【法学】(比較)ポーランドの妊娠中絶と憲法改正(小森田秋夫)

小森田秋夫(掲載:2014.07.24)

(1)小森田秋夫「妊娠中絶禁止と憲法改正」(初出:『Wisła 関西版』 第36号、2007年3月)

2006年9月、1997年に制定されたポーランドの新憲法に、初めて改正が加えられた。

欧州連合 〔EU〕 は2002年、 欧州逮捕状 (刑事手続を実施しまたは自由剥奪刑を執行するために、他の加盟国に被疑者等の逮捕と引渡しを求める加盟国の裁判所による決定) の制度を導入した。日本でも最近、国内で犯罪を実行した外国人が本国に逃亡したとき、責任を追及するための有効な手が打てないことが問題になっているが、 欧州逮捕状は、警察・刑事司法分野でのEU加盟国間の協力という枠組みで、この問題に対処しようとするものである。04年5月にEU加 盟国となったポーランドは、この制度を国内法化する義務を負っているため、加盟に先立つ3月に刑事訴訟法典を改正して対応した。しかし、憲法はポーランド 市民の国外への引渡しを禁じているため (55条1項)、憲法法廷は改正された刑事訴訟法典を55条1項違反と判断した (05年4月)。憲法法廷は、違憲状態を取り除くためには、EU法の改正を実現するか、ポーランド憲法を改正するか、EUから脱退するかしなければならないとしていたが、現実的な選択はポーランド憲法の改正しかない。こうして、大統領の提案にもとづき、ポーランド市民の国外引渡しの禁止に例外を設ける形で憲法改正が行なわれたのである。

ところが、もともと独自の憲法改正構想をもっていた政党の中には、この機会に便乗して、自らの主張を実現しようとする動きに出るものが現われた。とりわけ、連立与党の一角をなすポーランド家族連盟 〔LPR〕 は、他党からも支持者を募り、「ポーランド共和国は、すべての人に生命の法的保護を保障する」 と定める憲法38条に 「受胎のときから」 という文言を加える提案を国会に提出した (06年9月)。国会は法案を特別委員会に付託することを決定し、07年1月現在、委員会における審議が続けられている。(以下、続く・・・)

続きは、以下をクリックしてお読みください。→小森田秋夫「妊娠中絶禁止と憲法改正」(2007年)

(2)小森田秋夫「『アガタ』の選択、または妊娠中絶をめぐるポーランドの法社会学的現実」(2008年)

2008年6月、14歳になるルブリンの少女の身に降りかかった出来事が、ポーランドを揺るがした。

少女を 「アガタ」 という仮の名前で呼んで連日大きく事件をとりあげた 『選挙新聞』 によれば、経緯は以下のとおりである。

アガタによれば、彼女は同級生の15歳の少年に、青あざが残るほど力ずくで、望まない性行為を強いられた。アガタの母親に警察から電話がかかってきたの は、4月9日だった。アガタが赴いた婦人科医から警察に通報があったからである。このときは、妊娠したかどうか、はっきりわからなかった。

1ヵ月経って、アガタが妊娠という結果を知ったのは、学校のトイレで行なった妊娠テストによってだった。アガタは、親しい大人と婦人科医のところに赴く。婦人科医 は、警察に通報した。アガタは、子どもができたことを自分で母親に話すつもりだったが、どう話したらよいかわからないでいるうちに、母親は警察からの通報で知ることになった。 5月8日のことである。警察署長が、このような場合は合法的に中絶できると述べたので、「ありきたりの屠殺者」 のところに娘を送らなくて済むと考え、新聞広告を見ることさえしなかった (注 : ヤミで中絶する道があるが、そうする必要はない 、と考えたことを意味する)。

母親は、少年の両親とコンタクトをとった。少年の両親は、アガタから引き離すために少年を別の学校に移した。アガタが友だちから聞いたところによると、彼女に電話することができないように、少年は携帯電話を取り上げられたという。

アガタによれば、母親は、年齢を考えれば中絶が最良の解決だと思うが、最後がアガタ自身が決めることだ、と繰り返した。母親も、娘の同意なしには何もしない、と述べている。

母親は、娘が手術を受ける決心をしたことを確かめると、行動を開始した。 「可罰的行為の結果として妊娠した可能性が高い」 との文書を検察庁からもらってあったが、母親が訪れたルブリンの病院では手術を受けさせてもらうことはできなかった。次いで、県の産科問題相談員をしている教授のところに赴くと、ある病院を紹介された。

5月末、アガタはルバルトフスカ通りにあるこの病院に入院した。が、医師たちは婦人科医長が休暇から戻ってくるまで4日間待ち続けた。戻ってきた医長に呼ばれてアガタが部屋に行くと、神父が待っており、 医長はアガタが一対一で神父の話を聞くようにするために、退室した。神父は、ルブリン大司教区生命擁護基金の議長を務めるとともに、単身母ホームを指導しているポツタフカ神父だった。彼は、とにかく子どもを 産むようアガタを説得した。 その日の午後に病院にやってきたアガタの母親によれば、医長は、子どもといっしょに養子にしてもいいとまで言って、産むように勧めた、という。医長によれば、アガタは子どもを産みたいと文書に書いたので、それを病歴記録に加えたというが、アガタによれば、 医長はアガタにどのように書くべきか口述し、手術はしない、と言ったという。(以下、続く・・・)

続きは、以下をクリックしてお読みください。→小森田秋夫「『アガタ』の選択、または妊娠中絶をめぐるポーランドの法社会学的現実」(2008年)