目次
史料の中の女性たちースワヒリ史再考の試み 富永智津子
はじめに
「スワヒリ史」というのは、8世紀ごろからアラビア半島の移民が伝えたイスラームを受け入れ、かつインド亜大陸からのインド人移民がもたらしたインド文化の影響を強く受けた文化圏の歴史である。地理的には、現在のソマリア南部からタンザニア南部に伸びる沿岸部を指す。「スワヒリ」とは、アラビア語で縁や岸辺を意味するサワーヒル(単数はサーヒル)が転訛した名詞で、その文化は、大陸に近接したインド洋に点在する島にとりわけ色濃く残っている。ラム島、パテ島、モンバサ島、ザンジバル島、キルワ島などが有名である。ここでは、さまざまな史料に登場する女性を紹介しながら、スワヒリ史の中の女性像を探ることにする。
(富永智津子「史料の中の女性たち―スワヒリ史再考の試み」富永智津子・永原陽子編『新しいアフリカ史像を求めてー女性・ジェンダー・フェミニズム』御茶ノ水書店2006より抜粋)
1.古文書の中の女性たち
まずは、古文書の東アフリカに関する記述を紐解いてみよう。
・最古の記録は『エリュトラ海周航の記』である。ここには、「がっしりした体躯の男性」に関する記述はあるが、女性は登場しない(Casson 1989:61)。
・2世紀半ばに書かれたプトレミーの『地理書』も同じく、東アフリカの女性への言及はない(Freeman-Grenville 1962:3-4).
・6世紀初頭に書かれたとされるコスマスの『セイロンへの商業航行』には、エチオピアのシバの女王は登場するが、東アフリカ沿岸部にまで記述は及んでいない(Freeman-Grenville 1962:5-7)。
・わずかに女性が顔を出すのは、9世紀に書かれた『9世紀に関する中国人の知識』の中の東アフリカに関する記述である(Tuan Ch'eng-Shih," Chinese Knowledge in the Ninth Century" in: Freeman-Grenville 1962:8)。さまざまな情報が盛り込まれたこの書は、東アフリカ情報を記した最古の中国の書物であるとされている。そこには「南西の海域にはポパリという土地があり、人びとは穀物ではなく肉を食するが、より頻繁には牛の静脈からの血をミルクと混ぜて、そのまま飲む。衣服は、羊の皮を腰に巻きつけただけの裸体で、女性たちは清潔かつ品行方正に振る舞っている」との記述に続き、住民が住民をかどわかしてよそ者に売り飛ばしていることや、その土地では象牙とリュウゼンコウが産出することが述べられている。牛の血とミルクを混ぜた食品は、現在でも東アフリカの遊牧民の間で一般的に食されており、衣服や象牙なども、明らかに東アフリカのものである。奴隷交易と思しき表現もある。この時期、まだ中国人が直接東アフリカを訪れていなかったことを考えると、おそらく情報源は交易目的で中国を訪れていたアラブ人だったのではないかと思われる。
・次に紹介するのは、10世紀中葉にまとめられた『インド綺談集』である(Freeman-Grenville 1962:9-13;家島2000)。作者はペルシア人のブズルク・ブン・シャフリヤール。その中に、東アフリカ沿岸部の港町ソファラの王が、オマーンの奴隷商人に誘拐され、バスラ、バグダード、メッカ、カイロなどの諸都市を放浪した後、ナイル川をさかのぼって、再び故郷に戻るまでの数奇な旅物語が含まれている。かなり長い物語の中で女性が登場するのは一か所のみである。それは、故郷に辿り着いた王が、新たな王が即位しているのではないかと探りを入れるため、老女に話しかける場面である。
・同じ頃、バグダード生まれのマスーディが『黄金の牧場』を著している(Freeman-Grenville 1962:14-17)。東アフリカの王国に関する記述部分から推察すると、象牙や食料についての記述はかなり詳しいが、女性についての言及はほとんどない。
