ズザンナ事件(嬰児殺)ーゲーテ「ファウスト」グレートヒェン悲劇のモデル(1772年ドイツ)(三成美保)

【関連項目】→【特論4】「女が書く/女を書くーゲーテをめぐる女たち」(三成美保)

(執筆:三成美保/2014.03.18/初出:三成『ジェンダーの法史学』2005年、一部加筆修正)

[1]生命・身体観の特徴

「生殖」コントロールとしての「嬰児殺」

「嬰児殺」は、避妊から堕胎、捨て子・里子・嬰児殺へとつづく一連の「生殖」コントロールの最終局面として位置づけられる。それは、「生殖」が「神の領域」に属し、「生殖」コントロール自体が許されていなかった時代の、母体の健康を害しない生殖忌避方法の一つであった。

伝統的キリスト教社会では、性交は男女とも婚姻内に限定されており、しかも、夫婦間でも生殖目的以外の性交はすべて禁じられていた。避妊・堕胎は犯罪とされる。母体にとって堕胎の危険度は高かった。望まれずに生まれてきた子は、捨てられるか、里子に出されるか、殺された。捨児養育院に捨てられたり、里子に出された子のほとんどが死んでいたことは、藤田苑子や高橋友子のすぐれた実証的研究が明らかにしている*[i]

バーバラ・ドゥーデンは18世紀ドイツ女性の身体観が現代のわたしたちとは大きく異なることを示した*[ii]。月経の停止が妊娠を意味するのか、それとも、「汚物」が体内に「停滞」している危険な兆候を意味するのかの判別は困難で、子宮は胃と同様にさまざまな「塊」をいれる容器とみなされた。母体の激しい怒りは胎児を窒息死させるが、流産は子宮にとって「有益な排出作用」であり、流産や死産はしばしば「奇胎」のせいにされた。近世日本についても、沢山美果子や落合恵美子によって、「胎児・子」の表象が独特の様相をもつことが明らかにされている*[iii]

近世においては、「胎児」や「嬰児」をふくめた「生命」のイメージはわれわれのそれとは異なり、生死の境界はきわめてあいまいであった。胎児の生命と自己の身体活動を分離しない生命観のもとでの「生殖」コントロールはほとんど計画的なものではありえず、たぶんに偶発的であっただろう。妊娠と病気との区別が不分明で、自己の感情が容易に妊娠経過に反映されると信じる社会では、堕胎願望と流産・死産願望は直接的につながりやすい。堕胎・流産・死産のどれにも成功しなかった女性が産み落とした子を放置して死に至らしめる行為に「母性」を前提とした「良心の呵責」を想定することはできない。

ズザンナ事件ー裁判記録にみる身体観

もっとよく知られる子殺しの物語は、ゲーテ『ファウスト』のグレートヒェン悲劇であろう。モデルとなったズザンナは、1772年、帝国都市フランクフルトの中心部にある広場で公開斬首刑に処せられた。ズザンナと同い年の青年弁護士ゲーテは、故郷の町でおこった事件にたいそう興味をいだき、1775年ころまでに『初稿ファウスト』をしたためている。

ズザンナの裁判記録にも当時の身体観が随所にあらわれている*[iv]。父母を失い、小さな旅館のただ一人の女中として2年半働いていた24歳のズザンナ・マルガレータ・ブラントを妊娠させたのは、いきずりの客であるオランダ商人の従僕であった。男はズザンナにワインを飲ませ、「結婚の約束」をせずに、無抵抗になった彼女に「みだらなこと」をした(ビルクナー『ある子殺しの女の記録』89ページ、以下同じ)。性交渉は一夜かぎりで、名も知らぬその男が宿を去ったあと、ズザンナはその男と二度と会っていない。

ズザンナは「妊娠」の自覚についてこう述べる。客との性交渉の翌日に月経があったが知人と大げんかして月経はすぐ止まり、その後月経がなかった(70ページ以下、91ページ)。つわりによる嘔吐は魚を食べておなかをこわしたせいだと信じて、妊娠から臨月までの「計算の仕方もよくは知らない」(100ページ)。最初の胎動では「ちょうど石が脇腹を右から左へ転がる感じ」(90ページ)がした。「何か固い、石みたいなものがおなかの左側にきたり、右側にきたりする感じ」はあったが、「まさか子どもだとは思わなかった」(70ページ以下)。妹の妊娠を疑って調べた姉は、ズザンナの「肥満」も「体が固くなっていること」も、「月経がとまって鬱血したせいだ」と思いこみ、「肥満」に効く湿布薬をつくろうとした(92ページ以下)。医師は、妊娠を否定するズザンナに対し、妊娠は「絶対的なものじゃないし、これくらいの悪戯なら簡単にできる」といってそれ以上ふみこまず、薬を処方している(92ページ以下)。

