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十字軍時代の女性たち
(執筆:富永智津子/掲載:2014.03.20)
十字軍に従軍した女性たち
ビザンツの歴史家ニケタス・コニアテスは、第二回十字軍では、隊列の中に彼の目から見ると恥ずべき作法で馬に跨がる女性たちがいたと記している。曰く、彼女たちの軍装はアマゾネス顔負けであった、と。同様の評価が、第三回十字軍(1189~90)について記したアンブローズの記述にも見られる。彼は十字軍がアッコを包囲した際、多くの女性兵士が太刀を振るってトルコ兵を攻撃し、勝利の印に打ち落とした首級を持ち帰った様子を記述している。そもそも第一回十字軍を組織したウルバヌス二世(1042~1099)には、女性を兵士に登用するという考えはなかったし、女性が戦場に赴く際には、男性の親族が同伴することを条件としていた。貴族階級の女性たちは、男性の親族が死亡したり殺されたりしない限り、彼らと行動をともにした。一方、身分の低い女性たちは、洗濯や水汲み、蚤取りや娼婦といった仕事で糊口をしのいだという。[出典:エリザベス・ハラム『十字軍大全』川成洋・大田直也・大田美智子訳、東洋書林、2006:227](文責:富永智津子)
銃後の十字軍兵士の妻たち
夫たちが十字軍遠征中、残された妻たちには受難が待ち受けていた。12世紀には、十字軍の誓約より結婚の誓約の方が重要だと考えられていたため、夫を戦場に送り出すことを止める権利が妻にはあった。しかし、十字軍兵士の募集が思うようにいかなくなった13世紀初頭、イノケンティウス三世(在位1198~1216)が、この妻の権利を破棄する。しかも、夫が帰還しなかった場合に生じる深刻な個人的、法的問題を解決するための援助が妻にはほとんど与えられなかった。妻には夫の生死を知る術がないということがよくあり、再婚には重婚の危険があった。13世紀には教会の学者たちが、妻の再婚までの期間を5年から100年までに設定した。十字軍兵士たちは女性に、貞淑な妻と受難の犠牲者というふたつの試練を課した。[出典:エリザベス・ハラム『十字軍大全』川成洋・大田直也・大田美智子訳、東洋書林、2006:227](文責 富永智津子)
「懺悔」という救済
性的陵辱を受けた女性の救済のひとつの方法として、キリスト教社会には「懺悔」という選択がある。司教に告白して「罪」の赦しを得るのである。十字軍時代にも、戦闘の最中にレイプされた修道女が懺悔によって「悔悛の苦しみを軽くした」という次のような記録が残っている。彼女は自分が受けた悲運を嘆き悲しみ、キリスト教徒の聴衆に訴えていた時、聴衆の中に高貴な人を見つけたのである。
「彼女は涙ながらに掠れた声で彼の名を呼んで話しかけ、自分の清めに援助の手を貸して欲しい、と訴えた。彼はこの修道女を見分け、彼女の不幸に憐れみを覚え、有力者に働きかけ、とうとう尊敬すべき司教、アデマール猊下から懺悔を勧められた。彼女はトルコ人との淫らな行いについて懺悔し、私通についての許しが授けられ、彼女の悔悛の苦しみを軽くしたのである。なぜなら、彼女は脅迫されて不本意ながら、卑怯で下劣な男たちから忌まわしい陵辱をこうむったのだから。・・・」[出典:エリザベス・ハラム『十字軍大全』川成洋・大田直也・大田美智子訳、東洋書林、2006:113](文責 富永智津子)
【女性】アンナ・コムネナ(1083~1153)
1061年から1118年までビザンツ帝国(東ローマ帝国)を統治した皇帝アレクシオス1世コムネノスの皇女。弟ヨハンネスを斥け、夫ニケフォロス・ブリュエンニオスを皇帝の養子にして後継者とするよう画策して失敗、隠遁を余儀なくされ、女子修道院での徒然の日々に、父の生涯を綴った『アレクシアス』を執筆した。アンナのこの歴史書は、ビザンツ社会が西方ヨーロッパよりも教育に力を注ぎ、とりわけ貴族階級は洗練された教養を身につけていたことを示している。例えば、『アレクシアス』の序章では、アリストテレスやプラトン、ホメロスやアイロキュロスが引用されており、幾何学や医薬、武器や兵器についての知識も身につけていた。また、彼女の著書は、ローマ・カトリック教徒やムスリムを軽蔑し、1096年の第一回十字軍の時にコンスタンティノープルに進駐した西方ヨーロッパ人の兵士や巡礼者を野蛮人とみなすなど、当時のビザンツ人社会の雰囲気を伝える貴重な歴史書でもある。[出典:エリザベス・ハラム『十字軍大全』川成洋・大田直也・大田美智子訳、東洋書林、2006:103](文責:富永智津子)