古代エジプトの女王と王妃たち(付:年表)

更新:2017-11-23 大幅更新(年表追加):2015-12-13 掲載:2014.06.08 作成:三成美保

高校世界史教科書に描かれるエジプト

高校世界史教科書ではエジプトは必ず取り上げられるが、その文脈は二極化している。一方では、「古代オリエント文明」の一つとしての「古代エジプト」、他方では、植民地主義に対する独立運動として成立した「エジプト王国」(1922~53)とそれを打倒した「エジプト革命」(1952)である。

「古代エジプト」については、一般に次のような事項が取り上げられている。

  • 「エジプトはナイルのたまもの」
  • 王(ファラオ)による統一国家の形成(古王国・中王国・新王国)
  • 「生ける神」としての王による専制的な神権政治
  • 巨大なピラミッドの造営
  • 遊牧民ヒクソスの侵入による国家の混乱→ヒクソス追放→アメンホテプ4世(イクナートン)によるアマルナへの遷都(アマルナ美術)
  • 太陽神ラーを中心とする多神教→ミイラを作成・「死者の書」・神聖文字(ロゼッタ・ストーン)・パピルス・太陽暦
  • プトレマイオス朝→アレクサンドリアの繁栄・クレオパトラ(アクティウムの海戦)

女性名は「クレオパトラ」のみで、古代エジプト文化の説明のなかでは、女性(女王・王妃・王女)や家族(近親婚)にはほとんど言及されていない。しかし、古代エジプトでは、多くの王妃・王女が政治的・宗教的に重要な役割を果たしており、ファラオを名乗った女王も存在した。また、王家の婚姻はしばしば近親婚(キョウダイ婚・父娘婚など)であり、王家の血統は非常に重視された。ただし、このような近親婚や一夫多妻は、ローマによる支配時代までは王族に限られていた(ティルディスレイ2008:227頁)。

王権を正統化する「イシスとオシリスの神話」によれば、エジプトの神王オシリスは弟セトによって殺害されるが、妻であり妹である王妃イシスによって復活し、イシスはオシリスの息子ホルスを産む。オシリスは冥界を支配する王となり、ホルスが王位継承可能な年齢になるまで王母イシスが息子ホルスを守り育てた。この神話が示すように、王位は父王から息子(長男)に継承されるべきものとされ、母は父王の姉妹が理想とされた。そして、王母は、王が幼いうちはそれを助ける者と考えられたのである。王と王妃、王母と幼王はしばしな「共同統治者」として、国を治めた。クレオパトラの女王即位はエジプトの伝統に則したものにほかならない。

【年表】古代エジプト

ナイル川流域図

前7000頃 農耕・牧畜の開始

○ナイル下流地域を「下エジプト」、ナイル上流地域を「上エジプト」とよぶ。
○古代エジプトの版図は変化するが、ギザのピラミッドが建設されたころからプトレマイオス朝の滅亡まで、人口はおよそ200~500万人だったと見積もられている。
【参考】現在のエジプトは、国土面積100万平方キロメートル(日本の2.6倍)で、97%が砂漠地帯。人口は、約8000万人(2011年)。

下エジプト

上エジプト

前4000~前3500頃 ナカダⅠ期

前3500~前3000頃 ナカダⅡ期

前3150~前3000頃 ナカダⅢ期

前3000頃 上下(南北)エジプトの統一⇒第1王朝の成立(初代王ナルメル)

◆【解説】王権の概念と象徴

古代エジプトの宇宙観は、「神」「王」「死者の霊」「人間界」によって構成されていた。「王(ファラオ)」は、神の世界と人間の世界の仲介役であり、大神官でもあって、神殿の造営、神殿への最大の寄贈者でなければならなかった。この役割を果たす王がいなければ、国は朽ち果てると考えられた。

王の主要な務めは、「マアト(聖なる秩序と正義)」を約束することであった。王は、マアトを維持するために、神殿造営・供物の提供という宗教的行為(大神官)のほか、国境護衛(軍事権)と立法権(最高の裁判官=死刑執行ができる唯一の人物)、行政権(多くの官僚に補佐される)を行使した。また、民の「羊飼い」として、王に集まる財を国の民に再分配しなければならなかった。

