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【モンゴル史】マルコ・ポーロがイランまでお供した女性コケジン・カトン
掲載:2015.10.12 執筆:宇野伸浩
1.『東方見聞録』に登場するコケジン・カトン
マルコ・ポーロ(1254-1324)の『東方見聞録』(1296頃)には、あるモンゴル人の女性にまつわるエピソードが登場する。マルコ・ポーロと彼の父ニコロ、彼の叔父マッフェオが、モンゴルに支配されていた中国(元朝)に長年滞在した後、ヴェネツィアに帰国したいとフビライ・カアン(1215-1294:第5代皇帝1260-1294)に願い出たとき、クビライは彼らに一つの重要な任務を託した。それは、途中でイランのモンゴル政権イル・カン国(1256/58-1335/53)に立ち寄り、コケジンという女性を、イル・カン国の第4代アルグン・カン(1258?-1291:位1284-1291)のもとに送り届けるという任務であった。ことの始まりは、アルグン・カンの后ブルガン・カトンが亡くなったとき、自分と同じ家系の娘に自分の地位を継がせたいという遺言を残したことにあった。アルグン・カンは、さっそく3人の使者を元朝のフビライ・カンのもとに派遣し、ブルガン・カトンと同じ家系の娘を求めた。そこで、フビライが選んだのが、「コカチン」という名の非常に美しい17歳の娘だったと『東方見聞録』に書かれている。
この『東方見聞録』のエピソードに一致する内容が、イル・カン国で編纂されたペルシア語の歴史書『集史』の中にも記録されていたため、早くから欧米の学者が注目するところとなった。この「コカチン」は『集史』では「コケジン・カトン」という名で記録されており、実在の人物であることが確認された。では、なぜ遠い元朝からわざわざ呼び寄せる必要があったのだろうか、イル・カン国の宮廷事情に触れながら、もう少し詳しく見てみよう。
2.アルグン・カンのカトン(皇后)たち
モンゴル語で皇后のことを「カトン」という。『集史』によると、ブルガン・カトンは、アルグン・カンのカトンの一人であり、モンゴルのバヤウト族の出身であった。モンゴル帝国のカンには、普通4人のカトンがいて、彼女達には第1カトンから第4カトンまでの序列があった。このカトンのほかに、もう一段身分の低い多くの側室がいた。カトン達には、一人ひとりに天幕の宮廷(オルド)が与えられ、彼女達は側室たちとともに各自の宮廷で暮らしていたのである。
さて、アルグン・カンには、クトルグ・カトン、ウルク・カトン、ブルガン・カトン、トダイ・カトンという4人のカトンがいた。このうち、ブルガン・カトンは、もともとアルグンの父アバガ・カンのカトンであり、トダイ・カトンはアバガ・カンの側室であった。これは、父親の妻を自分の妻にしたことになるから、一見奇妙に思えるかもしれない。しかし、当時のモンゴルの習慣では、父親が死去した時、父親の妻のうち自分の生母でない者を娶ることができたのである。このような結婚を人類学では「レヴィレート婚」という。アルグンの生母は、このふたりのどちらでもなく、カイミシ・エゲチというアバガ・カンの別の側室であったので、アルグンはブルガン・カトンとトダイ・カトンを娶ることができたのである。
1290年3月に、ブルガン・カトンが亡くなったとき、彼女は自分と同じ家系の娘に自分の地位を継がせてほしいという遺言を残した。当時のモンゴルの習慣として、亡くなったカトンの近親の娘がその地位を継ぐことが普通であった。例えば、アルグン・カンのカトンのなかで、オイラト族出身のクトルグ・カトンが亡くなったとき、アルグンは、彼女の姪のオルジタイを娶り、その地位を継がせたのである。これは、人類学でいう「ソロレート婚」の一種であり、妹や姪などの近親者が選ばれることが多い。ブルカン・カトンの場合、イル・カン国には、彼女の近親者にあたる適当な者がいなかったらしく、元朝から呼び寄せることになったのである。
モンゴル帝国のカトンは、自分自身の宮廷と遊牧地を持つとともに、多くの財産を所有していた。そのため、その地位を誰が継ぐかは大問題であった。とくに、ブルガン・カトンは、アバガ・カンが非常に寵愛したカトンであり、アバガが宝庫へ行くたびにこっそり宝石を持ち出し、彼女に与えていたため、莫大な財産を所有していたという。では、このブルガン・カトンの出身部族、バヤウト族とはどのような部族であろうか。
