ケルト文化

更新:2018-11-23 掲載:2018-11-05 執筆:三成美保

◆ケルト文化/ケルト人

「ケルト(Celts)」とは、紀元前600年頃に古代ギリシア人が、西方ヨーロッパの異民族を「ケルトイ(Keltoi)」と呼んだことに由来する。したがって、「ケルト(人)」とは、「ケルト語を話す文化集団」をさし、人種を意味するものではない(鶴岡・松村1999:10頁)。ケルト人は文字を持たなかったので、ケルト文化を知るには、遺跡・出土品、神話、ギリシア・ローマ人の記録に頼らざるを得ない(鶴岡・松村1999:80頁)。

「ケルト」は、大きく二つの文化に分かれる。「大陸のケルト」と「島のケルト」である。「大陸のケルト」の始まりについて考古学的に証明できるのは、「ハルシュタット第一鉄器文化」(前750~前600頃)である(鶴岡・松村1999:47頁)。「島のケルト」がヨーロッパ西端に定住するのは、前600~前300年の頃である(鶴岡・松村1999:14頁)。したがって、南イングランドの巨石建造物ストーンヘンジ(前3000~前2500頃)はケルト人が造ったものではなく、先住民族が造ったものである。ストーンヘンジがケルトの祭司ドルイドが集まる宗教センターであるというイメージは近代の産物である(鶴岡・松村1999:78頁、87頁)。

◆ケルト文化の分布地域

ケルト人とは、中央アジアの草原からヨーロッパに渡来した民族で、インド・ヨーロッパ語族に入る。ガリア人(Galli)もケルトの一族である。

ケルト人とケルト語の分布(出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Kelten (黄色)紀元前6世紀のハルシュタット文化、(薄緑)ケルト文化の最大版図(前275年)、(白緑)Lusitania ケルト集落(未確定)、(緑)6つの「ケルト民族」(現代)、(深緑)ケルト語を話す地域(現代)

◆ケルト語(現代の分布)

現代のケルト語地域(出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Kelten

◆ハルシュタット文化(前800/750頃~前450頃)とラ・テーヌ文化(前475~前50頃)

ハルシュタット文化は、C期(第一鉄器文化=初期ケルト文化:前750~前600頃)とD期(前600~前450/400頃)に分かれる。 ハルシュタット(オーストリアのザルツブルク南東にある村)は、岩塩採掘センターであり、「塩の道」の拠点であった。ハルシュタット文化後期(D期)には、ギリシア人やエトルリア人との交易が活発になり、支配層(首領)の住居(工房を兼ねる)は、丘砦に建造された。そのうちのもっとも重要なものが、ホイネブルク(ドナウ河上流)の丘砦である。しかし、このホイネブルク丘砦が火災で崩壊し、ケルト人の南下=ケルトの民族移動(イタリア・ギリシア・マケドニア・アナトリアへの「ケルトの地」の拡大)がはじまる。

こうしてはじまった移動と拡大の文化を「ラ・テーヌ文化」とよぶ。「ラ・テーヌ文化」(前475~前50頃)は、「(ケルト)第二鉄器文化」でもある。「ラ・テーヌ」とは「浅瀬」の意味で、スイスのヌシャテル湖で遺跡が発掘されたことにちなむ(鶴岡・松村1999:6頁年表及び53頁以下、60頁)。

ラ・テーヌ文化

ケルトの鉄器文化以前には、長く青銅器文化(前2200~前800頃)が存在した。なお、インド・ヨーロッパ語族がヨーロッパに定住したのは、前2000~前1500頃である(鶴岡・松村1999:6頁年表及び53頁以下)。鉄器がケルトに伝わったのは二つのルートがある。南方ルート(ヒッタイトの鉄器文化が前12世紀に滅び、ギリシア・イタリアを経てケルトへ)と、東方ルート(黒海地方の騎馬民族の鉄器はハンガリーをへてケルトへ)である(鶴岡・松村1999:47頁)。