・その後、何冊かの地理書が書かれたが、13世紀末にイタリアのヴェニスで生まれた旅行家マルコ・ポーロの『東方見聞録』まで、女性に関する記述は見られない。とはいえ、その見聞録に登場する女性は、巨大な鼻、巨大な口、巨大な乳房を持つ、ぞっとるすような容貌の人間に描かれており、マルコ・ポーロの空想的な驚異譚の域を出る情報は含まれていない(Freeman-Grenville 1962:25-26)。
・当時の記録として歴史的価値があるのは、イブン・バットゥータの『大旅行記』である。1331年に東アフリカ沿岸のキルワ島を自ら訪れ、見聞録を残しているからである。しかし、そこにも女性は全く登場しない。ただし、イエメンやヒジャーズから著名なウラマー(イスラームの導師)たちがキルワの王宮を訪れていたことや、イスラームが広く民衆に受容されていたことから、イスラーム的ジェンダー観の浸透を想定することができる。なお、「キルワの住民の多くは漆黒のザンジュ人たちで・・・顔に刺青をしている」(バットゥータ 1998:146)というくだりからは、アラブ人との混血はあまり進展していなかったことが伺えるだろう。
・以上のように、ギリシア人やアラブ人らが遺した記録からは、外部の人間の女性観、あるいは彼ら自身のジェンダー観は読み取れても、スワヒリ社会内部の女性やジェンダー関係を導き出すことは難しい。史料の文面から、女性の社会的地位や労働が立ち現れてくるようになるのは、16世紀以降のことになる。そのひとつはキルワやパテといったスワヒリ諸都市の年代記であり、もう一つはポルトガル人やイギリス人の残した記録である。
2.年代記の中の女性たち
・まず『キルワ年代記』を取り上げることにしよう。これは、9世紀に遡るアラビア語のキルワ王朝史である。口頭で伝承されていた歴史が書き起こされたのは1520年頃であるが、現存する唯一のマニュスクリプトは「1867」の年号が記されたもので、イギリス国立図書館に保存されている。10章から構成されているが、残存しているのはそのうちの7章までである。第一章では、ペルシアのシーラーズから7艘のダウ船でやってきた王と6人の王子が、スワヒリ沿岸部の島嶼部に辿り着き、そのうちのひとりがキルワの王になった経緯が語られている。「預言者ムハンマドのヒジュラから3世紀後」のことであったといいう。第二章では、キルワに侵攻した外部勢力との攻防戦が綴られている。女性が登場するのは、次の第三章で、第11代目の王の即位に関する次のような記述である。
「父王の死により、息子のアブー・アル=マワヒブ・アル=ハッサン・イブン・アル=スレイマン・アル=マトゥン・イブン・ハッサン・イブン・タルート・アル=マーダリが即位した。以下が、彼に関する短い物語である。父王のアル・マトゥンが没した時、14歳だった彼はメッカ巡礼への旅に出ていた。アデンに2年間滞在して精神科学を学び、卓越した学者になった彼は、その寛大さと勇気で名を馳せた。彼に関しては、多くの説話が残っている。それから、彼はメッカに巡礼に行った。16歳の時のことだった。わたしは、状況を知らないが、推測はできる・・・(空白)・・・[彼の母は]息子のアブー・アル=マワヒブをカーテンの後ろに隠した。そうすれば、弟の話を聞くことができるからである。母は息子のダウドを招き入れた。彼がやってくると、母は、兄がヒジャーズから帰ってきたら、おまえの立場はどうなるのでしょう、と尋ねた。すると弟は、兄が帰ってきても、わたしたちの間には何の対立もありません、この土地は兄の土地ですから、わたしは彼に従います、わたしは兄の代理にすぎません、と答えた。母はそれを確認し、宣誓させた。この確約をとりつけた母は、カーテンの後ろに行き、出ていらっしゃい、と兄に言った。ダウドは兄の前に進み出て、王室の慣例にならって挨拶をした。それから土地を兄に譲った。兄はそれに感謝し、弟に言った。支配者としてとどまりなさい、わたしは一旦船にもどり、明日またやってくることにしよう、と。翌日、彼は入城し、弟は喜んで彼に土地を譲り渡した。」(Freeman-Grenville 1962:38-39)