王の神性については議論がある。王は超人間的存在と一般に考えられてきたが、それほど単純なものではない。王には、「人間」「王権」「太陽神ホルスの代理人」という三つの側面があり、日常的職務を執り行うときは「人間」、王としての儀式を行うときは、ホルス神の力が移行した王としてふるまう。そして、王は死ぬと、オシリス神に融合する。

王権には王妃の存在が不可欠であった。「マアト」は太陽神の永遠の娘とされ、女神(真実の女神)で表される。王妃は、政治や宗教行事で重要な役目を果たした。王妃は王族から選ばれるのが理想とされた。幼少期から王妃教育を受けており、王女の結婚を王族に限定することで王位継承権の拡散を防ぐことができたからである。

(ショー2014:19-23頁、ティルディスレイ2008:6-27頁をもとに作成)

女神イシス

古王国(オレンジ色)

前2682頃 古王国時代(第3~第8王朝)

前2550頃 クフ王が大ピラミッドを建造⇒三大ピラミッド

ギザの三大ピラミッド

前2145頃 第1中間期(第9~第11王朝)

前2025頃 中王国時代(第11、第12王朝)

○正妃(称号は「偉大なる王の妻」)が登場→王族は一夫多妻制であるが、「正妃」は原則として1人。
○身分制のありかた
大人(タイジン)=王族・高級官僚・神官
小人(ショウジン)=下級官僚(書記・代官)・軍人・職人・農民・牧畜民

◆【解説】「共同統治」の始まり

「共同統治」とは、1つの国を2人の王が同時に治めるという支配形態であり、「唯一のファラオが支配する」というエジプトの伝統に本来は反する。しかし、第1中間期の混乱後に成立した中王国時代に、エジプト最初の「共同統治」が出現する。「アメンエムハト1世(前1994~前1964頃)と息子のセンウセレト1世(前1974~前1929頃)」「センウセレト1世とアメンエムハト2世(前1932~前1896頃)」の共同統治である。その理由について、G・J・ショーは、「王位継承における血統を守ることが最優先の課題になったと思われる」としている(ショー2014:59頁)。

その後、第17王朝における異民族支配のもとで、王は遠征に明け暮れ、国の治世は「共同統治者」としての王妃(王の姉妹でもある)に委ねられるようになった(ティルディスレイ2008:101頁)。「共同統治者」としてとくに有名なのが、第18王朝を開いたイアフメスの生母イアフヘテプである。

(2017-11-23追記)

前1794頃 第2中間期(第13~第17王朝)

○第15王朝(前1630~前1520):ヒクソスが樹立(6人の男王)

第15王朝のタニィ(おそらくはアポフィス王の姉妹であり、その王妃でもあったと推測される)以外は、第15・16王朝の王妃たちについては不明(ティルディスレイ2008:99頁)。

○第16王朝(前1630~前1520):テーベを中心とする王朝(15人の弱小支配者による)(ティルディスレイ2008:99頁)

前1550頃~前1069頃 新王国時代(第18~第20王朝)

前1549/50~前1298頃 第18王朝

前1549/50 イアフメス(位:前1549~前1524頃)が第18王朝を樹立。生母イアフヘテプ(第17王朝セネケンラー2世の王妃)は、イアフメスが幼かったとき、事実上の女王として君臨したとされる。

王妃イアフヘテプ1世ー息子イアフメスの共同統治者

セナクトエンラー・タア1世とその王妃テティシェリ(平民出身)の娘。同父母姉妹である他の2姉妹とともに、同父母兄弟であるセナクトエンラー・タア(セネケンラー)2世と結婚し、王妃となる(キョウダイ婚)。彼女は、少なくとも4人の子どもを産んでいる。息子の一人が、第18王朝を開いたイアフメスである。また娘2人(イアフメス=ネフェルタリイアフメス=ネプタ)はいずれも息子イアフメスの妻となった(キョウダイ婚)。同父母兄弟姉妹による完全な近親婚が続いている。

