6-6.中世ヨーロッパの都市と農村

掲載:2019-12-30 執筆:三成美保

→『読み替える(世界史篇)』6-6.中世ヨーロッパの都市と農村(三成美保)

中世都市法

中世都市の成立

11-12世紀の経済発展は、ヨーロッパ各地に都市を生みだした。支配と従属を基本とする封建社会にあって、都市は、「自由と自治」を享受できる特権集団であった。だれでも都市に1年と1日以上滞在すれば自由身分になることができるというルールは、1160年にはじめて登場するが、その後14世紀末まで多くの都市法にも見られる。これが、「都市の空気は自由にする」の原則である。

中世社会における自由は、近代的な意味での絶対的・普遍的な自由ではない。それはたしかに、支配権力からの解放を意味した。しかし他方で、自由は、特定の身分や集団に属する特権としての自由であり、自由の内容・程度もそれぞれ異なる。都市の自由も、例外ではない。それは、都市君主からの解放を意味する。同時に、都市の自由は、市民個人に保障された自由ではなく、都市共同体に認められた特権としての自由であり、近隣農村を経済的支配下におく権利を意味したのである。

中世都市は、アルプスを境に、地中海型アルプス以北型に大別される。前者の典型は、イタリア諸都市である。イタリアでは、都市が周辺農村を支配する、人口10万にも達するような都市国家が形成された。アルプス以北では一般に、農村と都市は、法的地位も景観もまったく異なる。パリ・ロンドンといった例外的な巨大首都をのぞけば、大都市でも人口1-2万にすぎない。全都市の9割以上が、人口2000以下の小都市であった。

帝国都市ネルトリンゲン(ドイツ)Nördlingen:Kupferstich 1651 (Andreas Zeidler)

ドイツでは、中世末期におよそ3000の都市が存在したが、成立事情にもとづき、二種に区別することができる。①自然成長的都市と②建設都市である。

①自然成長的都市
自然成長的都市は、10-11世紀に、しばしば、司教座所在地や交通の要衝に成立した。多くは、遠隔地商業の拠点となる大都市であり、のちに、帝国自由都市として、完全な自由と自治を享受する。

②建設都市
建設都市は、築城権や市場開設権をもつ国王、司教、のちには、領邦君主が都市君主となり、自然成長的都市にならって、自領につくったものである。一般に規模も小さく、ほとんどは、領邦君主に支配されるラント都市にとどまる。近隣商業や手工業が生業の主体で、自由と自治はおおはばに制限されている。

都市共同体と自治行政

都市がもつ特権の内容は、地域により、また、都市により、かならずしも同一ではなかったが、代表的な帝国都市について言えば、おおよそつぎの6つとなる。①防御施設の築造、②定期市の開催、③商業・手工業の独占、④自治行政、⑤都市法、⑥都市裁判所である。

リューベック市(1572年頃)

①防御施設
周辺農村に城をかまえる貴族が、たがいに戦争をくりかえす日常にあって、市民は、交易の安全を期して、都市自体を堅固な防御施設でかこった。市壁、堀、市門、市塔などである。市壁内は平和領域であり、そこではフェーデが禁じられ、夜は武器携行もまた禁じられた。

②市場
定期市には、週1回ひらかれる週市と、年数回ひらかれる年市(大市)があった。週市はどの都市でもひらかれ、周辺農民と市民とのあいだで日用品が取引された。高価な商品の国際取引をおこなう年市の開催権は、特定の都市に許された特権であった。

③商業・手工業の独占
都市はまた、商業・手工業を独占し、農民の生活に必要な鍛冶屋などをのぞいて、農村での商工業を禁じた。商業・手工業を営む親方は、職種ごとに、ツンフト(同職組合・ギルド)を組織した。ツンフトは、営業の自由を否定した。ツンフトに属さなければ営業活動はおこなえず、ツンフト規制により、品質管理がはかられる反面、親方間の自由競争は禁じられたのである。