ここには、12世紀ころのキルワ王の王位継承問題に絡んで、亡き王の妃、つまり王位継承者の母親が重要な役割を演じている様子が描かれている。本来の王位継承者がメッカ巡礼や修行に出かけている間に父王が没し、継承者の弟が王位を継いでいたものと思われる。そこに突然、本来の継承者が帰国したのである。放置しておけば、争いが避けられない状況の中で、仲介役を果たしたのが母親である王妃だったというわけである。重要なことは、この一節に、当時のジェンダー関係がいみじくも表象されていることであろう。つまり、すでに王位を継いでいた弟が兄に王位を譲るくだりは「家」の継承者は長男であることの、兄の異国での修行は長男にはそれなりの「教育」が必要であったことの表象であり、「王妃」の役回りは、夫亡き後の家督の継承や家族の和に貢献すべき「母」を表象している。
『キルワ年代記』には、もう一か所、女性が登場する。それは、「(王の)母マナはスルタン・スレイマン・イブン・スルタン・ムハンマド・アル=マズルームの娘であり、高貴な、華のある女性であった」という15世紀末のキルワ王の母親についての短い記述である(Freeman-Grenville 1962:47)。なぜ、この王母だけが素性と名前入りで登場するのか。このことから、王の母たるもの必ずしも「高貴な、華のある」女性ではなかったという事実が透けて見えてくる。つまり、王母の多くは、コーランにいう「お前がちの右手が所有しているもの(女奴隷をさす)」(『コーラン』1992:108)ではなかったか。そうであったとすれば、「王の母」という同じ社会的地位にあっても、人々からうける崇敬の念は、出自によって格差があったということになろう。そこからは、女性間の階層分化が進行する中で、子孫を残すためにだけ存在を許された無名の女性たちの姿が浮かんでくる。
・次に『パテ年代記』を検証してみよう。この年代記は、パテ島を拠点として1204年に始まり、1885年に終焉したナバハニ王朝の口頭伝承史である。アラビア文字を使用してスワヒリ語で書かれており、スワヒリ社会の伝承史としては、他に類をみないほど詳しいことで知られている。残念ながら、その原文は1890年のイギリス軍によるウィツ(現ケニアの沿岸部に近い内陸部にあったナバハニ一族最後の砦)砲撃の際に焼失している。その後、ナバハニ一族の古老ブワナ・キティニの記憶にもとづいて、いくつかの版が編まれた。その中では、C.H.シュティガンドが1913年に出版した英語版が、もっとも詳しいとされている(詳しいことと「正確」であることとは異なることに留意!)(Freeman-Grenville 1962:241-296;Tolmacheva 1993)。
「ウマイヤ朝のカリフが派遣したシリア人によって7世紀に創設された」という出だしで始まるこの『パテ年代記』は、その後、1204~5年に、オマーンでの王権を奪われたナバナニ一族が住み着いたあたりから現実味を帯びてくる。以後、女性はいくつかの重要な役割を演じている。その主なものを挙げてみよう。
第一に挙げられるのは、結婚を通して、アラビア半島からの移民男性に支配の正統性を与えるという現地の女性の役割である。たとえば、この年代記には、ナバナニ一族の族長がパテ島の首長の娘と結婚して支配権を移譲され、その女性との間に生まれた子どもが、初代のパテ王となった、という記述がある(Tolmachieva 1993:39)。これは、民族間の婚姻が政治権力への回路を開く契機となった典型的な事例といえる。近年、こうした王族の年代記は、支配の正統性を確立するためにスワヒリ社会の支配者によって創作された神話だとする説が浮上してきている(Allenn 1993:10; Kusimba 1999:174)。しかし、オマーンからの移民の存在自体が否定されているわけではない。むしろ、こうした「神話」は、移民男性にとって、現地の女性との結婚がスワヒリ社会に足場を築くための戦略のひとつだったことを示唆しているのではないか。移民男性は、このようにして東アフリカ沿岸部での定住権と土地取得権を入手していったと思われる。その結果、母系的な伝統を保持していた東アフリカ沿岸部の社会は、次第にアラブ社会の父系的価値観を受け入れてゆくことになる。しかし、重要なことは、それによって母系的伝統が完全に淘汰されたわけではないということである。ここでは、この点を明らかにすることが、スワヒリ社会のジェンダー関係の特徴を抽出するためにきわめて重要な作業となることを指摘するにとどめておきたい。
