目次
ヘンリー8世と6人の妻たち
最終更新:2023-07-15 掲載:2014.05.25. 執筆:三成美保
ヘンリー8世(1491-1547年/在位:1509-1547年)
兄の未亡人キャサリンと結婚(父ヘンリー7世とスペイン国王フェルナンド2世の協定)。しかし、男子が産まれない
- 王家筋に多くの男子→息子が生まれなければ王位は移転
- →レビ記「人がもし、その兄弟の妻をとるならば、これは汚らわしいことである。彼はその兄弟をはずかしめたのであるから、彼らは子なきものとなるであろう」
- →結婚の「無効」を主張
→教皇クレメンス7世は結婚を「有効」とし、ヘンリーを破門
DVD紹介「わが命つきるとも」
出演: ポール・スコフィールド, ウェンディ・ヒラー, ナイジェル・ダベンポート, ロバート・ショウ
監督: フレッド・ジンネマン
販売元: ソニー・ピクチャーズエンタテインメント、発売日 2011/01/26、時間: 120 分権力か、信仰か…。男は命を懸けて信念を貫いた。
★第39回アカデミー賞® 6部門受賞作品賞/監督賞/主演男優賞/脚色賞/撮影賞/衣裳デザイン賞
【ストーリー】
1528年、英国。ヘンリー8世は皇后キャサリンと離婚し、若く美しいアン・ブーリンと結婚しようとしていた。しかし、カトリックの英国では離婚にはローマ法王の許しがいる。王の再婚を法王に弁護できるのは国中にただ一人、信仰心篤く人望のあるトーマス・モアだけだった。王はなんとか法王に離婚の承諾をもらえるようにトーマスに頼み込むが、彼はそれを拒否。
1年後、トーマスは大法官となり、王に忠実を誓うが離婚には賛成しなかった。ついに王は怒り心頭に達しローマ法王への忠誠を破り、自らの主義を捨てようとしないトーマスに死刑を宣告する…。
権力をめぐる醜い陰謀と、信仰に命を懸ける人格者の生きざまを見事に描いた史劇大作。アカデミー賞®6部門を独占した名作!(作品紹介から引用)【コメント】
裁判では、陪審裁判の場面が登場して興味深い。【参考】トマス・モア
トマス・モア(Thomas More、1478 - 1535)は、イングランドの法律家、思想家。代表作は、『ユートピア』。
1478年 ロンドンの法律家の家に生まれた。
○オクスフォード大学、リンカーン法曹学院で学び、法律家となった。(イギリスでは法律家になるには法曹学院を出ていなければならない。法曹学院については⇒*【法制史】中世の大学と法学教育(三成美保))
1504年 下院議員。
1515年 ヘンリー8世に仕え、ネーデルラント使節などを務めた。
1529年 大法官(官僚で最高位)に就任。<大法官>
14世紀に、コモン・ローによって救済されなかった者を救済するために大法官府裁判所が設置された。大法官府裁判所で蓄積された法を「エクイティ」とよぶ。15世紀に議会が上院と下院の二院制をとるようになると、大法官は、上院(貴族院)の議長を兼務するようになった。大法官にはもとは聖職者が任命されていたが、16世紀には法律家が大法官になるようになる、トマス・モアはその代表的人物。1533年 ヘンリー8世が離婚し、アン・ブーリンと再婚することに強く反対。大法官を辞任。
1534年 国王至上法(国王をイングランド国教会の長とする)に反対して裁判にかけられ、反逆罪とされてロンドン塔に幽閉された。
1535年7月6日、斬首刑に処された。主著『ユートピア』
トマス・モアは、エラスムス『痴愚神礼讃』やアメリゴ・ヴェスプッチの旅行記『新世界』に触発され、1515-1516年にラテン語で『ユートピア』を執筆した(1516年刊行)。ユートピア(Utopia)は、自由、平等で戦争のない共産主義的な理想社会であり、「理想郷」とも訳される。第1巻でイングランドの現状を批判し、第2巻で赤道の南にあるというユートピア国の制度・習慣を描いている。私有財産がなく、自然法と自然状態を善としている。
「羊はおとなしい動物だが(イングランドでは)人間を食べつくしてしまう」(『ユートピア』第1巻)
当時のイングランドでは、地主たちがフランドルとの羊毛取引のために農場を囲い込んで羊を飼い、村落共同体を破壊し、農民たちを放逐していた。トマスは、このような「囲い込み」を批判した。
1509年結婚:最初の妻キャサリン・オブ・アラゴン(1487-1536年)
1487年 スペイン王家の末子として生まれる。父はアラゴン王フェルナンド2世、母はカスティリア女王イザベル1世。
1489年 イングランド王ヘンリー7世の長男アーサー(王太子:1486-1502年)と婚約。
1501年 14歳でアーサーと結婚。持参金は巨額にのぼった。生来病弱のアーサーがまもなく死去。アーサーの弟ヘンリーと婚約(キャサリンがスペインに戻ると、持参金を返却しなければならなかった)。
