【中国】改革開放と「一人っ子政策」

※下記記事は、事務局(三成)が暫定的に作成しています(2014.12.21)。

改革開放政策

「1978年から鄧小平の主導によって、改革開放をスローガンに、人民公社解体・国営企業独立採算化・外国資本導入などが進められた。」(『新詳世界史B』帝国書院、2010年、265頁)

改革開放とは、中華人民共和国において、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(1978年12月)で決定され、開始された中国国内の改革と対外開放政策をさす(図⑤)。1989年の天安門事件で改革は一時中断したが、1992年に再開した。1992年に採択された経済政策を「社会主義市場経済」とよぶ。中国の経済成長は著しい(図⑥)。国内総生産(GDP)は、アメリカに次ぎ、世界第2位である(2012年:日本は世界第3位)(図⑧)。中国は、リーマンショック(2008年)の打撃からの立ち直りも早かった(図⑨)。

図⑤「改革開放」

図⑥:中国の経済成長(GDPの増加)

 

1 国内総生産 (2012年)-為替レート換算

図⑧:国内総生産(2012年)統計局HP http://www.stat.go.jp/data/sekai/0116.htm

 

3 国内総生産の実質成長率

図⑨:国内総生産の実質成長率(統計局HP)http://www.stat.go.jp/data/sekai/0116.htm

現代中国の政治と歴代最高指導者

○毛沢東(1949-1976)

1949 中華人民共和国成立(国家主席=毛沢東[1949-59]、首相=周恩来[1949-1976])
1958 「大躍進」政策(第2次五カ年計画)実施(人民公社設立・鉄鋼増産など)⇒<失敗>急激な変革と自然災害により2千万人もの餓死者がでた。
1966-1977 文化大革命(「失われた10年」)⇒毛沢東復活/劉少奇・鄧小平らを追放
1971 国連に復帰⇒「第三世界」論(国連復帰後、中国は、一貫して「第三世界の騎手」の立場をとっている)
1972 日中国交正常化

華国鋒(1976-1978)

1976 毛沢東死去⇒四人組(毛沢東の妻江青など)を逮捕
1977 文化大革命終結宣言(鄧小平復活)⇒「四つの現代化」(農業・工業・国防・科学技術)の推進

○鄧小平(1978-1992)

1978 改革開放政策の開始
1979 「計画生育政策」(いわゆる「一人っ子政策」)の開始
1989 中ソ関係正常化
1989 天安門事件(第2次)

○江沢民(1992-2004)

1992 韓国との国交樹立
1992 「社会主義経済市場」を採択
1997 イギリスから香港を返還
2001 WTO(世界貿易機関)に正式加盟

○胡錦濤(2004-2012)

2008 北京オリンピック開催

○習近平(2012-)

計画生育政策(一人っ子政策)

1 各国の人口(2013年)

図⑦:各国の人口(2013年)統計局HP http://www.stat.go.jp/data/sekai/0116.htm

1979年に始まった「計画生育政策」(人口規制政策)(図①)により、人口成長は一部抑制されたが、さまさまな免除条件がもけられているため、中国全体の人口は増加している(図③)。「計画生育政策」がもたらしたもっとも大きな弊害の一つが、「男児選好」による出生児の男女比率のアンバランスである(図②・図④)。「一人っ子政策」は徐々に緩和されていたが、2013年に大きく修正され、親の一方が一人っ子である場合には、子を2人までもてるように改められた。2016年には、「二人っ子政策」に転換した。

A white sign with two lines of red Chinese characters and a smaller one beneath them on a background of white tile

図①「計画生育」の宣伝

 

図②:中国における男女出生比の変化(女児出生率を100としたときの男児出生率)(出典:http://en.wikipedia.org/wiki/One-child_policy)

 

図③:中国の人口増加(出典:http://en.wikipedia.org/wiki/One-child_policy)

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図④:男女の人口構成比のアンバランス