目次
【年表】ロシア史(9世紀~1917年)
最終更新:2019-12-29 掲載:2016-06-06 作成:三成美保
4~6世紀 スラブ人の移動
リューリク朝(9~16世紀末)
リューリク朝=リューリクを高祖とする公家で、9世紀から16世紀末にかけてキエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国、モスクワ大公国などの東欧諸国を統治した君主の公朝
ルーシ(キエフ大公国)(882頃-1240)
882頃~1240 ルーシ(キエフ大公国)
913/923 イーゴリ1世即位(位913/923ー945)
945 スヴャトスラフ1世即位(942-972:位945-972)
945-964頃 母オリガが摂政となる。
947 「オリガの改革」(税制改革)
【女性】摂政母后オリガ(キエフ大公妃:890頃ー969)
903年 オリガはイーゴリ(のちの1世)と結婚。
945年 イーゴリ1世がデレヴリャーネ族Drevlians(6~10世紀に現在の北ウクライナ・南ベラルーシの辺りに居住していた東スラブ系部族。自分たちを支配下に置こうとするキエフ・ルーシに抵抗し続けていた)によって暗殺される。
945ー963年 オリガが摂政となる(息子スヴァトスラフ1世が幼少(3歳)であったため)。
摂政オリガは、デレヴリャーネ族に徹底的に復讐(デレヴリャーネ族の使節や貴族達を皆殺しにし、首都イースコロステニを焼き払う)。デレヴリャーネ族の土地をキエフ・ルーシの領地に編入し、ヴルチイをその中心とした。
945/957年 オリガはルーシ貴族として初めてキリスト教に改宗。
964 スヴャトスラフ1世の親政開始。
978 ウラジーミル1世即位(960-1015:位978-1015)
○ウラジーミルには多くの正妃・側妃がいた。
Rogneda von Polozk(ポロック公国の公女ログネダ:960頃-1000頃)
Anna von Byzanz(ビザンツ皇女アンナ)
【男性】ウラジーミル1世(キエフ公国大公:958年頃-1015年)
958/960年 ウラジーミルは、スヴャトスラフ1世と彼の母オリガの侍女Maluschaの間の「婚外子」として出生。
969年、父大公は、嫡出ではない末子ウラジーミルを北方のノヴゴルド伯(ルーシの第二の拠点)に任じ、長子で嫡出のヤロポルクをキエフ大公に任じる。
975年 父の死。長兄ヤロポルクが次兄オレーグと争い、これを殺害。
977年 ウラジーミルはスカンディナビアへ逃亡。やがてノルマン人(ヴァリャーグ)人を率いて帰還、ヤロポルクを破り、キエフ大公として即位。
キエフに帰還する途中で、ポロック公国の公女ログネダに求婚したが、拒否されたためレイプし、のちに強制的に妻にした。ログネダが、ウラジーミルを「盗人」とののしり、ウラジーミルよりもヤロポルクとの結婚を望んだからとされる。
988年 東方正教会のキリスト教を国教として導入。東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚。
【女性】ログネダRogneda von Polozk(キエフ大公妃=ウラジーミル1世后:960頃ー1000頃)
960頃 ポロック公国の公女として出生。
978/980年 ウラジーミルがポロック公国を攻撃。
ログネダを両親の眼の前でレイプし、父親のポロック公と兄弟たちを処刑した。ログネダはもともとキエフ大公ヤロポルク1世(ウラジーミルの長兄)との結婚を望んでいたが、ウラジーミルはヤロポルク1世を殺害し、キエフ大公となった。彼は、ログネダを強制的に自分の妻にした。
988年 ウラジーミルはキリスト教に改宗、ビザンツ皇女を妻に迎えた。そのさい、ログネダを含むすべての妻妾を離縁した。この頃、ログネダがウラジーミルの殺害を計画したと伝わる。ログネダは修道院に送られた。
ログネダは、4人の息子と2人の娘を産んだ。ログネダの長男子イジャスラフは、ウラジーミルに破壊されたポロック公国を再建し、彼の子孫は代々のポロック公となった。ベラルーシでは、ログヴォロ ド・ログネダ・イジャスラフの三代から始まるポロック公国とイジャスラフ朝を、ベラルーシ国家の根源たる王朝と位置づけている。
(参考)國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年
988 キリスト教(東方正教会)を国教とする。ウラジーミルは洗礼を受け、東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナ(963-1011/12)と結婚した。
11~13世紀 内乱とポロヴェツ族(キプチャク族)の侵攻
○キプチャク(Qipchaq)は、11世紀から13世紀にかけて、ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯(キプチャプ草原)に存在したテュルク系遊牧民族。ポロヴェツ族ともいう。モンゴル族ではない。遊牧国家「キプチャク汗国」(900-1220)をつくった。