「出産」と「殺害」についてはこう語っている。はじめての陣痛のとき、「体が裂けるようなすごい痛みがあって、血が両足を伝って流れる」のがわかったが、それは突然月経がはじまった結果の大量出血であり、強度の生理痛だと解釈した(100ページ以下)。そのときの血がついた衣類は、月経の証拠、すなわち、妊娠していないことの証拠として、姉が宿の女主人に見せにいっている(110ページ)。洗濯場に灰を運びいれたとき、子どもが「洗濯場の石の床板の上に突然生まれて落ちた」(70ページ)。「殺害」についての陳述は二転三転している。子どもを隠そうと運んでいるときに誤って落とした(82ページ)とか、首を絞めた(109ページ)と言うこともあれば、臍の緒を切ったハサミで体のあちこちを刺した(105ページ)と言ったり、子どもを刺した回数も部位も覚えていない(109ページ)と述べている。

ズザンナの「妊娠」は近隣の「うわさ」にはなっていたが、本人は断固として否定しつづけた。ズザンナにとっても、姉や女主人をふくむ周囲の女性たちにとっても、また専門家たる医師にとっても、「妊娠」は本人の「自覚」がなければ、病気として治療を要する「肥満」でしかなかったのである。出産日までふつうに働き続けたズザンナにとって、「出産」はあまりに「突然」のできごとで、動転が尋常でないさまは証人尋問のそこかしこにうかがえる。「妊娠の隠蔽」が嬰児殺成立の要件とされているのは、隠蔽が容易に行われていたことを推測させる。妊娠・分娩を容易に隠せるのであるから、嬰児殺をしてもだれにもわかるまいと考えるという意味ではある種の「計画性」はあるが、それは逆に、嬰児殺が日常生活になかに埋もれて、女性にとっては特別視されていないということをも意味する。嬰児殺だけを特別扱いする議論は、こうした一連の生命コントロールの連続性を断ち切るものであり、当時の身体観や生命観とは異質なものであったといえよう。

[2]「間引き」との異同

「間引き」と「嬰児殺」は、生まれたばかりの子を殺すという点では共通するが、行為主体、行為主体の環境、殺害の動機、殺害の社会的意味等のほとんどすべてにおいて、大きな差異が認められる*[v][資料5-④]。

近世ドイツにおいて、嬰児殺は、キリスト教規範からすれば大罪であり、当局も嬰児殺への刑罰を厳しくした。しかし、そうした規制の強化は、共同体の日常生活や人びとの身体観とかならずしも合致しない。嬰児殺は、むしろ日常生活に根づいた行為であって、「犯罪」として厳罰に処すことを人びとが納得するだけの条件はむしろなかった。堕胎や嬰児殺の事件数の少なさは、事件そのものが少なかったのではなく、むしろ事件の発覚が少なかったからだと思わせる*[vi][資料5-⑤]。

(出典:三成美保『ジェンダーの法史学』勁草書房、2005)

→詳しくは、下記の書物を参照。

ジェンダーの法史学―近代ドイツの家族とセクシュアリティ

三成美保『ジェンダーの法史学―近代ドイツの家族とセクシュアリティ』勁草書房、2005年

三成美保『ジェンダーの法史学ー近代ドイツの家族とセクシュアリティ』勁草書房、2005年

ヨーロッパ近代秩序としての「公私二元構成」。その生成過程には、特有のジェンダー・バイアスの生成が伴った! 姦淫罪(法と道徳の分離)、嬰児殺(人道主義)、読書協会(市民的公共圏の成立)の3側面から立証。

 

 

 

 

 

 

●注

*[i] 藤田苑子[1994]『フランソワとマルグリット-18世紀フランスの未婚の母と子どもたち』(同文館)、高橋友子[2000]『捨児たちのルネッサンス-15世紀イタリアの捨児養育院と都市・農村』(名古屋大学出版会)。

*[ii] バーバラ・ドゥーデン(井上茂子訳)[1994]『女の皮膚の下-18世紀のある医師とその患者たち』(藤原書店)209ページ以下。

*[iii] 沢山美果子[1998]『出産と身体の近世』(勁草書房)、同[2003]「在村医の診察記録が語る女の身体-日本における近世から近代への展開」(望田幸男/田村栄子/橋本伸也編『身体と医療の教育社会史』昭和堂)、落合恵美子[1994]「近世末における間引きと出産-人間の生産をめぐる体制変動」(脇田晴子/S.B.ハンレー編『ジェンダーの日本史(上)-宗教と民俗、身体と性愛』東京大学出版会)。

*[iv] Habermas,R.,(Hg.), Das Frankfurter Gretchen. Der Prozess gegen die Kindesmorderin Susannna Margaretha Brandt, Munchen 1999. 史料の抄訳として、Birkner,S.(Hg.),Leben und Sterben der Kindsmorder in Susanna Margaretha Brandt,Frankfurt 1973[S.ビルクナー編著(佐藤正樹訳)『ある子殺しの女の記録-18世紀ドイツの裁判記録から』人文書院、1990年].

*[v] 太田素子編[1997]『近世日本マビキ慣行史料集成』(刀水書房)、落合[1994]「近世末における間引きと出産」、田間泰子[1994]「子捨て・子殺しの物語」(脇田/ハンレー『ジェンダーの日本史(上)』)。

*[vi] Wachtershauser,W.[1973], Das Verbrechen des Kindesmord im Zeitalter der Aufklarung.Eine rechtsgeschichtliche Untersuchung der dogmatischen,prozessualen und rechtssoziologischen Aspekte,Berlin .