ハルシュタット文化(出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Hallstattzeit

ハルシュタット文化(前800年)の中心地は濃い黄色、影響を受けた地域(前500年まで)は薄い黄色。ラ・テーヌ文化(前450年)の中心地は濃い緑、影響を受けた地域(前50年まで)は薄い緑。地名はケルト人の主な居住地域。 (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/La_T%C3%A8ne_culture

◆ドルイドーケルトの社会構造

ケルトは、インド=ヨーロッパ語族に共通する世界観をもっていた。それは、「三機能イデオロギー(三区分的世界観」(ジョルジュ・デュメジル)というもので、世界を①聖性、②戦闘性、③生産性の三要素に分ける考え方をさす。カエサル『ガリア戦記』第6巻によると、ガリアのケルト社会は、「ドルイド・騎士・民衆(平民)」の三階級に分かれていた(鶴岡・松村1999:82頁)。

ドルイドは、「知の教師」(ポンポニウス・メラ)として世界や天体についての知識を持つ者とみなされた。また、「格別に敬われる存在」として「バルド(詩人)と予言者とドルイド」がおり、ドルイドは、「自然学のほかに倫理的な学問にも従事している」とされた(ストラボン、ルカヌス)(鶴岡・松村1999:83頁)。ドルイドを「ガリアの魔術師」とよんだ大プリニウスは、ケルト人が「樫の木と寄生木」「蛇」を神聖視・崇拝すると述べている(鶴岡・松村1999:85-86頁)。なお、ケルトには男神と女神がおり、神々の名は400以上知られているが、かなりの重複があると推測されている(鶴岡・松村1999:87頁)。

◆ローマとケルト(ガリア)の関係

前390~前193 ローマ・ガリア戦争(共和政ローマとガリア人の様々な部族との一連の紛争)。

前58頃 ケルトの一部族ヘルウェティイ族(スイス西部)がゲルマン人の圧迫を逃れて南下(ローヌ河を超える)→この移動を阻止するために、カエサルが出陣(ガリア戦争の開始)。

前58~前51年 ガリア戦争(共和政ローマのガリア地区総督ガイウス・ユリウス・カエサルがガリアに遠征してその全域を征服し、共和政ローマの属州とした戦争)→カエサル『ガリア戦記』

前52-前51年 カエサルがガリアを征服する。

前52年 アレシアの戦い(カエサル率いるローマ軍とアルウェルニ族のウェルキンゲトリクス(当時20歳)率いるガリア人連合軍25万人との間で行われた戦闘)→ガリアが敗北→ウェルキンゲトリク(前72~前46年)がローマ軍の捕虜となる。

前46年 ウェルキンゲトリクスは、6年間トゥッリアヌムに投獄された後、カエサルの凱旋式のさいに処刑された。

→ガリア征服後のガリア文化とローマ文化の融合を「ガロ=ローマ文化」(前50頃~後4世紀頃)という。

カエサルに征服される前のガリア(ケルトの諸部族=オレンジ・藤色・薄緑)、薄紅色は原バスク(出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Gallien

◆ケルトのキリスト教化

432 アイルランドにキリスト教が布教される。

6世紀 スコットランドに修道院を創設→「ケルト修道院」(黄金時代は9世紀初頭まで=ヴァイキングの襲撃による殺害・焼き討ちなどによって中世ケルト文化は衰退)。

596 イングランドに聖アウグスティヌスが伝道。

参考文献

鶴岡真弓・松村一男『図説ケルトの歴史、文化・美術・神話をよむ』河出書房新社、1999年

井村君江『ケルトの神話ー女神と英雄と妖精と』ちくま文庫、1990年

W・B・イエイツ編(井村君江編訳)『ケルト妖精物語』ちくま文庫、1986年

ユリウス・カエサル(近山金次訳)『ガリア戦記』岩波文庫、1942年