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【年表】ベトナム戦争(1965-1975)
掲載:2015-12-07
1802~1945 阮朝
1858 ナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的にインドシナに遠征軍を派遣
1887~1945 フランス領インドシナ
1887.10 インドシナ総督府の設置
1940 仏印進駐(日本)
1945 ベトナム8月革命により、ベトナム民主共和国が成立(東南アジア最初の社会主義国家)
1954.07 ジュネーヴ休戦協定の締結→ベトナム国土を北緯17度線で南北に分割(北ベトナムをベトナム民主共和国が、南ベトナムをベトナム国が統治)
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北ベトナム:社会主義化が進展(ベトナム労働党と政府)。指導者は、ホー・チ・ミン。
- 南ベトナム:ゴ・ディン・ジエムが旧来の指導者達を追放して、1955年にベトナム共和国を樹立し、反共主義に基づく南ベトナムの警察国家化を推進。ゴ・ディン・ジェム政権はジュネーブ協定で定められた南北再統一のための選挙を拒否した上、反政府分子の弾圧や特定勢力(カトリック教徒等)の優遇等で国家安定化に失敗し、社会不安を増大させていた。
1960.12 労働党は革命戦争再開の好機と判断し、1960年の第3回党大会で南ベトナムの解放と社会主義建設を謳って、南ベトナム解放民族戦線(ヴェトコン)を結成。南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始。
1961.01 ジョン・F・ケネディが大統領に就任
1962.02 「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)」を設置
1962.11 南ベトナムとラオスが国交断絶
1963.01 アプバクの戦い
1963.11 南ベトナムでクーデター、ゴ・ディン・ジエム大統領暗殺、ズオン・バン・ミン将軍が実権掌握,ジョン・F・ケネディ暗殺、リンドン・B・ジョンソンが大統領に就任
1964.01 南ベトナムでグエン・カーン将軍によるクーデター
1964.08 トンキン湾事件
1965.02 アメリカ軍による北爆開始、グエン・カーン失脚、グエン・カオ・キが実権掌握
1965.03 アメリカ海兵隊がダナンに上陸
1965.10 韓国軍派遣
【ベトナム戦争への韓国参戦ー「漢江の奇跡」】
1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕国家再建最高会議議長はアメリカを訪問し、ケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことや経済危機を戦争特需によって打開することを意図して、ベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。ケネディ大統領はこの提案を受け入れなかったが、ジョンソン大統領は1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた。1965年から1972年にかけて、韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。アメリカ・日本・西欧諸国から多額の資金を調達した結果、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。1965年8月13日に、韓国国会がベトナム派兵に同意し、複数の部隊がベトナムに上陸した。韓国軍兵士には、アメリカ軍兵士の月給の約半分(60ドル)が支給され、彼らは給料の多くを母国の家族に送金したと言われる。
1966.02 タイビン村虐殺事件
1966.04 北ベトナムに対するB-52による初空襲
1964.12 ビンホア虐殺、初のクリスマス休戦
1967.07 南ベトナム解放民族戦線がダナン基地を攻撃
1967.09 グエン・バン・チューが南ベトナム大統領に就任
○ベトナム戦争時に、南ベトナム解放民族戦線のゲリラ戦略に対抗し、米軍は枯葉剤を大量に散布した。
○アメリカでベトナム反戦運動が高まる
→反戦運動は、学生運動とむすびついていく。また、権威・権力への異議申し立て機運の高まりは、ウーマン・リブの昂揚にもつながっていった。
→【参考】*【女性】フェミニズムの第2の波と「ジェンダー」の発見(三成美保)
1968.01 テト攻勢開始
1968.02 フォンニィ・フォンニャットの虐殺
1968.03 ソンミ村虐殺事件、ジョンソン大統領はベトナム政策を転換し、北ベトナムに無条件で交渉呼びかけ
【ソンミ村虐殺事件(1968年)】
南ベトナム・クアンガイ省ソン・ティン県にあるソンミ村のミライ集落(省都クアンガイの北東13km 人口507)を襲撃し、無抵抗の村民504人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子ども173人)を無差別射撃などで虐殺した事件。集落は壊滅状態となった。アメリカ軍に対する批判が強まり、アメリカ国内でも反戦運動が高まった。兵士たちは「ゲリラに対する処刑」と弁明したが認められず、1970年に開かれた軍事法廷では、虐殺に関与した兵士14人が殺人罪で起訴された。しかし、1971年3月29日の判決では指導者1名(カリー中尉)に終身刑が言い渡されたにとどまり、残り13名は証拠不十分で無罪となった。また、カリー自身もその後10年の懲役刑に減刑された上、3年後の1974年3月には仮釈放された。このような判決や処遇は、国際社会で大きな批判をあびた。
