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2-6.古代ローマの共和政と家父長制
更新(年表・解説追加):2016-01-01 掲載:2014.02.03 作成:三成美保
【高校世界史教科書】
前6世紀末、ラテン人たるローマはイタリア半島に都市国家を建設する。ローマは共和政をとり、前5世紀半ばには十二表法が公開された。前3世紀前半にローマはイタリア半島を制覇し、前146年に地中海の覇者となった。前27年、共和政から帝政(元首政)に移行する。
*古代ローマ遺跡の一つとして世界遺産に登録されているドゥッガ(現チュニジア)については⇒http://en.wikipedia.org/wiki/Dougga
【年表】王政~共和政ローマ
王政(前753~前509)
前753 伝説の初代王ロムルス(Romrus)によるローマ建国(~前717)。「ローマ方形原領域(ローマクアドラータ)」の建設。
【解説】建国の伝説ーサビニの女たちの略奪(誘拐婚)
古代ローマの伝説的挿話の1つである。内容は以下の通り。
ローマがロムルスによって建国されたばかりのころ、最初の世代は女性が少なかった。子孫を残し国を維持するためには多数の未婚女性が必要だった。ローマ人はそれを近隣国に多く住み勇敢な部族であったサビニ人に求めたが、交渉は不首尾に終わった。そこでローマ人はサビニ人に奸計を仕掛け、大量の未婚女性を略奪した。不法にローマに拉致されたサビニ人女性たちは ローマ人の妻になることを強要され、ローマ人の子を産むこととなった。こうしてサビニ人女性を誘拐婚することにより、ローマは国を維持発展させるための次世代を得ることに成功した。後にサビニは女性たちを奪回するためにローマと戦争を起こすが、既に子を産んでいたサビニ人女性たちは子供と引き離されることを拒み、戦争の中止を訴えた。
この伝説は、リウィウス『ローマ建国史』やプルタルコス『対比列伝』(II、15 および 19)で語られている。また、この伝説は、「古代ローマ人男性の大胆さと勇気を示す例」とみなされ、女性の受難場面や半裸の群像とともに、ルネサンス期以降の芸術作品の主題としても好んで使われた。
前717-前715 王空位期間(interregnum)。100人の元老院議員による支配。
前715-前673 第2代王ヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilius)
前673-前642 第3代王トゥッルス・ホスティーリウス(Tullus Hostilius)
前642-前617 第4代王アンクス・マルキウス(Ancus Marcius)
前616-前579 第5代王はエトルリア人のタルクィニウス・プリスクス(Tarquinius Priscus)。ローマがエトルリアに支配される。
前579-前535 第6代王セルウィウス・トゥッリウス(Servius Tullius)
前577 セルウィウス・トゥッリウスがケントゥリア制度を始める。
前565頃 ローマの七つの丘を囲む城壁(セルウィウスの城壁)を築く。
前535-前510 第7代王タルクィニウス・スペルブス(傲慢王)。
共和政(前509~前27)
前509 王政の廃止、共和政が始まる。
ルーキウス・ユーニウス・ブルートゥス(L. Iunius Brutus)とルーキウス・タルクィニウス・コッラーティーヌス(L. Tarquinius Collatinus)が執政官(コンスル)となる。その後、コッラーティーヌスは執政官職を辞し、プーブリウス・ウァレリウス(P. Valerius)が後任となる。
→*【法制史】ローマ法の成立と発展(三成美保)
前509 カピトーリーヌス(カンピドッリオ)の丘にユピテル神殿が建設される。
前496 レーギルス湖の戦い。ラティーニー族を引き連れたタルクィニウス・スペルブスが、共和政ローマを転覆しようと戦闘を行った。
