アルシノエ2世ープトレマイオス1世の娘・実弟プトレマイオス2世の王妃

掲載:2016-03-20 執筆:森谷公俊

アルシノエ2世

アルシノエ2世プトレマイオス1世の娘で、初期ヘレニズム時代(前4世紀末~前3世紀初頭)における王族女性の苦難と栄光を一身に体現した人物である。彼女が生きたのは、アレクサンドロス大王の死後、後継将軍たちが独自に王国を建設していった流動的な時代であった。マケドニアの王権は一夫多妻制をとりながら、明確な王位継承原則が存在せず、後継者指名はもっぱら王の意志に依存した。このため複数の妻から生まれた複数の息子の間で激烈な継承争いが起こり、敗れた側は殺されるか追放された。

2ー5.ヘレニズム時代の社会と女性(付:年表・地図)
【女性】アレクサンドロス大王とその母オリュンピアス

Lisimaco (c.d.), copia augustea (23 ac-14 dc) da orig. del II sec ac. 6141.JPG

リュシマコス

アルシノエもまた、少女時代には異母兄弟間の、結婚後は複数の妻同士の、緊張に満ちた後継者争いのただ中で生きねばならなかった。前300年に十代のアルシノエは約60歳のリュシマコスと結婚し、彼との間に3人の息子を得た。先妻の息子は後に殺害されたが、この死にアルシノエ自身も関与した可能性がある。前281年にリュシマコスは戦死して、彼の王国は瓦解。2度目の結婚相手は彼女の異母兄弟で、プトレマイオス王家の継承争いに敗れた人物だった。マケドニア王妃となったアルシノエだが、この男によって息子の2人を目の前で殺され、亡命を余儀なくされる。20年ぶりにエジプトに帰国した後、彼女は実の弟プトレマイオス2世と結婚し、ようやく安定した地位を得ることができた。

エジプトにおけるアルシノエの地位と権力、その表象は、アレクサンドロスの治世からクレオパトラ女王(7世)まで300年余のマケドニア・プトレマイオス朝の王族女性の歴史において、大きな転換点をなしている。

プトレマイオス2世とアルシノエ2世

プトレマイオス朝はマケドニアとエジプトの伝統を受け継ぎながら、王族女性の公的地位を制度化した。プトレマイオス2世は初めて実の姉妹と結婚し、王妃を含めた王朝祭祀を創始した。さらに国王夫妻を生前に神格化し、王と王妃の一対からなる王権のイメージを創り上げ、それによって王朝の正統性を確立した。アルシノエは祭祀や祭典の場に自ら姿を現わし、王国内外の政策にも関与し、アプロディテ女神と同一視され広く崇拝された。これらの特徴は彼女以降の王妃たちにも受け継がれ、クレオパトラ7世において頂点に達する。クレオパトラの存在がこの王朝の他の王妃たちを圧倒したため、アルシノエの姿はすっかり霞んでしまった。しかし最近アルシノエについて本格的な研究書が現われ、彼女の歴史的意義が再評価されつつある。

【女性】プトレマイオス朝エジプトと女王クレオパトラ(付:年表)

Elisabeth Donnelly Carney, Arsinoe of Egypt and Macedon; A Royal Life, Oxford, 2013
(森谷公俊)

(本記事は、2016年3月14日科研費研究会における森谷報告の1部である)