バイオエシックスと1970年代アメリカ社会

掲載:2015-11-24 執筆:三成美保

バイオエシックスと1970年代アメリカ社会

バイオエシックスとバイオポリティクス

われわれが「生命倫理」という訳語をあてて慣れ親しんできた「バイオエシックス」bioethics(*1) は、近年、批判的に再検討されている。その動きを、米本昌平[2006]は、「20世紀バイオエシックスから21世紀バイオポリティクスへ」と特徴づける(*2) 。

米本によれば、「バイオエシックス」は、すぐれて文化的な概念である。それは、1970年代アメリカ社会を背景に成立、浸透した概念であり、独自の価値観を内包している。その価値観とは、アメリカ流のリベラリズムに根ざした「自律性」「自己決定権」という考え方である。中絶をめぐる「プロ・ライフ」(胎児の生命の尊重)と「プロ・チョイス」(女性の自己決定権の尊重)の二項対立的思考は、まさしくアメリカ的な「バイオエシックス」の理念に符合する。

アメリカ的な「バイオエシックス」に対抗して、近年ヨーロッパで用いられるようになった概念が、「バイオポリティクス」biopoliticsである。「バイオポリティクス」には4つの意味内容があるが、米本はこの語を「先端医療や生物技術に関する政策論」をさすものとして用いようとする。ドイツ連邦議会の特別委員会報告書『現代医療の法と倫理』でもまた、「バイオポリティーク」Biopolitikという語が用いられている。

バイオエシックスという語の登場

1970年代におけるアメリカ的「バイオエシックス」概念の総括とみなすことができるのが、『バイオエシックス事典』[1978]である。それによれば、「バイオエシックス」は、「生命科学と医療における人間の行為を倫理原則の見地から検討する体系的研究」と定義されている(*3) 。しかし、当初からこの定義が明確であったわけではない。

「バイオエシックス」という語が「生態学的」文脈ではじめて使われたのは、1971年であった。主唱者は、ガン研究で功績をのこしたアメリカの生化学者ポッターPotter,v.R.(1911-2001年)である(*4) 。しかし、ポッターの議論は人口問題・食糧問題・環境汚染問題を含んでおり、概念としては「バイオエシックス」よりも広く、「バイオポリティクス」としての「環境倫理学」に相当する。他方、ヘレガースは、「メディカルエシックス(医療倫理学)」medeical ethicsを唱えた(*5)。

やがて、「バイオエシックス」という語は、「医療倫理」の枠を拡大して、生命倫理を公共圏全体を巻き込む問題を意味する語として人口に膾炙する。「バイオエシックスにおいては、問題解決の作業を医療プロフェッションに閉じ込めず、それ以外の専門家(法律家や哲学者)や一般市民、そして何よりも患者自身に開いていくことが基本姿勢であり、そこに『新しさ』があるといえよう(*6) 」。

しかし他方で、提唱者ポッターの意図には反し、「バイオエシックス」は、「バイオポリティクス」とは別義のもっぱら人間主体の生命倫理をあらわす語として浸透した。そこで中心的な問題とされるのは「自己決定権」をもつ個人の意思であり、動物の権利や自然環境は軽視される。

バイオエシックス成立の4要因

今日のような「バイオエシックス」見直しが強まる以前から、「バイオエシックス」の「歴史性」を看破していたのが、米本昌平[1988]である。米本は、「バイオエシックス=70年代アメリカの学問説=医療思想革命」という図式を描き、要因として3点を指摘した。①医療の変貌、②ニクソンの科学政策、③アメリカの社会構造である(*7) 。筆者はこの3要因に、④フェミニズムの動向を加えたい。

医療の変貌

医療の変貌とは、「医療の現代化」をさす。背景にあるのは、栄養状態の改善や医学の進歩による疾病構造の変化である。いわゆる先進諸国では、死因上位が急性疾患(感染症など)から慢性疾患(ガン・成人病・先天異常など)に代わり、高齢化社会に移行した。日本では1980年代にこの傾向が顕著になる。

