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【法制史】中世ヨーロッパの封建社会(概説)
更新:2015.12.26 掲載:2014.03.18執筆:三成美保(初出:三成他『法制史入門』)
封建社会の確立
11世紀初から13世紀末にいたる300年間(中世盛期)は、ヨーロッパ史のなかでも特筆すべき経済成長の時代にあたる。ごくわずかながら気温がじわじわ上昇し、11世紀中葉から14世紀初めまでの250年間、乾燥した高温期がつづく(※下記表の「中世温暖期Medieval Warm Period」参照)。
三つの大きな技術的改良、すなわち、①鉄製の新しい農器具(とくに馬につなぐ重量有輪犂 )の開発、②三圃制の普及、③開墾運動の展開により、農業生産力は飛躍的に上昇した。農業生産の上昇は、未曾有の人口増加をもたらした。英独仏では、およそ3倍の人口増があったと言われる。農村の数は増え、都市が発生していった。商業・交易の拡大により、ヨーロッパ社会に貨幣経済が浸透していくのである。
【参考】気温の変動
11世紀は、封建制の確立期にあたる。封建社会では、所領紛争がたえず、戦闘に満ちていた。戦闘のプロである騎士が生まれ、騎士文化が栄えた。「祈る人、戦う人、働く人」[聖職者、貴族、農民]という三身分が、それぞれの職分をもつものとして定式化されたのもこのころである(三職分論)。
教権と帝権は、ともに普遍性権力として、たがいの優劣を競った。しかし、聖俗の世界は、人的には密接な関係を保っていた。教会は、最大の封建領主であり、高位の世俗貴族の子弟が、しばしば高位聖職者として、聖界所領の領主となっていたからである。
封建社会の危機
14-15世紀(中世後期)には一転して、ヨーロッパ社会は、危機の時代にはいる。農産生産力の下降、廃村化の進展などにより、経済成長はいきづまる。経済停滞の直接の被害者は、地代収入に依存する封建貴族であり、貴族を顧客とする大商人であった。しかし、特権層の危機は、村の共同体農民や、都市の一般ツンフト市民(手工業者)にとっては、みずからの地位を上昇させる格好の機会となった。農民は、共同体を拠点に領主への抵抗運動をくりひろげた。また、多くの都市でツンフト闘争がおこり、都市貴族による寡頭制からツンフト市政への転換が実現した。
政治的にも、中世後期は、混乱と再編の時代であった。英仏の百年戦争(1337-1453年)、イギリスのバラ戦争(1455-1485年)などの長引く戦乱により、封建貴族の勢力が再編され、英仏では王権が伸張した。いっぽう、神聖ローマ帝国では、帝権が没落し、かわって領邦君主が台頭する。カトリック教会では、70年にわたる教皇のアビニヨン捕囚(1309-1376年)の結果として、教皇権が失墜した。これをうけて、公会議[宗教会議]にキリスト教界の全権をあたえて、教会改革をおこなおうとする公会議主義が主導権をにぎった。
経済的、政治的混乱は、社会的危機をも増長させた。14世紀後半のペスト大流行により、ヨーロッパ全土で人口の三分の一が失われたという。社会不安は、終末思想をはやらせ、鞭打ち苦行団の大流行やユダヤ人虐殺など、多くの人びとを一種の集団狂気ともいえる行動にかりたてていったのである。
【参考】死の舞踏
「死の舞踏」(1490年頃)Der Totentanz in der Dreifaltigkeitskirche von Hrastovlje/Slowenien (um 1490)