プロイセン一般ラント法 

関連項目→【史料・解説】嬰児殺規定【法制史】啓蒙期の法典編纂
(執筆:三成美保、初出:三成他『法制史入門』1996年、一部加筆修正)

解説

(1)フリードリヒ大王

フリードリヒ大王

プロイセンでは、法典編纂の試みはすでに18世紀初頭にはじまっていたが、一般ラント法の制定に直接つながるのは、18世紀末の編纂事業である。

1780年、フリードリヒ大王(在位1740-1713)は、首席司法大臣カルマー(Johann Heinrich Casimir von Carmer:1721-1801)(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Johann_Heinrich_von_Carmer)に法典編纂を命じた。

そのさい大王が発した官房令に、法典編纂の指導原理が示されている。①完全な法典、②自国語で書かれたわかりやすい法典、③法典と地方の固有法慣習との二本立て、④自然法・ローマ法・ラント法の融和、⑤法律委員会の設置、⑥裁判官の法律解釈の禁止である。

(2)啓蒙官僚たち

法典編纂の担い手は、主として、大学教育を終えた新興の市民階層出身の司法官僚であった。スワレツ(Carl Gottlieb Svarez:1746-1798)(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Carl_Gottlieb_Svarez)やクライン(Ernst Ferdinand Klein:1743-1810)(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Ernst_Ferdinand_Klein)など、法典編纂委員会に属したのべ8名の委員は、委員長の貴族カルマーをのぞけば、すべて市民の出身である。

草案は、1章ずつ公表され、懸賞論文のかたちで、ピュッターなど、各界の知識人から参考意見が求められた。ラント等族は、州ごとに慣習法・特別条例を蒐集して、個々の法文への反論をすることができた。そのさい、かれらの代表となったのもまた、法律家である

Johann Heinrich Casimir Graf von Carmer

Carl Gottlieb Svarez

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

啓蒙官僚クライン

クライン(1744-1810)は、ドイツの代表的な啓蒙主義者。ベルリン水曜会のメンバーで、フリーメーソンにも属した。フンボルト兄弟を教えた教師の1人でもある。

ハレ大学で法学を学んだあと弁護士をしているときに、プロイセン大臣カルマ-に見出され、プロイセン一般法典編纂委員会のメンバーとなる(1781年)。

※ベルリン水曜会 (1783ー1798年)
「啓蒙の友の会」と名乗る結社。 当時の一流知識人がメンバーであった。『ベルリン月報』を刊行し、啓蒙主義に多大な影響を与えた。カントが「啓蒙とは何か?」を発表したのも『ベルリン月報』である。(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Berliner_Mittwochsgesellschaft

 

 (3)公布

1791年9月、「プロイセン諸国のための一般法典(Allgemeines Gesetzbuch fuer die Preussischen Staaten)」が公布された。しかし、翌年に予定されていた法典施行にたいして、等族側(帝国議会への代表権をもつ諸身分=主に貴族をさす)は不安をつのらせた。フランス革命(1789)の影響をうけて、農民が貴族や教会に反旗をひるがえすのではないかとの懸念である。かれらは、新法典が騒擾の拠り所をされることを恐れた。結局、一般法典の施行は延期された。その後、一部の条文が改められ、名称もより古い言い方である「プロイセン一般ラント法(Allgemeines Landrecht fuer die Preussischen Staaten=ALR)」に変えられて、1794年、新法典が施行された(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Allgemeines_Landrecht_f%C3%BCr_die_Preu%C3%9Fischen_Staaten)。

プロイセン一般ラント法は、国家生活・社会生活の包括的・全体的秩序づくりをめざしている。私法と公法を分離しない総合法典である点で、啓蒙期の他の法典とは異なる。構成については、自然法的叙述にしたがった順序がとられた。個人の法にはじまり、個人と他者の関係の法、家族・身分・団体・営造物のような狭い結合、国家の問題へと順をおって法的問題があつかわれるのである。

序編では、一般的法原則があつかわれ、第1編は、私法をあつかう。そこでは、インスティツチオーネス編別にのっとり、人の法、物の法、行為の法(意思表示・契約・不法行為・占有・所有・債権関係・相続法・代理)がおさめられている。第2編は、団体の法(家族法・家産法・僕ヒ法・組合法)、市民身分の法(商人の法=商法)、刑法をあつかう。

一般ラント法の名あて人は、「普通の教育訓練によって育った中程度の能力をもった人びと」とされた。しかし、わかりやすさと完全性という矛盾する啓蒙的な目的は、むしろ、一般ラント法の発展を疎外することになる。わかりやすさをもとめて、高度な抽象的用語は避けられた。しかし、かえって条文がきわめてカズイスティッシュに、微に入り細に入り規定されてしまい、このことは、のちの法律適用のさい障害となる。また、完全性を期して、裁判官に裁量の余地を与えなくするために、条文が全1万9194条と膨大になり、一般の人びとには利用できないものとなったのである。

一般ラント法は、「妥協の法典」であった。それは、啓蒙絶対主義の国家形態や身分制的秩序を克服することはできず、その枠内で、啓蒙主義的法原理を定式化したにすぎない。臣民の自律性には、編纂者自身がきわめて懐疑的であった。条文のなかには、滑稽なほど後見的で、おどろくほどカズイスティッシュなものも少なくない。このような性格を考えれば、一般ラント法が、施行直後から時代遅れになったのも無理からぬことといえよう。この法典の基礎となっている啓蒙主義的絶対君主制は、  世紀初頭に近代化をめざしたプロイセン改革により否定された。また、一般ラント法は、プロイセン王国の一部で妥当したにすぎず、当初、註釈の禁止を明言したことから、学問的対象になるのもおくれたのである。

史料

(1)全文(ドイツ語)

序文 http://opinioiuris.de/quelle/1621

第1部  http://opinioiuris.de/quelle/1622

第2部  http://opinioiuris.de/quelle/1622

●ほかにPDFでの全文テキスト→http://ra.smixx.de/Links-F-R/PrALR/pralr.html