第二に登場するのは、支配権の継承に絡んだ抗争において仲介を務める女性である。これは、先に引用した『キルワ年代記』にも出てくるが、『パテ年代記」でも、2代目の王位継承をめぐる兄弟間の抗争に、王妃であるパテ女性が策を講じ、調停に成功している(Tolmacheva 1993:40-41)。ここでも、政治的な場面での女性の「権力」が、次世代の王となる「息子」を産んだ「性」との関連で生じていることが明らかである。
第三は、かつて王だった父親アブバカルに反抗する娘(名前は記されていない)の事例である。その背景には、複雑な政治的駆け引きが関係している。簡潔にまとめると次のようになる。アブバカルは旅が好きだった。いつものように旅に出ている間に、パテ島の人びとは謀反を起こし、甥のムハンマドを王位に就けてしまった。アブバカルはラム島からポルトガルの支援を受けて王位奪還を図るも失敗。一方、パテの王に就いたムハンマドは、息子のムワナ・ムクウをアブバカルの娘と結婚させた。しかし、アブバカルを支持するパテ島民およびラム島民とポルトガル人が共謀してムハンマドを幽閉するといった事件が相次ぎ、ふたりが一緒に暮らし始めるには障害が多すぎた。ムハンマドの幽閉後、ようやく、アブバカルはムワナ・ムクウが娘と一緒に暮らすことを許可する。両者は父王ムハンマドが没するまで仲良く暮らした。ところがその後、王位をめぐるパテ島民の陰謀によって、ムワナ・ムクウは国外に追放されることになる。王位に返り咲いたアブバカルは娘に、夫のムワナ・ムクウはゴアに行っており、半年ほどで戻ると言いくるめる。ところが、3年たっても夫は戻らず、娘は父の嘘に気づいて父に対する怒りを抱くようになる。その怒りは、その間に生まれた息子の割礼式を誰が執り行うかを巡って具体的な犯行となって表出した。父王アブバカルが執り行う割礼を娘は拒否したのである。娘は割礼に使用する角笛を密かに腕利き職人に作らせ、父王の先手を打ち、息子の割礼式を自分でとり行うことに成功した。その後、パテ島の住民の陰謀によりアブバカルは弟もとろも殺害されることになる。
この物語は、われわれにどのようなジェンダーのメッセージを送っているのだろうか。ひとつは、娘の結婚の後見人としての父親の役割の重要性である。イスラームにおいては、娘の結婚には父親が、父親がいない時には兄弟が後見人となるべし、との規定がある。イスラームのスンナ派四学派によって、その規定の運用には振幅があるが、スワヒリ社会で優勢なシャーフィイー学派は、この点に関し、きわめて厳格である。この物語では、その厳格さが、政争の仕掛けとして登場している点にジェンダーと政治の関連を読み取ることができる。もうひとつは、父権に反抗する娘というメッセージである。それが息子の割礼という儀礼をめぐって語られていることは、娘の犯行が、夫を自分から引き離した父親への怒りが「母」としてのアイデンティティと共鳴して顕になっていることを示している。しかもそのアイデンティティは、父親が殺されても揺らぐことはなかったのである。
第四に「地母神」としての女性の役割を挙げておこう。年代記は次のように記している。パテが近隣の首長国と戦争をした時、捕虜にされそうになった女性が地面に向かって呼びかけると地面が割れ、彼女を飲み込んだ。地面に残されたのは、彼女の衣の裾だけだった。この奇跡を知ったパテ王は、その場所に寺院を建設し、彼女を称えると同時に、国の繁栄を祈願した、と(Tolmacheva 1993:42-43)。ここからは、敵から女性を守ることのジェンダー的な意味を嗅ぎ分けることができるだろう。男性が女性を敵から守ることができない場合には、死を賭しても敵に辱めをうけるべきではないという女性のセクシュアリティへの意味付けが、死んだ女性を祀ることによって強化されている。