セナクトエンラー・タア2世は、ヒクソスとの戦闘中に亡くなり、カーメスが王位についたが、まもなくカーメス王も戦闘で死亡した。その後、イアフメスが王位につく。イアフメスが幼かったとき、母イアフヘテプ1世は、息子との「共同統治者」としてエジプトを治めた。ティルディスレイは、イアフヘテプ1世を共同統治者の王妃がはじめて本物の権力(軍事力を含む)を行使した事例としてあげている。(ティルディスレイ2008:101-107頁)

(史料)「彼女はエジプトの兵士を保護し、エジプトを守り、難民を連れ戻し、脱走兵を結集した。そして、上エジプトを平定し、反逆者たちを追い払った」(カルナクで発見されたステラの文言)(ティルディスレイ2008:105頁)

前1480頃 トトメス2世(位:前1491~前1479頃)の正妃ハトシェプスト(トトメス1世と正妃イアフメスとの娘)、幼少のトトメス3世(位:前1479~前1424頃)の摂政として実権を握る。

前1473頃 ハトシェプスト、女王として、内政改革・対外交易を主導

女王ハトシェプスト(在位:正妃~女王:前1490頃~前1457頃)

ハトシェプスト女王

ハトシェプスト女王の葬祭殿

エジプトではじめて「ファラオ」を名乗った女性。父王は、第18王朝第3代王トトメス1世(在位:前1503-1491頃) 、母は正妃イアフメス(第2代王アメンヘテプ1世の王女)。

夫トトメス2世(在位:前1491-前1479頃)は、妾腹の異母兄であった(キョウダイ婚)。トトメス2世は 早世し、彼の唯一の男子であるトトメス3世(在位:前1479-前1424頃)が次王となる。彼の母は身分が低く、彼自身も幼少であったため、ハトシェプストが摂政となる。やがて、彼女は、父王トトメス1世が在位中に自分を後継者として共治王に指名していたと主張し、戴冠式を敢行した。以後22年間、トトメス3世の共同統治者となった。ハトシェプストとトトメス2世の長女ネフェルウラーが、トトメス3世の最初の正妃である(キョウダイ婚)。

ハトシェプストは、その治世中、娘のネフェルウラーに王妃としての役割を担当させた。また、自分への忠誠心を求めて、どちらかと言えば卑賤の生まれの廷臣を多く登用した。その筆頭が、女王の顧問や王子・王女たちの養育係を務めた大家令セネンムト(センムト)である。

ハトシェプストの治世は22年続いた。その後、トトメス3世の単独治世は33年間続いた。トトメス3世の治世の終わり頃に、ハトシェプストの記録はすべて抹殺された。ハトシェプストは「共同統治者」以上ではにものとされたのである。「女王」としての彼女の存在と業績が歴史的に明らかにされたのは、19世紀末のことであった。(ティルディスレイ2008:118ー138頁)

男装したハトシェプスト

参考→『読み替える(世界史篇)』35頁

前1455頃 トトメス3世、エジプトの版図が最大となる。グラーフに王宮(ハーレムを伴う)が築かれる。

前1388頃 アメンヘテプ3世の即位(位:前1388~前1348頃)、エジプトは最盛期を迎える。正妃はティイ

正妃ティイ (前1398頃ー前1338頃)

アメンヘテプ3世は、治世2年に、平民出身のティイ(結婚時12~13歳と推定される)と結婚した。王はこの結婚を大いに宣伝し、ティイの存在を世に知らしめようとした。ティイの父ユヤは、上エジプトの裕福な土地所有者であり、古い家系に属した。母チュウヤは、宗教儀礼で活躍した。ティイは王妃として政治的にも大きな影響力をもった。王との間に6人の子を生み、その一人がアメンヘテプ4世(改名後はアクエンアテン)。第18王朝最後のファラオとなるアイはティイの兄であるとする説もある。(ティルディスレイ2008:146-154頁)

アクナーテンとネフェルティティ

前1347頃 アメンヘテプ4世(位:前1360ー前1343頃;父はアメンヘテプ3世、母は正妃ティイ)、アマルナに遷都。アテン神を唯一神とする宗教改革を断行。アクナーテン(アクエンアテン)と名乗る。アマルナ様式が発展。正妃はネフェルティティ

