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植民地における公娼制
掲載:2018-12-11 執筆:宋連玉
植民地での公娼制度はどのようなものだったのか?
日本は植民地支配をした台湾(1895~1945)と朝鮮(保護国化1905~1910、「併合」1910~1945)に日本「内地」にならって近代公娼制を持ちこみました。営業場所を指定して隔離することや、性病検診を義務づけることなどは日本「内地」の公娼制と共通していました。しかし娼妓の許可年齢は台湾が16歳、朝鮮は17歳と日本「内地」の18歳より低く定められていました。そのためにより貧しい娘たちが日本「内地」から朝鮮へ、朝鮮から台湾へと移動する回路が形成されていきました。
台湾への公娼制の導入は日本の領有直後の1896年、台北県令甲第1号「貸座敷並娼妓取締規則」の制定から始まりました。1906年に日本軍の侵攻とともに台湾総督府の支配が地方にまで及びますが、この時期に台湾公娼制が確立します。それまでは貸座敷・娼妓に対する取締法令が島内の地域ごとに違っていたので、そこから生じる混乱や弊害を是正するために、「貸座敷及娼妓取締規則標準」「娼妓検診及治療規則標準」(民警)を定め、全島的に統一しました。当初は業者も娼妓も「内地」の日本人だけでしたが、1907年には台湾唯一の台湾人貸座敷区域が台南県に成立します。
朝鮮植民地化における軍隊と遊廓
朝鮮では開港(1876年)直後から居留民の日本人男性を対象とする遊廓(貸座敷)が釜山・元山に出現し、日本の領事館が日本「内地」の取締規則を適用して管理していました。しかし1883年に仁川が開港し、日本と清国以外に欧米諸国の領事館も開設されるようになると、日本の外務省は欧米諸国への体面を重んじて公娼制に反対します。以来、外務省と公娼制存続を訴える仁川領事館との間で意見が衝突し、その結果の妥協案として貸座敷を「料理店」、娼妓を「芸妓」もしくは「酌婦」と呼ぶようにしました。
1905年頃と推定される仁川・敷島遊廓。左の建物は日本軍の兵営。
「韓国併合」後の仁川・敷島遊廓大門前(絵葉書)
釜山や元山では、貸座敷営業の新規参入を禁止しましたが、すでに営業していた業者へは継続しての営業を認めました。こうして料理店が貸座敷にとって代わりましたが、日清戦争前後から実態として貸座敷と変わらない料理店を「特別料理店」と呼びかえて、一般料理店と区別しました。娼妓も「第二種芸妓」、あるいは「乙種芸妓」と呼び、公娼制確立の基礎を整えます。
図Ⅰ
図1は1902年に刊行された『韓国案内』(香月源太郎、青木嵩山堂、1902年)の巻末広告ですが、この頃の偽装公娼制の中身を雄弁に物語っています。日本人経営の料理店の内実は、朝鮮人娼妓を雇用する貸座敷であることがこの広告からもわかります。
日露戦争期には朝鮮北部の日本軍(韓国駐箚軍)基地で軍が設置、運営に関わる、慰安所の前身と言える性管理システムが存在しました。韓国駐箚軍司令部が置かれたソウルでは「花柳病予防規則」「芸妓健康診断施行規則」を決め、売春婦への性病検診を徹底することで兵士の性病予防をはかろうとしました。
日露戦争を経て日本が朝鮮を保護国化すると、公娼制と変わらない性売買システムが朝鮮各地の日本軍基地、日本人居留地に拡大しますが、日本「内地」公娼制との共通名称を再使用するのは韓国併合から6年経った1916年のことです。この年に朝鮮における常設部隊の朝鮮軍体制が整備されますが、台湾と同様に、それまで地域、民族で複雑に異なっていた貸座敷・娼妓の取締規則を全朝鮮的に統一し、公娼制の確立をはかりました。
緑町という言葉が遊廓の一般名詞になるほど有名だった釜山・緑町遊廓(1920年代の絵葉書)
日本海軍が朝鮮鎮海基地でインフラ整備の資金調達のために遊廓業者に土地貸与を諮る文書(海軍省『明治45年~大正1年公文備考 鎮海永興関係書類23』)
朝鮮の公娼制にみる植民地主義
しかしながら朝鮮の公娼制の実態は、取締規則を含めて日本「内地」のものとは異なっています。許可年齢の差別だけでなく、取締規則の形式・内容も異なります。日本「内地」では1900年に制定された取締規則は「貸座敷引手茶屋営業規則」(警視庁令)と「娼妓取締規則」(内務省令)と別々の省庁で定められていますが、朝鮮では朝鮮総督府警務総監部令として「貸座敷娼妓取締規則」にまとめられ、業者、娼妓ともに一括して効率よく取り締まるものでした。朝鮮の取締規則はまた文言上のものであれ、「内地」ほど娼妓の権利が認められていなかったことも規則を一括した理由としてあげられます。
廃業規定については、日本「内地」では娼妓取締規則に、朝鮮では営業者向けの条項に入っています。すなわち日本では廃娼の権利が娼妓にあるのに対し、朝鮮では業者の裁量とされているのです。また日本では取締規則を娼妓の目に触れる場所に掲示するよう業者に命じていますが、朝鮮にはその規定はありません。たとえその規定があったにせよ漢字カナ混じりの法令文をほとんどの朝鮮人娼妓は理解できませんでした。
植民地における公娼制のねらいは、治安、風俗取締、公衆衛生、植民地支配の経済基盤補完にありますが、治安面からも遊客(買春客)名簿作成と保管義務を徹底しました。名簿を使用前に警察署長の検印を受けるようにするなど、業者に対する公権力の介入、圧力が「内地」より強く働いていました。
娼妓の民族差別は法令上だけではなく、前借金の額面や待遇などでも格差がありました。1929年、平壌の娼妓の稼ぎ高を比較すると平均して朝鮮人女性は日本人女性の3分の1にしか過ぎず、前借金の場合は3分の1から4分の1だったことが報告されています。
貸座敷内の娼妓は基本的に外出が認められていませんでしたが、日中戦争勃発後の1933年(朝鮮では1934年末)に法令が一部改定され、娼妓の外出制限が解かれました。
朝鮮内の朝鮮人娼妓の数は一貫して増加し、1939年には朝鮮内での日本人娼妓の数を上回ります。台湾においても1920年代初めから朝鮮人娼妓の台湾渡航が増えはじめ、1930年には台湾人を上回り、40年前後には台湾全体の娼妓数の約4分の1を占めるようになります。
公娼制から「慰安婦」制度への展開
日中戦争下、台湾守備隊が上海派遣軍の指揮下に編入され、第48師団に改編されると、大量の朝鮮人「慰安婦」が台湾から華南地方の戦地に送り込まれました(出典:(財)女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻、龍溪書舎、1997年)。
これは日本軍が「慰安婦」制度において植民地の公娼制を最大限に活用した結果でもあるし、そもそも植民地における公娼制と軍隊との結びつきの強さを示しているとも言えるでしょう。もちろん戦地の「慰安婦」制度と非戦地の公娼制とは同じものではありませんが、公娼制そのものも地域や時期で異なることに注意しなければなりません。「慰安婦」制度と公娼制の連続性を見逃しては、植民地における公娼制という名の組織的性暴力の側面が見えなくなります。
参考文献
早川紀代『植民地と戦争責任』吉川弘文館、2005年
宋連玉・金 栄『軍隊と性暴力―20世紀の朝鮮半島』現代史料出版、2010年
参考ウェブサイト
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/taiwan/index.html