「医療の現代化」にともない、医者=患者関係もまた大きく変化した。急性疾患に対する治療は効果があらわれやすく、医療行為が「善」であることを疑う余地はほとんどない。しかし、慢性疾患の場合には、直接の治療よりも病気の管理や操作の比重が高まる。治療方針を選択・設計するのは発注者にして消費者たる患者となり、受注者たる医者は情報の提供を迫られる。専門主義批判や権威主義批判、消費者運動に後押しされる形で、インフォームド・コンセントと患者の自己決定権を二本柱とする「患者の権利」が確立した。医療判断には医者と患者のそれを含めて多様な価値観が反映されるようになる。こうした新しい型の倫理問題に対応して生まれたのが「バイオエシックス」にほかならない。

アメリカ社会とニクソンの科学政策

アメリカがキリスト教社会であり、移民社会であるとともに多文化並立型社会であることもまた、「バイオエシックス」に大きな影響を与えている。「バイオエシックス」にあって格闘すべき相手方としての倫理はなによりもまずキリスト教倫理であった。

ニクソン大統領(任期1971~1974年)は、ケネディが掲げた科学政策を大きく転換させた。宇宙科学からバイオテクノロジーへの転換である。ニクソンは、アポロ計画を批判して、医学(ガン・心臓病など)とバイオテクノロジー(遺伝子など)研究に対する重点的投資へと舵取りをした。この結果、アメリカの先端医療は、1970年代後半から1980年代前半にかけて実験段階から実用段階に入る。

ニクソンによるバイオテクノロジー支援の1つの帰結として、1976年、国家遺伝病法が成立する。同法は、アメリカにおける遺伝病対策の基本姿勢を確定した(米本1988:67)。国家遺伝病法にもとづき、遺伝病のカウンセリング、出生前診断、新生児スクリーニング、教育に多大な予算が振り分けられるようになり、いくつかの重篤な遺伝病研究(鎌型血球病・地中海性貧血・テイ=ザックス病・ハンチントン病・血友病)には優先的に予算があてられるようになる。「成功例」としてしばしば引き合いにだされるのが、ハンチントン病研究である。

フェミニズムと生殖の自律性

「バイオエシックス」の成立は、「生殖の自律性」(reproductive autonomy)をもとめるフェミニズム運動と利害を共有した。1970年代アメリカにおいて、フェミニズムが要求した「自己決定権」としての中絶の自由化と、「予防」という名目での出生前診断の実用化、そして、遺伝病治療という名目でのヒトゲノム計画の基礎作りはセットになってすすんだのである。

1970年代アメリカでは、「中絶の倫理問題」が中心問題とされていた。それは、1つには、1973年ロウ判決の是非をめぐる議論、もう1つは選択的中絶の妥当性をめぐる議論を軸に展開した。周知のように、ロウ判決は、中絶を女性のプライバシー権とみなし、妊娠初期12週までの中絶を女性の「自己決定権」として容認した。中絶容認は、「選択的中絶」容認へと道を開く。「選択的中絶」の前提となるのは、遺伝子情報が妊婦に知らされることである。遺伝子診断技術もまた、1970年代に急速に進んだ。

遺伝病検査の技術が進むほどに、検査該当者は増える。検査によるチェック可能性が拡大するにつれて、検査を受けなかった者の不安は増幅される。不安の根を断ち切るために新たな願望が生まれ、技術はさらに発展し、不安はいっそう拡大する。遺伝子診断技術は不安のデスパイラルを招きかねない。

たとえば、遺伝病保因者をつきとめるマス・スクリーニングは、1962年にアメリカで開発された。対象とされたのは、フェニールケトン尿症である。これは常染色体劣性遺伝病であり、早期発見すると食事療法で障害を回避できる。マス・スクリーニングが効果的な典型例である。日本でも1977年よりマス・スクリーニングが開始され、6種類の遺伝子疾患がチェックされている。