 

 

 

 

正妃ネフェルティティ

ネフェルティティの胸像(ベルリン国立博物館)

 ネフェルティティは、エジプト新王国第18王朝ファラオであったアクエンアテン(アメンヘテプ4世)の正妃であり、ファラオ・トゥト・アンク・アメン(ツタンカーメン)の義母である。

ネフェルティティは、直系の王族ではなく、出自は不明である。しかし、王妃ティイの兄とされるアイの娘とする説もある。(ティルディスレイ2008:161-174頁)

Tutanchamun_Maske前1343頃 ツタンカーメン(位:前1343~前1333頃:父はアメンヘテプ4世、母は父の姉妹)(キョウダイ婚)。メンフィスに遷都。アテン信仰を否定。

 

 

 

800px-Ägyptischer_Maler_um_1350_v._Chr._001正妃アンケセンナーメン(前1348頃 –前1322以後)

エジプト新王国時代の第18王朝のファラオ・アクエンアテンと正妃ネフェルティティの三女。異母兄弟である若きファラオ・ツタンカーメンの妻となった(キョウダイ婚)。2人の娘を死産したと考えられ、息子はいない。これにより、王の血統を継ぐ後継者は絶え、年老いた大神官アイ(王位:前1333~前1328頃)、将軍ホルエムへプ(王位:前1328~前1298頃)が王位につき、第19王朝に移っていく。

アンケセンナーメンは、当初の名をアンケセンパーテン(Ankhesenpaaten)といった。ツタンカーメンと結婚したさいにアテン神からアメン神に信仰を変え、アンケセンナーメン(アンクエスエンアメン)と改名した。

ツタンカーメンの早世後に、アンケセンナーメンが新王アイ(祖母ティイの兄弟と思われる)の妻となったとする説もある。また、アンケセンナーメン自身がアイと共謀しツタンカーメンを暗殺したという説もある。しかし、ティルディスレイ(2008)はこれら二つをどちらも否定している。前者については証拠が乏しく、後者については子のないアンケセンナーメンは夫の死によって失うもののほうが大きいからである(ティルディスレイ2008:179頁)。

アンケセンナーメンが書いた可能性のある手紙が残されている(手紙自体が偽造かもしれない)。それは、夫を亡くしたエジプト王妃が、ヒッタイト王シュッピルリウマ1世にその王子を夫に迎えて国王としたいとの手紙である。シュッピルリウマ1世は、王子ザンナンザ(ツァナンツァ)をエジプトに送ったが、途中で暗殺された。これ以降、エジプトとヒッタイトの関係が好転することはなかった。(ティルディスレイ2008:178-181頁)

(図は、ツタンカーメンとアンケセンナーメン)

前1298頃~前1187頃 第19王朝(ラメセス朝)

前1298頃 ラメセス1世が王位につく(第19王朝)。ラメセス1世は、もと宰相パラメセス。2年の統治のあと、息子セティ1世が王位に就く。すでに孫息子のラメセス(のちのラメセス2世)も生まれていたため、王朝がとだえる心配は少なかった。

○第19王朝の王妃は、あまり目立たず、王の従属的役割を果たすというもとの役割に戻ることになる。(ティルディスレイ2008:185頁)

前1279頃~前1212頃 ラメセス2世

正妃ネフェルタリ(ネフェルトイリ)

墓の壁に描かれたネフェルタリ

古代エジプト第19王朝、第3代ファラオ、ラメセス2世(ラムセス大王)が王位に就く前に結婚した最初の妻で、のちに正妃となる。両親は不明だが、王族ではない。息子5人、娘4人を産んだとされる。しかし、子のだれも王位にはつかなかった。彼女は、宗教儀礼では大きな役割を果たした。しかし、全体として政治の表には登場していない。

ラメセス2世は平民として生まれたが、父セティ1世が王位についたことで後継者となる。ラメセスは、66年間の統治期間を通じて、エジプト人・異国人を問わず、多くの妻をもち、100~150人の子をもうけたと言われる。