1509年 ヘンリー8世の即位とともに再婚、イングランド王妃となる。この結婚は、教会法が禁じる近親婚にあたるため(本来は婚姻無効)、教皇ユリウス2世が特免を与えて許可した。
①旧約聖書「レビ記」(「人もし兄弟の妻を娶れば汚らわしきことなり」)に触れる恐れがあった。キャサリンはアーサーとは性的関係がなかったことを宣誓した。
②カスティーリャ・アラゴン両王家はランカスター家(ヘンリー8世の父方の祖先)、ヨーク家(母方)とそれぞれ姻戚関係にあったため、アーサー、ヘンリー兄弟にとってキャサリンは父方でも母方でも遠縁に当たった。
1516年 メアリ(1世)を出産。流産・死産を繰り返し、無事成長したのはメアリのみ。
1533年 ヘンリー8世から婚姻無効を言い渡される。娘メアリは婚外子とされる。その後も死ぬまで離婚を認めず、監禁生活に近い状態ながらイングランドにとどまった。1536年死去。
1533年結婚:2番目の妻アン・ブーリン(1507-1536年)
1507 アンが生まれる。アンは新興貴族出身。
1512 父トマス・ブーリン(1477-1539)は駐仏大使として、ブルゴーニュの首都ブリュッセルに赴く。
1513(アン6歳) アンがフランス留学(マルガレーテの宮廷)。
1514 イギリスとスペインの関係が悪化。これにより、アンはハプスブルク家のマルガレーテの宮廷を離れ、フランス王フランソワ1世のクロード王妃の宮廷に移る。1522年まで滞在。
1516 メアリー(のちのメアリー1世)が生まれる。
1522頃(アン15歳) イングランドに帰国。キャサリン王妃の侍女として出仕する。
1526頃(アン19歳頃) ヘンリー8世(35歳)の眼にとまり、求愛される。
1533(アン26歳) 1月:アンはヘンリー8世と密かに結婚。9月:エリザベス誕生。王子の誕生を願っていたヘンリー8世は激怒した。ヘンリーの寵愛は、ジェーン・シーモアに移る。
1536(アン29歳) アンの裁判。罪状は、反逆(国王暗殺)、姦通(姦通相手は5人の男とされたが、その1人は実弟)、近親相姦(実弟との近親相姦)、魔術であり、死刑判決。ロンドン塔で斬首刑に処せられた。娘エリザベスは庶子となり、王女の称号と王位継承権を剥奪された(エリザベスの王位継承権は1543年の第三王位継承法によって復活した)。
⇒*【女性】メアリ1世とエリザベス1世ー王位継承権をめぐって
DVD紹介「ブーリン家の姉妹」
- 出演: ナタリー・ポートマン, スカーレット・ヨハンソン, エリック・バナ, ジム・スタージェス, マーク・ライアンス
- 監督: ジャスティン・チャドウィック
- 販売元: ポニーキャニオン、発売日 2009/04/01、時間: 115 分
【内容解説】(あらすじ)時は16世紀イングランド。20年にわたる結婚で皇女メアリーしかもうけることが出来なかったヘンリー8世(エリック・バナ)は、男子の世継ぎを産むための愛人を探していた。一族の富と権力を高めるため、新興貴族のブーリン卿は自慢の娘アン(ナタリー・ポートマン)を差し出す。しかし、王が見初めたのは清純で心優しい妹のメアリー(スカーレット・ヨハンソン)だった。王の寵愛を射止めるのは2人のどちらなのか…。断頭台の露と消えた悲劇の王妃アンと、知られざる妹メアリー。ブーリン家の2人の姉妹の間で繰り広げられた熾烈で華麗なバトルに隠された愛の真実とは? いま明かされる、エリザベス1世誕生の秘密がここにある!(作品紹介から引用)
1536年結婚:3番目の妻ジェーン・シーモア(1509-1537年)
ジェーン・シーモア(Jane Seymour, 1509 - 1537)は、イングランド王ヘンリー8世の3番目の王妃(1536年結婚)、エドワード6世の生母。
父ジョンはヘンリー8世の腹心の部下で寝室侍従であった。ジェーンは1532年、当時の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女として仕え始めたが、後に2人目の王妃アン・ブーリンの侍女となった。アン・ブーリンとジェーンは遠縁であり、高い身分の貴族ではない。ジェーンの兄2人は、妹のジェーンを王に近づけ、出世をはかった。
ジェーンは、アンほどの美女ではないが、おとなしく、金髪・色白であった。また、彼女はヘンリーに言い返したことがなく、アンと違いカトリックだった。
1536年、アンが2度目の流産をした翌月、王はジェーンに高価なプレゼントをし、2人の兄を出世させたことで、王の好意が明らかになった。やがて新しい結婚を望む王は、アンを処刑した。刑施行の翌日、王はジェーンとの婚約を公表し、その2週間後に2人は正式に結婚した。
