近世ドイツのセクシュアリティー風俗犯罪(三成美保)

41YA0BX8CHL__SL500_AA300_(掲載:2014.09.19/初出:三成美保『ジェンダーの法史学ー近代ドイツの家族とセクシュアリティ』勁草書房、2005年、第4章冒頭、一部修正。資料は省略、全文については同書を参照)

第4章 「法と道徳の分離」にみるジェンダー・バイアスー姦淫罪とその廃止

第1節 「風俗犯罪」と姦淫罪 (1)「風俗犯罪」の変容

[1]「風俗犯罪」の語義
語義の変化

 「風俗犯罪」Sittlichkeitsverbrechenとは、社会の「性風俗(性道徳)」に違反する行為をさす。「良き性風俗」の社会通念は時代とともに変化するから、「風俗犯罪」の意味内容もまた歴史とともに変化する。「風俗違反」という語そのものは比較的古く、すでに15世紀には用いられている。ただし、当初の「風俗」Sitte/Sittlichkeitは、「道徳的行為」一般を意味していた。それがもっぱら「性道徳違反行為」を意味するようになったのは、18世紀のことである*1。
 近代的「風俗犯罪」規定がもりこまれた最初の刑法典は、ヴュルテンベルク刑法典(1839年)である(「風俗侵害行為」”Angriffe auf die Sittlichkeit”)。ほかに、「風俗違反の犯罪」Verbrechen wider die Sitten”, 「風俗違反」”Verletzungen der Sittlichkeitの用語が、ブラウンシュヴァイク(1840年)、ザクセン=アンハルト(1841年)の各ラント刑法典で用いられた。ドイツ最初の統一刑法典である1871年の帝国刑法典もまた、「風俗違反の重罪・軽罪」Verbrechen und Vergehen wider die Sittlichkeit(第13章)を定めた*2。
 「風俗犯罪」という語は、帝国刑法典制定後およそ1世紀にわたって使われ続けたが、第4次刑法改正(1973年11月23日)にあわせて法典から削除される。そのさい、第12章「家族犯罪」と第13章「風俗犯罪」が大幅に改正され、とくに、第13章は、「性的自己決定を侵害する犯罪行為」Straftaten gegen die sexuelle Selbstbestimmungへとタイトルが変更された*3。

変化の3段階

 「風俗犯罪」は、その語が登場した15世紀から現在までに、3度の大きな変化をこうむっている[資料4-①]。「風俗犯罪の大幅緩和」(Ⅱ)は、「法と道徳の分離」を端的に示すものであった。他方、1970年代以降の「風俗犯罪の排除」(Ⅲ)は、セクシュアリティのプライバシー化およびドメスティック・バイオレンスの可罰化の一環として理解される。
 近代法秩序形成のジェンダー・バイアスを検討するという観点からは、「風俗犯罪の大幅緩和」(Ⅱ)の意味をときほぐすことが重要となる。そのさい、手がかりとなるのが「姦淫罪」である。「姦淫罪」とは、未婚男女間の婚前交渉を犯罪として処罰するものである。それは、歴史を超えた犯罪ではなく、性風俗の取り締まりが日本よりは厳しかったとされるヨーロッパにおいても、近世特有の犯罪であった。

[2]本章の課題
Mask_of_shame

名誉刑で用いられた「恥辱の面」(中世、ザルツブルク)、面にはさまざまなタイプがあり、犯罪の種類によって使い分けられた。性的非行者やケンカばかりする女たちなど、公的秩序を乱した者は面をかぶされて広場に晒され、笑いものにされた。

婚前交渉の罪である「姦淫罪」の廃止は、これまで「法と道徳の分離」という文脈で肯定的に語られてきた。しかし、その場合の「道徳」の本質、あるいは、「分離」のジェンダー・バイアスについて、十分に検討されてきたであろうか。近世特有の犯罪としての「姦淫罪」の生成と廃止を明らかにすることは、その問いかけへの手がかりを与えてくれる。
西欧社会における「法と道徳の分離」は、「法と道徳=宗教の分離」を意味する。法から分離されるべきは、宗教と密接に結びついた道徳、すなわち、なによりも「性道徳」にほかならなかった。キリスト教から分離した「性道徳」は、近代市民社会に適合的な世俗的「道徳」へと変化する。キリスト教的なあらゆる「性的逸脱行為」は、その「犯罪性」の有無を「合理的」に検証されて、ふるいわけられた。「犯罪性」が認められる行為は「風俗犯罪」のカテゴリーでのこされ、「犯罪性」がなく「道徳」に属するとされた行為については近代刑法典から排除された。しかし、そのふるいわけのさい、近代市民社会に特有のジェンダー・バイアスが巧妙にすべりこまされた可能性はないのだろうか。
本章は、「法と道徳の分離」が、「公私二元的ジェンダー規範」という近代市民社会に適合的な「道徳」の全面開花をうながし、男性の「セクシュアリティ」を法から解放し、女性の「セクシュアリティ」を道徳と法の管理下にとどめたことを展望したい。

