目次
8-5.魔女迫害と魔女裁判
最終更新:2019-12-30 執筆:三成美保(掲載2015.01.02)
魔女裁判の概要
最初の魔女狩り(一四三〇年代)から最後の魔女裁判(一七八二年スイス)までの三五〇年間で魔女裁判の犠牲者は四万~五万と見積もられている(黒川二〇一一、八〇ページ)。死刑総数のなかで魔女罪による死刑は平均一割程度であり、魔女裁判が突出して多かったわけではない。むしろ、他の風俗犯罪や子殺しなどの増減と比例して魔女裁判件数も推移していることに留意すべきであろう(黒川二〇一一、六五頁)。
ヨーロッパにおける魔女裁判のピークは、一五七〇年代から一六三〇年代にかけてである。この時期は気候史上「小氷河期」とよばれ、一五六〇年代、一五八〇年代、一六〇〇年頃、一六二〇年代後半には異常気象が頻繁に見られた(黒川二〇一一、九七頁)。魔女裁判の発生頻度は、天候不順やそれと結びついた社会不安と連動しやすかった。しかし、同時にそれは、魔女裁判に対する共同体や当局の姿勢とも深く関わっていた。
魔女裁判については、左図のような絵付きの瓦版(パンフレットFlugschrift)が多く出回った。瓦版で伝えられる魔女の所業・火刑は、人びとの魔女イメージをより具体的にした。
魔女裁判と糾問主義
2019-12-30(2014.03.25)執筆:三成美保/『法制史入門』一部加筆修正)
本サイト【法制史】糾問主義ー魔女裁判の手続き(三成美保)をもとに加筆修正
糾問主義
糾問主義の起源は、中世の異端審問でとられた手続である。それは、最初はかならずしも拷問をともなうものではなかったが、しだいに、自白をひきだすために拷問とむすびついていく。近世の刑事事件では、なお理論上は被害者訴追主義(弾劾主義)を原則としていたが、実務の上では、ほとんどもっぱら糾問主義手続が利用された。近世糾問手続の特徴を、17世紀にヨーロッパ中でおこなわれた魔女裁判を例にみておこう。
まず、被疑者の逮捕については、私人による告発もなおありえたが、中心は、職権による逮捕へとうつっている。逮捕の根拠は、密告、世間の風評、間接証拠である。逮捕後、牢に収容されて、尋問がはじまる。尋問は、取り調べを兼ねた裁判であり、職業裁判官(主席尋問官)と参審人(陪席尋問官)、裁判所書記が臨席する密室でおこなわれる。実際に尋問するのは、もっぱら職業裁判官である。
尋問は数日ごとのペースで、すみやかに段階をおってすすむ。初回は容疑の確認であり、次回に証人との対面がおこなわれる。第3回めに、尋問室に拷問具をもった刑吏が入室して、威嚇する。10日間ほどの熟慮期間がおかれたのち、第4回尋問で容疑を否認すると、それ以降の尋問ではほとんどつねに拷問が加えられる。指締め、足締め、紐吊るし、張り台伸ばしなどの拷問が、軽いものからしだいに重いものへと順にすすむ。
拷問をともなう尋問の目的は、自白をひきだすことである。拷問は、すでに中世後期に都市でも利用されていたが、当時は非市民にたいして行われる不名誉なものであった。しかし、近世に「自白は証拠の女王」とされた結果、拷問は、刑事手続のもっとも重要な要素となっていく。自白が得られると、その内容が書面にしたためられる。被告が「自由意思で」書面内容を確認すると、尋問は終了する。裁判所の判断が困難な事件のばあいには、法律顧問や大学法学部に鑑定意見が求められる。刑罰を加える当日、処刑・処罰にさきだって、民衆が見守る中、広場などで被告の罪歴と刑罰を書いた判決文が読み上げられる。その後すぐに、被告は刑場にひきたてられ、公開で刑罰が下されるのである。
自白は、中世のように神判や雪冤宣誓にもはや頼れなくなった結果、より合理的な証拠として重視されるようになった。しかし、啓蒙主義がひろまるなかで、拷問が冤罪を生むことの危険性がしだいに意識されはじめる。たとえば、ハレ大学教授の自然法学者トマジウス(1655-1728)は、1701年、魔女罪は成立しないと主張し(⇒*【史料】トマジウス『魔女罪論』(1701年))、1711年、拷問廃止を訴えた。このような糾弾をうけて、プロイセンやオーストリアの啓蒙専制国家では、いちはやく魔女裁判も、拷問も廃止されていく。
⇒*【女性】マリア・ホル裁判(1593-94年ドイツ):魔女裁判事例(三成美保)
有名な魔女裁判
マリア・ホル裁判(魔女裁判:1593-94年ドイツ)
マリア・ホル裁判は、魔女裁判のなかでは特異なケースにあたる。その理由は、①裁判が長期(1年近く)に及んだこと、②被告人マリア・ホルが釈放されたことにある。