④自治行政
ヨーロッパ中世都市の最大の特徴は、都市共同体による自治行政にある。自然成長的都市の発生期には、都市君主制がしかれていた。その後、遠隔地商人を中心として、市民がしだいに力をつけて団結し、都市共同体が形成される。都市君主から自立するさい、ケルンのように、武力による独立運動(コミューン運動)が生じた都市もある。自治行政の対象は、多岐にわたった。軍政、警察、土木、福祉・文教、経済政策などである。

都市共同体の正式メンバーは、市民権をもつ市民である。市民は、男性家長であり、妻子、奉公人は家長の権威に服した。都市内部では、法的・経済的不平等が存在した。市民と市民権をもたない単なる住民とが区別され、市民はまた、都市貴族(門閥)一般ツンフト市民に分かれていた。市民は、都市防衛と納税の義務を負うかわりに、商業・手工業の営業権を保障された。市民権とツンフト権は密接にむすびついていたのである。奉公人や下層民からなる非市民は、市政への権利をなんらもたず、市民の支配をうけた。賎民(刑吏・皮剥人など)、ユダヤ人、非定住者(ジプシー・放浪者・芸人など)などの周縁民は、いっそうの差別にさらされた。

自治政府の代表的なものが、平均12名で構成される都市参事会の制度である。市長、市参事会員は市民のなかから選ばれたが、当初、市参事会員職は都市貴族(門閥)たる一部の有力市民に独占されていた[都市貴族制]。14-15世紀に、都市貴族の寡頭制にたいする批判が高まり、ツンフト手工業者もまた市政への参加権をもとめはじめる。これが、ツンフト闘争である。闘争は、しばしば数十年にもわたってつづき、成功裡におわったところでは、ツンフト市政が成立した。そのばあい、各ツンフトから選出された代表が、市参事会のメンバーのほとんどすべてを占めるようになる。

都市法 

リューベック市に対して賦与された帝国都市としての特許状(1226年)

⑤都市法
都市法の起源は、教皇や皇帝、国王、領邦君主から賦与された特権状にある。のちに都市法は、市民の誓約として、自治的発展をとげる。しかし、すべての都市が独自に法を形成したわけではない。いくつかの地域では、古い都市(母都市)の法が、新しい都市(娘都市)に授与され、都市法家族が成立した。重要な母都市として、マクデブルク、リューベック、ドルトムント、アーヘン、フライブルク、ミュンヘン、ヴィーンがある。母都市は、娘都市の上級審として、法を教示することができた。都市法家族に見られるように、帝国内の都市法には多くの共通点があったが、統一都市法はけっして生まれなかった。

都市法の内容は、特権の確認、市参事会、裁判、刑罰、取引、市民生活など多様である。条文は体系性をもたず、きわめて具体的・個別的である。こうした古さをもちつつも、ローマ法継受以前にすでに、都市法は、公法・私法双方の領域で、新しい法形成をなしとげていた。抵当権、不動産登記制度、借地・借家制度、会社制度、有価証券、海商法、保険制度などである。これらの多くは、19世紀にゲルマン法の一分野として発展する。

(参考記事)→【法制史】ヨーロッパ中世農村の法慣習(三成美保)

都市裁判所 

⑥裁判権
都市の裁判権は、当初は、都市君主に属した。多くの都市君主が、都市裁判官職をみずからの家人(ミニステリアーレン)に委ねた。しかし、まもなく都市は下級裁判権を得る。有力都市は、のちに流血裁判権(死刑判決を下す権限)をも獲得して、帝国自由都市として完全に君主から独立した。

帝国都市のばあい、市民がかかわる紛争は、後述する教会裁判権にかんするものをのぞき、すべて、都市裁判所で裁かれた。都市裁判所の上訴=最終審は、市参事会であった。都市裁判所では、週2回ほど、定期裁判集会がもたれた。そこでの裁判のやりかたは、裁判集会型法発見モデルにしたがっている。裁判官は、進行役をつとめ、市参事会員をもまじえた12名程度の判決発見人が、法を発見した。ローマ法の継受がおよぶ15世紀末まで、ほとんどの都市裁判所には、裁判官や判決発見人のなかに、法律家は存在しない。形式主義・口頭主義・当事者主義の原則が維持された。