(2) セクシュアリティの管理と「姦淫罪」の成立

[1]中世教会によるセクシュアリティ管理とその不徹底
婚姻教義と教会婚姻法

未婚男女間の婚前交渉を「罪」とするには、特定の性関係を社会が「婚姻」として認知するシステムがなければならない。そのためには、①「婚姻」の成立要件が確定していること、②「婚姻」の成立がそのつど世間に公示されることが必要である。ヨーロッパでは、宗教改革以降にようやくこれら2つの条件が満たされた。それは、教会婚姻法の変化と結びついている。
教会婚姻法は、1140年ころ、「グラティアーヌス教会法令集」(→*【史料・解説】グラティアヌス教令集(三成美保))において最初の体系化をみた。その基本理念は、①夫婦一体主義(一夫一婦婚)、②秘蹟主義、③婚姻非解消主義である。一対の男女がひとたび結婚すると、死以外に二人を分かつものはなく、「秘蹟」たる婚姻に関するルールも紛争解決もすべて教会の権限下におかれる。
3理念のうち、婚姻成立要件に関わるのは、秘蹟主義である。教会法(カノン法)(→*【法制史】教会法(三成美保))上、婚姻は、婚姻当事者男女の「契約」であると同時に、神の祝福を受ける「秘蹟」とみなされる。前者の「契約」の側面にかんしては、古くから見解の対立があった。婚姻を「純諾成契約」とみる「合意主義」と、「肉の結合(同衾)」をもってはじめて婚姻が成立するとみる「同衾主義」である*4。
12世紀に「合意主義」を原則とするかたちで両学説が統合された。婚姻は合意のみによって成立するが、「肉の結合」によってはじめて「秘蹟」の恩恵にあずかり、その解消が不可能になるとされたのである*5。「合意主義」を原則とする以上、婚姻を登録したり、挙式によって公示することは不要とされた。その結果、個人的な合意はあるが、社会的な承認を受けていない婚姻が多く生じるようになる。これを「秘密婚」とよぶ*6。
教会裁判所に持ちこまれる訴訟の多くは「秘密婚」に関するものであった。ヴァイガントによれば、教会婚姻裁判のもとでは婚姻締結と婚姻無効に関する訴訟が存在したが、後者の数は全体の1割にすぎなかった。婚姻締結訴訟には、「秘密婚」を正式の婚姻として確定するための訴訟、婚姻の合法性の確定を求める訴訟、婚姻契約の履行に関する訴訟があった。たとえば、1490年、レーゲンスブルクでは全378件の婚姻関係訴訟が存在したが、このうち秘密婚訴訟は166件にのぼり、119件で女性が原告となっている。このような事情はアウクスブルクにおいても同様であった*7。

