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【法制史】ローマ法継受とその影響
2015.02.06更新/2014.03.20掲載(初出:三成他『法制史入門』1996年)三成美保
(1)ローマ法の継受
11世紀末に復活したローマ法(→ユースティーニアーヌス法典)は、ヨーロッパ各地に影響をあたえはじめる。もっとも、中世ローマ法(⇒*【法制史】中世ローマ法学ー註釈学派と註解学派)は学問的に加工された高度な法であり、当時のヨーロッパ諸国にとっては過去の異質な文化の法であった。ローマ法を継受するかどうかは、異文化の高度な学識法と自国の固有の慣習法との闘いをも意味したのである。
ドイツでは、12世紀後半のバルバロッサ時代にローマ法の「早期継受」がおこる。しかし、これは長続きせず、あらためて16世紀にローマ法は「包括的」に継受された。ドイツでローマ法継受がすすんだ背景には、君主権との関係がある。
ゲルマン的な法観念によれば、法は不変であり、君主といえども法に拘束されるとし、裁判は所与の正義を発見するものにすぎないとされた。これにたいして、ローマ法は、法を支配者の意思の表現とみなし、支配者は法を制定・変更するだけでなく、法に拘束されないと考えた。このようなローマ法は、皇帝法として歓迎されたのである。しかし、実際には皇帝を中心とした帝国づくり[帝国改革]に失敗したために、ローマ法は領邦君主の支配権の根拠として利用されていく[領邦絶対主義](⇒*【法制史】神聖ローマ帝国とその諸機関(三成美保))。
ローマ法継受の結果、ドイツではつぎのような変化が生じた。
- ①法生活の「学問化」。ただし、中世・近世ローマ法の学問性とはスコラ学的でカズイスティッシュであり、原理からの演繹により体系的に思考しようとする現代の法学とは異なる。
- ②ローマ法は、「書かれた理性」とみなされ、地域の法慣習が確定されていないかぎりで、補充法として妥当した。
- ③ローマ法継受は、現実のいくつかの立法をうながした。帝国でのいくつかの立法、ラント条令、改革都市法典である。改革都市法典としては、ツァージウスが起草した1520年のフライブルク都市法がもっとも有名である。
- フライブルク市史料については⇒Urkundenbuch der Stadt Freiburg im Breisgau http://www.ub.uni-freiburg.de(フライブルク大学のデジタル史料)
- ④ドイツ法はローマ法のかたすみにおいやられ、ローマ法に規定がなかった部分で発展していく。のちに、これはドイツ私法を構成することになる。
イングランドでは、1236年、マートンの議会でローマ法の継受そのものが拒否されたと言われる 「われわれは、イングランドの法を変更することを望まない」 。実際には、12世紀にオクスフォード大学で市民法が講義されるなど、ローマ法は、教会法・教会裁判とむすびついて、中世イングランドでは一定の影響を及ぼした。しかし、世俗事件を管轄する中央の3裁判所では、ローマ法は利用されず、もっぱら判例法たるコモン・ローが蓄積・適用された。いっぽう、スコットランドは、ローマ法を継受した。フランスでは、本来の継受はおこなわれず、もっぱら南部の成文法地方で、ローマ法の個々の規定が通用したにすぎない。フランス北部では、パリ慣習法などの慣習法が支配した。スイスでも、バーゼル以外では、ローマ法はほとんど影響をあたえなかった。
(2)法学文献の流布
ローマ法の継受は、法学文献の流布と深く関係している。文献の流布は、15世紀なかばに、印刷術が発明された結果であった(⇒*【文化】活版印刷術の発展ーグーテンベルク(三成美保))。それまでの法学文献は、羊皮紙に一字ずつ書き写したものであった。高価なうえに、誤りも多い。いまや、比較的安価で、正確なテキストを利用できるようになったのである。
16世紀初頭以降、出版された法学文献は、いくつかのタイプに分けられる。①書式集、②訴訟鑑、③ローマ法の教科書[法学提要]、④鑑定集、⑤官房学文献である。①・②・③がドイツ語で書かれ、素人である法名望家を対象とした平易な手引き書であるのにたいして、④・⑤は、学識法律家を対象とした高度に専門的なラテン語の文献である。
