日本における買売春の歴史(概略)

更新:2016-06-05 掲載:2014.02.03 執筆:三成美保(初出『ジェンダー法学入門』2011年)

(1)日本における買売春の歴史

◆古代~中世の買売春 

日本で売春が独自の営業として成り立つようになったのは10世紀頃とされる。当初の売春は、賎業としての認識が乏しい。院政期は男色が盛行した時代でもあった。12世紀頃登場する白拍子傀儡女(くぐつめ)などの女性芸能者は売春もおこなったが、売春専業ではない。13世紀に都市部に売春宿が成立し、14世紀に遍歴・流浪の芸能民への賤視がはじまると売春婦の卑賤視が強まった。集娼化は16世紀末にはじまる。

◆江戸時代の遊郭

鳥居清長の版画:美南見十二候九月(漁火)遊廓で遊女がくつろいでいる図である。千葉市美術館所蔵。

江戸時代初期(17世紀初頭)に、幕府が公許を与えた三大遊郭が成立した。江戸吉原・京都島原・大坂新町である。治安対策の一環として、遊郭(廓(くるわ))は町はずれにおかれ、砦のように高い壁や堀で隔離された。遊女の大半は身売り(人身売買)で集められ、技芸と教養に秀でた太夫(高級遊女)から性を売るだけの切見世女郎(下級遊女)までいくつかの等級に分けられた。女郎は、「店=見世」とよばれる格子付きの店頭に「商品」としてならび、客をとった。

江戸前期には、無許可の売春営業者は獄門・死罪に処せられたが、中期(18世紀中頃)以降は貧困者の売春は黙認され、小規模な売春宿(岡場所)も公認された。買売春の大衆化につれて、江戸には190もの岡場所が存在した。私娼(隠売女(かくしばいた)=無許可の売春婦)は、摘発されると吉原に送られ、下級遊女(奴(やっこ)女郎(じょろう))として年季奉公を強いられた。

◆江戸時代の遊女奉公契約 

遊女の大半は身売りによって集められた。娘たちは、7~8歳から禿(かむろ)(遊女見習い)となり、年季があける28歳まで年季奉公として働いたのである。遊女奉公の証文は典型的な身売証文で、奉公期間・給金(身代金)・奉公人が主人に与えた損害の補償・死亡時の主人一任等について定められていた。遊女は奉公の間は監禁生活を送り、年季明け後はしばしば下働きやより低級な切見世女郎にされたのである。遊女の日常は悲惨を極めた。彼女たちは、朝早くから夜遅くまで3度にわたって客をとらねばならなかった。20歳代で死ぬ遊女も多かった。江戸期の売春は、決して自由意思による優雅な文化などではなかったのである。

◆近代的公娼制の成立 

公娼制とは、公権力が一定条件のもとで売春営業を許可するかわりに利潤の一部を収奪するシステムである。江戸期遊郭もまた、幕府から公許を得た公娼制であった。近代的公娼制は、ナポレオン時代のパリにおける強制的性病検診=娼婦登録制度にはじまる(1802年)。それはまもなく欧米諸国とその植民地に広まった。1870年代、内務省と警察制度が整備されるとともに、近代的公娼制が日本にも導入された。強制的性病検診はまず外国人居留地で求められ、やがて各地に広まる。芸娼妓解放令(1872年)や娼妓取締規則(1900年)によって、江戸時代以降続いていた人身売買は名目上否定されたが、遊郭が貸座敷に、年季奉公契約が前借金契約に変わっただけで、実態としての人身売買は続いた。公娼制からあがる多額の税収は自由民権運動の弾圧費に充当され、戦時慰安婦もまた公娼制の延長上に設置された。欧米の影響を受けた廃娼運動は売春婦を「醜業婦」とよんで蔑視し、買春男性を非難しなかった。こうした性の二重基準が、売春防止法(1956年)に引き継がれる。

(2)戦前日本の公娼制

◆マリア=ルス号事件と人身売買禁止令 

1872(M5)年、横浜に入港したペルー船籍のマリア=ルス号には、ペルーの鉱山で働くために231名の中国人苦力(クーリー)が乗船していた。彼らは、イギリス国籍の船に苦役からの解放と契約解除を訴えた。裁判は日本で行われ、日本は人道主義の名のもとに中国人を清国に引き渡すべきと判示した。これを不服としたペルー側は、日本は人道に基づいて中国人を解放したというが、日本の娼妓もまた奴隷にほかならないと抗議した。これをうけ、同年、急遽、芸娼妓解放令が発布された。同令は、芸娼妓をすべて解放し、年季に関する貸借訴訟を今後裁判所で取り扱わないと定めた。同令が、近代的公娼制成立の契機となる。

