叙任権闘争と女相続人たち

更新:2015.11.09 執筆:三成 美保

叙任権闘争(1075-1122)の時代、皇帝や教皇に近い女相続人たちが重要な役割を果たした。

神聖ローマ皇后ギゼラ

ギゼラ

ギゼラは。シュヴァーベン公ヘルマン2世の娘でフランケン朝(コンラディン家)につらなる。
1016年、シュワーベン大公家のギゼラ(989-1043)は、のちの神聖ローマ皇帝コンラート2世(皇帝位1027-1039)を3人目の夫とした(最初の2人の夫とは死別)。ギゼラはシュヴァーベン公領とブルグント王領の相続権を保持していた(母親がブルグント王コンラート3世(古ヴェルフ家)の娘ゲルベルガ)。コンラートよりもギゼラの家門が格上で、教会法上は許されない近親婚であった。金髪のギゼラは教養高く、識字能力があり(コンラートは文字が読めなかった)、政治的才能にも優れていて、夫とともに帝国の共同統治者となる。

上ロートリンゲン女公ベアトリクス

ベアトリクス

上ロートリンゲン領の女相続人ベアトリクス(1017?-1076)は、ギゼラにひきとられて育ち、コンラートは彼女をトスカーナ辺境伯と結婚させた。ベアトリクスの娘マティルデは8歳で父の所領の女相続人となる。ベアトリクスは従兄弟たる下ロートリンゲン公と再婚した(1054)。皇帝権の強化をはかるハインリヒ4世(ドイツ国王1056-1105、皇帝1084-1105)は反旗を翻した公を罷免し、母子を人質とするが、やがて和解する。帰還した公はマティルデの相続領を管理した。公の死後、マティルデは、母によって公の連れ子と結婚させられる(1069/70)。彼女は夫を嫌ってすぐに別居した。

トスカナ女伯マティルデ

1077年カノッサの屈辱(トスカナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)に、教皇へのとりなしを頼む皇帝ハインリヒ4世(中央))

母の死後(1076)、マティルデはようやく自立し、カノッサ城で皇帝と教皇を仲介した(1077)。その後、皇帝がイタリアに侵攻し、領地の多くを失うが、彼女は一貫して教皇側を支援し、自分の軍隊も投入した。25歳以上も年下のバイエルン大公家のヴェルフ2世と政略再婚したものの(1090)、大公家が皇帝側についたため離婚する(1095)。彼女の死後、相続人を失ったトスカーナ領(いわゆる「マティルデの所領」)は教皇領と皇帝領に分割された。教皇や皇帝との抗争を通じて所領内の都市はやがて自立していき、フィレンツェ・ピサ・シエナなどの都市国家へと発展する。(右図:右がマティルデ、左下で跪くのが皇帝ハインリヒ)。