- ①には、書簡文形式の範例にまじって、訴訟や契約のための範例ももりこまれていた。
- ②は、ローマ法の教育をうけていない伝統的な裁判官や判決発見人・代言人のための書物である。そのもっとも重要なものは、『阿呆船(Narrenschiff)』(1494年)(→史料全文・ドレスデン大学・PDF:1494年バーゼル版)の著者としても有名な人文主義者セバスチャン・ブラント(バーゼル大学法学部教授:1457-1521)が編集した『訴訟鑑(Klagspiegel)』(1516年)(→史料全文:ハイデルベルク大学・デジタル史料)と『素人鑑(Layenspiegel)』(1509年)[著者は、ウルリッヒ・テングラー(c.1447-1511)](→史料全文:ハイデルベルク大学・デジタル史料)である。
- ③は、広範な教育的効果をねらっていたが、ローマ法大全そのものは、ドイツ語に訳されることも、一般に流布することもなかった。
- ④は、裁判で助言・鑑定活動にたずさわった個々の法律家の助言や法科大学判決団等の決定をまとめたもので、1538-1630年のおよそ100年間に200巻もの助言文献が出版されている。
- ⑤は、実務に大きな意義を有した帝室裁判所の判決を個々の裁判官が公刊したものである。(⇒*【法制史】神聖ローマ帝国とその諸機関(三成美保))
これらの法学文献は、実務文献であって、概念的・体系的性格をもっていない。法学における体系的思考は、17世紀以降の理性法の時代をむかえて、しだいに深まっていくのである。
【参考】テングラー『素人鑑』
右図:テングラー『素人鑑』(1510年)挿絵:刑罰
16世紀に14版も重ねるほど広く読まれた。執筆の目的は、ローマ法の内容をできるだけわかりやすくドイツ語で解説することにあった。
- 著者のテングラーUlrich Tengler(⇒https://de.wikipedia.org/wiki/Ulrich_Tengler)は、正式な大学教育はうけていないが、都市書記(帝国都市ネルトリンゲン)やラントフォーク職などにより裁判実務に携わった人物である。初版は1509年で、1511年には改訂版が出された。出版したのは、ブラントの著書を手がけていて、当時もっとも有名な出版者であった Johann Rynmann von Öhringenである。
- 『素人鑑』は3部構成をとり、私法・刑事法・公法に分かれる。刑事法については、『魔女への鉄槌(Malleus Maleficarum)』(1487年)、『バンベルク刑事裁判令(Constitutio Criminalis Bambergensis)』(1507年)などが参照されている。テングラーは、魔女裁判の熱心な支持者であった。(2014.09.16:三成)
- 史料『素人鑑Laienspiegel』⇒ https://www.historisches-lexikon-bayerns.de/Lexikon/Laienspiegel
(3)人文主義法学
16世紀初頭に、「イタリア学風(mos italicus)」の古い教義学的な法学にたいして、人文主義とルネサンスの影響のもと、フランス中部のブールジュ大学を拠点として法学の改革運動がおこった。人文主義法学の誕生である。それは、「フランス学風(mos gallicus)」あるいは「典雅な学風(mos elegante)」とよばれる手法をとっていた。「源に立ち帰れ(ad fontes)」を合言葉に、古典期の典雅なローマ法文とその法秩序を復元することがめざされたのである。古典ラテン語で書かれていないため典雅とはいえないローマ法大全は、そのための歴史的史料とみなされた。大全の批判的、文献学的考察の過程で、編纂時の改竄もまた明らかにされていく。
