大学と法学教育

更新:2016-07-02 掲載2014.03.18 執筆:三成美保

大学の成立

大学の成立は、中世ヨーロッパならではのものである。「大学(university)」の語源となったラテン語の「ウニヴェルシタス(universitas)」は、「団体・組合」を意味する。大学は、教師がいるところに学生が集まり、それがしだいに学生組合や教師組合へと発達して生まれた。初期の大学は、施設をもたない、まったくの人的集団だったのである。

大学には、①12-13世紀にうまれた自生的大学と、②14世紀以降に教皇や君主によって設立された大学がある。①の典型は、ボローニア、パリ、オックスフォード、ケンブリッジ大学である。これらの大学では自治権が強く、学生組合や教師組合の長が、学長として、学位授与権と大学裁判権を行使した。ドイツの大学はすべて、②にあたる。神聖ローマ帝国最初の大学は、プラハ大学(1348年)、ヴィーン大学(1365年)であるが、15世紀には、各地に大学がつくられている。ほとんどの大学は、上級3学部(神・法・医)と下級学部(学芸学部=教養部)の計4学部からなる。学部のなかでは、神学部の優位が顕著であった。

中世の大学は、大学教授資格者を養成する場であった。たしかに、下級学部の学芸学部では、「自由学芸(リベラル・アーツ)」とよばれる一般教養が学ばれた。しかし、専門学部は、教養を学ぶ場でも、実務家養成の場でもなかった。また、貴族のための教育機関でもなかった。貴族は騎士として、「武」を重視し、「文」を軽んじた。貴族には識字能力がない者が多く、所領相続予定者はほとんど大学にいかなかった。文書管理などの秘書的な役目を担ったのは、聖職者だったのである。中世末期以降しだいに、16世紀の宗教改革以降とくに、宮廷や官房から聖職者が排除され、かわって法律家が文官職に任じられるようになる。このころから、所領経営のいきづまりに悩んだ貴族のなかからも、官職をもとめて大学にいくものがでてくる(⇒*【特論2】西洋中世の大学と学生生活ーバルトルスとその遺産(三成美保))。

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近世の大学

16世紀の宗教改革後の宗派対立のなかで、大学は停滞期をむかえる。領邦君主は、領邦の精神的要塞として、こぞって大学を設立した。これらの大学では、国家への依存度が強く、宗派主義がつらぬかれて、大学の自治権は大きく後退する。学問は停滞し、大学生活も頽廃していったのである。学位は、金で売られるありさまであった(学位売買)。

17世紀末に、啓蒙主義の影響をうけて、宗派主義からの脱皮がはかられる。プロテスタントの諸領邦では、新しいタイプの大学が創設される。その最初が、プロイセンのハレ大学(1694年創設)である。ハノーファーのゲッティンゲン大学(1737年創設)が、それにつづく。

新しい大学の特徴は、法学部の優位と、「哲学することの自由=学問の自由」が大学の自由の重要な要素とみなされるようになった点にある。大学法学部は、啓蒙絶対主義国家の官僚を養成するための機関として位置づけられると同時に、貴族の子弟を教育する場としての役割も担っていた。大学法学部では、旧来の支配層たる貴族と新興の上層市民とが接触し、後者が社会的に上昇する前提がはぐくまれていったのである。

法学教育

法学教育のありかたは、大陸とイギリスとではまったく異なる。ローマ法の影響がつよかった大陸では、大学法学部で法学教育がおこなわれた。イギリスでは、実務法曹の常宿から発達した法曹学院(インズ・オブ・コート)で、徒弟教育さながらにコモン・ローの実務教育がおこなわれた。

大陸の諸大学での法学授業には、共通性が強い。使用言語がラテン語で、用いるテキストもほぼ共通しており、カリキュラムはボローニア大学法学部をモデルとしていたからである。大陸の法律家は、どこの生まれであろうと、また、どの地で活動しようと、ほぼ同一の法学教育をうけた均質な集団をなしていた。各地の大学をめぐって勉学することもまた、ごくふつうであった。このような法学教育の共通性は、ローマ法継受を容易にしたが、のちに、ローマ法批判としての自然法がヨーロッパ全土に波及する前提をも準備したのである(⇒*【法制史】近世自然法(三成美保))。