3.バヤウト族出身のカトン
モンゴル帝国時代に、チンギス・カン家の姻族として有名であったのは、チンギス・カンの第1夫人として有名なボルテ・フジンの出身部族であるコンギラト族であり、それに次いで西北モンゴルに住んでいたオイラト族も姻族として有名であった。バヤウト族は、姻族としてはコンギラト族やオイラト族より一段低いランクにあった。
しかし、バヤウト族の女性は、モンゴル帝国の歴史の中で、かなり重要な場面に登場する。まず、元朝の世祖クビライ・カアンの第4カトンがバヤウト族出身であった。また、フビライの孫、成宗テムル・カアンの第1カトンがやはりバヤウト族の出身であった。彼女は、病弱なテムル・カンに代わって政治を行ない、テムルの死後、次代皇帝の選定をめぐって激しい争いを演じたのである。
一方、イル・カン国では、すでに述べたように、ブルガン・カトンが、第2代アバガ・カン、第4代アルグン・カンのカトンとなり、さらに最盛期の君主であった第7代ガザン・カンの育て親でもあった。このように、ブルガン・カトンが3代にわたってイル・カン国に大きな影響を与えることになったきっかけは、第2代アバガ・カンが彼女を特別に寵愛したことにあった。アバガ・カンには、彼女のほかに、オイラト族のカトン、コンギラト族のカトンもおり、また、フレグ・カンのキリスト教徒のカトンとして有名なケレイト族のドクズ・カトンの姪にあたるトクタニ・カトン、そしてビザンツ皇帝の娘のテスピネ・カトンなど名だたる名門出身のカトンがいたのであるが、このブルガン・カトンを最も寵愛したのである。
4.コケジン・カトンの運命
さて、ブルガン・カトンが亡くなったのは、1286年4月のことである。アルグン・カンが派遣した使者は、無事元朝のクビライ・カンのもとに到着し、最初に書いたように、クビライはコケジンをカトン候補に選んだ。しかし、ことは予定通りには運ばなかったのである。まず、アルグン・カンは、使者の帰国を待ち切れず、1290年3月に、バヤウト族ではなくコンギラト族出身の女性を娶り、同じブルガン・カトンという名前にして、亡くなったブルガン・カトンの宮廷と遊牧地をこの二人目のブルガン・カトンに与えてしまったのである。ただ、その莫大な財産は、亡くなったブルガン・カトンが育てたアルグンの息子ガザンに与えようと考えて一時的に封印されたという。
コケジンがイル・カン国に到着するのが遅れたのには理由があった。当時、中央アジアでは、オゴデイ・カアンの子孫のカイドゥがクビライ・カアンに対して反乱を起こし戦争が激化していた。1288年の後半頃に陸路からイル・カン国にむかったコケジンの一行は、8か月も旅した後、やむなく元朝に引き返したのである。そして、今度は海路からイル・カン国に向かうことになり、このとき、クビライ・カアンが、海路で帰国しようとしていたマルコ・ポーロ一家にコケジンを託し、1290年末に、泉州から出帆したのであった。
マルコ・ポーロとコケジンの一行は、1293年にペルシア湾のホルムズに到着した。しかし、使者を派遣した肝心のアルグン・カンは、1291年にすでに亡くなっていて、弟のガイハトゥがイル・カンになっていた。コケジンの存在は完全に宙に浮いてしまったのである。結局、コケジンの一行は、1293年の夏に、アルグン・カンの息子ガザンのもとへ至り、当時23歳の若者であったガザンがコケジンを娶った。こうして、コケジンはやっとカトンになることができたのである。ブルガン・カトンの宮廷は、すでに二人目のブルガン・カトンのものになっていたが、アバガ・カンのカトンであったトクタニ・カトンが、ちょうど前年亡くなったところであったため、コケジンはその宮廷を受け継ぐことができた。
このコケジン・カトンは、わずか3年後の1296年6月、ガザンが即位した年に亡くなってしまった。1288年頃に17歳であったとすると、25歳の若さである。17歳でカトン候補に選ばれ、中央アジアとインド洋を旅し、ヴェネツィア人一家とともにイランにたどりつき、やっとイル・カン国の王子の后となったにもかかわらず、3年後に若くしてなくなったコケジンは、モンゴル人がユーラシア大陸を疾駆した時代であったからこそ、数奇な運命をたどった人物の一人であった。