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12-4.清末の社会変化と女性解放思想の登場
掲載:2016-02-08 作成:三成美保
略年表
1860年代前半 - 1890年代前半 洋務運動(ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指す)
1861 第10代皇帝同治帝(どうちてい)即位(在位:1861 - 1875)
※生母の西太后(1835年11月29日ー1908年11月15日)らが「垂簾聴政」を行った。
【解説】清代の垂簾聴政
垂簾聴政(すいれんちょうせい)とは、皇帝が幼い場合に、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治を行うことをさす。中国で、女性である皇太后は、朝臣と直接対面するのを避けるため、皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座っていたことより、このように呼ばれた。幼帝の場合、皇后が聴政することは困難であるため、皇太后・母后が多い。清代には、清末期の東太后と西太后の例があるが、事実上、西太后が実権を握った。
東太后
第1次(1861年 - 1873年):太平天国の乱の平定、腹心の宦官安得海の処刑。
第2次(1874年 - 1881年):清仏戦争。西太后(3回)
第1次(1861年 - 1873年=同治帝):太平天国の乱の平定、腹心の宦官安得海の処刑。
第2次(1874年 - 1887年=光緒帝):清仏戦争、東太后の崩御。
第3次(1898年 - 1908年=光緒帝):戊戌政変、日清戦争、義和団の乱
1875 第11代皇帝光緒帝(こうしょてい、こうちょてい)即位(在位:1875 - 1908)。
※光緒帝は、西太后の妹の息子で、同治帝の従弟にあたる。即位したのは3歳。実権は、伯母の西太后が握り、垂簾聴政が行われた。当初は東太后や伯父の恭親王奕訢も政権を担ったが、光緒7年(1881年)に東太后が急死、光緒10年(1884年)に恭親王が西太后に失脚させられると西太后が事実上政権を掌握した。皇后は、西太后の姪。西太后の介入を避けたい光緒帝と皇后の仲は良くなかったとされる。
1894ー95 日清戦争
1898 戊戌の変法(光緒帝による改革)→保守派が反発して、西太后への期待が高まる。
1899 義和団事件→西太后が欧米に宣戦布告→敗北
1901 北京議定書
1901 光緒新政(西太后が主導)
1905 科挙の廃止、六部の解体再編
1908 欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束
1908.11. 光緒帝死去・西太后死去
1911.5. 軍機処を廃止して内閣を設置
1911ー1912 辛亥革命
1912.1.1. 中国の南京で中華民国が樹立される。
※臨時大総統は、孫文(日本への留学経験がある)
1912.2.12. 清朝最後の皇帝、宣統帝(愛新覚羅溥儀)は正式に退位→清の滅亡
※中華民国の大統領(大総統)となったのは、袁世凱。
その後、袁世凱と対立した孫文は1919年に中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州に樹立したものの、1925年に死去した。
女性解放運動
○清末の女性解放思想については、以下を参照。
→*【特集8】(1)秋瑾「敬んで姉妹に告げる」(1907年)
○さらに全体として→*【特集8】キリスト教・太平天国・義和団(中国女性の100年)
【中国近現代史の関連項目】
⇒*13-6.中国の新文化運動と新しい社会秩序の模索