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【法制史】法史学の展開(ドイツ・イギリス・日本)
2015.01.19掲載 執筆:三成 美保
はじめに
法制史は、法制度・法文化の歴史的研究を課題とする学問であり、法哲学・法社会学とならんで、基礎法学の一分野をなす。同時に、法制史は、歴史の一般現象を扱う一般史・社会史とは異なり、経済史などとならぶ特殊歴史学の一つである。基礎法学ならびに特殊歴史学の一つであるという点に、法制史の存在意義をさぐる手がかりとむずかしさがある。
(1)法解釈学と法制史との関わり
両者の関わりについては、意見が分かれている。法制史は歴史学であり、法解釈学とはまったく異質な学問とする見解(世良晃志郎)もあれば、法解釈学との連携を意識的に追求する立場もある。法史学発祥の地ドイツでは、当初、法制史は法解釈学に従属しており、民法典成立とともに、法制史が法解釈学から自立するという経緯をたどった。ドイツの大学法学部では、法制史をふくむ基礎法担当教授は、民法や刑法の筆頭教授をつとめるのが常であり、実定法と基礎法とのつながりはきわめて強く意識されてきた。しかしながら、近年、司法試験受験科目から法制史がはずされ、法制史に対する学生の関心の低下が指摘されている。
(2)法制史の対象
法制史の課題は、文化現象としての法の特性を明らかにすることにある。法慣習のような不文の法であれ、成文法(法律)であれ、法は、認知された規則を介した人間共同体の秩序と定義できる。法が妥当するためには、法の侵害に対して制裁を加えうる権力(共同体・君主・国家など)が存在しなければならないが、権力の法定立動機と社会の実態とはしばしば矛盾しうる。
ここから、次の三点が、法制史の考察課題として設定されうる。①時代や地域ごとに異なる法秩序を確定するための法源収集と法源の特性の研究。②当該社会における法秩序の生成過程の歴史的検討。近代的法概念を普遍的とみなす概念法学の立場から一時、史料を近代的法概念に照らして解釈する必要性が唱えられたこともあったが、今日の法史学では、法秩序の歴史的前提の解明が重視されている。③法の機能・実効性の解明。
(3)法史学の展開
①ドイツ
法史学は、19世紀初頭のドイツで成立した歴史法学派により、近代的学問として誕生する。この学派の創始者で、『歴史法学雑誌』(1815-)創刊者の一人サヴィニー(1779-1861)は、法は民族精神の発露であり、法は民族とともに生成発展すると唱えた。いっさいの法学は本来的に歴史法学であらねばならず、歴史的方法と体系的方法にのっとった法学Jurisprudenzこそ、法科学Rechtswissenschaftたりうると、サヴィニーは考えたのである。法の歴史性は確認されたものの、国民国家形成にみあった一国法制史が展開する端緒もここにあった。
しかし、歴史法学派の主流派ロマニステンの考察手法は、けっして、本来の意味で歴史的とよべるものではない。ローマ普通法は、19世紀のドイツ全体に通用しうる現行法にほかならなかった。ロマニステンがめざしたのは、古代ローマ法の遺産、とりわけ学説彙纂(パンデクテン)を加工してそこから重要な法原理や概念を導き出し、近代私法学(パンデクテン法学)の樹立をはかることであった。法史学的考察は、たしかに法解釈学と密接に結びついていたが、それは、法解釈学の婢女として奉仕する限りにおいてにすぎない。
ロマニステンとは対照的に、歴史法学派のなかのゲルマニステンは歴史的方法を重視した。中世法史料の編纂に努めたグリム、ドイツ私法史に大きな業績をのこしたギールケ、アミラのゲルマン刑法史が著名である。しかし、なかには、後世、ゲルマン・イデオロギーとして批判される傾向を色濃くもち、ナチスに利用される素地をもったものも少なからずあった。
パンデクテン法学の総決算ともいうべきドイツ民法典の成立(1896)によりようやく、法制史は法解釈学から切り離され、自立する。法制史は、「過去」の法を対象とする歴史学となり、国制史や一般歴史学、社会経済史とのつながりを深めていくが、それは、法律学における法制史の位置づけの低下をも意味した。法典を手にした法解釈学が法史学の助けを必要としなくなったことをうけて、第一次大戦ころから、法学教育における法制史無用論が登場する。戦後、法制史が司法試験の必須受験科目からはずれたことで、危機感はいっそう強まっている。
⇒*【法制史】ドイツ同盟体制(三成賢次)
⇒*【法制史】ドイツ民法典の編纂(1874-1896年)(三成賢次)
②イギリス
コモン・ローの伝統をもつイギリスでは、法の歴史的継続性がきわめて大きい。しかし、コモン・ローの実務教育が法曹学院でおこなわれた結果、大学におけ るイギリス法講義はかなり遅れた。それは、18世紀半ば、近代イギリス法学の祖ブラックストンにはじまる。かれの『イングランド法釈義』 (1765-69)は、イギリス法学史上の金字塔とされ、英米でもっとも基本的なコモン・ロー教科書とされた。
