト教と接触し、ヨーロッパ文化の基礎が形作られていく。ゲルマンの諸部族は、各地に部族国家を建設した。そのうちもっとも重要な国家が、フランク王国である。
フランク族は、諸族の集合体であったが、そのなかの一つサリー族を中心に国家形成がすすむ。クローヴィス(位481-511)以来、メロヴィング朝が支配権を獲得し、王家は率先してキリスト教に改宗した。このころより、ヨーロッパのキリスト教化が急速にすすんでいく。 世紀に、政治の実権は、宮宰であったカロリング家にうつる。751年、ピピン2世(位751-768)が、クーデターにより王位につく。800年、カール大帝 (位768-814)の皇帝戴冠とともに、フランク王国は、ヨーロッパにおける古代ローマ帝国の後継国として、指導権を確立するのである。
【女性】フランク王国の王妃たち
【『読み替える』より(三成:一部加筆修正)】
◆政治的役割を果たした女性たち――プレクトルーデとベルトラーデ
メロヴィング家の宮宰ピピン(714没)は、モーゼル流域の相続人プレクトルーデを妻に迎えた。彼から孫の後見人に任ぜられたプレクトルーデは、ピピンの庶子カール=マルテル(741没)を孫の最大の脅威とみなして彼の財産を没収した。その後、プレクトルーデを排除したカール=マルテルは王国統一に成功する。
彼の息子ピピン(位751-768)は、プレクトルーデの姉妹の孫娘ベルトラーデ(783没)と結婚し、多大な財産を得た。夫の死後、ベルトラーデはピピンの息子たちの相続争いを仲裁し、婚姻政策を進めるなど政治的役割を果たした。
◆悪女か、賢女か?――ユーディトの評価
ルートヴィヒ1世は、先妃亡き後、バイエルン大公ヴェルフェン家のユーディト(795/807-843)(右図)を二人目の王妃とした。教養豊かで美貌のユーディトは、夫に多大な影響力をもち、実家の権勢増大にも貢献した。すでに帝国整序令(817)で王国は先妃の3人の息子に分割相続されると定められていたが、ユーディトは息子シャルル(2世)(位843-877)にも相応の相続分を求めてさまざまな策を練った。そのふるまいは貴族層の反発を買い、彼女は追放・復帰を繰り返す。
ルートヴィヒ死後(840)の相続争いでユーディトはシャルルに援軍を送る。彼女の死後まもなくヴェルダン条約(843)によって、シャルルは西フランク王国を得た。
ユーディトについては、当時も今もまったく評価が分かれる。「諸悪の根源/尊敬すべき女性」「カロリング帝国没落のひきがねになった身勝手な悪女/息子や自分の地位を守るための当然の行動をした賢女」。このような評価のブレ自体に、歴史認識のジェンダー・バイアスを見ることができよう。
カールの死後、3人の息子たちに分割された王国は、2度の分割条約[ヴェルダン条約(834年)、メルセン条約(870年)]をへて、919年、東フランク王国の王位がザクセン太公ハインリヒ1世(位919-936)にうつったとき、ドイツとフランスに完全に分離した。フランスでは、カロリング家が断絶(987年)したのち、カペー朝(987-1328年)のもとで、しだいに中央集権的な国民国家づくりがすすめられていく。ドイツでは、962年、オットー1世(大帝)(位:国王936-973、皇帝962-973)の皇帝戴冠により、神聖ローマ帝国(962-1806)が建国された。
もともとブリトン人が住み、400年ころにローマ人が放棄したイングランドには、450年ころ、アングル人、サクソン人、ジュート人がはいり、ブリトン人を西部に追いやった。 600年ころ、アングロ=サクセン人はキリスト教に改宗し、アルフレッド大王(位871-899)以来、国家の基礎が固まる。 1066年、ノルマンディー公ウィリアム(位1066-1087)が上陸して王位につき、アングロ=サクソン貴族は所領を没収される。それとともに、国王を頂点とする封建制が整備されていく。
経済と社会
民族移動と征服により、ゲルマン社会もまた、大きく変化した。定住生活にはいったことによる土地への依存の増大、征服による大土地所有の成立、大経営の集約化による経済的不平等の進展、自由人の没落と平行した領主制の発達、キリスト教の影響が、この時代の変化を特徴づけている。このころのヨーロッパは、まったくの農業社会であり、自然経済社会であった。
大土地所有の成立、経済的不平等の進展、自由人の没落は、たがいに密接に関係している。大経営は自給自足体制をととのえ、危機におちいった多くの小経営農民は、大土地所有に併合されていく。かれらは、自己の所有地を大土地所有者に寄進し、それをあらためて、借地・小作地として借りもどした。これを、プレカーリア契約という。プレカーリア契約そのものは、自由身分を失わせるものではなかったが、社会的・経済的従属をまねいた。また、もはやジッペの保護をあてにできなくなった自由人のなかには、有力者の人的保護をもとめて、自己託身する者もあらわれた。被保護民は、軍役などの公的負担を免れるかわりに、保護者の裁判権に服して、種々の貢租を負担しなければならなかった。経済的従属と人格的従属があいまって、しだいに領主制(グルントヘルシャフト=荘園制)が発達していく。その過程で、自由人と非自由人との平準化がすすみ、自由を制限された農奴身分が成立する。