前494 聖山事件(貴族と平民の身分闘争)。平民は聖山(Mons Sacer)と呼ばれるローマ近郊のアニオー川を越えたところの丘陵に立てこもる。この事件をきっかけに、平民の代表であり、平民の身体と財産を擁護する不可侵の力を持つ護民官職が公に認められ,護民官を選出する平民会が創設された。
前450頃 十二表法の制定→ローマ市民法の成立
→*【史料】十二表法(法制史)
前445 カヌレイウス法の制定。貴族(パトリキー)と平民(プレーブス)の結婚が合法化される。
前443 監察官(ケンソル、Cernsor)創設。
前421 財務官職(クアエストル、quaestor)をトリブス民会で選出することを決める。
前396 エトルリア人のウェイイー族を攻略。
前390 /前386 ガリア人がローマに侵攻し、一時ローマを占拠される。
前367 リキニウス・セクスティウス法の制定。執政官の一人を平民(プレブス)から選ばれることとする。
前343 第一次サムニウム戦争(〜前341)。
前341 ラテン戦争(〜前337)。
前339 監察官職(ケンソル、Censor)を平民に開放。
前338 ラテン同盟の再編。ラティウム地方の支配権を確立する。
前326 第二次サムニウム戦争(〜前304)。
前315/前314? ラテン植民市ルケリアの建設。
前312 アッピア街道の建設開始。
前298 第三次サムニウム戦争(〜前290)。ローマは、ガリア人とサムニウム人の連合に勝利して、イタリア中部の支配を確立する。
前287 ホルテンシウス法の制定。平民会の決議が、元老院の承認なしでローマ全体に対する拘束力を持つこととなった。
前282 タレントゥムと戦争(〜前272)。ローマはこの戦いに勝利して、イタリア南部の支配を確立する。
前280 エペイロス王ピュッロスがタレントゥムに加勢してイタリアに進攻。
前275 ローマ軍がピュッロス軍を破る。
前273 プトレマイオス朝エジプトと同盟を締結。
→*【女性】プトレマイオス朝エジプトと女王クレオパトラ(付:年表)
前272 ローマはイタリア全土の支配を確立。
前264 第一次ポエニ戦争(〜前241)。地中海の覇権をめぐって、ローマとカルタゴが戦う。
【解説】共和政ローマの軍隊(権利・義務としての兵役):マリウス軍制改革以前
共和政ローマでは、ローマ市民権を持つ市民には、義務(財産防衛などの市民権と結びつくという意味で権利でもある)としての兵役が課せられており、以下の基準に従って各々が兵役に就いた。
- 兵士は財産に応じて定められた5つの階級に属していなければならない。
- 兵士は3000セステルティウスに相当する資産を所有していなくてはならない。
- 兵役の際に必要な武具は自前で購入しなくてはならない。
前241 第一次ポエニ戦争の終結に伴って、シチリアがローマの最初の属州となる。
前229 第一次イリュリア戦争。バルカン半島西部に位置するイリュリア人の王国とローマの戦い。
前218 第二次ポエニ戦争(〜前201)。ローマはカルタゴの将軍ハンニバルに苦しめられる。
前216 カンナエの戦い。イタリア南東部カンナエで、ローマ軍はカルタゴのハンニバルに大敗北を喫す。
前214 第一次マケドニア戦争(〜前205)。ローマとアンティゴノス朝マケドニアの戦い。
前210頃 アティリウス法の制定。政務官が保護者を失った未成年者に対して後見人を定める制度。
前206 ローマ軍がヒスパニア(スペイン)を制圧。
前202 ザマの戦い。北アフリカのザマで、大スキーピオー率いるローマ軍が、ハンニバル率いるカルタゴ軍を破る。
前201 カルタゴが降服。
前200 第二次マケドニア戦争(〜前197)。
前197 ヒスパニア(スペイン)に二つの属州を設置。キノスケファライの戦い。ローマ軍がマケドニア軍を制圧。
前196 「ギリシア人の自由」宣言。マケドニア傘下にあったギリシア諸都市に自由が保障された。