伝統的モデルにしたがっていたとはいえ、都市の訴訟手続には、いくつかの重大な変化がみられる。被害者訴追主義(私訴)を原則とすることに変わりはなかったが、犯罪の増加に対応して、治安維持のため、職権による告発と取り調べ(糾問主義手続・公訴)も導入された。

証拠法の分野では、変化がいちじるしい。神判は、すでに13世紀に、教会により禁じられていた。また、仲間による人格保証である雪冤宣誓も、都市下層民などの非市民の犯罪には有効でなくなり、かわって、証拠として、被害者側の目撃証人・自白・世間の評判が重視されるようになる。自白をひきだすため、中世末期にはすでに拷問(のちの糾問主義につながる)が利用されているが、それはまだ非市民にのみおこなわれる不名誉なものでしかなかった。また、自力救済が禁じられた結果、都市当局が公刑罰の主体となる。これと関連して、14世紀ころには、拷問・刑執行の専門職として刑吏が登場した。かれらは賎視され、市民との日常的接触を禁じられた。

公開処刑(ハンブルク、1573年)、中央で刀をふりかざしているのが刑吏親方。Hinrichtung von Seeräubern in Hamburg, 1573 (出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Scharfrichter

ヨーロッパ中世農村の法と社会ー領主制・村落共同体・農村慣習法

更新:2016-05-03 掲載2014.03.18 執筆:三成美保

領主と農民

中世の領主制は、三つの類型に区別できる。①土地領主制、②体僕領主制、③裁判領主制である。

①土地領主制
土地領主制は、領主が農民に農地を貸与するかわりに、地代として労働力(夫役=労働地代)・生産物(現物地代)・金銭(貨幣地代)を徴収する関係である。

②体僕領主制
体僕昇竜聖は、人格的支配関係である。体僕領主は、隷属農民(体僕)の結婚に干渉し、移転を制限して、相続時には財産の一部を徴収することができた。

③裁判領主制
①・②が領主と農民との人的関係であるとすれば、③裁判領主制は、領主の地域的支配権である。裁判領主は、裁判手数料や罰金を取得し、一定の公租を領民に賦課することができた。14世紀以降、領邦国家が形成されてくるとともに、領邦君主が、流血裁判権をそなえた上級裁判領主となっていく。

人口の圧倒的多数をしめた農民の法的地位の変化は、経済的地位の変化と対応していた。 12-13世紀の開墾運動は、エルベ河以東にまでおよんだ[東ドイツ植民運動]。開墾地では、地代減免・自由身分の保障などの優遇措置がとられた。また、成立したばかりの都市は、周辺から農民をひきよせた。このような動きは、非自由農民の地位をも上昇させていく[早期農奴解放]。地代形態が現物あるいは貨幣地代へと変化して、農民は土地緊縛を免れ、移転の自由を獲得した。農民の手元には剰余所得がのこるようになり、ほとんどの地域で体僕領主制が廃止され、農民は自由身分となっていったのである。

地代の変化は、領主直営地の解体と連動していた。森や河などの共有地以外のほとんどすべての土地が農民に貸与されている新しいタイプの荘園が成立した。これを純粋荘園という。純粋荘園の段階では、荘園はもはや生活単位ではない。領主の支配権もまた分裂した。一人の農民は、かならずしも一人の領主に支配されているわけではない。複数の土地領主から土地を借り、別の領主の体僕であり、さらに別の大領主の裁判権に服するということがありえたのである。

村落共同体

領主制の錯綜関係は、農民にとっては、有利に作用した。支配の間隙を縫うように、農村でも13-14世紀には、都市共同体にならって村落共同体が成立する。かつての荘園領主の保護をあてにできなくなった農民たちがみずから結集し、自治組織をつくったのである。