ラメセス2世は、征服した地域で自らの神格化をはかるため、ヌビアにアブ・シンベル神殿を設営した。事実上、大神殿はラメセス2世を祀り、付属の小神殿はネフェルタリを祀るためのものであった。その神殿の正面には、「ラメセスは山をうがって、不朽の神殿を建築した…ムト女神に愛された正妃ネフェルタリのために…ネフェルタリ…のために太陽は輝く」と宣言されている。また、王妃の谷にあるネフェルタリの墓(QV66)は、エジプトでもっとも美しい墓とされる。(ティルディスレイ2008:189-199頁)

アブ・シンベル神殿(正面)

アブ・シンベル神殿

(写真の出展:https://es.wikipedia.org/wiki/Nefertari

前1194頃 セティ2世(位:前1201~前1195頃)の死後、幼少の王シプタハが即位。セティ2世の王妃タウセレトが実権を掌握。

前1189頃~前1187頃 女王タウセレト

前1187~前1069頃 第20王朝

前1069頃 第3中間期(第21~第25王朝)

○第25王朝は、南方のヌビア人の王朝であった。

前664 末期王朝時代(第26~第31王朝)

○第27王朝は、ペルシア人の王朝であった。

○第31王朝は、ペルシア人の王朝であった。

前323 マケドニアのアレクサンドロス大王の将軍プトレマイオスがエジプトのサトラップ(州侯)としてエジプトを統治(前323~前306)

2ー5.ヘレニズム時代の社会と女性(付:年表・地図)

前331 アレキサンドリア建設

前304~前30 プトレマイオス朝

【女性】プトレマイオス朝エジプトと女王クレオパトラ(付:年表)

前278 アルシノエ2世前316 – 前270/260)が実弟プトレマイオス2世と結婚

【女性】アルシノエ2世ー初期プトレマイオス朝エジプトの女王(森谷公俊)

前51~前30 クレオパトラ7世

【女性】プトレマイオス朝エジプトと女王クレオパトラ(付:年表)

前31 アクティウムの海戦

前30 プトレマイオス朝の滅亡

◆【解説】王位継承原理
Amun.svg

アメン神 Typical depiction of Amun during the New Kingdom, with two plumes on his head, the ankh symbol and the was sceptre.

ハトシェプストが王位についた背景には、第18王朝においてかなり明確になった王位継承原理があったとされる。王の姿を借りた国家神アメンが、「アメンの聖なる妻」(正妃の称号)とよばれた正妃と交わることによって、アメンの聖なる血を受け継いだ次王が生まれるとされたのである。このため、王は同腹の姉妹(嫡出姉妹)から正妃を選ぶのが理想とされた。正妃から王子が生まれなかった場合には、しばしば、庶出王子が嫡出王女と結婚することによって王位継承権を得た。(大貫良夫・前川和也・渡辺和子・屋形禎亮『世界の歴史1-人類の起源と古代オリエント』中央公論社、1998年、464頁を参照。)

なお、初期のエジプト人学者が提唱した「女子相続人説」(エジプトの王権は女系で継承されており、王はほとんどの場合、自らの姉妹である女相続人と結婚することでのみ王権を主張することができる)は、20世紀後半の研究によって否定されている。現在では、兄弟姉妹間の結婚は理想的とされたものの、必要不可欠とはされなかったと理解されている。(ショー2014:23頁)

【参考文献】

  • 吉村作治監修、ジョイス・ティルディスレイ『古代エジプト女王・王妃歴代誌』創元社、2008年
  • ギャリー・J・ショー(近藤二郎訳)『ファラオの生活文化図鑑』原書房、2014年
  • 高宮いづみ『古代エジプト文明社会の形成』京都大学学術出版会、2006年
  • A.J.スペンサー(近藤二郎監訳)『図説大英博物館古代エジプト史』原書房、2009年
  • ジャック・ラカリエール(幸田礼雅訳)『エジプトーヘロドトスの旅した国』新評論、1996年
  • 大貫良夫・前川和也・渡辺和子・屋形禎亮『世界の歴史1-人類の起源と古代オリエント』中央公論社、1998年