前192 シリア戦争(〜前188)。ローマがセレウコス朝シリアを征服する。
前171 第三次マケドニア戦争(〜前168)。ローマが、ピュドナの戦いでマケドニアに勝利(前168)。アンティゴノス朝が滅亡する。
前169 ウォコニウス法の制定。女性が一定以上遺産を相続することが禁じられる。
前167 戦時負担金が廃止される。
前155 ルシタニア戦争。イベリア半島西方でルシタニア人が反乱。
前154 ヌマンティア戦争(ケルティベリア戦争)。イベリア半島中部でケルト=イベリア人が反乱。
前153 ローマの暦が1月からとなる。執政官の就任が1月1日からとなる。
前149 第三次ポエニ戦争(〜前146)に、ローマ軍が勝利。第四次マケドニア戦争に、ローマ軍が勝利。
前146 アカイア戦争(ギリシアで有力であったアカイア連邦とローマの戦い)に、ローマ軍が勝利→万民法の成立
前135 第一回シチリア奴隷反乱(〜前132)。
前133 グラックスの改革(兄)。護民官であったティベリウス・センプロニウス・グラックス(兄)は有力者の公有地の私物化を制限するために、リキニウス・セクスティウス法で定められていた公有地の制限を実質的に行使しようと提案した。
ペルガモンがローマに遺贈される。グラックス(兄)が暗殺される。
前129 旧ペルガモン領に属州アシアを設置。
前123 グラックスの改革(弟)。護民官であったガーイウス・センプロニウス・グラックス(弟)はグラックス(兄)の意志を継いで、さらに広範囲に及ぶ法案を提示した。
前121 グラックス(弟)が暗殺される。このころより「内乱の一世紀」と呼ばれる時代が始まる。
【解説】内乱の一世紀(前121~前27)
前121(グラックス兄弟の改革の失敗)~前27年(元首政の成立)の時代をさす。前121年、グラックス兄弟の改革が失敗に終わると、共和政の再建は困難となり、政局は元老院、平民会入り乱れての門閥派と平民派の有力者同士の政争の時期となった。「内乱の一世紀」には、有力者間の政争、内乱、都市の反乱、奴隷の反乱、辺境の反乱が相次いだ。これに対して、前27年の元首政成立から五賢帝時代の終わり(180年)までを「ローマの平和(パックス・ロマーナ)」(ギボンの命名)とよぶが、「平和」として美化されるようなイメージは実態には即していない。
前113 キンブリー・テウトニー戦争(〜前101)。ドイツ北部に居住していたゲルマン人のキンブリー族とテウトニー族が南下を始めてローマに侵攻。ローマ軍は苦戦した。アラウシオの戦い(前105)では、キンブリー族とテウトニー族がローマに大勝。マリウスの活躍でこの進攻を阻止(前101)。
前112 ユグルタ戦争(〜前105)。北アフリカのヌミディア王国の王位を奪ったユグルタ王と、ローマの戦い。スッラの外交政策で終結(前105)。
前111 農地法成立。
前107 マリウスの軍制改革
【解説】マリウスの軍制改革(志願兵制度の採用)(前107年)
マリウスは今まで自前で武具を賄えない貧民階級を軍隊に編入するために、以下の事を決めた。兵士は職業化し、民会(共和政)よりも軍の指揮官への忠誠心を強く持つようになった(私兵化)。こうした私兵化した軍隊が「内乱の一世紀」で利用される。
- 国が武具を支給する。
- 戦闘に従事する者の給料も国が支給する。
- 従軍期間を25年とする。
- 退役後、兵士たちに土地を与える。また司令官より年金を給付される(士官・下士官には、10倍から25倍の金額、土地を与えられたようである)。
- 従来からの司令官が指揮可能な軍の制限(司令官1人が指揮できるのは2個軍団まで)を撤廃する。
前100 マリウスが6度目の執政官になり、退役兵に土地を分配。マリウスはローマの実質的な権力を掌握する。
前91 同盟市戦争(〜前88)(イタリアの同盟諸都市がローマに対して蜂起)→前88 ローマが同盟市市民にローマ市民権を認めることで終結。
前88 第一次ミトリダテス戦争(〜前85)=マリウスとスッラの権力闘争。