主要テキストは、ローマ法大全(⇒*【法制史】ユースティーニアーヌス法典(三成美保))とグラティアーヌス教令集(⇒*【史料・解説】グラティアヌス教令集(三成美保))であり、とくに、学説彙纂が重視された。ローマ法とカノン法を修めた者は、両法博士として、法律家として最高の栄誉をもった。法学部の教授ポストは、市民法が法学提要、勅法彙纂、学説彙纂が各1名、それに教会法ポストが加わる。ほかに、員外教師として、学生の教育にたずさわる者が数名存在した。

授業は、講義と討論の二本立てでおこなわれた。講義には、教授が担当する正課と員外教師が担当して正課をおぎなう課外があり、講義のやりかたは、すぐれてスコラ学的であった。ローマ法大全全体とてらしあわせながら、テキストを念入りに批判・注釈・分類した。討論には、半年に一度の公式討論と随時の臨時討論があった。中世の大学では、帝国法・都市法・判告集など社会で実際に利用されている法は教えられなかった。ドイツ固有法や自然法は、近世に、公講義ではなく、主に私講義としておこなわれ、学生の人気をあつめていくことになる。

法律家の形成

ボローニア大学の講義風景(1350頃)

ドイツでは、13世紀末にはじめて「法律家」という言葉が出現する。当時はまだドイツには大学がなかった。初期の法律家は、イタリア、とくにボローニア大学で法学を学んだのである。13世紀に、法律家はまず、教会の司教裁判所における職業裁判官としての職種を独占する。その後、世俗君主や都市でも法律顧問や外交官として活躍するようになる。さらに、その次の段階でようやく、法律家は、世俗裁判所に進出しはじめたのである。ドイツでは、15世紀の国王裁判所で法律家が活躍している。大学法学部が増えるとともに、法律家は、下級の裁判所にも裁判官として参入するようになる(⇒*【法制史】中世ローマ法学(三成美保))。

また、ローマ法継受(⇒*【法制史】ローマ法の継受(三成美保))とともに、ローマ=カノン法的裁判手続が導入されてくると、弁護士として顧客に法的助言を与える者も登場した。口頭主義をとるイギリスでは、法廷で弁論をおこなう法廷弁護士(バリスタ)の地位が高いが、書面主義が普及したドイツでは、法廷弁護士(プロクラトール)の地位は低く、書類を書く訟務弁護士(アドヴォカート)の地位が高くなった。しかし、この二つの職務は、イギリスのように制度によって二分されていたわけではなく、弁護士の力量と学識によって決定された。裁判所書記や公証人のなかにもまた、法学教育を受けた者が存在した。

博士号は、そもそもは大学での教授資格を意味した。しかしそれだけでなく、博士号は身分上昇の手段ともなった。14世紀のイタリアで「博士は貴族になる」という原則がうまれ、ドイツではカール4世以来、この原則が通用した。博士号取得者は、その一代にかぎって騎士身分に列せられたのである。法学博士となった者は、一人前の法律家として、大領邦や大都市のあらゆる行政・司法官職にたえうる完全な学問能力があると認められた。しかし、すべての法学部生が学位を取得したわけではない。学位取得までには7年以上もかかり、学位取得費もふくめた修学費用がかなりの額にのぼったからである。15世紀末のヨーロッパ約75大学の学生総数1万から1万5千のうち、博士号取得者は、わずか2-3パーセントにすぎなかった。このような半途修学者は、中小領邦や都市で都市書記や裁判所書記、代言人・弁護士、法律顧問をつとめ、ローマ法継受の日常的担い手となっていく。

ローマ法継受期の法律家の評判は、かならずしもかんばしくない。ながらく参審人をつとめてきた貴族は、裁判への法律家の関与に危機感をいだいて攻撃的姿勢をとった。都市貴族は、都市法律顧問として出世した成り上がり者の法律家との社交を拒んだ。農民は、法律家が領主の味方をして、古き良き法を改竄していると非難した。また、同じ知識人のなかでも、人文主義者は、市民法大全を絶対視する法律家の習性に反感をつのらせていた。 17-18世紀になると、法学識者は、学識身分として特権化していく。

(初出:三成他『法制史入門』一部加筆修正)