翌1537年、ジェーンは男子 (後のエドワード6世)を出産したが、その月のうちに産褥死した。ヘンリー8世は世継ぎの男子を産んだジェーンに感謝を込めて、6人の王妃のうちでただ1 人、ウィンザー城内の王室霊廟において隣に眠ることを許した。
ジェーンの死後、2人の兄エドワードとトマスは政争に敗れて処刑された。トマス・シーモアは、ヘンリー8世の第6王妃キャサリン・バーと結婚し、その死後、エリザベスとの結婚を画策したとして大逆罪で処刑された。
1540年結婚:4番目の妻アン・オブ・クレーブズ(1515~1557年)
ヘンリー8世は、ホルバインが描いたアンの肖像画を気に入り、遠距離結婚するが、実物を見て気に入らず、即離縁した。
1540年結婚:5番目の妻キャサリン・ハワード(1522~1542年)
アン・ブーリンの従姉妹。不倫をした結果、結婚の2年後に処刑された。
1543年結婚:6番目の妻キャサリン・パー(1512~1548年)
キャサリン・パー(1512頃ー1548)は、読書家で高度な治世の持ち主であった。2度の結婚のあと、ヘンリー8世に見初められ、王妃となる。キャサリンは、メアリーやエリザベスが高度の教育を受けることができるようとりはからい、また、メアリーとエリザベスの王位継承権を復活させるために尽力した。著書は、『祈りと黙想』(1545)、自伝『罪人の嘆き』(1547)。エリザベスは、継母キャサリンを慕った。1547年1月28日、ヘンリー8世が死去。同年4月か5月に、キャサリンはかつての恋人であるトマス・シーモア(1508頃ー1549)と結婚した。トマス・シーモアは、元王妃ジェーン・シーモアの弟。トマスは、新国王エドワード6世(ジェーン・シーモアの息子)の摂政となった兄エドワード・シーモア(1506頃ー1552)に嫉妬して、エリザベスとの結婚を目論んだ。トマス(当時39歳)は妻キャサリンにひきとられているエリザベス(当時14歳)に近づき、エリザベスとトマスの間に関係があるとのうわさがたつようになる。これを心配したキャサリンは、1548年、エリザベスを別の場所に移す。その後、女児を産んだキャサリンは産褥死。エリザベスは大きな打撃を受ける。
1549年、トマスは大逆罪(国王と枢密院の許可なくエリザベスとの結婚を画策した罪も含まれる)でロンドン塔に監禁され、実兄エドワードの命令によって処刑された。しかし、民意を失ったエドワードもまた失脚し、かわって実権を握ったジョン・ダドリー(1502-1553)によって処刑された(1552年)。
トマスの反乱のさい、エリザベスの養育係アシュレイ夫妻と管財官トマス・バリーもまた逮捕されたが、エリザベスの嘆願により処刑を免れた。彼らは、のちにエリザベスの側近となる。
⇒*【女性】メアリ1世とエリザベス1世ー王位継承権をめぐって
「9日間の女王」ジェーン・グレイ
ヘンリー8世の唯一の男子であるエドワード6世は、1553年に死去した。ヘンリー8世の遺言書には、王位継承順位として以下のように指名していた。①エドワード、②メアリ、③エリザベス、④ジェーン・グレイ。①エドワードの死後、④のジェーン・グレイが王位につくが、9日間で廃位された。このため、ジェーンを「9日間の女王」と呼ぶ。
ジェーン・グレイ(1537ー1554)は、ヘンリ8世の妹の孫である。ウォリック伯(のちのノーサンバランド公 ジョン・ダドリー)は、政敵サマセット公 エドワード・シーモア(エドワード6世の母ジェーン・シーモアの兄)に反逆の汚名を着せ処刑した後、息子ギルフォード・ダドリーとジェーンを結婚させた。彼は、熱烈なプロテスタントのエドワード6世を説き伏せ、自分の死後ジェーンを即位させることを指示する勅令を得た。
1553年、エドワード6世が死去すると、ノーサンバランド公はジェーンの即位を宣言した。しかし、陰謀を察知したメアリはすでに逃亡しており、身柄を拘束できなかった。公の一派は惨敗し、メアリが凱旋した。1553年7月19日、メアリ(37歳)が即位。ジェーンとギルフォード夫妻、ダドリー一族は逮捕され、ギルフォードやノーサンバランド公は処刑された。メアリはカトリック信者で、プロテスタントを多く処刑したことから「血まみれメアリ」とよばれる。
ジェーンはこうした陰謀に関わっておらず、メアリも処刑を躊躇した。しかし、ジェーンがカトリックへの改宗を拒否し、スペインが処刑を求めたことから、7ヶ月後に処刑した。そのときジェーンは16才4ヶ月であった。(参考:中野2017:44-47)
参考文献
石井美樹子『図説エリザベス1世』河出書房新社、2012年
中野京子『名画で読み解くイギリス王家12の物語』光文社新書、2017年
『読み替える(世界史篇)』「8-6エリザベス神話(井野瀬久美恵)」2014年