黒海沿岸のポントス王国のミトリダテス6世がアテーナイなどの協力を得ながらローマに蜂起。マリウスと軍事指揮権をめぐって激しく対立していたローマ将軍スッラが都市ローマに進軍。都市ローマを制圧してマリウスを追放するが、スッラがミトリダテス軍を打つためにローマを発った直後に、マリウスは軍を率いてローマを制圧。マリウスはスッラ派を次々に殺して壊滅に追い込む。
前86 マリウスが7度目の執政官に就任したが、まもなく死去。マリウスとともに執政官を務めていたキンナ(~前84)が事実上のローマの実権を掌握。
前83 第二次ミトリダテス戦争(〜前81)。
前81 スッラがミトリダテス戦争からローマに帰還し、都市ローマを奪回。マリウスとキンナを失った平民派を粛清。スッラは無期限の独裁官(ディクタートル、dictator)となり、実権を掌握。軍制改革を断行。
前80 改革を成し遂げたスッラが独裁官を辞任。引退。ポンペイの円形劇場が建設される。
前78 スッラが死去。ポンペイウスが台頭する。
前74 第三次ミトリダテス戦争(〜前63)。
前73 スパルタクスの反乱(〜前71)。剣闘士スパルタクスを指導者とする奴隷反乱がイタリア全土に波及。イベリア半島でも反乱。
前70 ポンペイウスとクラッススが一度目の執政官に就任。
前67 ポンペイウスが特別命令権をえて海賊討伐。地中海の治安が安定へと向かう。
前64 ポンペイウスの対ミトリダテス戦争を終結へと導き、東方平定。ビテュニア・ポントス州、シリア州を設置。セレウコス朝シリア滅亡。
前63 キケロが執政官に就任。カティリナの陰謀(〜前62)。ルーキウス・セルギウス・カティリナが共和政ローマを転覆しようと陰謀を画策。キケロがこれを弾劾した。
前60 ポンペイウス、カエサル、クラッススによる第一回三頭政治が成立。
前59 カエサルが一度目の執政官に就任。
前58 カエサルがガリアに遠征(〜前51)。勝利して、軍事力を背景に権力を増大させる。
【解説】ウェルキンゲトリクス(Vercingétorix:前72-前46)
20歳前後で族長となる。カエサルのガリア戦争において、それまで統率の執れていなかったガリア諸部族(ガリア人[ガリアのケルト人]諸部族)をまとめ上げて対ローマ統一部隊を組織すると、ガリア各地でゲリラ戦やローマ軍の兵站線の寸断、焦土作戦などを展開し、ローマ軍を苦しめた。アウァリクム包囲戦でアウァリクムを陥落させられたが、ゲルゴウィアで反撃、ローマ軍に勝利した(ゲルゴウィアの戦い)。しかし、最終的にはガリアの都市アレシア(現在のディジョンに近い地域)に追い詰められ、ローマ軍に包囲された。突破作戦を決行するも失敗し、部下達の保全を条件についに降伏、投降した(アレシアの戦い)。その後、ウェルキンゲトリクスはローマへと送られ、6年間トゥッリアヌムに投獄された後、カエサルの凱旋式が行われた際に処刑された。
ウェルキンゲトリクスは、フランス最初の「英雄」とされる。ナポレオン3世は、主戦場の一つであったアレシアに、1865年に7メートルの高さの像をつくらせた(右図)。
前55 ポンペイウスがローマに劇場を建設。
前54 クラッススがパルティアへの遠征を開始。
前53 カルラエの戦い。カルラエで起こったパルティアとローマの戦いで、パルティアがクラッスス率いるローマ軍に大勝。敗戦後クラッススは死去。
前49 ポンペイウスとカエサルの対立が激化。カエサルが法で禁じられていたにもかかわらず、ルビコン川を渡ってローマに進軍。
前48 ファルサロスの戦い。カエサルがギリシア北部ファルサロスでポンペイウス軍を撃破。アフリカに逃れたポンペイウスが暗殺される。ポンペイウスを追って、プトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアに入ったカエサルは、クレオパトラと同盟を結ぶ。クレオパトラとカエサルはエジプトの実権を掌握。
→*【女性】プトレマイオス朝エジプトと女王クレオパトラ(付:年表)
