【年表】清
1616ー1626(位)ヌルハチ(建州女真族の出身)が「カアン」位につき、「後金国」を建国。
1626ー1643(位)ホンタイジが国号を「大清」と改め、民族名を正式に「満州」とする。
○「満州」とは、彼らが信仰していた文殊菩薩(マンジュシュリ)に由来するとされる。[渡邉2012:p.117]
1643-1661(位)順治帝(1638-1661)
○生母荘妃(ホンタイジの側妃)がホンタイジの異母弟ドルゴンと協力して順治帝(当時5歳・ホンタイジの第9子)を擁立した。ドルゴンが摂政となる。
○宦官が政治に関与することを厳しく禁止。
1644 清が北京に入城。
1645 清が南京を占領、辮髪令を公布。
1650 順治帝が親政を開始。
1661-1722(位)康煕帝
1689 ロシアとネルチンスク条約を締結。
1718 清がチベットに侵攻し、モンゴルのジュンガル部を追放⇒1720 ダライ・ラマ7世を正統として、チベットを新王朝領内に組み込んだ⇒現代につづく「チベット問題」の起源 [渡邉2012:p.120]
1722ー1735(位)雍正帝
1727 ロシアとキャフタ条約を締結。
1735ー1795(位)乾隆帝
○人口の急増:1億2500万人(1724年:雍正帝時代)⇒2億1000万人(1762年:乾隆帝中期)⇒3億6700万人(1791年:乾隆帝末期)⇒4億人(1830年:道光帝時代)[渡邉2012:p.128]
○和珅(禁軍の衛兵)が乾隆帝の寵を得て、蓄財する。
1793 イギリス使節マカートニーが天津に来航。
1796-1820(位)嘉慶帝
1820-1850(位)道光帝
1840-1842 アヘン戦争
1842 南京条約締結
1850ー1861(位)かん豊帝
1851-1864 太平天国の乱
1852 のちの西太后(当時数え17歳)が、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定面接試験「選秀女」を受けて合格。
1853 のちの西太后が18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となる。
1856 のちの西太后が咸豊帝の長男(のちの同治帝)を出産。
1856-1860 アロー号事件⇒アロー戦争(第二次アヘン戦争)
1861-1875(位)同治帝(即位時5歳)=東太后と西太后が垂簾聴政を開始
1861-1895 洋務運動
1875ー1908(位)光緒帝(即位時3歳)=西太后(伯母)の垂簾聴政。
1889 光緒帝が親政を開始。
1894-1895 日清戦争
1897 孫文が初来日
○1万人にものぼる中国人留学生が日本に来た。[渡邉2012:p.138]
1898 戊戌の政変⇒西太后が光緒帝を監禁
1899-1900 義和団の乱
1901 北京議定書
1905 日本で「中国同盟会」が結成。
1908ー1912(位)宣統帝
1911 辛亥革命
1912 中華民国の成立、宣統帝(溥儀)退位(清の滅亡)
1932 日本が満州国を建国(溥儀が皇帝となる)
【参考文献】
渡邉義浩監修『中国王朝4000年史ーアジアに君臨した中華帝国の興亡』新人物往来社、2012年