事件は、南ドイツの帝国都市(自治権をもち、死刑判決を出す裁判権をもつ)ネルトリンゲンで起こった。16世紀末(1593~1594年)のことである。もと産婆であったマリアは37歳で結婚し、旅館「クローネ」を買い取った夫とともにネルトリンゲンに移住してきた。「クローネ」は、バイエルン選帝侯も宿泊するほどの格式ある宿であった。
移住後すぐに市民権を獲得したマリアには、1590年にいちど魔女の嫌疑がかけられた。2名の女性によって「魔女」だと告発されたのである。しかし、魔女の逮捕には3人の証人が必要であり、このときは逮捕に至らなかった。
1593年の場合は、そうはいかなかった。マリアは、同年11月1日に逮捕された。魔女裁判の場合、「共犯者の証言」がもっとも多用され、「密告」も多かった。だれかを正式に魔女だと告発すると証明責任を負わされ、もし魔女でなかった場合には誣告罪に問われるリスクがあったからである。しかし、密告には証明責任が課せられなかった。当局も密告を奨励した。「共犯者の証言」というのは「魔女集会で見た」というもので、すでに魔女裁判で尋問されている者が共犯者の名を言えと言われて、知人の名前をあげることがほとんどであった。共犯者はこの証言を撤回しないよう、証言後はすみやかに処刑されるのが常であった。
合計62回の拷問を受けたにもかかわらず、マリアは自白をたびたび撤回し、最終的には、翌1594年10月11日に釈放された。釈放といっても、自宅軟禁処分であるから完全な無罪とは言えない。夫はマリアのために嘆願書を用意し、金貨200枚を用意して、マリアの身柄釈放を願った。マリアは、裁判を行った市当局や裁判官を恨まない(復讐心をもたない)と誓約した文書にサインして、自宅に戻ることができたのである。
魔女裁判は、いっぱんに非常に高度な裁判(魔女についての神学的知識や裁判手続きに関する法学的知識が必要)とされ、裁判にはかなりのコストがかかった。マリアの裁判でも、法学博士に鑑定意見が求められている。近世ドイツでは、「魔女罪」は帝国刑法典(カロリナ:1532年)に明記されたれっきとした犯罪であった。審理では「自白」が必要とされ、その自白内容を最終的に本人が自由意思で認めて初めて有罪が確定した。マリアも自白したが、直後にその自白を撤回し続けたため、自白が確定しなかったのである。
マリアに対する計62回の拷問は「穏当な拷問」と記録されている。「指締め」から「足締め」、「張り台伸ばし」へと続く一連の拷問とその繰り返しは手続きにのっとったものであった。
マリアが未決囚用の牢(当時は「自由刑(懲役刑)」がなく、牢は判決が確定していない者を一時的に収容する施設であった)にいる間に、都市参事会(都市の最高決定機関)のメンバーが交代し、マリアの裁判続行への慎重論が高まった。釈放にあたって、マリアが牢に収容されている間にかかったコストは、夫が市に弁済した。布告人の権利は保障されておらず、疑いをもたれて裁判にかけられたこと自体がお上に迷惑をかける行為だとされたのである。
夫が妻マリアの釈放をこうも熱心に願った理由は不明であるが、必ずしも「愛情ゆえ」とは限らなかったと推測できる。「魔女」として処刑された場合、しばしば財産没収や罰金支払いが伴い、遺族は経済的に困窮する。保釈金を積んでも残る財産のほうが多くて「割にあう」ならば、親族は必死で命乞いをした。しかし、そのような財産を持たない家族の場合には、むしろ家族のほうから速やかな処刑を望むこともあった。家族もまた魔女の嫌疑をかけられる恐れがあり、裁判が長引くほど支払経費が増えたからである。
釈放されたマリアは長生きした。夫亡き後も60歳と78歳で結婚している。「魔女罪」にとわれたことは結婚の障害にはなっていないようである。むしろ、マリアは、老いてなお結婚可能な財産と地位を有していたと見るべきであろう。
マリア・ホルの 経歴
1549.ウルム市生まれ(事件当時45歳) ウルムでは産婆
1586.5.20.結婚(37歳):夫ミハャエル・ホルー旅館「クローネ」を購入
1586.5.30.市民権獲得
1593.11.1.~1594.10.11.魔女裁判にかけられる
1594.10.11.釈放(和解文書の発行)
※その後のマリア→魔女裁判嫌疑によって婚姻が妨げられることはなかった。
1608 夫の死
1609 再婚(夫は鉄商人)(60歳)
1612 再婚夫の死→旅館を親族に売却
1627 3度目の結婚(78歳)
1634 マリア死去(85歳)
裁判手続き
告発
→このときはいずれも逮捕にはいたらず。
•1593年 3名によって告発+4名の女性によっても告発
→告発者はいずれもまもなく火刑
• 1593年11月1日 魔女として逮捕
→市牢への収容
→同時逮捕は2名
尋問の開始
•1593年11月5日 第1回尋問