セクシュアリティ管理の不徹底

中世後期のカトリック教会によるセクシュアリティ管理は、十分に奏功していたとは考えにくい。管理を徹底するには教義上さまざまな困難があり、共同体社会もまた厳格な管理を望まず、君侯貴族は一円支配を可能とする実力をそなえていなかったからである。
①「合意主義」にのっとるならば、処罰されるべき婚前交渉は婚約がないものに限定される。しかし、当事者どうしでかわされる婚約の成立を争うのは困難であった。じっさいに罰せられたのは結婚につながらない婚前交渉のみであり、教会により贖罪金が科せられた。14世紀の都市法により、散発的ではあるがはじめて婚前交渉は世俗刑罰の対象となる。しかし、教会法の影響を受け、結婚するか、公刑罰をうけるかの選択が可能であった。結婚しなかった場合に、男は娘とその親に慰謝料を支払い、罰金刑か追放刑をうけたのである*8。
②「秘密婚」の横行は、重婚や姦通の処罰が事実上かなり困難であったことを意味する。婚姻禁止親等の範囲は必要以上に広く*9、かなり恣意的に利用された。「近親婚」は、離婚の代用としての婚姻無効の訴えで使われる反面、教皇の特免を受ければ一定範囲の婚姻は可能であった。また、聖職者のセクシュアリティは大いに乱れており、教会堕落の一因となった。
③セクシュアリティにまつわることをタブー視する中世後期社会でも、買売春を「必要悪」とみなす教父たちの教説にしたがい、カトリック教会は買売春にたいして比較的「寛容」な態度を示していた。北イタリアや南フランスとおなじく、ドイツでは、14世紀前半のペスト大流行以降、急速に都市公営の娼館が設立されはじめ、その傾向は16世紀までつづく。南ドイツでは、都市周辺部に設置された「女の館」Frauenhausとよばれる娼館で、都市共同体成員の妻女を性犯罪から守るためという「公共の福利」観念にもとづき、娼婦(gemeine Weib)が同じく賤視された刑吏の監督下で「合法的」に性を売ったのである*10。

[2]世俗当局によるセクシュアリティ管理のはじまり
性的逸脱行為の厳罰化

中世後期社会では、キリスト教的セクシュアリティ規範からの逸脱行為のすべてが処罰されていたわけではない。こうしたゆるやかなセクシュアリティ管理は近世に一変する。公娼制は16ー17世紀にすたれていき、公娼の3倍ほどはいたと推定される私娼とともに、公娼もまた「非合法」化された*11。「姦淫罪」は近世に犯罪化される。「重婚」を阻止するために婚姻手続が改められるのも宗教改革以降であり、嬰児殺(→*【特論8】「子殺し女」の罪と罰ー法のなかの淑女と淫婦(三成美保))も近世に厳罰化する。
16世紀の宗教改革と対抗宗教改革のなかで、婚姻の成立が新たに定義されなおされた。トリエント公会議(1545ー63年)は、教会での挙式を婚姻成立の要件と定めた。当人たちの結婚の約束があっても、教会で挙式する以前に同衾することは、非難されるべき行為へとかわったのである。しかし、子が生まれる直前に結婚したならば、子は教区簿冊に嫡出子として記されたので、子の出生を婚姻成立の事実上のタイムリミットとみなす慣行は、当の教会もなかなか否定できなかった*12。
他方、プロテスタントは、婚姻の「秘蹟」性を否定した。婚姻と道徳は教会の管轄からはなれ、世俗の婚姻=道徳裁判所や宗務局の管轄へと移行する。婚姻契約には親の同意が必要とされ、離婚原因は婚姻=道徳裁判所で詳細に調査された。プロテスタント地域では、家父長制が強化されたのみならず、婚姻・道徳管理の権限が世俗当局に移行し、君主は「公益」の推進者として臣民の性風俗管理権を掌中におさめたのである。とりわけ、「共同体的宗教改革*13」を実践したジュネーブやチューリヒなどのスイス諸都市国家では、宗教改革と同時に世俗当局が率先してきびしい婚姻=道徳管理をおこなった*14。

カロリナ刑事法典

「ローマ法の継受」(15ー16世紀)は、「風俗犯罪」にも2方面で影響を及ぼした。①「風俗犯罪」の概念化。ローマ法の影響のもと、近世初期の立法では、「風俗犯罪」として5種が想定された*15[資料4-②]。②君主立法権の正当化による法令制定の動きと「風俗犯罪」の実定化。もっともよく知られるのが、「カール5世の帝国刑事法典」(カロリナ刑事法典)(1532年)(→*【史料】カロリナ刑法典(1532年))である。
「カロリナ」は、帝国最初の統一刑事法典である。拷問の不平等な適用を排除して、被害者訴追主義を原則とするゲルマン的伝統から言えば逸脱にあたる教会法的な糾問主義手続を正式な刑事手続に組み込んだことで知られる。帝国の弱さを反映して、本来は、帝国内に「補充的」にしか妥当しない。しかし、多くのラント(領邦国家)の刑事立法のモデルとされた結果、ドイツ近世刑事法制の基本路線は、「カロリナ」によって確立したと考えることができる。「カロリナ」では、「風俗犯罪」関連につき、獣姦・同性愛、強姦、売春、近親相姦、姦通・重婚に対して重罰が定められているが、姦淫罪の規定はみられない。風俗犯罪該当の多くが訴訟鑑定やローマ法参照と指示されている点からも、風俗犯罪が伝統的法よりもむしろ、ローマ=カノン法から強い影響を受けていることがうかがえる*16[資料4-③]。
他方、「帝国ポリツァイ条令」(1530、1548、1577年)は、帝国臣民の「規律化」を目的とする生活管理立法である。「行政・警察事項」、および、「臣民の道徳管理」を主たる内容とする法律であった。近世における性風俗の管理は、基本的にポリツァイ条令で行われた。「帝国ポリツァイ条令」は、第26章「軽はずみな同衾について」Von leichtfertiger Beywohnungという表題のもと、同棲、姦通、売春が「厳しく処罰されるべし」と規定した*17。しかし、ここでも、「姦淫罪」規定は登場しない。