1136ー1478 ノヴゴロド公国
1240頃 キエフ大公国が分裂⇒「ジョチ・ウルス」による支配
○いわゆる「タタールの軛(くびき)」
キエフ大公国が分裂し、モスクワ大公国が成立するまでをさすロシア史の用語であり、「モンゴル族によるロシア支配の時代」とされる。しかし、これは史実には即していない。「タタール」は多様な民族を含む呼称である。また、キプチャク・ハン国は、モンゴル=トルコ人の国家であり、イスラーム化して高い文化水準を持っていた。したがって、「圧政」があったわけでもない。
1240年代ー1502 ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)
○チンギス=ハンの長子ジョチの後裔によってつくられたウルス(遊牧政権)
⇒キプチャク草原を支配したため、「キプチャク・ハン国」ともよばれるが、キプチャプ族の国家ではない。ルーシを支配した。
1462 イヴァン3世即位(位1462-1505)
モスクワ大公国(1480-1613)
1480 モスクワ大公国成立=キプチャク・ハン国から独立⇒はじめてツァーリの称号を用いる
【女性】ゾイ・パレオロギナ(1440/49/55頃 - 1503)
イヴァン3世の2番目の妻。夫に強い政治的影響力をもち、外国使節との接見にも同席した。
【女性】摂政母后エレナ・グリンスカヤ(1510頃 - 1538)
モスクワ大公ヴァシーリー3世(1479-1533:位1505-1533)の2番目の妃。イヴァン4世(雷帝)の母。夫の死後、モスクワ大公国の摂政(1533ー1538)をつとめる。
ヴァシーリー3世の最初の妻ソロモニヤ・サブーロヴァ(1490頃ー1542)は、子ができなかったために、1525年にむりやり婚姻無効と宣言させ、修道院に送られた(ロシア正教会は離婚を禁じていたため)。翌26年に、エレナ(当時16才)と結婚した。エレナは、リトアニア大公国の大貴族ヴァシーリー・リヴォーヴィチ・グリンスキー公爵とその妻のセルビア王女アンナの娘。エレナはヴァシーリー3世とのあいだに2人の息子をもうけた。長男のイヴァン4世(1530 - 84)と次男のユーリー(1532 -63)である。
1533年、ヴァシーリー3世が死去。長男イヴァンは3歳。エレナは、いったんイヴァンの後見役を何人かの貴族に任せたが、間もなく権力を後見役から奪取し、事実上の摂政となった。エレナは、夫の2人の弟(ドミトロフ公ユーリーとスターリツァ公アンドレイ)と対立し、2人をそれぞれ1534年と1537年に失脚させた。エレナの死には毒殺の疑いももたれている。
母の死後、貴族の権力争いが激化するなか、庇護者を失ったイヴァンは国政では無視される。しかし、貴族の権力争いでロシア正教会モスクワ府主教が廃位されて、イヴァンの教育係であったマカリーが府主教につく。イヴァンはよく学び、17歳になった1547年に史上初めて「ツァーリ」として戴冠した。
1533 イヴァン4世(雷帝)即位(位1533-84)
1598 リューリク朝断絶→ロシアは「動乱時代」に入る(ー1613)
ロマノフ朝(1613-1917)
1613 ミハイル・ロマノフ即位(位1613-45)=ロマノフ朝(1613-1917)
1649 「会議法典」の発布
1670-71 ステンカ=ラージンの反乱
1676 フョードル1世即位(位1676-1682)=母はアレクセイの先妻(ミロスラフスキー家)→「ラテン的傾向」が強い
1682 ピョートル1世(大帝)即位(位1682-1725)=貴族会議でツァーリとして宣言される→しかし、すぐに、異母姉(フョードルの姉)ソフィアによって、ソフィアの同母弟イヴァンが第1皇帝(イヴァン5世)、ピョートルは第2皇帝(ピョートル1世)とされる。
1682-89 ソフィアが幼帝2人の摂政となる。
【女性】摂政ソフィア・アレクセーエヴナ(1657-1704)
フョードル1世とソフィアの時代は、「ポーランド・ラテン文化の最盛期」であった(和田2002:157)。1682年、ソフィア(当時24歳)は銃兵隊を利用して二人の幼帝の共同統治とし、自らは摂政(1682-89)となった。その後、銃兵隊の排除にも成功する。開明派のゴリーツィンを重用し、ヨーロッパとの同盟関係を強める。しかし、2度のクリミア遠征に失敗し、その失敗を隠した結果、修道院に幽閉された。
1687年、ロシア最初の高等教育機関「ギリシア・スラヴ・ラテン・アカデミー」(通称「ギリシア学校」)を開設。アカデミーは、総主教(ギリシア派)の影響下にあり、教育・宗教問題について全権をもち、ラテン語の浸透にたいしてもうけられた防波堤であった。しかし、ソフィアは、このアカデミーでラテン語をカリキュラムに盛り込む。ソフィアの失脚とともに、ラテン派も失脚した。(和田2002:157)
レーピン「皇女ソフィア」(1879年)