◆牛馬切りほどき令

芸娼妓解放令につづく司法省達22号(いわゆる牛馬切りほどき令)は、娼妓を牛馬にたとえて借金を棒引きした。しかし、その後も再三出された解放令は、娼妓を救わなかった。各府県は、旧来の遊女屋を貸座敷に改めて免許を与え、「自由意思」で売春業を継続したい娼妓に座敷を貸すことを認めたからである。娼妓が貸座敷業者と結んだ前借金契約は、遊女の年季奉公契約と変わらなかった。それは、親が貸座敷業者から借り受けた前借金を返済し終わるまで娘が娼妓稼業を続けるという契約であり、実際には完済も娼妓の廃業も困難だったからである。

◆自由廃業 

1900(M33)年、娼妓の自由廃業を認める判決が相次ぐ。しかし、娼妓稼業契約を無効とする根拠は異なった。大審院は娼妓は独立営業者であって被用者でないとし、名古屋地裁は娼妓稼業契約を公序良俗違反とした。娼妓取締規則(1900年)は自由廃業を認め、その後10年間で2500人以上の娼妓が廃業した。しかし同時に、同規則は警察が管理する娼妓名簿への登録と性病検査の定期的受診を娼妓に義務づけた。ここに近代的公娼制が確立する。

からゆきさん

かつての日本は、売春女性の送り出し国であった。19世紀後半から1920年代にかけて海外で売春に従事した日本人女性を「からゆきさん(唐行き=外国行き)」とよぶ。1910年代には、2万2千人ものからゆきさんが海外(日本植民地であった朝鮮・台湾を除く)に存在した。背景には、植民地主義の世界的進展や労働力としての男性移民(中国人男性労働者(苦力(クーリー))など)の急増がある。からゆきさんには、貧しい農漁村出身の娘が多い。彼女たちは、人身売買や誘拐同然の手口で集められ、海外に輸送された。廃娼運動は、からゆきさんを「国辱」たる「海外醜業婦」とよんで取締強化を訴えた。1925年、日本は女性・児童売買禁止条約を批准し、人身売買は禁止された。これをうけ、からゆきさんのなかには条約適用外の満州に向かった者もおり、31年に一五年戦争がはじまると従軍慰安婦になる者も多かった。からゆきさんの悲劇が認識されるようになるのは、ようやく1980年代以降である。

 史料

芸娼妓解放令=人身売買禁止令(太政官布告295号:1872102日)

第1条 人身を売買致し又は年期を限り其の主人の存意に任せ虐使致し候は人倫に背き有るまじき事に付き古来制禁のところ従来年期奉公等種々の名目を以って奉公住み致させ、その実売買同様の所業に至り、以ての外の事に付き、自今厳禁すべきこと。

第4条 娼妓芸妓等年期奉公人一切開放致すべく右に就いての賃借訴訟総じて取上げず候事。

❷人身売買禁止令に関する司法省達22(1872109日:1897民法施行規則九条によって廃止)

一 人身ヲ売買スルハ古来ノ制禁ノ処年季奉公等種々ノ名目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付娼妓芸妓等雇入ノ資本金ハ贓(ぞう)金(きん)ト看做ス故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上其金ノ全額ヲ可取揚事

一 同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返済ヲ下求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事…

❸太政官達(1872)

娼妓解放後旧業ヲ営ムハ人々ノ自由ニ任スト雖、地方官之ヲ監察制駁シ悪習蔓延ノ害ナカラシム

❹娼妓取締規則(内務省令44号:1900年)

第5条 娼妓名簿削除ノ申請ハ、書面又ハ口頭ヲ以テスベシ。

第6条 娼妓名簿削除ノ申請ニ関シテハ、何人ト雖妨害ヲ為スコトヲ得ズ。

(3)売春防止法

◆売春防止法 

1946年2月、廃娼運動が再開された。GHQは、「公娼制は民主主義の理想に反し、個人の自由発達に反するので、売春を業務に契約した一切を放棄させよ」という覚書を出した。同月、政府は娼妓取締規則を廃止し、公娼制は名目上全廃された。ところが、政府は私娼が接待所で売春営業することを認めた。これがいわゆる赤線である。「パンパン」とよばれる売春婦が営業を行った。

