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宮廷文化とヴェルサイユ宮殿
掲載:2016-11-13 執筆:三成美保
【高校世界史教科書から】「ルイ14世の時代 フランスでは、1661年の宰相マザランの死後、国王ルイ14世が親政を開始し、強大な権力をふるって『太陽王』を呼ばれた。彼はコルベールを財務総監に任じて重商主義政策を展開する一方、大規模な宮殿をヴェルサイユに建造し、その宮廷には貴族や芸術家が集められた。宮廷生活は細部に至るまで儀式化され、それが国王の権威を高めた。(以下略)」(『詳説世界史B』山川出版社、2014年、227ページ) 「宮廷文化 17~18世紀のヨーロッパ文化、とくに芸術は、君主の宮廷生活との結びつきを深め、彼らの権威を誇示するのに役立てられた。それをもっともよく示すものは、17世紀のスペインやフランスで完成されたバロック美術で、ヴェルサイユ宮殿が代表的な例である・(以下略)」(『詳説世界史B』山川出版社、2014年、238ページ) 「フランス絶対王政の追求 マザランの死後、ルイ14世の親政がはじまった。王は王権神授説を唱え、『朕は国家なり』といったといわれるように、君主権の絶対・万能を主張した。そのため絶対王政(絶対主義)ともいわれるが、国王が絶対的な権力をふるったわけではなかった。ルイ14世はまた官僚制と常備軍を整え、財務長官にコルベールを登用して徹底した重商主義政策を行い、オランダの商業覇権に挑戦した。『太陽王』ともよばれたルイ14世は、力を誇示するために豪華なヴェルサイユ宮殿をつくり、はなやかな宮廷生活を営んだ。各国はこれを模倣し、フランス語は外交用語として用いられ、フランスはヨーロッパの宮廷文化の中心となった。(以下略)」(『世界史B』東京書籍、2007年、238-239ページ) 「宮廷生活と芸術 絶対王政において宮廷は、貴族や外国の使節に力を誇示する場でもあり、王宮の建築には莫大な費用が投じられた。ルイ14世が建造したヴェルサイユ宮殿がその代表で、この豪壮華麗なバロック様式の宮殿には、建築、造園、家具、調度にいたる当時の最高技術が結集された。(以下略)」(『世界史B』東京書籍、2007年、247ページ) ※赤字は本文小見出し、青字は本文ゴシック体。 |
「宮廷」(定義)
「宮廷」=「君主や大諸侯とそれを取り巻く廷臣たちが織りなす独特の稠密な人間社会をいい、その人びとのあいだに営まれ、他の階層の人びととは異なる特色をもつ美的かつ知的な文化をさす」(二宮1999:p.2)
ヨーロッパにおける宮廷文化
(1)王侯貴族が「武」の担い手で、聖職者が「文」の担い手である段階の宮廷
○カロリング宮廷(751-987)「カロリング・ルネサンス」
○12世紀:宮廷風騎士道文化
(2)「文」の力を有する君主と貴族たちによって形成された宮廷
○14-15世紀:ブルゴーニュ公国の宮廷
○ルネサンス:イタリア都市国家の宮廷
ウルビーノ公国宮廷
(3)フランスの宮廷
○移動する宮廷
○ヴェルサイユ宮殿の宮廷文化(パリから西南20キロ)
ルイ13世が森のなかに狩猟用小屋を建てたが、それをルイ14世が宮殿に建て替えた。1661年、ルイ14世が親政を始めたときに、建築に着手し、その後20年かけて宮殿が建てられた。1682年、ルイ14世はヴェルサイユに移り住む。
このヴェルサイユ宮殿には、国王・王妃・王族・寵姫・廷臣たち総勢3000人が部屋を与えられて居住した(二宮1999:p.54)。ヨーロッパの貴族は、そもそも「武門」であり、領地経営から収入を得ていた。しかし、16世紀の価格革命により、貴族たちの収入は激減する。貴族は家門の名誉を重んじて生活レベルを下げることができなかったし、身分の低い裕福な市民と結婚することも恥であったため、宮廷に出仕して、役職収入か年金収入を得ようとした。貴族たちは領地を空けて宮廷に出向き、国王や王族、寵姫とのコネクションを得ようと必死になった。このため、人間観察術(人間関係の機微を描いた「回想録」が多く書かれる)や礼儀作法が極度に発達した(二宮1999:pp.54-56)。
17世紀のフランス(人口約2000万人)では、伝統的な武門貴族(帯剣貴族)と並んで、新興貴族(法服貴族)が登場した。アンリ4世が、ポーレット法により売官制を公認したからである。平民(豊かな市民層)が司法や行政の上級官職(たとえば、高等法院の司法職)を購入し、貴族に叙せられたのが法服貴族である。その結果、官僚制の基幹部分(司法・行政)からは武門貴族はほとんど排除されてしまった(参考:二宮1999:p.57)。
【解説】フランスの貴族アンシャン・レジーム下のフランスでは、貴族身分として、伝統的な帯剣貴族(noblesse d'épée)と新興の法服貴族(Noblesse de robe)が併存した。帯剣貴族は軍務を担い、法服貴族は文官として司法・行政を担った。1604年、アンリ4世は、ポーレット法を制定して売官制を公認した。官職の譲渡や売買はすでに中世末から存在したが、ポーレット法により、毎年、一定額の税金(官職購入価格の1/60)を支払えば、官職保持が可能となり、相続も可能となったのである。これが法服貴族台頭のきっかけとなったが、フランス革命期の1790年に高等法院が廃止されると、法服貴族も消滅した。売官制の結果、国庫収入は安定し、1620~1634年には国庫年収の平均37%(ピーク時は52%)がポーレット税であった(https://de.wikipedia.org/wiki/Noblesse_de_robe)。 法服貴族の筆頭は、フランス全土に13ある高等法院(パルルマン)の司法官であった。高等法院の司法官は、全部で1100名にのぼった。もっとも古く、事実上の最高裁判所であるパリ高等法院は、1250年頃の設立である。17世紀の高等法院官職は10万リーブルが相場であった。法服貴族は大学で学ぶことが普通であったが、近世の大学では学位売買も横行していた(「大学の貴族化」)。 ◆ルイ14世の遺言とパリ高等法院(1715年)1715年、ルイ14世は死去した。王位継承者は5歳のルイ15世であった。本来であれば、ルイ14世の甥であるオルレアン公が摂政となるはずであったが、ルイ14世はこれを嫌った。そのため、死の直前に遺言を作った。遺言では、摂政を置かず、ルイ14世の二人の婚外子をメンバーにいれた摂政諮問会議(座長はオルレアン公)を作るよう指示していた。 オルレアン公は、死の数日前のルイ14世の言葉を根拠にして、摂政顧問会議のメンバー任命権を掌握し、実権を確保した。このとき、パリ高等法院はオルレアン公を支持し、公はその見返りにパリ高等法院の建言権を復活させた(ルイ14世がこれを停止していた)。こののち、パリ高等法院は、建言権をテコに王権への抵抗勢力として機能する。 図は、1715年のルイ14世の遺言をめぐるパリ高等法院の様子 (出典)https://fr.wikipedia.org/wiki/Parlement_de_Paris ◆13高等法院の管轄地域(出典)https://fr.wikipedia.org/wiki/Parlement_de_Paris |
【参考文献】
二宮素子『宮廷文化と民衆文化』(世界史リブレット31)山川出版社、1999年
宮崎揚弘『フランスの法服貴族―18世紀トゥルーズの社会史』同文舘出版、1994年