しかし、マス・スクリーニングによって遺伝病保因者が判明しても、その遺伝病を回避したり症状を改善したりする方途がない場合、スクリーニングだけでは無力である。この矛盾が鮮明にあらわれたのが、テイ=ザックス病であった。テイ=ザックス病は、常染色体劣性遺伝病であり、発病すると数年しか生きられない。1971年にはじまったテイ=ザックス病のスクリーニングの結果、保因者が判明し、その者が妊娠すると、出生前診断が行われるようになった。その手段が、1956年に開発された羊水せんし穿刺である(*8) 。1979年、アメリカ国立衛生研究所は羊水穿刺の実用性を認め、検査の適用にあたって「35歳以上の妊婦、子どもか近親者に染色体異常の人間がいること、夫婦の一方が遺伝病遺伝子をもっていること」などを条件とした(*9 。

ただし、羊水穿刺は重大な問題をはらんでいる。それは妊娠中期にあたる妊娠16週以降でなければ実施できないため、中絶には医学的にも倫理的にも困難をきたす。検査による感染症や流産を誘発する可能性も指摘されている。こうしたリスクをはらむ羊水穿刺に対して、一方ではより安全で簡易な遺伝子診断への願望と、他方では子宮外の受精卵(胚)における遺伝子検査への願望が生まれる。すでに前者は実用化され、検査をするか否かは、女性の「自律(自己決定)」に委ねられている。検査が簡易に受けられる環境自体の問題性は長く不問にされてきた。後者の胚に対する遺伝子技術については、単に遺伝病因子をつきとめるにとどまらず、人間の「改造」までが射程に入ってしまう。胚が「人間の尊厳」という保護対象に価するのかどうかについても、熾烈な論争を生んでいる。

フェミニズムが女性の「自己決定」を掲げるのは当然の論理である。しかし、反面でそれは、「健康」な妊娠まで「治療」が必要な「病気」にしてしまう「医療化」の陥穽をはからずも隠蔽することに荷担した。ヒトゲノム計画が「新優生学」new eugenics(1969年)として「旧優生学」から自己を区別できたのは、「自律」原則にあった。それは、フェミニズムによっても補強されることになったのである。

しかし、「新優生学」とフェミニズム的な「自己決定」の親和性については慎重な判断が求められる。「新優生学」とフェミニズムの「自己決定」の「親和性」そのものは、歴史的産物と考えるべきだからである。歴史的実態としての「親和性」と理念としての「親和性」とは区別して論じられなければならない。繰り返し強調するが、歴史的実態として「親和性」があったとしても、その事実は、生殖に関する女性の「自己決定」の意義をなんら否定するものではない。

【注】
(*1)  「バイオエシックス」については、市野川容孝編[2002]『生命倫理とは何か』平凡社、近藤均他編[2002]『生命倫理事典』(太陽出版)、米本昌平[1985]『バイオエシックス』(講談社現代新書)を参照。
(*2)  米本昌平[2006]『バイオポリティクス』(中公新書)。
(*3)  米本昌平[1988]『先端医療革命-その技術・思想・制度』(中公新書)18頁。
(*4)  Potter,van R.[1971],Bioethics. Bridge to the Future.『資料集生命倫理と法』13頁。
(*5)  松田純[2005]『遺伝子技術の進展と人間の未来』(知泉書館)184頁。
(*6)  市野川[2002]『生命倫理とは何か』8-9頁。
(*7)  米本[1988]『先端医療革命』5-24頁。
(*8)  菅沼信彦[2001]『生殖医療ー試験管ベビーから卵子提供・クローン技術まで』(名古屋大学出版会)113頁。
(*9)  米本[1988]『先端医療革命』71頁。

(出典:「(平成16~18年度科学研究費補助金基盤研究(C)研究成果報告書、課題番号 16530012)ナチス優生法制の歴史的位相と戦後ドイツにおける生殖関連立法への影響」平成19年3月、研究代表者:三成 美保より一部抜粋(加筆修正))

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