【法制史】中世末期~宗教改革期の国家と社会

*【特集8】法制史(西洋)(執筆:三成美保/初出:三成他『法制史入門』、一部加筆修正)

 宗教改革と国家

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ルター(Lucas_Cranach_d.Ä._-_Martin_Luther,_1528)

中世社会を決定づけていた普遍的教権と普遍的帝権という観念は、ルネサンスと宗教改革(1517年)により崩壊していく。ボダン(1530-1596年)の主権論、マキアベリ(1469-1527年)の国家理性の思想、ホッブス(1588-1679年)の絶対君主制擁護論などをへて、イギリスやフランスでは、17-18世紀に絶対主義国家が実現する。いっぽう、ドイツでは、帝国を犠牲にして領邦国家レベルで主権国家形成が進められる。新たな国家には、平和と法のための責任と、福祉と社会秩序維持のための責任が負わされることになる。

宗教改革により生じたカトリックとプロテスタントの宗派対立は、帝国を宗教戦争にまきこんだ。帝国の分解をふせぐためにとられた妥協策が、アウグスブルクの宗教和議(1555年)である。これは、帝国等族にルター派(カルヴァン派については 1648年以降)への改宗権を認め、領民は領邦君主の選んだ宗派に属することを定めたものである(その地の宗教は統治権者の宗教によって決定される)。プロテスタント地域では、領邦教会制が組織されていく。また、帝国教会法により新旧両派同権の原則が定められ、帝国諸官庁では二宗派に平等な人的構成がとられた。しかし、宗教的寛容は、18世紀に啓蒙思想の影響が強まるまで保障されなかった。

プロテスタント国家では、いちはやく国家の世俗化が進む。聖職者の影響力ができるだけ排され、法律家が行政・司法で積極的に登用されはじめた。かつて教会が独占していた婚姻と道徳の監督もまた、世俗国家に委ねられる。ただし、ツヴィングリ派やカルヴァン派に属したスイスの諸都市では、むしろ、神政一致が極端な形で進められた。いっぽう、バイエルンなどカトリックにとどまった領邦では、カトリックの改革をとなえるイエズス会が、しばしば宗教と教育を独占した。

【関連項目】⇒*【文化】活版印刷術の発展ーグーテンベルク(三成美保)

経済と社会 

新航路の発見により、ヨーロッパの商業路は大変化をとげた。商業の中心が、地中海から大西洋に移ったのである。大西洋交易とインド航路により利益を得たのは、スペイン・ポルトガル、のちには、イギリス・オランダであった。ドイツは、この経済変化に遅れをとったばかりか、最後にして最大の宗教戦争である30年戦争(1618-1648年)の戦場となったことで、壊滅的被害をうけた。中世以来の諸都市は、国際的競争力を失ってしまう。ツンフト手工業は閉鎖化して、人材登用にも、新技術導入にも消極的になる。その結果、毛織物業や綿織物業などの新しいタイプの産業は、17世紀後半以降、農村工業として展開することになる[プロト工業]。

北東部では、ハンザ同盟が崩壊し、東部の穀物輸出の担い手は、騎士農場主にかわる。とりわけエルベ以東では、15-16世紀以降、農場領主が市場を独占するべく、農民を世襲隷属身分に落としていった。グーツヘルシャフト(農場領主制) の成立である。農民たちは、自己の土地から追放され[農民追放]、かつての自由身分を失い、土地緊縛とゲジンデ奉仕(領主のための強制労働)を義務づけられていったのである。農場領主は、農場内の唯一の土地領主かつ体僕領主であるとともに、下級裁判権と警察権をも掌握した。

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【地図】1618年頃の中欧における宗派分裂の状況

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ドイツ北部はルター派(薄オレンジ色)
オランダはカルヴァン派(濃いピンク色)
スイスはツヴィングリ派(薄茶色)
ボヘミア(ベーメン)はフス派(ピンク色)
カトリック(藤色)
カトリックが多い地域(薄い藤色)