*⇒【判例】1955年前借金無効判決

売春防止法(1956年)は、売春を「人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすもの」とみなし、「売春を助長する行為等を処罰するとともに、性行又は環境に照して売春を行うおそれのある女子に対する補導処分及び保護更正の措置を講ずることによって、売春の防止を図ること」を目的としている(第1条)。売春は「対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交すること」(第2条)と定義される。「何人も、売春をし、又はその相手方となってはならない」(第3条)として買売春を禁じているが、売春そのものと買春には処罰規定がない。

◆性産業規制の二元性 

性産業に対する日本の現行法制は二元構造をとる。売春防止法は買売春を禁止し、性交を行わせる営業を処罰する(廃止主義)。一方、性交類似行為を行わせる営業は風俗営業等適正化法(風適法/風営法:1948年)により、規制付きながらも公認されている(規制主義)。風適法は過去3度の大幅改正を経ている。1984年改正では、タイトルが風俗営業等取締法から現行名に変わり、ノーパン喫茶が姿を消す。98年改正では、出張マッサージなどの無店舗型営業が届出対象とされたが、それは事実上の公認であった。2005年改正は人身売買罪新設と連動したもので、罰則が強化された。しかし、事実上の売春営業である個室付き浴場(第2条6項1号)を公認しているという問題は未解決のままである。

(4)戦後日本の売春

◆RAA(特殊慰安施設協会)―占領期の買売春(1945-46年)

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特殊慰安施設協会広告(毎日新聞1945年9月4日)

1945年8月26日、RAA(特殊慰安施設協会)という売春組織が発足した。内務省の指令で、警視庁が指導し、大蔵省の融資を得て、貸座敷業者が設立したのである。占領軍兵士を相手に「特殊女性(売春婦)」に売春させ、「一般婦女子の貞操」(「民族の純潔」)を守ることが目的であった。衣食住など全部支給で18~25歳の「女性事務員」が急募され、生活苦にあえぐ多くの女性が応募した。最盛期には7万人を数えたが、性病蔓延のため、翌46年3月、GHQは施設を閉鎖する。仕事を失った5万5千人の女性が町にあふれだし、「パンパン」とよばれる街娼となった。彼女たちは、しばしば警察や米軍憲兵の「刈り込み」にあい、強制的性病検診を受けさせられた。

◆風俗営業適性化法

「風俗営業」(キャバレー、ナイトクラブ、バー、ダンスホールなど)を行う場合には公安委員会の許可を要する。「性風俗特殊営業」(ソープランド、ストリップ劇場、ラブホテル、個室ビデオ、出会い喫茶、派遣型ファッションヘルス、テレフォンクラブなど)は届出でよい。後者を届出制としたのは、違法性が強いため、許可制になじまないという理由であった。

◆買春ツアー(1970年代)

高度経済成長を迎えた日本は豊かになり、日本人女性の身売りの悲劇は減っていく。しかし、売買春がなくなったわけではない。1970年代、売春婦を求めて、日本の男性たちは東南アジアや韓国に繰り出した。買春ツアーである。家族のために身売りした貧しい少女を日本人男性が社内親睦旅行と称して、組織的に買った。これは国際的非難をあびた。かわって80年代から登場したのが、人身売買である。

(5)日本人とアジアの売春観光産業 

1960年代後半、日本男性が最初にめざしたのは、植民地支配の影響で日本語が通じる台北だった。72年の日中国交回復で日台間の航空路線が減少すると、韓国が候補地となる。いわゆるキーセン観光である。年間50万人もの日本男性が訪れていた。73年、韓国で売春観光反対のデモがおこったが、当時の朴政権は外貨獲得のために観光を奨励し、反対運動は抑圧された。70年代後半以降、マルコス政権の国際観光振興策にしたがい、日本人の観光目的地はフィリピンへと広がった。一流企業が一度に200人の社員をホテルで買春させたと報道されたこともある。81年、鈴木首相のASEAN諸国歴訪にともない抗議集会が開かれ、フィリピンへの買春観光が一時自粛される。タイは80年代後半以降、観光産業を推進し、バンコクは国際買春都市と呼ばれた。83年にはじめてHIV感染が確認されたあと、売春少女を中心に急速に蔓延し、毎週1,000人以上がHIVで死亡している(2001年)。このころから、タイ人女性の日本への人身取引がさかんになった。

【関連ページ】

⇒*【解説】人身取引

【比較】アジアの少女売春・人身取引

【資料】人身売買報告書(アメリカ国務省2015年)