→容疑否定→獄吏に伴われて牢にもどる。 ※尋問室での取調べ <主任尋問官> セバスチャン・レテインガー博士(市参事会法律顧問) ヴォルフガング・グラーフ博士(同上) <陪席尋問官>:4名の市参事会員
•1593年11月8日 第2回尋問 <尋問>グラーフ博士+4名市参事会員+さらに4名の市参事会員 <告発者のうち2名と対面> ウルスラ・クライン「マリアを二、三年前酒場でみかけた」と証言。 アンナ・ファウル「ワインマルクトの魔女集会でマリアが踊っているのを見た。そこにはイエルク・キュルシュナーもいた。」と証言 →マリアはこれを否定する。
•1593年11月9日 第3回尋問 あたらしく刑吏が入室する→拷問の威嚇のため(実際には拷問せず)
•1593年11月9日~11月21日 尋問休止 →再考期間 →証言者2名は火刑(告発撤回を防ぐため)
拷問の開始
●1593年11月21日 第4回尋問 拷問の開始(拷問担当は刑吏) 身体を縛られる→「親指締め」→「足締め」(スペイン長靴を利用)
•1593.11.22.第5回尋問~11.28.第10回尋問(11.25.尋問休止) 連日の尋問:ほぼ常に拷問をともなう •尋問回数は全17回
●1594.2.20.第15回尋問:最後の拷問→以後、8月まで尋問中止
●1594.8.22.第16回尋問
●1594.8.29.第17回尋問(最後の尋問) →いまだ自白が得られず
•拷問をともなった尋問は第4回から第15回まで、一回の尋問をのぞいて計11回 「親指締め」=2回、「足締め」=26回、「紐つるし」=19回 「張り台伸ばし」=15回、計=62回(「穏当な拷問」)
釈放の検討
•1594年9月9日 マリアの釈放の是非について検討を開始 →法律顧問に鑑定意見作成を依頼
•1594年9月18/28日 ウルムのマリアの親族3名から、釈放の嘆願書が2度提出される。
• 1594年9月26/30日 マリアの夫ミヒャエルをよびつけて、妻マリアをひきとる用意があるかどうかを2度確認する。
•1594年10月10日 ミヒャエルに妻の獄中食事代金として金貨200枚を支払うよう命令、夫はこれを承諾。
•1594年10月11日 和解を誓約のうえ、釈放→釈放後は外出禁止(自宅拘留)。
【関連ページ】
→*【法制史】糾問主義ー魔女裁判の手続き(三成美保)
→*【史料】魔女迫害と魔女裁判(三成美保)
→*【図像】魔女イメージ
【参考文献】
○若曽根健治「近世ドイツ魔女裁判関係史料二題(一)(二)」(一)『熊大法学』四五号、一九八五年、(二)同五一号、一九八七年
○三成美保「魔女裁判と女性像の変容ー近世ドイツの事例から」水井万里子他編『世界史のなかの女性たち』勉誠出版、2015年、119ー131頁
○ほかの参考文献→*【文献リスト】魔女裁判(三成美保)
火刑(火あぶり)
【参考】
○魔女裁判の手続(糾問主義)については⇒*【法制史】糾問主義ー魔女裁判の手続き(三成美保)
○魔女の図像については⇒*【図像】魔女イメージ
○ドイツ最初の帝国刑事法典「カロリナ」については⇒*【史料】カロリナ刑法典(1532年)
○魔女裁判の魔女論や魔女裁判の史料については⇒*【史料】魔女迫害と魔女裁判(三成美保)
○具体的な魔女裁判の事例については→*【史料】マリア・ホル裁判(1593-94年ドイツ)
【書籍紹介】
○黒川正剛『図説魔女狩り』河出書房新社、2011年
最新の成果をわかりやすくまとめており、たいへん参考になる。カラフルな図版も多数収録されている。
○黒川正剛『魔女狩りー西欧の三つの近代化』講談社選書メチエ、2014年
上述書とあわせて利用をすすめる。
○田中雅志(訳・解説)『魔女の誕生と衰退ー原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』三交社、2008年
『魔女の槌』など基本文献の抄訳として、便利である。
○アン・ルーエリン・バーストウ(黒川正剛訳)『魔女狩りという狂気』創元社、2001年
ジェンダー視点から魔女狩りを分析している。原著は1994年刊。
○イングリット・アーレント=シュルテ(野口芳子・小川真理子訳)『魔女にされた女性たちー近世初期ドイツにおける魔女裁判』勁草書房、2003年
ジェンダー視点から、魔女の存在が女性の仕事領域と重なっていることを論じた好著。
○野口芳子『グリム童話と魔女ー魔女裁判とジェンダーの視点から』勁草書房、2002年
グリム童話に登場する魔女の分析を行うとともに、実際の魔女裁判についても考察している。ジェンダー視点が明確であり、たいへん読みやすい。
【図像】魔女イメージ
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