11-6.南北戦争と奴隷解放ー黒人女性への二重差別【年表:19世紀アメリカ】
掲載:2015-12-21
【略年表:19世紀アメリカ】
※青字はインディアン関係
1789-1797 初代大統領ワシントン
1797-1801 第2代大統領J.アダムズ
1801-1809 第3代大統領ジェファソン
1808 奴隷貿易禁止法発効
1817-1825 第5代大統領モンロー
1820 ミズーリ協定
ミズーリ州を奴隷州として連邦に含める。以後、ミズーリ州より北には奴隷州を認めないとした。
1829-1837 第7代大統領ジャクソン⇒ジャクソニアン・デモクラシー
1830 インディアン強制移住法
⇒先住民は、ミシシッピ川以西の不毛な居住区に閉じ込められることになった。
1838 インディアン強制移住法にもとづき、「自発的移住」期限を迎えてチェロキー族が移動。15,000名いたチェロキー族のうち、およそ4,000名が途上で亡くなったといわれ、「涙の道(涙の旅路)」とよばれた。
1833 アメリカ奴隷制反対協会設立
1836 テキサス州がメキシコから独立⇒1845 合衆国に併合
1852 ハリエット・ビーチャー・ストウ(1811-1896)が『アンクル=トムの小屋』を発表
1854 カンザス=ネブラスカ法(英: Kansas-Nebraska Act)
アメリカ合衆国でカンザス準州とネブラスカ準州を創設して新しい土地を開放し、1820年のミズーリ協定を撤廃し、2つの準州開拓者達がその領域内で奴隷制を認めるかどうかは自分達で決めることを認めた法律。
1861-1865 第16代大統領リンカン
1861 南部11州が合衆国から離脱⇒アメリカ連合国結成⇒南北戦争の勃発
1862 ホームステッド法(自営農地法)
1863 奴隷解放宣言
1863 ゲティスバーグの戦い
1863 ゲティスバーグ演説(リンカン)「人民の、人民による、人民のための政治」
It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us -- that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion -- that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain -- that this nation, under God, shall have a new birth of freedom -- and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
1864 サンドクリークの虐殺(シャイアン族)
1865 南北戦争の終結⇒奴隷制度の廃止(憲法修正13条)
○3つの憲法修正条項を追加
1865年の修正第13条(奴隷制度の廃止)
1868年の修正第14条(合衆国で生まれた(または帰化した)すべての者に公民権を与えるとし、「法の平等保護条項」(イコール・プロテクション)を保障した)
1870年の修正第15条(アフリカ系アメリカ人(男性のみ)に投票権を与えた)
1865 KKK結成
1867 南部再建法成立
レコンストラクション(Reconstruction「再建」)とは、アメリカ南北戦争によりアメリカ連合国と奴隷制システムが崩壊した後の問題を解決しようとする、1863年(または1865年) から1877年までの過程を意味するアメリカ合衆国史の用語。レコンストラクションの間、連邦政府は南部諸州の合衆国への復帰と、元連合国の指導者たちの地位の回復に取り組んだが、解放されたアフリカ系アメリカ人(自由黒人) の法的、政治的、経済的、社会的なシステムでの、恒久的な平等の実現には失敗した。
1869 大陸横断鉄道開通
1870 黒人の選挙権を容認(憲法修正15条)
1873 経済恐慌
1876 リトルビッグホーンの戦い(スー・シャイアン族)
1876 ジム・クロウ法の成立(1876年から1964年にかけて存在したアメリカ合衆国南部の州法)
主に黒人の、一般公共施設の利用を禁止制限した法律を総称して「ジム・クロウ法」いう。対象となる人種は、「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(One-drop rule)」に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)などの、白人以外の「有色人種」(Colored)も含まれた。ジム・クロウ法は、1964年の公民権法により、即時廃止された。
1877 南部再建時代が終わる。
1886 アパッチ族の長ジェロニモが降伏
1890 ウンデッド=ニーの虐殺(スー族に対する虐殺行為)
1896 プレッシー対ファーガソン裁判
州政府による「分離平等政策」(「分離すれども平等」separate but equal)は、アメリカ合衆国憲法修正第14条に定める「平等保護条項」(Equal Protection Clause)に反しない。この「分離すれども平等」原則は、1954年のブラウン対教育委員会裁判で最終的に否定されるまで存続した。
【判例集】163 U.S. 537; 16 S. Ct. 1138; 41 L. Ed. 256; 1896 U.S. LEXIS 3390
【事件の概要】
1892年6月7日、プレッシーは東ルイジアナ鉄道の白人専用と指定された車両に乗車した。プレッシーは8分の1アフリカンアメリカンの血で、8分 の7はヨーローッパ系白人の血だったため、見た目は白人であったが、ルイジアナ州法の下ではアフリカ系アメリカ人として分類され、「有色 (Colored)」車両に座らなければならなかった。彼は車両を移動することを拒否し、捕らえられ投獄された。
彼の裁判、プレッシー対ルイジアナ州の法廷で、彼は東ルイジアナ鉄道は修正第13条と第14条の下での彼の憲法上の権利を拒否したと主張した。しかしながら、この事件を統括するマサチューセッツ 州のジョン・ハワード・ファーガソン裁判官は、州境内で運営されている限りは、ルイジアナ州には鉄道会社を規制する権限があると裁決した。そしてプレッ シーは、人種分離法への違反のために、当時で25ドルの罰金を課せられたのである。
判決に不満を持ち、プレッシーはルイジアナ州最高裁に持ちこんだ。しかし、彼はここでの判決も再び有罪となり、州最高裁はファーガソンの判決を支持した。
1896年、プレッシーはアメリカ合衆国連邦最高裁に上告した。
連邦最高裁は、人種の分類に基づく分離は、施設が平等な品質である限りは合法であるとした。しかし、実際には、黒人用・有色用使節のほうが粗末だった。この裁判の結果、「分離すれども平等」原則は法的な根拠を与えられ、人種差別が温存された。
1897-1901 第25代大統領マッキンリー
1901-1909 第26代大統領T.ローズヴェルト