領主制の単位である古典荘園(ヴィリカチオン制)は、8世紀ころ成立した。それは、かならずしも全ヨーロッパに普及したわけではないが、12世紀ころまで優勢であり、その後、純粋荘園に移行する。古典荘園の特徴は、領主直営地を中心とする自給自足経営にある。土地領主である荘園領主は、下級裁判権を行使し、農奴(隷属農民)にたいする体僕支配権をも有していた。農奴は、夫役(労働地代)を提供するため土地に緊縛され、自由な結婚ができず、死亡時には死亡税を納めなければならなかったのである。
立法
前近代には、三つの立法様式が存在した。法の判告、協約、法命令である。法の判告とは、裁判集会や裁判所で判決人が具体的事件においておこなう法の宣言であり、協約とは、法共同体の仲間があつまって誓約ないし合意によって法をつくることである。法命令は、君主やお上(当局)が命じて定めたものである。これら三つは並存しうるが、おおまかに言って、フランク時代には法の判告、11-15世紀には協約、16-18世紀には法命令が立法の中心をなしていた。法判告の代表的なものは、部族法典、農村の判告集である。協約の典型は都市法であるが、ラント平和立法も皇帝と諸侯との協約であった。法命令といえるのは、近世のポリツァイ条令である。
フランク時代の主な法源は、①部族法典、②カピトゥラリア、③特権状である。
①部族法典としてもっとも古いものに属し、かつ、もっとも重要なものが、「サリカ法典」である。これは、フランク族のひとつサリー族の法典で、クローヴィス王の治下、508-511年ころの成立とされる。成文化は国王の命令によりはじまったとみられるが、サリカ法典の序文にあるように、部族法典は法判告の一種であった。8世紀には、バイエルン族やアレマンネン族も部族法典を作成した。部族法典の内容は、古い法慣習の記録であり、人民法ともよばれる。その多くは刑事訴訟法的な規定で、国制や民事法にかかわる規定はほとんどない。条文は、きわめてカズイスティッシュである。
②カピトゥラリアは、人民法にたいして、王令ともよばれる。フランク王国の諸王は、さしあたって解決しなければならない聖俗のことがらにつき、そのつど、勅令を発した。これらの勅令は、カロリング時代にカピトゥラリア とよばれた。勅令が、いくつかの条文をもつ複数の章に分かれていたためである。カピトゥラリアは、王国の集会で、参集した貴族の審議と承認のもとに口頭で布告されたものであり、国王が単独で定めたものではない。カロリング期の国王の立法活動は、範囲も効果も限られた、あまりまとまりのないものだったのである。
③特権状は、フランク時代後期と中世に重要な役割を果たした。最初は、国王により、のちには、領邦君主により発せられた。性格は、権利創出的で、個人、あるいは、教会や都市・村落共同体にたいして個別的権利を授与・保証したものである。
司法
500年ころフランク王国が成立してのち、王権は国王裁判所を組織しはじめる。王権は、裁判によるフェーデの和解を強制し、裁判外での和解を犯人隠匿罪として拒否した。また、キリスト教の影響で刑罰におけるゲルマンの宗教的要素が後退し、死刑が忌避されるようになる。
国王裁判所の創設により、王国には二種類の裁判所が併存し、役割を分担するようになる。国王裁判所は、上級裁判所として、大事件(死刑・身体刑相当の犯罪、不動産訴訟、自由身分にかんする訴訟)を管轄した。伝統的な自由人による裁判集会[人民裁判所]は存続したが、そこでは、6世紀以降、行政区長官(グラーフ)が裁判長をつとめるようになる。その結果、人民裁判所は、下級裁判所として国王裁判所に従属する機関となり、小事件を管轄した。
国家が刑罰権を独占するようになった結果、死刑や身体刑は、もはや私的復讐としては禁じられ、純国家的な応報手段となる。ただし、すべての刑罰は、身請けすることができた。人命金に相当する贖罪金を支払えば、刑罰を免れることができたのである。人命金は、身分に応じて定められていた。たとえば、自由フランク人を殺害した場合、加害者は、60頭の牛に相当する200シリングを人命金として支払わなければならない。そのうち、3分の1が平和金(罰金)として国庫にはいり、3分の2はフェーデ金(損害賠償金)として被害者の相続人や親族に帰属する。平和金の3分の1は、裁判官収入となる。フランク時代に実刑を科せられたのは、贖罪金を支払うことができない貧しい人びとだったのである。
初出:三成他『法制史入門』、大幅に加筆修正