ディアヌ・ド・ポワチエ(1499-1566)フランス国王アンリ2世の公妾「陰の最高顧問」

掲載:2016-11-04 執筆:三成美保

【略年表】

1499 ディアヌは、由緒ある伯爵家の娘として生まれた。

1505 6歳のときに、ブルボン侯爵夫人アンヌ・ド・ボーシュー(フランス王ルイ11世の娘)に預けられる。アンヌは、ディアヌの聡明さを知って、ギリシア語やラテン語などの高度な教育を授けた。

【女性】摂政アンヌ・ド・ボーシュー(1461-1522)

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1473 ブルボン侯爵と結婚。

1483-1491 摂政(夫と共同)。父王ルイ11世死去。王位を継承した弟シャルル8世がまだ若年であったため、1491年まで夫とともに摂政をつとめた。

「乙女たちの母」と呼ばれ、多くの貴族女子を預かっていた。

1515 16歳のとき、望まれて結婚。ディアヌに選択の余地はなかった。夫は、父の戦友ルイ・ド・プレゼ(55歳)。プレゼの母は、フランス国王シャルル7世と愛人アニエス・ソレルとの娘であった。

プレゼの祖母アニエス・ソレルAgnès Sorel

1518 ディアヌ19歳のとき、第一子を産む。

1519 ディアヌ(20歳)はクロード王妃の女官として、王妃の第二子出産に立ち会う。この子がのちのアンリ2世。

ディアヌ

1525 フランス王フランソワとスペイン王カール5世が戦う(イタリアの覇権をめぐる争い)
⇒パヴィアの戦いで、フランソワは敗れ、フランソワはマドリードの幽閉される(1526年3月まで)
⇒フランソワ不在の間、フランソワの母后ルイーズが摂政となる。ルイーズは、ディアヌに3人の王子の世話を命じた。アンリは6歳であった。

1526 マドリード条約(国王フランソワの解放と引き換えに、王子フランソワとアンリを人質として差し出すことを含む)
⇒ディアヌは王子たちにつきそって国境まで向かう。
⇒国王フランソワは約束を守らず⇒王子たちはその後4年間、マドリードの牢獄に幽閉される(教育を受けられず、フランス語を話せず、食事も衣服も運動も制限された屈辱的な生活)。

1529 カンブレー条約(王子たちの解放)

1531 ディアヌの夫プレゼが死去。

1533 アンリとカトリーヌが結婚。ともに14歳。

【女性】フランス摂政母后カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)

1536 アンリの兄フランソワが急死し、アンリが王太子となる⇒この頃、ディアヌはアンリの愛人となる。

【解説】公妾(公認の愛人Maîtresse royale)

キリスト教ヨーロッパでは、一夫一婦制がとられ、側室を置くことはできなかった。このため後宮も形成されない。正式の王妃以外から産まれた子は「婚外子」として扱われ、王位継承権から排除された。王室と臣下の結婚は「貴賤結婚」として忌避され、王室同士で結婚した。このため、ヨーロッパの王室では、姻戚関係が網の目のように張り巡らされていた。このような事情が、多くの王位継承戦争を生むことになった。教会法では禁じられていた「イトコ婚」が非常に多く行われた。
王室の結婚は外交政策であり、本人に選択の余地はなかった。このため、国王が愛人を持っても大目に見られた。近世のフランス宮廷では、「公認の愛人(公妾)」が置かれた。ただし、愛人が王妃の座を望まないよう、既婚女性が原則とされた(石井2010:5頁)。 公妾は、公式の役職であり、貴族の称号と手当てと年金を支給された。公妾は、宮廷では王妃に次ぐ権力をもった(石井2010:4頁)。

1543 カトリーヌが第一子を産む。その後、10年間に10人の子を産んだ。

1547 アンリ2世が戴冠。

○アンリ2世は、ディアヌを「陰の最高顧問」(石井2010:23頁)とみなしていた。

○1547-1559年まで、シュノンソー城にはディアヌが住んだ。

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シュノンソー城

シュノンソー城の構成 (出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Schloss_Chenonceau

ディアヌの寝室 (出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Schloss_Chenonceau

1559 アンリ2世死去。

1566 ディアヌ死去。

DianedePoitiers.jpg

ディアヌ・ド・ポワチエ

(参考文献)石井美樹子『図説ヨーロッパ宮廷の愛人たち』河出書房新社、2010年