(補論)美術の〈近代〉とジェンダー

掲載 2018-06-24 執筆 香川檀

 ◆芸術家の社会的な位置 

19世紀のヨーロッパで富裕な市民階級が経済や文化の主たる担い手となると、美術の歴史にも大きな転機が訪れた。それまでの芸術はもっぱらキリスト教会や王侯貴族のためのものだったが、市民社会の芸術は、実業をいとなむ中上流市民が教養として楽しむものになったのである。その結果、なにをどのように描くかは、それまでなら教会や王侯など絵を発注する権力者の側に最終的な決定権があったのだが、市民社会の時代になると、描き手である画家の自由裁量に委ねられることが多くなった。絵画はこうして、オリジナリティーを競う商品となっていく。自由を手にした画家たちは自分だけの独創的な絵を描くことを追求するようになる。古典主義などの伝統的な様式や芸術観に縛られているアカデミー(官立美術学校)やサロン(官展)に反発し、男性の画家たちは新しい芸術の流派をつくって独自に展覧会を組織するようになった。

◆市民階級の女性の芸術活動 

一方、市民階級の女性のなかには、良家の子女のたしなみとして編み物などの手芸やピアノなどの「お稽古事」と並んで、絵を描くことに親しむ者も少なからずいた。だが、それはあくまでディレッタント(素人愛好家)の趣味の域を超えてはならないもので、女性が職業画家となって金銭を稼ぐのは「はしたない」こととされた。また、プロの画家になるための専門教育を受けられる機会も女性には限られていた。アカデミーはほとんど女性に門戸を閉ざしていたうえ、伝統的にもっとも芸術性の高いジャンルとされてきた歴史画(聖書や神話などを主題とした絵画)を描くための人物裸体デッサンを、女性は学ぶことができなかった。性道徳に基づく教育上のハンディが大きかったのである。それでも、19世紀後半には、美術や工芸で自立を志す女性の要求に応え、主要な都市に女性のための美術教育機関が設立されたが、本格的な絵画よりは素描や工芸の教育が中心であった。

◆印象派と女性画家

伝統的な芸術観に反発した画家グループの一例に印象派がある。彼らは、それまで低く見られていた風景画や風俗画のジャンルで自由な表現を探求し、歴史画重視のアカデミックな絵画教育を受けていない女性たちでも参加できるサークルを形成した。ベルト・モリゾメアリー・カサットら女性画家たちが、印象派の展覧会に作品を出展している❶。ただし、絵画の主題として描ける場面にはやはり女性にハンディがあった。男性画家は、私的な家庭生活と並んで、都市の公共空間にも自由に出入りして、市民男性と娼婦が出会う歓楽街の情景まで描くことができたのに対し、女性画家はもっぱら家庭という私的空間で母子像などを描くことに限定された❷。また、後世に書かれる美術史のなかで女性画家の記述が周縁的なものに留まるか、もしくはまったく抜け落ちていくため、その存在が長く忘れられることになったのである。(香川)

資料

印象派の女性画家

美術史家タマール・ガープは印象派の女性画家について、次のように述べている。

「女性の印象派画家について聞いたことがある人は少ないだろう。絵画や絵画史が確認してきたのは、エドゥアール・マネ、オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、カミーユ・ピサロ、クロード・モネといった男性画家たちの名声はずっと続いているのに対し、ベルト・モリゾマリー・ブラックモンエヴァ・ゴンザレスメアリー・カサットら女性画家の名前ははるかに知られていないということだ。1860年代末から1880年代にかけてアカデミーの絵画技法に反旗を翻した芸術家や文筆家たちの交友関係を記録した一連の写真のなかでも、女性は詩神(ミューズ)やモデルや美術史上の参考人という外見でしか写っていないのである。

❷グリゼルダ・ポロック「女性性の空間とモダニティ」

 ある女たちにとって印象派グループに参加することが魅力的だったのは、それまでただのジャンル・ペインティングとして低く見られていたうちとけた家庭内の生活シーンが、絵画制作の中心的トピックと認められたからにほかならない、と私は以前に論じたことがある。しかし、さらに詳しく検討してみると、女であったアーティストの作品に、典型的な印象派的図像が登場することはほとんどないということのほうが、はるかに重要である。彼女たちの男性同僚たちが自由に出入りし、作品に使った界域、たとえば、バー、カフェ、劇場の舞台裏を表現した女性アーティストはいない。(中略)。男性同僚には開かれているが、女性である彼女たちは立ち入れないある種の場所と主題があった。男性同僚たちは彼女たちとは違って、通りや、大衆的歓楽の場や、そして金銭を介した一時の性的交換の場といった、うたかたの交流が行われる公的な世界で、男や女と存分に動きまわることができた。(『視線と差異』96頁)

【コラム】マリー・バシュキルツェフの苦悩

ロシアの亡命貴族の娘だったマリー・バシュキルツェフ(Marie Bashkirtseff、1858-1884年)は、パリで女性を受け入れた私立の美術学校アカデミー・ジュリアンに学ぶが、女性に本格的な絵画教育が与えられないことに苦悩し、26歳で結核のため早逝した。画家になる夢と現実への不満を綴った日記は、世界で広く読まれ、日本語にも翻訳された。(宮本百合子訳、『マリア・バシュキルツェフの日記』青空文庫)

マリー・バシュキルツェフ《アトリエにて》1881年

 

関連記事

(補論)美術の〈近代〉とジェンダー

8-3.ルネサンス芸術と女性

参考文献:

タマール・ガーブ『絵筆の姉妹たち——19世紀末パリ、女性たちの芸術環境』味岡京子訳、ブリュッケ、2006

グリゼルダ・ポロック『視線と差異:フェミニズムで読む美術史』萩原弘子訳、新水社、1998(第3章「女性性(フェミニニティ)の空間とモダニティ」)

米村典子 「〈描/書く〉女——マリー・バシュキルツェフとフェミニズム美術史」、神林恒道/仲間裕子編『美術史をつくった女性たち』、勁草書房、2003、2-28頁