補論:アフリカ社会主義―ジェンダー平等との関連で

掲載 2018-06-16 執筆 富永智津子

★アフリカ社会主義  

独立を契機に、多くの新興アフリカ諸国は、植民地下で推し進められてきた資本主義路線ではなく、「社会主義」路線を選択した。この「社会主義」は、資本家を廃して労働者が権力を握り階級のない社会をめざすという古典的なヨーロッパ起源の社会主義とは異なるため「アフリカ社会主義」と呼ばれている。中にはソ連型・中国型の社会主義を目指した指導者もいたが、多くは、伝統的なアフリカの価値観や独自のやり方で経済資源を共有し、自足・繁栄・平等を実現することを目的としていた。その理論構築に寄与した指導者も輩出された。たとえば、タンザニアの初代大統領ニエレレである。その理論と政策は、ニエレレの手になる1962年のパンフレット『ウジャマー―アフリカ社会主義の基礎』と1967年の『アルーシャ宣言』に示されている。しかし、その中で、女性が登場するのは2か所、ひとつはパンフレットの中の「男女を問わず・・」、もう一か所は『アルーシャ宣言』の「すべての男女に平等の機会を・・・」である。その他には女性への言及はなく、ジェンダー平等は「すべての人民が、アフリカ伝統社会の家族共同体を支えてきた平等と相互扶助という理念と、平和で格差のない社会の実現に協力する」という大義名分の中に回収されてしまっている。しかし、大義名分であっても、それが現実の女性の地位やモビリティを押し上げる後押しをしたことは否定できない。それは、筆者がタンザニアを訪れた時、筆者に向かって発せられた「ニエレレの社会主義政策がなければ、私がここにいることは絶対になかった」というダルエスサラーム大学図書館の司書をしていた牧畜民社会出身の女性の語りからも伺える。彼女の夢の実現を支えたのは、ニエレレが力を入れた教育の機会均等であったことも間違いない。彼女と同じ経験をした男性も女性以上に多かったに違いない。そうした進歩はみられたものの、「アフリカ社会主義」の理念が実現することはなかった。

「アフリカ社会主義」の挫折 

ニエレレの「アフリカ社会主義」は、自身が退任の時に告白したように「失敗」に終わった。失敗の原因は大きく二つある。ひとつは、人びとを移住させて村落を作りかえ、共同作業をしやすくして効率的な農業を目指しはしたが、住み慣れた故郷に戻ってしまう農民も多く、また期待したようには農業の近代化が進まなかったこと。二点目は、自給自足の経済をめざし、海外との貿易や援助の受け入れを最小限におさえたことによる経済停滞である。国が資本を独占し、管理していた経済体制は、経済の停滞からの脱却のための海外支援の受け入れと引き換えに呑まされた1980年代の「構造調整」という名の自由主義的な市場経済への方向転換を余儀なくされ、ニエレレの「アフリカ社会主義」はもろくも挫折したのである。社会主義路線を選択した他の国家指導者の政策も、ほぼ同じ運命をたどっている。

「アフリカ社会主義」のあとさき

ニエレレの「アフリカ社会主義」のもう一つの野望は、階級社会の出現に歯止めをかけることだった。機会均等の掛け声のもと、資本家階級の出現をおさえようとしたのである。女性の地位が公教育の普及とも共振してある程度底上げされたのは、この政策の成果であった。しかし、「構造調整」後の市場経済の導入、社会資本の民営化などにより、経済格差は一挙にひろがり、一握りの資本家階級と90パーセントの貧困層からなる社会が出現する。食料・飲料水・住居・保健・教育機会などの必要最低限の生活水準を維持する機会を失った絶対的貧困層の増加である。1990年代、この現象は多くの途上国で共通して見られ、女性の多くはこの絶対的貧困層に属したため「貧困の女性化」という用語が出現した。こうした「貧困の女性化」を脱するための「開発プロジェクト」が始動し始めるのもこの時期である。

資料

【著名なアフリカ社会主義者】

ジュリウス・ニエレレ(タンザニア)

ロバート・ムガベ(ジンバブウェ)

アミルカル・カブラル(ギニアビサウ)

サモラ・マシェル(モザンビーク)

レオポール・サンゴール(セネガル)

セク・トゥーレ(ギニア)

サム・ヌジョマ(ナミビア)

アゴスティニョ・ネト(アンゴラ)

クワメ・ンクルマ(ガーナ)

メンギストゥ・マリアム(エチオピア)

モハメド・バーレ(ソマリア)

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ニエレレ

  •  生年月日:1922年4月13日
  • 死没:1999年10月14日 (77歳)
  • 設立団体:タンザニア革命党

ジュリウス・カンバラゲ・ニエレレは、タンガニーカ及びタンザニアの政治家であり、同国の初代大統領。タンガニーカの少数民族、ザナキ族の首長の家系に生まれる。現ウガンダのマケレレ大学卒業、エディンバラ大学修士取得