人文主義法学の代表は、フランスのクヤキウス[キュジャス](Jacobus Cuiacius:1552-1590年)とドネルス[ドノー](Hugo Donnellus:1527-1591年)、ドイツのツァージウス(Ulrich Zasius:1461-1535年)(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Ulrich_Zasius)である。かれらは、「ギリシア語は読まれず」という伝統的な立場をすてて、バシリカ法典やローマ時代の法学以外の文献にあたりながら、ローマ法条文の新しい解釈をおこなおうとした。人文主義法学は近世を通じてつづく。しかし、あまりにも該博な知識がなければ参加できないような人文主義法学そのものは、それほど広まったわけではない。むしろ、つぎの新しい段階(パンデクテンの現代的慣用)に継承されたのは、ローマ法大全の条文を批判的に見るという姿勢であった。
(4)パンデクテンの現代的慣用
16世紀末に登場し、18世紀にピークをむかえた新しい法学の様式を「パンデクテンの現代的慣用(Usus modernus pandectarum)」とよぶ。この語は、ハレの法学教師シュトリック(Samuel Stryk:1640-1710年)(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Samuel_Stryk)が1692年に著した書物の表題に由来する。語の趣旨は、ローマ法を「現代」にふさわしく使用することにある。すなわち、ローマ法の条文をもはや「書かれた理性」とみなすことをやめ、形式主義的な註釈学的方法論からはなれて、ローマ法を法廷での実務に役立てようとしたのである。
ドイツで、ローマ法を相対化するのに決定的な役割を演じたのが、コンリング(Hermann Conring:1606-1681年)(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Hermann_Conring)である。16-17世紀のドイツの法律家は、1131/35 年に皇帝ロタール3世によって、ローマ法は皇帝法として継受されたと信じていた。コンリングは、1643年の有名な論文「ゲルマン法の起源について De origine iuris germanici 」で、ロタール伝説が後世のつくりものであることを明らかにし、ローマ法は裁判と慣習をつうじて受容されたと論じたのである。これにより、ローマ法の妥当性根拠がゆらぎはじめ、ローマ法と固有法や実務との関係が問われるようになっていく。
【参考】ロタール伝説
ロタール伝説とは、16世紀初頭に登場し、1643年にH.コンリングによって否定されるまで信じられていた伝説である。それによれば、アマルフィ征服後の1135年に皇帝ロタール3世の立法によってローマ法が神聖ローマ帝国に導入され、ローマ法と対立する法は排除されて将来ローマ法を変更することもできなくなったとされた。この伝説は、皇帝立法を正当化し、皇帝法としてのローマ法の優位性を根拠づけるものとして利用された。しかし、コンリングがロタール伝説を否定した結果、ローマ法は一挙にまるまる導入されたのではなく、実務に適用されたり、ゲルマン的な法慣習と調整されながら、さまざまに変更されつつ導入されたことが明らかとなった。
パンデクテンの現代的慣用の代表者のほとんどが、ザクセン法地域の出身であったことは注目すべきである。かれらの多くは、純然たる理論家ではなく、参審人や裁判所判事としての実務経験をもっていた。ザクセン法は、古いゲルマン法的伝統をもっとも強く残していた法である。この強力な伝統のもと、実務に通じた法律家が、ローマ法をドイツの実情にあわせて変更していったのである。
その一例が、普通民事訴訟法である。帝室裁判所で用いられていた手続(カマー訴訟)は、17世紀に、カルプツォフ(Benedict Carpzov:1595-1666年)に代表されるザクセン派の影響をうけて変化した。ローマ=カノン法的な分節訴訟が廃止され、古い位置訴訟が略式訴訟へとかわった。ローマ=カノン法とドイツ固有法が融合して生まれた普通民事訴訟法は、一括審理主義、非公開主義、書面主義、弁論主義、形式的証拠主義を原則としていた。そして、それは、19世紀にいたるまで、ドイツ民事訴訟法の基礎でありつづける。