第五としては、奴隷としての役割を挙げることができる。戦闘の際、奴隷として略奪されるのはもっぱら女性であり、男性は殺されているからである。(Tolmacheva 1993:42)。このことから、13世紀のパテが、奴隷の労働力に依存した社会であったことがわかる。そして、この女奴隷の労働を搾取していたのは、自由人の女性であったことも、この年代記から知ることができる(Tolmacheva 1993:44)。こうした奴隷層の女性たちと、移民男性や上層の男性との妻妾関係については、この年代記からは知ることはできない。ただ、職人業を身につけて、奴隷から自由身分に成り上がった男性の美人妻を、王が見初めて奪ったとの話が登場する。男性間の権力関係が、女性をめぐって露呈した事例として捉えることができる。
最後に、支配者としての女性の役割に触れておくことにする。『パテ年代記』に登場するのは、ムワナ・イナリという小さな首長国の女性支配者と、ムワナ・ハディジャという名のパテの女王である。前者は、パテ軍に屈するのは忍びないと、海に身を投げて自ら命を断ったとされている(Tolmacheva 1993:53-54)。後者は、1650年頃に即位したアブバクル王の血筋の女性で、王位についたのは1763~4年頃。彼女の治世は、モンバサを拠点としたオマーンからの移民マズルイ一族が支持する王位継承者との戦闘が続き、国土は荒廃しつくされた(Tolmacheva 1993:76-77)。彼女がどのような経緯で支配権を掌握したかについては言及されていない。
以上、『パテ年代記』の中の女性に関する記述をいくつか紹介したが、この他にも母として、娘として、妻として、叔母として、さまざまな役割を担った女性が登場する。その中で、興味ふかい事例を最後にひとつ紹介しておきたい。それは、王位を継承した男性の母親の出自が「卑しい」として、パテ島の住民がその正統性を拒否しようとしたという18世紀末の話である(Tolmacheva 1993:77-78)。その母親は漁師の娘であった。結局、彼はパテ住民が正統だと認知した出自の王位継承者(従兄弟)との戦闘に破れ、壮絶な最期を遂げている。この話は、母親がどのような階層の出自であるかが、男性の社会的地位にとっても重要な意味を持ったことを示唆しており、母系社会の名残りをここに嗅ぎ取ることができる。
パテ社会へのアラビア半島からの移民の到来は、パテ社会の階層とエスニシティに影響を与えた。その中で、女性は、移民の定住化とスワヒリ化にきわめて重要な役割を果たしていたということができよう。
3.西欧の文献・史料の中の女性たち
まず、ガスパル・コレア『インディア記』を取り上げよう。この史料は、1497年から1550年までのインド洋史に関する基本文献のひとつである。著者はインド勤務のポルトガル人。1561年頃に執筆され、公刊されたのは1859年。内容の大部分は関係者の証言に基いているが、やや信ぴょう性に欠けるとの指摘もある(生田 1992:40-41)。本史料に含まれている「ヴァスコ・ダ・ガマの第二回目の航海(1502年)」の中に、キルワの女性に関する実に興味深い次のような記述がある。かなり長文なので要約する。
―キルワの都市の女性は、当地の慣例により厳しく統制され、かつ不当に扱われている。そのため、多くの女性が逃亡し、ポルトガルの船に避難し、キリスト教徒になりたいと言っている。しかし、主艦長は、女性たちをキリスト教徒に改宗させてポルトガルまで運ぶのは危険が大きすぎるとして、処女と思われる少女以外を陸地に戻す決断をした。その数、約200人。主艦長の命を受けたポルトガル人が、まずキルワ王に面会し、女性たちの受け入れを要請、もし、扱いに不当な点があれば、キルワとは断交すると通告した。女性たちは、連れ戻されるより、海に身を投げて死んだ方がましだとして、実際に身を投げる女性もいたが、結局は助けだされた。女性たちを連れ戻す交渉を始める前に、すでに妻を盗まれたとの苦情が王のもとに殺到していたため、多くの夫が女性を引き取りに来たが、40人ほどの女性が残った。夫が受けとりを拒否したからである。その理由は、彼女たちがすでにキリスト教の洗礼を受けたというものだった。彼女たちは、その後、インドに連れて行かれた。その中の何人かは、その後、ポルトガルに渡った最初の女性となった(Freeman-Grenville 1962:71-73)―