ソフィアが修道院に幽閉されて9年後の1698年。ピョートルがウィーンに滞在していたとき、モスクワで銃撃隊が蜂起したとの知らせが届いた。ピョートルは姉ソフィアの関与を疑ったが、証拠は出なかった。反乱者として1500人近くが処刑された。
この絵は、ソフィアに「剃髪して尼僧になれ」というピョートルの命令が伝えられたときの場面を想像して描かれた。「太って醜い」というソフィアのイメージを決定づけた絵と言われる。
ソフィアは高価な衣装をまとっているが、髪は結い上げる暇がなかったのかざんばら。目は血走っている。部屋の右側の窓の外に見えるのは、ソフィアの味方だった銃撃隊長の死体。左手奥はおびえる侍女。この後、ソフィアは強制的に剃髪させられ、修道院のさらに奥に入れられて、多くの兵士に監視されながら、10年後に亡くなった。
当時のロシア皇女は、ヨーロッパ諸国の宮廷に嫁ぐチャンスもなく、さりとて、格下の家臣と結婚できるわけもなく、未婚のままいわば飼い殺しになることが多かった。そのなかで、ソフィアは政治的手腕を発揮した希有な皇女だったと言える。
(参考)中野京子『怖い絵ー死と乙女編』角川文庫、2012年、6-16ページ。
画家イリヤ・レーピン(1844-1930)
「移動派」を代表する画家。歴史画を描く一方、社会の最下層の人々も描いた。有名な作品は多いが、下記二点をあげておく。
1689-1694 ピョートル1世の単独統治となるが、母ナターリア(ナルイシキン家)とその兄レフ・ナルイシキンが実権を握る。ナターリアの政治は、反動的性格のものであった。(和田2002:158)
1694 ピョートル1世(当時22歳:大帝)の親政開始(ー1725)
1722 帝位継承法(帝位継承者は、皇帝の指名による)→ピョートル自身は後継者を指名せずに死去→後継位争いの激化=しばしば近衛部隊が帝位強奪に関与(藤本・松原1999:18)
1725 エカテリーナ1世即位(位1725-27)=ロシア初の女帝(ピョートル1世の後妻)→「女帝の世紀」
1730 アンナ即位(位1730-40)
1741 エリザヴェータ即位(位1741-61)
1762 エカテリーナ2世即位(位1762-96)
1764 スモーリヌイ女学院設立
1772 第1回ポーランド分割
1773-75 プガチョフの農民反乱
1793 第2回ポーランド分割
1795 第3回ポーランド分割⇒ポーランド消滅
1799-1837 プーシキン
1801 アレクサンドル1世即位(位1801-25)
1809-1852 ゴーゴリ
1812-14 ナポレオン戦争
1814-15 ウィーン会議
1818-1883 トゥルゲーネフ
1821-29 ギリシア独立戦争に介入⇒黒海沿岸の領土獲得
1821-1881 ドストエフスキー
1825 ニコライ1世即位(位1825-55)
1825 デカブリストの乱(青年将校・自由主義貴族が憲法制定・農奴解放を求めて蜂起したが、弾圧)
1828-1910 トルストイ
1830-31 ポーランドの反乱(ポーランド11月蜂起)
1831-33 第1次エジプト=トルコ戦争⇒ロシア軍艦のボスポラス・ダーダネル両海峡通過を承認
1839-40 第2次エジプト=トルコ戦争(両海峡の中立化。ロシアの南下阻止)
1840-1893 チャイコフスキー
1840-50年代 インテリゲンツィア(知識人)の活動
1853-56 クリミア戦争(黒海の中立化)
○ナイチンゲール(1820-1910)の活躍
1855 アレクサンドル2世即位(位1855-81)
1855 日露和親条約締結
1858 アイグン条約(ロシアと清)=アムール川以北をロシア領とする
1860 北京条約
1861 農奴解放令
1863-64 ポーランドの反乱(ポーランド1月蜂起)
1868-76 中央アジア併合
1870-1924 レーニン
1875 樺太・千島交換条約
1877-78 露土戦争⇒1878 サン・ステファノ条約
1878 ベルリン条約
1879-1940 トロツキー
1879-1953 スターリン
1881 アレクサンドル2世暗殺
○ナロードニキ運動⇒挫折
1881 アレクサンドル3世即位
1881 イリ条約
1891 シベリア鉄道着工
1894 ニコライ2世即位(位1894-1917)
1900 恐慌、労働運動の激化
1904-05 日露戦争
1905 血の日曜日事件⇒第1次ロシア革命(1905-07)⇒ニコライ2世、十月宣言(国会開設を約束)
1905 ストルイピンの弾圧政策(1905-11)⇒ミール(農村共同体)の解体
1914-18 第一次世界大戦に参戦
1917 三月(ロシア暦二月)革命(ニコライ2世退位=ロマノフ朝の滅亡)
⇒十一月(ロシア暦十月)革命⇒ソビエト政権成立
参考文献
和田春樹編『ロシア史』山川出版社、2002年
栗生沢猛夫『図説ロシアの歴史』河出書房新社、2010年(2014年増補)
藤本和貴夫・松原広志編『ロシア近現代史ーピョートル大帝から現代まで』ミネルヴァ書房、1999年