【女性】オスマン帝国の内廷とハレム

掲載:2016-05-08 執筆:三成美保

トプカプ宮殿

ハレムはトプカプ宮殿(メフメット2世が1455年に造営開始)のもっとも奥におかれた。それ以前の宮殿(市内にある)を「旧宮殿」という。

トプカプ宮殿は広大な敷地をもち、3つの門(第1の門=帝王の門、第2の門=挨拶の門、第3の門=至福の門)をもち、4つの庭に分けられた。

○第1の門(帝王の門)

○第1の庭:人種・男女・身分を問わず、だれでも入れる。静粛を守らねばならない。

○第2の門(挨拶の門)

○第2の庭(ディーヴァーンの庭)

「ディ-ヴァーン」とは「御前会議」のこと。「御前」とは、「政府」と同義で、「閣議・謁見・裁判が行われる場」をさす(ビタール1995:p.76)。

○第3の門(至福の門)

○第3の庭(内廷)

スルタンの私的な場。スルタンに仕える小姓と宦官しか入れない。

小姓

「デヴシルメ」とよばれる強制徴用で集められたイェニチェリ候補生のうち、健康で容姿端麗、頭脳明晰な子が選抜されて、小姓として宮殿に送り込まれた。小姓は、「内廷」で白人宦官の監督のもと、将来のオスマン帝国を担うエリート官僚として育てられた。武術・イスラム諸学・文学・書道などの教育を受け、洗練された軍人官僚が養成された。この養育期間が終わると、外廷に出廷した。小姓は、「スルタンの奴隷」と呼ばれたが、すぐれた軍人官僚や特殊技能者(建築家など)として活躍した。大宰相を含む要職の多くは内廷出身者で占められた。(林1997:pp.49-51)

小姓は、「大部屋」「小部屋」でスルタンの用を務め、宝物庫を管理した。小姓のうち40人ほどが選ばれて、スルタンの私室(ハル・オダ)でスルタンの身辺の世話をした。(ビダール1995:p.76)

大宰相イブラヒム・パシャ(1493 – 1536)ー小姓出身

Pargalı İbrahim Paşa.jpgギリシア北部のギリシア正教徒の家に生まれた。子ども時代に捕虜として、あるいは海賊に誘拐されて、奴隷として売られた宮殿でのちのスレイマン1世(1494-1566)と親しくなった。やがてオスマン帝国の内廷で小姓として教育を受け、博学を誇った。イブラヒムは、何カ国語もあやつる頭脳明晰さと端麗な容姿で有名であり、スレイマンとは非常に親密であった。1520年、スレイマン1世(26歳)が即位すると昇進を重ね、1523年、異例の早さで大宰相に抜擢された。スレイマンの妹を妻に迎える。しかし、スレイマンの寵を争ってロクサーヌ(ヒュッレム・スルタン)(1506-1558)とは不和であったとされ、1536年、殺害された。(クロー1992:pp.127-132,pp.206-212)

スレイマン1世の後継者ムスタファの処刑(1553年)ースルタン位をめぐる権力闘争

Miniature of Şehzade Mustafa.jpg1535年、イブラヒムを保護してきた母后ハフサ・ハトゥーンが死去した。ロクサーヌとの不和の主な原因は、イブラヒムがスレイマンの長子ムスタファ(1515-1553)を後継者として支持したことにあるとされる。スレイマンには4人の男子が生き残ったが、長子ムスタファのみが第一妃ギュルバハル・スルタンの子で、人望が高かった。ロクサーヌはムスタファがスルタンになると自分の子がすべて殺害されると考え、ムスタファの追い落としに尽力した。1553年、ムスタファは処刑され、彼の息子たちもも処刑された。スレイマン59歳のときである。ムスタファはイエニチェリに人気が高く、暴動が起こりかけたほどである。ヨーロッパ諸国もムスタファの処刑には驚いたという。しかし、人徳と有能さでヨーロッパ諸国でも有名であったムスタファの処刑は、オスマン帝国の拡大に歯止めがかかると考えられた。結局、スレイマン1世の後をついだのは、ロクサーヌの息子セリムで、セリム2世(位1566-1574)としてスルタン位についた。セリムは、早くから「酔っ払い」というあだ名を得ていた。(クロー1992:pp.127-132,pp.206-212)

セリム2世とユダヤ人商人ヨセフ・ナスィとの関係については⇒【女性】ユダヤ人女性グラツィア・ナスィ(1510-1569)とイベリア半島のユダヤ人追放(三成美保)

宦官

白人宦官は小姓の監督にあたり、黒人宦官はハレムの監督にあたった。息子をスルタンにするため、ハレムの女性たちは、黒人宦官長(クズラル・アースゥ)を味方に引き入れようとしのぎを削ったと言われる。(ビダール1995:p.78)

(関連記事)⇒4-5.外戚と宦官

○ハレム

母后

ハレムでもっとも権威があったのは、スルタンの母后(スルタン・ヴァリデ)である。

スルタン母后の居住空間

正妃
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ロクセラーナ

初期のスルタンは、政治的理由から外国の王女と結婚したが、15世紀末以降、ハレムの中から妾を選ぶようになり、正妃はおかなくなった。スレイマン1世の愛妾ロクセラーナが正妃となったのは例外である。

ロクセラーナについては⇒7-6.オスマン帝国のジェンダー秩序(年表・地図)

4人の側妃(カドゥン)

ハレムの女性たちのうち、スルタンの寵愛を受けた者は地位が上がった。4人の特権的な側妃を「カドゥン」とよぶ。4人のうち、最初に皇子を産んだ側妃が「バシュ・カドゥン」(第一妃)となった。

ハレムの女性たち

ハレムに入る女性のほとんどは、奴隷市場で買われた処女奴隷であったが、スルタンへの献上奴隷や戦利品として捕らえられた者もいた。娘たちは、小姓と同様に高度の教育を受けて養育された。ハレムに居住する女奴隷の数は多く、1603年には266人にものぼった。女性たちは3~4人で一部屋に住み、各部屋に20人の黒人宦官が仕えた。なかには、教育が終わると持参金をもらい、小姓上がりの青年と結婚する女性たちもいた。(ビダール1995:pp.76-78)

旧宮殿

スルタンが亡くなると、元スルタンの母后・姉妹・妃妾は宮殿のハレムを明け渡して、旧宮殿に移った。新しいスルタンの母后だけがハレムに残り、新しいハレムの長となった。(ビダール1995:p.77)

【参考文献】

テレーズ・ビダール(鈴木董訳)『オスマン帝国の栄光』創元社、1995年

林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社、1997年

鈴木董『オスマン帝国ーイスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書、1992年

アンドレ・クロー(濱田正美訳)『スレイマン大帝とその時代』法政大学出版局、1992年(2000年)

トプカプ宮殿の構造

トプカプ宮殿の模型図①:中央部にあるのが「帝王の門」(第1の門)、そこからはじまるのが「第1の庭」。中央上の建物群が「挨拶の門」(第2の門)から始まる宮殿の中核部 (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/Topkap%C4%B1_Palace

トプカプ宮殿の模型図②:中央下の「挨拶の門」(第2の門)からはじまる「第2の庭」、中央にある「至福の門」(第3の門」の奥に「第3の庭」があり、一番奥が「第4の庭」、ハレムは中央左側の建物群 (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/Topkap%C4%B1_Palace

ピンク色がハレム (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/Topkap%C4%B1_Palace