(写真は、処刑される前のソンミ村の女性と子どもたち)
1968.05 パリ和平交渉開始
1969.01 ニクソン(共和党)が大統領就任
1969.06 南ベトナム臨時革命政府が樹立
1969.09 ホー・チ・ミン死去
1970.03 カンボジアでクーデター、シハヌーク失脚、ロン・ノル将軍が実権掌握
1970.04 アメリカ軍がカンボジアに侵攻
1971.02 アメリカ軍がラオスに侵攻
1971.06 ニューヨーク・タイムズ紙が「国防総省秘密報告ペンタゴン・ペーパーズ」連載開始
1971.10 南ベトナム大統領選挙
1972.02 ニクソンが中国訪問
1972.04 北ベトナムの戦闘機がアメリカ艦艇を初攻撃
1972.12 アメリカ軍による無差別(軍民を問わない)北爆の再開(アメリカ国内でも反発が大きく、短期間で停止したが、北ベトナムに壊滅的な打撃を与えた)
1973.01 ベトナム和平協定(パリ協定)締結
1973.03 アメリカ軍がベトナムから撤兵完了
1974.02 北ベトナム軍がプノンペンを包囲
1974.08 ジェラルド・R・フォードが大統領就任
1975.03 北ベトナム軍全面攻撃開始
1975.04 サイゴン陥落、南ベトナムが崩壊してベトナム戦争終結
1975.05 サイゴンがホーチミン市へ改名
1975.05~1989.09 カンボジア・ベトナム戦争(冷戦下で戦われたベトナム社会主義共和国と民主カンプチア[いわゆるポル・ポト政権]の間の武力衝突)
1976.07 南北ベトナムの再統一とベトナム社会主義共和国の成立を宣言
○統一ベトナム政府に反発する人々がボートピープルとして国外へ脱出(インドシナ難民)
【ベトナム戦争の惨禍】
ベトナム戦争における戦死傷者は300万人と推定されている。アメリカ軍の死傷者は27万人、使った爆弾は755万トンにも及び、第二次世界大戦(300万トン)の倍以上に及ぶ。1968-69年には、50万以上のアメリカ兵がベトナムに派遣されていた。
【アメリカの徴兵制】
○アメリカの兵力
アメリカ合衆国の将兵の数は、第二次世界大戦中の1945年度は1,205万人(就業人口比率18.6%、総人口比率 8.6%)、朝鮮戦争中の1952年は363万人(就業人口比率6.0%、総人口比率2.3%)、ベトナム戦争中の1968年は354万 人(就業人口比率4.6%、総人口比率1.8%)であった。○徴兵制の停止
ベトナム戦争当時、アメリカではホームレスになる若年男性が大量に現れた。住所不定になれば、召集令状の送付先がなくなるためである。ベトナム戦争終結後の1973年以降、アメリカは徴兵制から志願兵制に移行した。選抜徴兵登録制度(Selective Service System)に基づく名簿の作成も1975年に廃止された。しかし、1980年に選抜徴兵法が制定され、再び選抜徴兵登録制度が復活した。この男性限定の選抜徴兵登録に対して、男性差別であるとして裁判が提起された。1981年6月、連邦最高裁で「選抜徴兵法が男性だけに選抜徴兵登録を義務とすることはアメリカ合衆国憲法修正第5条に違反しない」と合憲判決が下され、現在に至るまで名簿の作成が国防総省において継続されている。徴兵制を復活すべきという主張はあるがごく少数にとどまる。また、兵器の機械化や民間軍事会社への外注化が進んでいる。○選抜徴兵登録制度
米国に在住している市民権及び永住権を持つ男性は18歳になった時点で郵便局において登録の義務が課せられている。男性市民は登録しないと罰金刑の対象になる他、政府からの奨学金が受給できない等の各種の不利益が科される。永住者には徴兵拒否権があるが、この場合、米国の国籍は取得できなくなる(本来は連続5年在住で帰化申請資格ができる。軍歴ができることで米国への忠誠を誓ったと見做され、必要滞在歴が2年に短縮される)。○志願兵制
アメリカでは、1973年に選抜徴兵制から完全な志願兵制に移行したが、「選抜徴兵法」に基づく徴兵適格者の登録事務は、その後も引き続き行われている。他方、イギリス以外のヨーロッパの主要国では従来徴兵制を採用する国が多かった。しかし、これらの国々でも、冷戦終結後地域紛争への効果的な対応を図るため国防組織の再編と兵員の削減が進められた結果、フランスやオランダなど志願兵制に移行する例が増えている。志願兵制には、国民の兵役負担を減じ、長期の服役によって熟練兵を養成できるなどの長所がある反面、高学歴者が志願しないため兵士の質が低下する、兵員の急増が困難である、軍紀が緩む、人件費がかさむなどの短所が指摘されている。○アメリカ軍における女性
1901年、アメリカ陸軍に看護部隊が設立され、初めて女性が軍隊に参加することが認められた。しかし、女性は軍隊の階級から外れており、男性と同様の賃金や手当の対象にはならなかった。女性が軍隊の完全な一員として加わるようになったのは1944年である。1948年、女性軍隊統合法が可決され、平時における看護活動以外の女性の軍隊参加が認められ、女性が士官になる道も開かれた。ただし、1962年までは、法律により軍隊における女性の割合は上限2%と定められていた。その後、軍隊における女性の数は増え続け、1999年には陸軍の15%、海軍の13%、海兵隊の5%、空軍の18%を女性が占めるようになった。(参考)http://www.crosscurrents.hawaii.edu/content.aspx?lang=jap&site=us&theme=work&subtheme=WOMEN&unit=USWORK009#