近世の犯罪

変化が生じたのは、17世紀である。臣民の風俗管理を君主の宗教上の義務とみなした領邦君主たちが発布した各ラントのポリツァイ条令において、それははじまった。Leichtfertigkeit(軽はずみな行為)という語に新たな意味が加わり、近世独特の風俗犯罪が生まれる。「姦淫罪(婚前交渉の罪)」が登場したのである。
近世ヨーロッパ社会で一般に犯罪とされた行為は多い*18[資料4-④]。罪刑には大まかな対応関係があり、殺人は斬首刑、窃盗は絞首刑、詐欺は追放刑に処せられた。見せしめ効果を目的とするため、刑罰は総じて重い。

17世紀以降の「風俗犯罪」とジェンダー

近世には、宗教的理由からソドミーや近親相姦の罪がきわめて重く罰せられた。1622年のバーデン刑事令が定めるとおりである[資料4-⑤]*19。17世紀前半の刑事事件(ミュンヘン地方政庁管区Rentamt Mu”nchen)によれば、女性犯罪者の比率は、およそ3割弱である[資料4-⑥]*20。女性の比率は、けっして低いわけではない。全犯罪のうち、風俗犯罪の多さが目立つ[資料4-⑦]。
風俗犯罪での男女比は、ほぼ等しい。軽微な風俗犯罪では、女性が誘惑者とみなされて罪をかぶせられやすい傾向があった*21。啓蒙期知識人に共通する観点-誘惑された被害者としての女性-は、近世の法廷では、ほとんどみられない。
他方、財産犯罪・暴力犯罪は、ともに全犯罪数の4分の1から5分の1を占めている。これらの犯罪については、大きな男女差がみられる。男性が圧倒的に多く、女性は、男性の7分の1にすぎない。男女共犯の場合でも、しばしば、女性は幇助者とみなされた。しかし、もっぱら女性の犯罪とされた暴力犯罪がある。嬰児殺である。女性の暴力犯罪の4割が嬰児殺であり、魔女罪とむすびつけられることもあった。近世ドイツでは、女性に特徴的な犯罪類型は、風俗犯罪と嬰児殺であったといえよう。

(以下、略:第2節「近世バイエルンの姦淫罪」、第3節「姦淫罪の廃止と「性の二重基準」の成立)