支配層の女性ではない一般の女性が、このような形で16世紀の文書に登場するのはきわめて珍しい。しかも、かなり詳しく事件の経緯が述べられており、そこからさまざまな論点を引き出すことができる。まず、女性には既婚者と未婚者が含まれている。既婚者は「夫」から逃げてきた女性たちであるとされている。一方、未婚者がなぜ船に逃れてきたのかの説明はない。しかも、「処女」ということを理由に、王に相談することなく、インドに運ぶ決定がなされている。結局、「夫」が受け取りを拒否した既婚女性が40人ほど、それに同行することになった。それにしても、妻を盗まれたとの苦情が殺到したということは、一体何を意味しているのだろうか。本当に「妻」なのか。また、なぜ、彼女たちは、キリスト教への改宗の望んだのか。その背景に、どのようなポルトガル人の「宣教」活動があったのか。疑問は膨らむばかりである。
ここからは仮説であるが、これらの謎を解く鍵がひとつある。奴隷貿易である。実際、ポルトガルは東アフリカでの奴隷貿易に従事していたし、キルワ社会も奴隷の労働力に支えられた社会だったからである。それでは、これらの女性はどのようにしてポルトガ船に供給されたのか。その背景には、奴隷貿易を仲介する現地人がいたにちがいない。ポルトガル人が直接奴隷狩りをしていたとは考えられないからである。仲介業者は、おそらくそれほど現地の状況につうじていないアラブ人だった可能性がある。そこで、ポルトガル人から「処女」の供給を依頼され、手当たり次第に女性を誘拐したのではないだろうか。その中には現地の人びとが所有していた女奴隷もいたにちがいない。そう考えると、女性が『夫」のもとに帰りたくないとの意思表示をしたとしても不思議はない。そして当然、所有主であるキルワの男性は、「財産」を取り戻そうとキルワ王に訴えるはずだ。このような分析から見えてくることは、女奴隷をめぐるキルワの男性とポルトガル人男性との競合関係である。しかも、「処女」という文言からは、女奴隷のみならず、広く女性に賦与されていた価値観が透けて見えてくる。
ジェンダーの視点から重要なことは、船上の女性たちが、「夫」のもとに帰りたくないとの意思表示をした点であろう。それが事実であったとすれば、そこには、女奴隷が自分の運命を自分で選択しようとした強い意志が感じられる。彼女たちは、決して物言わぬ人形ではなかったのだ。
参考文献
Allen, James de Vere 1993 Swahili Origins: Swahili Culture and Shungwaya Phenomenon, London.
Freeman-Grenville, G.S.P., 1962[1975] The East African Coast: Select Documents from the first to the earlier Nineteenth Century, London.
生田滋 1992 『ヴァスコ・ダ・ガマ―東洋の扉を開く』(大航海者の世界Ⅱ)原書房
Kusimba, Chapurukha M., 1999 The Rise and Fall of Swahili States, Walnut Creek, CA: AltaMira Press
Tolmacheva, Marina, 1993 The Pate Chronicle, East Lansing: Michigan State University Press.