前47 カエサルがアルメニアに遠征。ポントス軍を撃退。
前46 カエサルが10年任期の独裁官(dictator)に就任。
前45 カエサルがローマにユリウス暦を導入。
前44 カエサルが終身独裁官(ディクタートル・ペルペトゥウス、dictator perpetuus)に就任。カエサルが暗殺され、オクターウィアーヌスが護民官となる。
前43 オクターウィアーヌス、アントーニウス、レピドゥスが「国家再建のための三人委員」(tres viri rei publicae constiruendae)に指名され、第二回三頭政治が始まる。
前42 フィリッピの戦い。カエサルを暗殺したブルートゥスらの勢力を撃破。
前40 ブルンディシウム協約。
前35 アントニウスがパルティアを遠征。
前32 レピドゥスが力を弱めるなかで、オクターウィアーヌスとアントーニウスの対立が激化。
前31 アクティウムの海戦。ギリシア西部のアクティウムで、オクターウィアーヌスとアントーニウス・クレオパトラ連合軍が対決。オクターウィアーヌスが勝利。
前30 オクターウィアーヌスがエジプトを征服。アントーニウスとクレオパトラが自殺。プトレマイオス朝が滅亡。「内乱の一世紀」が終わりを迎え「ローマの平和」(パックス・ロマーナ、pax romana)と呼ばれる時代が始まる。
前29 ローマに円形劇場が建設される。オクターウィアーヌスが、元老院で名簿の最初に名前が記されるプリンケプス(第一人者)となる。
前27 オクターウィアーヌスは全権(戦時非常大権)を返上し、共和政の復帰を宣言。元老院の決議と度重なる要請で、オクターウィアーヌスは元老院からアウグストゥス(Augustus)「尊厳者」の称号を得て、単独の支配権を得る。元首政の開始。
【解説】ローマ市民権
(1)ローマ市民権の内容は以下の通り。
- Ius suffragiorum(民会での選挙権)
- Ius honorum(国家の役職に選出される権利=被選挙権)
- Ius commercii(営業上の契約を結ぶ権利、営業・相続によって得た財産の保有権)
- Ius gentium(外国人と契約を結ぶ権利)
- Ius conubii(ローマ市民と合法的に婚姻する権利, 家父長としての権限を行使する権利、この婚姻によって生まれたすべての子はローマ市民権を保持する)
- Ius migrationis(ローマ市民は移転先でもローマ市民としての完全な権利を保障される。ローマ市民権の保障にはランクがあったが、市民権保障が低いランクの都市に移転した場合でも、ローマ市民の市民権は制限されないという権利をさす)
(2)ローマ市民権は以下の者に与えられるとされた。市民権の保持者はコロッセウムでの観劇や浴場への立ち入りの権利を与えられ、また皇帝や有力者からの贈り物を受け取ることができた。これを「パンとサーカス」とよぶ。
- ローマ市民としての合法的婚姻から生まれた子
- 解放奴隷(ローマ市民権が与えられるが、彼らは以前の主人と主従関係にあり、そのクリエンテスとなった)
- 解放奴隷の子(自動的にローマ市民権を付与)
- ローマ正規軍の軍団兵(百人隊長は除く)(正式に結婚はできないため、内縁関係から子が生まれても兵役期間内は子にはローマ市民権が与えられなかった。しかし除隊・退役後には、子に市民権が認められた)
- ローマ市民権購入者(高額な金額を出資できれば市民権を買う事ができた)
- (以下はマリウスの軍制改革以降)ローマ補助兵(入隊当時ローマ市民権を持たなかったローマ支援軍の兵は兵役期間を務め上げ退役すると世襲のローマ市民権が授与された。ただし、補助兵でも上位の隊長クラスになると、満期除隊を待たずにローマ市民権を得た)
- ローマ補助兵の子(自動的にローマ市民権を持った。このため、ローマ市民権を持つ者から構成されるローマ正規軍への参加が可能となった)
- ローマに対する貢献者として認められた者(補助兵の隊長クラスなど)