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【中国史】外戚と宦官
更新:2016-07-01 掲載:2016-05-08 執筆:三成美保
(1)中国史における宦官
中国史上、「宦官」がとくに専権をふるったとされる時代は、後漢、唐、明である。ただし、宦官についての記事は、すでに殷代に存在した。戦国時代以降に成立した『周礼』(儒教経典の1つ)は、中国の理想国家のあり方を示しているが、その記述のなかに宦官が内廷の雑役に従事していることがうかがえる。[猪原2015:p.226]
○隋(文帝) 内侍省(宮廷の維持管理を担当)を設置⇒宦官専任の官署[猪原2015:p.226]
○1923(辛亥革命後) 溥儀の意向で宦官を全廃[猪原2015:p.228]
宦官は、二重の意味で「孝」の原理に反する反儒教的存在であった。「孝」の原理とは、①祖先祭祀を絶やさないこと、②親から与えられた身体に欠損を生じさせないことである。宋代以降、宦官の影響力が衰えるのは、儒教的規範が民間に浸透していく過程と重なっていた。[猪原2015:pp.229-230]
女帝や皇太后などによる垂簾聴政の時代には、宦官が政治参加することが多くなった。[猪原2015:p.229]
【参考文献】
猪原達生「宦官」小浜正子編『ジェンダーの中国史』勉制出版、2015年、pp.224-235
【コラム(比較)】ビザンツ帝国などの宦官(小浜正子)
「宦官は、中国だけでなく、世界史上の多くの帝国に存在した。古代エジプト、メソポタミア、ペルシア、ビザンツから、ムガル帝国、オスマン帝国まで宦官が見られる。古代のギリシア、ローマにも存在したというが、中世の西欧では、キリスト教の浸透にともなって衰えた。日本は、歴史的に宦官を持たなかった、世界史上まれな地域である。
宦官のセクシャリティに対するとらえ方は社会によって一様ではない。中国では、父母から受け継いだ身体を傷つけ、また子孫を残すことが出来ない宦官は、儒教的倫理から否定的な存在と考えられていた。しかし古代キリスト教世界では、宗教的清貧の思想から自ら生殖器を切り落とすことが流行し、ビザンツ帝国では、キリスト教によって賞賛される「聖なる第三の性」だとされていた。
ビザンツでは、宦官の活躍が知られ、歴代の皇帝の側近として内廷で権力を振るっただけでなく、ユスティニアヌス一世時代の将軍ナルセスや、総主教となった聖イグナティオスや聖メトディオスなど、地方長官や軍の司令官、教会の総主教にもなることができて、さまざまな分野で活躍している。(小浜正子)」
(出典)『読み替える(世界史編)』73頁から引用
【参考】「4-5.外戚と宦官(小浜正子)」(『読み替える(世界史編)』には、以下の項目が記載されています。ご参照ください。
「皇帝権力を操るものー家産制国家の外戚と宦官」「皇太后と外戚」「宦官の活躍」「関連資料3件」「コラム1件(上述引用記事)」
(2)中国における著名な宦官
【著名な宦官ー①蔡倫(後漢)】
蔡倫(さい りん、50年? - 121年?)は、後漢の宦官。
後漢は外戚と宦官の間で国家権力掌握を激しく争ったが、鄭衆と蔡倫はその初期の人物である。製紙法を改良し、実用的な紙の製造普及に多大な貢献をした人物として知られている。
明帝治世の75年から宦官として宮廷に登用された。105年、蔡倫は樹皮・麻クズ・魚網などの材料を用いて紙を製造し、これを和帝に献上した。それ以前に使われていたのは、重い竹簡、高価な絹織物であった。蔡倫の作った紙は「蔡侯紙」と呼ばれ、広く使われた。
105年、和帝没後、鄧太后は、章帝の皇太子たる地位を廃され清河孝王となった劉慶の息子劉祜(13歳)を安帝として擁立した。鄧太后は摂政として、外戚と宦官を併用しつつ実権を握った。114年、蔡倫は竜亭侯に封ぜられたが、鄧太后が121年に亡くなると、安帝は宦官の協力を得て鄧一族を粛清した。これに関連して、蔡倫も服毒死を命ぜられたと考えられている。
【著名な宦官ー②司馬遷(前漢)】
司馬遷(しばせん:前145/135年? – 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。周代の記録係である司馬氏の子孫で、父は太史令の司馬談。父の死から3年間の喪に服したあと、前108年に司馬遷は太史令の官職を継承した。前104年から『史記』の執筆に取り組んだ。
漢と匈奴の関係は悪化し、前99年、武帝は派兵を決断した。このとき、李陵が単独行動を願い出た。武帝は出陣を許したが、結局敗退し、武帝は李陵に激怒した。李陵を擁護した司馬遷は責任を問われ、前98年、司馬遷は宮刑に処せられた。牢獄に繋がれてから4年後の前96年、大赦によって司馬遷は釈放された。そして彼には中書令の任が下った。
中書令は、宮中の文書を扱う役職(皇帝への奏上文書・皇帝の詔の接受)であり、太史令よりもはるかに上位の重要ポストであった。しかし、中書令は宦官が担う役職であったため、司馬遷にとっては屈辱であった。『史記』完成のために自害しなかったとも言われる。前90年、『史記』を完成させた。したがって、司馬遷の場合、本人が望んで宦官になったわけではない。
【解説】宮刑・腐刑
腐刑とは、去勢の刑である。宮刑は、元来は、宮廷や付属する機関で終身にわたって働かせる刑罰を意味した。腐刑(去勢刑)を科された者の多くは、その後宦官となって宮廷に仕えた。【著名な宦官ー③鄭和(明代)】
鄭 和(てい わ:1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えた。
鄭和(もとの名は馬三保)は、雲南でムスリム(イスラム教徒)として生まれた。明の建国によって雲南も討伐された。三保は捕虜として去勢され、のちの永楽帝に献上された。永楽帝の信任あつく、宦官の最高位である太監につき、7回にわたる大航海に出た。
【比較】オスマン帝国の宦官
○オスマン帝国では、宮廷内に白人宦官と黒人宦官がいた。白人宦官は、小姓の養育・監督にあたり、ハレムの女性の養育・監督は黒人監督が担当した。それぞれの宦官長は、昇進や推挙に関与したので、その権限は大きかった。(林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社、1997年、49頁)