ゲルマン的法伝統(三成美保)

*【特集8】法制史(西洋)執筆者:三成美保/掲載2014.03.18

ゲルマン古代の社会

500年ころにヨーロッパ最初の統一国家、フランク王国が成立するが、それより前のゲルマン社会では一部にローマ法の影響がおよんだとはいえ(ローマ卑俗法)、 外来法の影響はまだそれほど受けていない。法は記録されず、法格言として覚えやすい言い回しで口伝えにつたえられた。社会はいくつかの身分に分かれ、社会 の主たる担い手である自由人のほかに、神的出自にさかのぼる小数の貴族、非自由人として不完全自由人(解放奴隷や征服された部族)、奴隷がいた。(【地 図】紀元後50年頃のゲルマーニア) 

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戦いなどの重要事は、自由人の全成人男性からなる民会で、全員一致で決められた。多数決は利用されなかった。また、この民会は、裁判集会をも兼ねていた。仲間の保護をうけたり、裁判に参加できるのは自由人にかぎられた。非自由人は、人間としての資格が欠けるとみなされ、家の主人の懲戒権に服した。人びとの生活は、ジッペ(氏族)とよばれる、広い意味での親族集団を単位としていた。領主制は発達しておらず、農地はジッペの集団所有とされ、相続という観念もなかった。

裁判によらない紛争解決

古い時代にはそもそも紛争が生じても裁判はおこなわれず、もっぱら復讐行為とジッペからの追放によって解決された。ある事件がおこったときの復讐行為は、それが現行犯であるか、一夜明けてのちであるかによって異なる。被害にあった者は、大声をだして仲間に助けをもとめる。その声を聞きつけた者は、すぐに現場にかけつけなければならない。被害者を助けようとして、加害者を殺してもさしつかえない。現行犯のばあいには、加害行為と復讐行為がつりあっていなくともよいのである。

一夜明けたばあいには犯人の特定がむずかしくなるため、ジッペのあいだで戦い フェーデ(原意は敵対)がはじまる。そのとき加害者に復讐することもあるが、ジッペのなかでの被害者の位置に相当する人物に復讐してもよい。犯人そのひとへの復讐が問題なのではなく、ジッペの名誉の回復が重要だからである。しかし、戦いをつづけてはたがいのジッペに大きな被害がでるため、しばしば途中で、和解の道がさぐられた。贖罪金の支払いや婚姻によって、和解が成立したのである。

一方、宗教上の犯罪や謀反罪、強姦などの破廉恥罪については、ジッペの保護がうけられない。犯人は、平和喪失者となり、ジッペから追放される。これがアハト刑(追放刑)である。追放された者は、「人間狼」とみなされた。森でかれを見つけた者は、いつでもかれを殺してよいとされ、屍は鳥の餌食とされた。ジッペからの追放は、ほとんど死を意味したが、一定期間のあいだは、身請金を支払って平和を買いもどすことができた。

犯罪と刑罰 

平和喪失者が裁判集会に訴えられ、有罪判決を宣告されるようになったときに、はじめて刑罰が発生した。犯罪は、世界秩序の破壊とかんがえられ、犯罪の種類によって一定の刑罰が対応していた。窃盗犯は絞首、秘密殺人犯は車刑、強姦犯は斬首、姦通など風俗犯は沼地にしずめられた。

犯罪行為は自由意思のはたらきではなく、宿命とみなされた。「行為が存在するのでないかぎり、悪意を見いだすことはできない」とされ、未遂・教唆・幇助は罰せられない[結果刑法]。また、刑罰は呪術的な贖罪とされ、死刑執行が成功しなかったばあいでも、再度の執行は禁じられ、水のもる舟で漂流させて運命を天にまかせるといった「偶然刑」がとられた。

裁判集会型法発見

自力救済(フェーデ)をふせいで、失われた平和秩序を回復し、当事者の和解をもたらすために選ばれたのが、裁判という手続である。したがって、歴史上初期の裁判は、あくまでも個々の具体的ケースで合意を形成するためのコミュニケーションの場であって、一般的法規を適用する場ではない。すべての紛争は、刑事事件としてあつかわれ、民事紛争は存在しない。また、こののち中世をつうじて判決は被告と同じか、より高い身分の人々によって発見されるべきものとされた(仲間裁判の原則)。

ゲルマン的・伝統的裁判制度は、裁判集会型法発見モデルとよばれる。中世盛期以降、ローマ=カノン法的訴訟手続が普及するまで、裁判は、このモデルにしたがっていた。裁判集会の構成メンバーは、裁判長、判決発見人、訴訟当事者である。ここでの裁判長は訴訟の司会役にとどまり、判決を下すレフェリーではない。判決発見にたずさわったのは、裁判集会のメンバーである。裁判の特徴は、厳格な形式主義、当事者主義、口頭主義にあった。すこし言いまちがっただけで裁判にまけることもしばしばあった。

裁判手続

裁判集会型法発見モデルにもとづく手続は、つぎのような段取りですすむ。被害者訴追主義がとられ、職権による告発も事実調査もおこなわれない。「原告なければ裁判官なし」と言われたとおり、被害者あるいはその友人が原告として、被告を裁判集会に召喚することから、裁判がはじまるのである。被告が出頭を拒否すれば、平和喪失となる。原告が被告の法侵害行為を非難することが訴えの提起となるが、この時点で原告が被告に決闘をいどむこともできた。決闘におうじなければ敗訴する。

決闘がなければ、被告は原告の主張をみとめるか、否定する。否定したときには、被告はみずからの主張の正当性を雪冤宣誓(せつえんせんせい)によって証明しなければならない。雪冤宣誓とは、共同体の複数の仲間(3,7,12名など) が被告は偽りをいうような人間ではないと請けあう人格保証の宣誓である。雪冤宣誓が不首尾におわったときには神判(⇒【法制史】神判(神明裁判))が利用される。盟神探湯、鋤刃歩行、水審などである。目撃者などの偶然の証人による証明はゆるされず、証明には形式が重視され、自由心証主義のはいる余地はない。

こののち、判決発見人(すべての裁判集会民)が判決提案をおこなう。判決に疑問をもつ者は、別の判決を用意すれば判決を非難できる。ただし、判決非難は、判決提案者の名誉を非難することでもあるので、よほどの覚悟が必要である。立会人が判決に賛同すれば、判決が確定する。しかし、この判決は、公権力によって執行が強制されるわけではない。判決の執行は、勝訴者の実力にゆだねられた。被告が判決をうけいれようとしないとき、判決は「二枚舌の判決」となる。被告は、裁判所外で原告との直接対決で無実を原告に納得させるか、あるいは、それができなければ、贖罪金を支払わなければならないのである。控訴という手続は、いまだ存在しなかった。

続きはこちら⇒【法制史】フランク時代の法と社会(三成美保)

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初出:三成他『法制史入門』一部加筆修正