村落共同体は、しばしばいくつかの荘園にまたがって生まれた新しい生活単位であった。自治権の点では、都市共同体(→【法制史】ヨーロッパ中世都市と都市法(三成美保))にはおよびもつかなかったが、村落共同体もまた、一定の権限を掌握した。村民集会は、村役人を選出し、村規約を定め、他村との取り決めや一揆について議論する場であり、また、下級裁判権に属する紛争について判決を発見する裁判集会でもあった。共同体は、領主にたいする抵抗の拠点でもあった。共同体農民は、請願、臣従拒否、仲裁裁判、逃散、武力蜂起など段階をおって、さまざまな手段を用い、領主による恣意的な貢租引き上げや不当な裁判に抗議したのである。

村落共同体の正式メンバーは、村に家屋敷をかまえる中農以上の農民(男性)であった。森や河などの共有地を利用する権利は、共同体成員としての資格と不可分であった。15世紀末からは、農地を相続できない小屋住み農や農業労働者がふえていく。かれらは、限られた権利しかもたず、差別にさらされた。

蜂起農民を批判する瓦版

封建的分裂が著しかった西南ドイツでは、とりわけ共同体の成長がめざましかった。ここでは中小領主が乱立し、14-15世紀の農業危機の時代に、名目化していた体僕領主制が復活する。それは、1525年におこったドイツ農民戦争の主要な原因となった。当時の農民の要求は、「十二箇条」からよく読みとれる。かれらは、「古き良き法」と「神の法・神の義」という理念をかかげた。前者は、農民の伝統的権利・法慣習を領主が侵害することへの抗議であり、そのかぎりで保守的性格をもつ。農民は、領主による法の改革や新法の制定にはきわめて拒否的な態度を示した。後者は、宗教改革者ツヴィングリミュンツァーによりうちだされたキリスト教共和国構想に影響をうけており、領主制を否定・制限しようという革命的な動きとつながった。精神と肉体の世界を峻別するルターは、現世では農民は領主に服従すべしと考えていた。このため、ルターは、農民戦争をはげしく非難し、領邦君主に暴動抑圧と治安維持の任務を期待したのである。
(参考記事)→【法制史】中世末期~宗教改革期の国家と社会(三成美保)

判告集

農村の法慣習を記録したものが、判告集である(→【史料】ヴァイステューマー(農村慣習法))。ドイツ最古の判告の記録は  世紀にさかのぼるが、もっとも多くなるのは15-16世紀である。判告という呼称は、裁判集会で、領主役人の質問にたいして、村の長老など法慣習に通じた者がおこなった「法の判告 」に由来する。地域によっては、法を明らかにするという意味でオフヌンク(スイス) 、また、裁判集会を意味するバンタイディンク(オーストリア)やエーエハフトレヒト(バイエルン)ともよばれた。19世紀に、ゲルマニストたるヤーコプ・グリム(1785-1863)は各地の判告を集め、『判告集』全7巻として刊行した。
(参考記事)→【特論1】歴史のなかの読書ーグリム童話と近代家族の誕生(三成美保)
【法制史】法史学の展開(ドイツ・イギリス・日本)(三成美保))。

判告集は、「古き法」にかんする農民側の回答を記録したものである。しかし、古法の忠実な伝承が書き留められているとはかならずしも言えない。判告集の作成にあたって、領主側の意図的関与は軽視できない。領主側があらかじめ質問リストを作成し、それにしたがって質問して回答を得たらしことは、判告集家族が存在することからもうかがえる。記録にたずさわったのは、一般に領主の尚書局役人であり、記録のさいに領主の利害に即して内容が改竄される可能性もあった。判告の記録は、領主と農民との対立の結果であり、また、原因であることも多かったのである。

内容の点では、領主と農民との関係を規定している部分がもっとも多い。賦役や貢租の義務にかんする規定である。また、共有地にたいする権利、農地相続、農民の身分につての規定もふくまれる。文言は具体的で、法律行為は象徴的である。

(初出:三成他『法制史入門』ナカニシヤ出版、ただし、一部加筆修正)

(参考記事)→【法制史】糾問主義ー魔女裁判の手続き(三成美保)

初出:三成美保他『法制史入門』一部加筆修正