*1 Muller,H.[1990],Sittlichkeitsverbrechen,in:Handworterbuch zur deutschen Rechtsgeschichte[HRG],Bd.IV,Berlin,S.1673.
*2 Muller,H.[1990],Sittlichkeitsverbrechen,S.1672f.
*3 そのほか、近親相姦は第12章「家族犯罪」に移された。第1次刑法改正(1969年6月25日)では、姦通・成人間の同性愛行為・獣姦の可罰性が否定された。その後、第29次刑法改正(1994年5月31日)は、同性愛行為の可罰性の完全に否定し、第175条(同性愛)を廃止した。他方、依存関係を利用して少年・少女に対し性行為を行うことは第182条で統一規定とした。イエシェック=ヴァイゲント(西原春夫監訳)[1999]『ドイツ刑法総論第5版』(成文堂)74~75ページ。
*4 婚姻をめぐる学説の対立については、直江真一[2000]「ヴァカリウスの婚姻論」(『法学』63-6)を参照。
*5 福地陽子[1956]「カトリック教婚姻非解消主義の生成と発展」(『法と政治』7-4)77ページ以下。
*6 秘密婚については、波多野敏[1987]「中世末期フランスにおける婚姻の成立(1)(2)」(『法学論叢』121-2、122-2)、同[1989]「アンシャン・レジームにおける婚姻の成立(1)(2)」(『法学論叢』125-1、125-3)参照。
*7 Weigand,R.[1981],Zur mittelalterlichen kirchischen Ehegerichtsbarkeit,in:Zeitschrift fur Rechtsgeschichte(Kanonisches Recht)[=ZRG(K)],LXVII. Ders.[1984],Ehe- und Familiensrecht in der mittelalterlichen Stadt, in:Haberkamp,A.(Hg.),Haus und Familie in der spätmittelalterlichen Stadt,Köln/Wien.
*8  レーゲンスブルクにおける女性原告の秘密婚訴訟119件のうち、原告勝訴は21件にすぎず、31件は嫁資相当程度の慰謝料の支払い、7件は子供の養育費の支払いで決着し、41件は却下された。Weigand[1981],Ehegerichtsbarkeit, S.217-220.
*9 中世中期まではカノン法式計算方法で7親等(現在の15親等に相当)、その後3親等に減じられた。
*10 田中俊之[1997]「中世末期ドイツ都市共同体と周縁集団ー娼婦の存在形態を中心に」(前川和也編著『ステイタスと職業ー社会はどのように編成されていたか』ミネルヴァ書房)を参照。他に、イルジグラー/ラゾッタ(藤代幸一訳)[1992]『中世のアウトサイダー』(白水社)、ジャック・ロシオ[1992]『中世娼婦の社会史』(筑摩書房)、阿部謹也[1991]『西洋中世の男と女』(筑摩書房)。
*11 Schuster, P.[1992], Das Frauenhaus. Sta”dtische Bordelle in Deutschland 1350-1600, Paderborn ,S.209f.
*12 トリエント公会議の決議はドイツの大部分では公布されなかった。ハインリッヒ・ミッタイス(世良晃志郎/廣中俊雄訳)[1961]『ドイツ私法概説』(創文社)120ページ。
*13 Blickle,P., Gemeindereformation.Die Menschen de 16.Jahrhunderts auf dem Weg zum Heil,Muenchen.
*14 1525年設立のチューリヒ婚姻裁判所がヨーロッパ初の世俗的な婚姻裁判所であり、周辺地域のモデルとされた。拙稿[1989]「チューリヒ婚姻裁判所」参照。
*15 Muller,H.[1990],Sittlichkeitsverbrechen,S.1673.
*16 Radbruch,Gustav(Hrsg.)[1951],Die Peinliche Gerichtsordnung Karls V.von 1532(Carolina),Stuttgart [塙浩訳[1992]「カルル五世刑事裁判令(カロリナ)」(同『西洋法史研究4』信山社)],Neue und vollstandigere Sammlung der Reichs=Abschiede,III-IV,1747(ND Osnabruck 1967),S.393.
*17 1530年条令では「同棲、公然たる売春婦」(33条)、1548年条令では「同棲、姦通、売春」(25条)を禁じた。1577年条令は1548年条令と同様のことを26条で定めている。Neue und Vollstaendige Sammlung der Abschiede,I-II,S.332-345(bes.343),587-609(bes.601),ibid.III-IV,S.379-398(bes.393).
*18 Behringer,W.[1990],Morder,Diebe,Ehebrecher.Verbrechen und Strafen in Kurbayern vom 16. bis 18.Jahrhundert,in:Dulmen,R.v(Hg.),Verbrechen,Strafen und soziale Kontrolle.Studien zur historischen Kulturforschung, Frankfurt/M. , S.96f.
*19  Hull,I.V.[1997],Sexualstrafrecht und geschlechtsspezifische Nomen in den deutschen Staaten des 17. und 18. Jahrhunderts. in:Gerhard,U.(Hg.),Frauen in der Geschichte des Rechts, Muenchen, S.225f.
*20 Behringer[1990],Morder,Diebe,Ehebrecher,S.10.
*21 R.v.デュルメン(佐藤正樹訳)[1995]『近世の文化と日常生活2:村と都市-16世紀から18世紀末まで』(鳥影社)316、358ページ以下。16世紀の性的非行事件については、若曽根健治[1995]「近世刑事史断章-都市ゲンゲンバッハの文書を中心に」(『熊本法学』83)195ページ以下。