19世紀には、法の歴史性を無視して論理的 側面から実定法を分析しようとする分析法学と、法の歴史的発展過程の一般理論を構築しようとした歴史法学が、二大潮流となる。歴史法学の代表は、「身分か ら契約へ」というテーゼで有名なメイン『古代法』(1861)と、法の歴史的な型を考察したヴィノグラドフであり、後者との出会いから、イギリス最大の法 制史家メイトランド(1850-1906)が誕生した。メイトランドは、終生をイギリス法制史料の編纂事業にささげるいっぽう、主著『イギリス法制史』 (ポロックと共著であるが大部分はメイトランドが執筆、1895)でコモン・ロー成立史をまとめ、初期議会史研究にも貢献した。かれの学説は、今日まで多 くの批判をあびているが、いまなおイギリス法制史学の背骨をなしているといわれる。
国民国家の成立とともに、法制史は、それぞれの国における一国法制史と して発展した。しかしいまや、EU統合の進展をにらんで、ヨーロッパ法文化の共通性に着目したヨーロッパ法史も提唱されている。
③日本
わが国で東西の外国法制史が重要な意味をもったのは、法の継受(古代律令法・西欧近代法)という問題が関わっているからにほかならない。わが国初の法制史関連科目はローマ法であり、イギリス人教師が担当した(明治7年東京開成学校)。西洋法の共通の基礎であるローマ法の重要性を反映しているといえよ う。
明治初期に、律令制が再認識されたことと関連して、日本法制史に関する最初の講義は、「日本古代法律」(明治10-19年東大)であっ た。「法制沿革」(明治22(1889)-26年(1893)東大)がそれに続く。担当は宮崎道三郎(1855-1928)であった。宮崎は、「伯林大学ニ入リ主トシテ沿革法理学及民法総論ヲ修業可致事」という目的で1884-88年にドイツに留学した。ドイツで彼は、ハイデルベルク大学(1884年)、ライプツイヒ大学(1885、87年)、ゲッティンゲン大学(1886年)で学んでいる。帰国後、すぐに教授に任じられ(34歳)、「法制沿革」と「羅馬法」を担当した。しかし、宮崎は日本法史については古代法のみを考察した。
法典論争によりフランス型の旧民法・旧商法の施行延期が決まった直後の明治26年(1893年)、講座制導入と ともに、東大に法制史比較法制史講座が設置される。西欧から近代法を継受したわが国で、わが国の固有法と西欧法の歴史を比較法制史的に考察するためであった。比較法制史は当初は宮崎が担当したが、やがて宮崎の弟子でもある中田薫(1877-1967)が、比較法制史の担当者となった。
わが国における法制史学の基礎を築いたのは、中田薫である。中田がヨーロッパに留学(1908-11)した明治末期は、日本の近代法体制が整い、ドイツ法学の全面的継受がはじまった時期にあたる。かれに大きな影響を与えたのは、ゲルマン法学、なかでもギールケの理論であった。ゲルマニストとなった中田は、ゲルマン法史との比較という手法を用いて、日本固有法の歴史を明らかにしようとしたのである。荘園法や江戸期の土地私有権、村と入会の研究などで中田は大きな業績をあげたが、かれの研究手法は、地道な史料蒐集のなかでみずから築いた説をゲルマン法学の概念を借りながら、あるいはそれを念頭に置いて説明するというものであった。ドイツの法史学が当初から法解釈学と密接に結びついていたのとは対照的に、わが国の法史学は、その出発点から、概念法学に支配された法解釈学から距離をおき、実証主義的歴史学の方向をめざしていたといえる。日本を主な研究対象としていたとはいえ、中国・西洋をも射程におさめた比較法史を論じることができた中田には、六人の弟子がいた。かれらはそれぞれ、日本法制史、東洋法制史、西洋法制史、ローマ法の担い手となる。それにともない、わが国の法制史は、専門分化しはじめる。
一通りの立法作業がおわった明治35年、比較法制史講座は比較法制史講座と法制史講座に分離した。中田は、明治44年から昭和12年まで両講座を順に担当した。法制史研究のため、英独仏に派遣された中田は、帰国後、諸国の法を比較法制史的に研究するとともに、わが国の固有法の歴史を明らかにする必要性を示して、日本法制史を近代的法学の一分野として確立したのである。比較法制史から日本法制史が分離したことにより、比較法制史は西洋法制史となり、事実上、英独仏などの一国法制史を講じる傾向が強まっていく。東洋法制史については、古代律令制の継受を反映して、中国法制史が中心を占めている。近年、日本法を継受したアジア諸国の法や、イスラーム法史への関心も高まりつつある。
【参考文献】
岩野 英夫「わが国における法史学の歩み(一八七三-一九四五):法制史関連科目担任者の変遷」
同志社法學 39(1/2), 225-312, 1987-07-31 URL→ http://ci.nii.ac.jp/naid/110000588862